第四章(実践)2
二.
W駅は正面の階段を上って在来線があり、その後ろに私鉄①がある。更に、その後ろに私鉄②がある。在来線から私鉄②までは陸橋型の通路で渡る。余計な装飾もなく無駄のない設計で建てられたW駅は、この街に相応しいものだった。およそゴミや喧嘩などとは縁のない建物に思われた。
在来線と私鉄それぞれの駅長室に水越賀矢は挨拶に行った。私鉄は二本通っているから、合計三人の駅長に挨拶に行った。設立したばかり、しかも、信者がわずか二十人の宗教団体の代表が、街の中心にあるW駅の駅長に、駅長室で会うことは容易なことではない。『救済される魂たち』という教団名も良い印象を与えるとは思えない。事前に連絡はしたが、その時点で断られてもおかしくはなかった。でも、彼女は三人の駅長に会った。理由は、「元礼命会代表」という肩書きを彼女が利用したからだった。
「元礼命会代表水越賀矢です。若者のための新しい教団を設立しました。彼らの修行として社会奉仕をすべきだと考えました。そこで、日頃から、ゴミの散乱などに悩まされているW駅の清掃活動を、これから行いたいと思います。何卒よろしくお願いします」
駅長室を回った彼女は、三人の駅長に同じ挨拶をした。
三人の駅長は、駅長室で彼女に、それぞれ挨拶をした。
在来線駅長「礼命会代表に青沢礼命先生が復帰されたとのことですが、水越賀矢先生の新しい教団も礼命会が母体だそうで、今後とも、よろしくお願いします」
私鉄①駅長「水越賀矢先生の新教団の皆様には、くれぐれも怪我のないように清掃活動をしていただければと思います」
私鉄②駅長「新しい教団の初めての奉仕活動に、当駅の清掃活動を選んでいただき光栄です。お気をつけてご活動ください」
三人の駅長と水越賀矢の立場が逆転しているように思われる。実際にそうだった。駅長がへりくだっている相手は礼命会の高齢富裕層信者だった。彼らは金持ちであると同時に、街の有力者だった。礼命会には金と力があった。四年前、水越賀矢は礼命会のその特権性に敵意を抱き挑戦した。だが、四年経った今は、最大限利用しようと考えていた。
水越賀矢が駅長室に挨拶に行っている間、信者たちは、在来線の改札の前で彼女を待っていた。彼らの前を通りすぎる人は、必ず、彼らを見た。何の集団なのか分からないからだった。その内、目の前を通りすぎる学生の話し声から、パフォーマンスをする集団、あるいは、学生演劇の集まりだと思われていることが分かった。宗教団体の信者だとは思われなかった。
「『救済される魂たち』だって。凄い名前だな」
「前衛の劇団だろう。そういうのは俺には分からない」
こういう受け止められ方だった。
そして、信者たちは笑われた。
だが、彼らは、皆、うつむくことなく毅然としていた。瀬上は、その毅然とした彼らの姿を見て疑問を感じた。彼らは、生活苦などから漠然と死にたいと思っている若者だった。瀬上がこの前の集会で最初に見た時、彼らは暗い若者だった。それが、今、顔を上げて毅然としているのは、水越賀矢によって、彼らの目標が「脱希死念慮」から「打倒礼命会」に変えられてしまったからだと思った。それと、この前の集会で、彼らが熱狂したのを神がかりの力かもしれないと思った。だが、今朝、牧多と電話で話をして、マインドコントロールなのかもしれないと思った。そして、今もその状態なのだろうかと思った。
瀬上が、そんなことを考えていると、水越賀矢が戻って来た。
「駅長から激励の言葉を頂きました。皆さん。これから駅の清掃活動を始めます。有り難く信仰の実践に入りましょう。では、清掃場所とその担当信者を伝えます」
彼女は、早速、清掃活動を開始しようとした。
その時、瀬上は思い切って訊いた。
「賀矢先生。質問があります。駅の清掃活動をすることによって、礼命会を解体させることができるんでしょうか? 僕には、清掃活動と礼命会に接点があるとは思えないんですが?」
瀬上の質問を聞いて、頭の中が「打倒礼命会」一色になっている信者たちも、さすがに疑問が湧いた。
「賀矢先生。確かに、瀬上君の言うことにも一理あります。教えてください」
円崎兼行も彼女に尋ねた。
水越賀矢は微笑んだ。
「疑問を持つこと、そして、疑問をぶつけることは、主体的であり自立的なことです。私は大いに歓迎します。但し、このことに関しては、あえて秘密にします。あの礼命会を倒すのです。それだけの秘策があります。でも、秘策であればこそ、秘密にしておかなければなりません。どうか私を信じて実践に励んでください」
その言葉に円崎を始め信者は、皆、「はい。実践に励みます!」と言った。
瀬上一人だけは、それより目的が変わっているじゃないかと思いながらも、だからこそ、諜報係として、彼らから脱落してはならないと考えた。
奉仕活動は、午前十一時から午後四時までだった。ラッシュ時の活動は利用客の邪魔になるため、避けるようにした。昼休みには、水越賀矢が握った塩むすびが、三つずつ配られた。海苔も巻かれていない、具も入っていない塩むすびを食べると、信者は、皆、いかにも修行をしているという気持ちになった。
瀬上は、円崎、そして、津江、上代恵梨という信者と一つのグループになった。初日は、この四人で、私鉄①の清掃をするよう水越賀矢から命じられた。津江は、普段は居酒屋でアルバイトをしている青年だった。上代恵梨はG大学の学生だった。瀬上たちのグループ以外にも、四人一組のグループが、五カ所に別れて、駅の清掃活動をした。全員が作業用の手袋をした。
瀬上たちはホーム近くのゴミ箱を掃除していた。
「W駅に恨みでもあるのかな? ゴミがねじ込んである」
津江がそう呟きながら、燃えるゴミ用のゴミ箱にねじ込んであるゴミを引き抜いた。ビニール袋に入った空のペットボトルの塊が出て来た。数えると十本あった。
「家庭用のリサイクルゴミで出すつもりだったのを、わざわざ、ここに捨てた気がする。悪意を感じる」
ペットボトルの塊を見て、上代恵梨が言った。
「特定の人間がやっているなら、そうだけど、W駅は至る所で、こういうことがある。つまり、不特定多数の人間がやっている。だから、よけいに駅員も訳が分からない。W駅は不特定多数の人間に恨まれるような駅ではないから」
円崎が言った。
彼が言ったのは、ゴミ箱の周りの掃除をする前、私鉄①の駅員が四人に説明したことだった。
「君たちに掃除をしてもらうのは有り難いんだけど、明日になるとガッカリすると思うよ。また、ゴミ箱がゴミでいっぱいになっているから。しかも、こういうルール違反のゴミばかりだから」
そう言って、駅員は、先ほど津江が引き抜いたビニール袋を指さしたのだった。
「それに、防犯カメラでチェックをしても、一人の人間が執拗にやっているようなケースはないんだ。その場合なら、その人物に注意ができるけど、そういうことでもない。通勤客もいれば、そうじゃない客もいる。但し、不思議なのは、彼らが、突然、コンビニの弁当の空箱を五つぐらいまとめてゴミ箱に入れたりするんだ。しかも、電車に乗る前じゃなくて電車から降りてきた時に放り込むこともしばしばある。空の弁当箱を五つ持って電車に乗っているなんて不自然だよ。でも、相手は利用客だから、そう簡単に注意するわけにもいかない。我々も客商売だからね」
若いからだろうか。気さくな駅員だった。
瀬上たちは、ゴミ箱の清掃をした後、ホームに向かった。津江は、ベンチの下に大量のスナック菓子が散乱しているのを見つけた。円崎は、異常なほど重いビニール製のボストンバッグを見つけた。開けると中には、びっしりと砂が詰められていた。気味が悪かった。上代恵梨は、『整形外科 症例と診断』という医学雑誌が、五年分ヒモで縛ってホームの端に積み上げられているのを見つけた。この時点で、作業をストップして四人は考えた。スナック菓子の散乱は判断が難しいが、砂が入れられたカバンと五年分の医学雑誌は明らかに悪意があってホームに置いたに違いない。そう結論づけた。でも、それ以上、何ができるわけではないことも知っていた。あの駅員が言った通り、相手は利用客であり、また、何より防犯カメラを見て人物を特定している余裕は駅員にはない。駅は混んでいる。瀬上たちの存在は、混雑する駅を歩く利用客にとって、邪魔でもあった。同時に、忙しい駅員にとっても、ある意味で、邪魔であった。奉仕活動には、往々にして、そういう側面があることを若い四人も知っていた。だから、駅員室には行かず、先ほどの駅員から教えられた駅の裏にあるゴミ置き場に、これらのゴミを持って行くことにした。
瀬上たちのグループ以外も同じだった。
在来線のホームの清掃活動をしているグループは、炊飯器と破れたハンモックが捨ててあるのを見つけた。炊飯器はそれほど古いものではなかった。壊れたから要らなくなったのか? それとも、買い替えたから要らなくなったのか? そのどちらかだと思われたが、ハンモックも含めて、何故、W駅に捨てるのか? その場にいた村勢という男子大学生は、「W駅のことを不燃ゴミ置き場と間違えているんじゃないか?」と思わず嘆いた。
私鉄②のホームでは騒ぎがあった。トレンチコートを着せたマネキン人形がベンチに座らせてあった。わざわざ頭にハンチング帽まで被せてあった。それに気づかず、隣に座った女性が、「これ、人間じゃない。マネキン人形!」と悲鳴を上げた。ホームは騒ぎになった。若者信者四人も、その場に駆けつけた。靴は履いておらず、人形は裸足だった。それを見て、皆、自分たちが、実行犯―と言っていいだろう―に馬鹿にされていることを自覚した。その時は、さすがに、駅員が駆けつけ、「いたずらだとしても、悪質です。調査しますのでご安心ください」と言った。そして、大きなマネキン人形を抱えて駅員室に向かって駆けて行った。
初日だけで、これだけのことがあった。しかも、瀬上たちのグループに、「明日になるとガッカリするよ」と駅員が言ったように、二日目も、三日目も、ゴミに振り回された。
五日目には、構内を自転車で走り回る男が現れた。ずっとジャクソン5の「ABC」を大声で歌っていた。乗客も信者も茫然とその様子を見ていた。在来線の駅員が取り押さえ、男は、駅員室に連れて行かれた。
後で、信者の一人が、男に何があったのかを駅員に訊いたが、
「みんな、色々ある。お互い、頑張ろうね」
としか答えてもらえなかった。
七日目には、私鉄①でサラリーマン同士の喧嘩があった。夕方のことだった。ホームですれ違いざまに肩と肩がぶつかったのが喧嘩の原因だった。それにしては、激しい殴り合いになった。駅員が間に入って何とか収まったが、二人とも、鼻血が出て、顔が紫色に腫れ上がっていた。明日、出勤したら、上司にどう説明するのだろうと瀬上は思った。すると、その後ろのベンチでうつむいて寝ていた男が嘔吐した。男は泥酔していた。駅員はため息をついた。瀬上たちのグループが、その後始末をした。
若者信者は、こんなことの繰り返しに嫌気がさしてきた。
すると、W駅と清掃業務の契約をしている清掃業者の作業員の一人から、
「終わらないことだから、終わらそうと思わないようにね。ゴールのないマラソンをしている気持ちで作業に臨むといい」
という不思議なアドバイスを受けた。
だが、若者信者には、その言葉の意味がよく分かった。確かに、W駅の清掃活動にはゴールがなかった。若者信者は、清掃員の助言を受け入れ、気持ちを切り替え、黙々と清掃活動を続けた。
そして、気づけば、二週間が過ぎていた。
彼らを見る周囲の目が変わっていた。ホームで彼らを見かけると、「今日もご苦労さま」と声をかける通勤客も現れた。そして、若者信者にも変化が現れていた。若者信者は、いつの間にか、人の幸せのために奉仕する喜びを感じるようになっていた。更に、その喜びは、生きる手応えに繋がっていた。そして、それは、「脱希死念慮」が実践されていることを意味していた。また、死にたいという思いには悩まされていない瀬上芯次も、ずっと学校を休んで張り合いのない毎日を送っていた。それだけに、信仰の実践の日々に充実感を覚えていた。もしかしたら、自分は変われるかもしれないと思った。そして、水越賀矢のことを考えた。彼女は「打倒礼命会」を叫んでいるが、果たしてそれは本当なのか? 牧多が言った。彼女のことばを真に受けないようにと。彼女は、本当は若者信者の幸せを実現するのが目標なのではないのか? 「打倒礼命会」とは若者信者を奮起させるための一つの発奮材料として掲げた“偽”の目標であり、立教の精神「時代の中で苦しむ若者を救う」ことこそが、彼女の“本当”の目標なのだ。
『本心の分からない水越賀矢の真意とは善意である』
瀬上は、水越賀矢に対して、過剰なほど好意的な見解を持った。だからといって、彼の中の何かが変わったわけではなかった。彼は先の見えない毎日に、今、希望が見えた気がしていた。その希望が偽りのものではあって欲しくない。見えている希望が、本物の希望であって欲しい。彼は切実に願っていた。そして、そう願う彼にとって、水越賀矢は、どうしても、善意の人でなければならなかったのだ。
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