第四章(実践)
一.
牧多賢治が、中華総菜工場の事務所にあるパソコンに向かっている時、机に置いてあったスマートフォンからメールの着信音が聞こえた。見ると、瀬上芯次からだった。牧多は杉原とともに、先ほど、水越賀矢の新教団の集会を覗いて職場に戻って来た。入信する決意で参加した瀬上はそのまま集会に残った。時計を見ると五時前だった。集会が終わったのだと思った。牧多は瀬上のメールを読んだ。
「賀矢先生が、集会途中から礼命会の批判を始めました。信者は礼命会の解体を訴えました。僕は入信しました」
牧多はメールを読み終えた。彼に諜報係を依頼したため、その気になって暗号文を送ってきたのかと思った。でも、そうではないと分かった。牧多は、メールを“解読”して杉原と青沢礼命に送った。
牧多は再びスマートフォンを机の上に置いて腕組みをしてしばらく待った。メールの着信音が続けて二回鳴った。杉原と青沢礼命から返信が来た。牧多はメールを見た。
「やっぱり……」
「何かあると思っていた。それにしても、礼命会を標的に?」
杉原と青沢礼命のメールを読んで、牧多は、二人も自分と同じだと思った。彼も、きっと「何かあると思っていた」からだった。
『救済される魂たち』の集会が終わり、新しく信者になった瀬上を含めて二十人の若者信者全員が帰った。教会の中は静かになった。若者の熱気も消え、また寒くなった。水越賀矢は一人で長椅子に座って、自分が先ほどまで立っていた演台を見ていた。そして、青沢礼命のことを考えていた。彼女は、青沢に男性的な魅力を感じたことはない。彼女が魅力を感じるのは、自傷行為的に全身にタトゥーとピアッシングを施したような男だ。青沢礼命を見る時、彼女は、聖職者というのは、こういう人のことをいうのだろうと常に思った。医師として、宗教家として、これほど相応しい人はいないと思った。彼女は彼のことを尊敬していた。その青沢礼命及び礼命会を彼女は敵にした。彼女は青沢礼命に申し訳ないと思っていた。でも同時に、これしか手段がないことを知っていた。水越賀矢の人生には常に敵がいた。父親、貧困、過酷な労働、その他、敵との対峙の中で、自分を燃焼させてきた。彼女は、今、敵がいない。彼女は敵がいないと自分の能力を発揮できない人間だった。環境がそうさせたのかもしれない。
対立関係の中で力を発揮してきた水越賀矢にできることは、仮想敵を作ることしかなかった。しかも、大きな敵が必要だった。それが青沢礼命、そして、礼命会だった。同じ街にある知名度の高い新興宗教団体。金と力もある。青沢礼命を敵にすれば、彼女は自分の力を発揮できる。それだけではない。礼命会と対峙する彼女のことを、誰もが、改めて、神がかりだと信じる。何故なら、大きな力に、たった一人で挑む彼女には、当然、それだけの自信と根拠があるはずだ。彼女の場合は、それが、神がかりだと誰もが思うからだ。彼女は若者たちを救うつもりだった。それが、あの日、突然、体の中から神が消えた。
彼女は考えた。若者を救うためにも、神がかりであり続けなければならない。そのためには、礼命会との対立は必然なのだと彼女は自らを正当化した。今日の集会で若者信者を煽動した。その時、後戻りはできないと覚悟した。彼女は長椅子から立ち上がると地獄絵を見た。
「毎日が責め苦の繰り返し。現実と地獄は同じだ。私は地獄に落ちても現世と同じだと思うだろう」
そう言うと、彼女は布で地獄絵を覆った。
集会に参加した翌々日の朝、瀬上芯次に牧多から電話があった。七時前だった。瀬上はまだ寝ていた。「朝早くに申し訳ないけど、出勤前にしかまとまった時間が取れないんだ」と牧多は事情を説明した。
「この前の集会のことを教えてくれないか? 俺と杉原が集会を抜け出した後のことだけでいい」
牧多のその言葉に、ようやく瀬上は目が覚めた。
瀬上は、あの日、集会が終わってすぐに牧多に暗号文のようなメールを送った。詳しいことは、家に帰ってから、改めて、電話で説明するつもりだった。でも、家に帰ると、疲れてすぐに寝てしまった。昨日、電話をかけようと思った。でも、あの集会の内容をどう説明していいのか分からず、そのままかけず終いになっていた。
瀬上は、牧多に説明した。
生活苦から死を考えてしまう若者の話が、突然、青沢礼命と礼命会を批判する話に変わった。水越賀矢が強引に話題を変えた。だが、若者信者は、かえって熱狂して彼女の話を聞いた。そして、遂に「礼命会の解体」「青沢礼命の糾弾」を叫んだ。その他、青沢礼命と礼命会について、散々、デタラメを言っていたことを話した。
「賀矢先生は、いつも、本当は何を考えているか分からない人だ。くれぐれも話を真に受けないように」
牧多はそう言うと、次に、
「瀬上君。君は杉原から、四年前のペンダント売りの話を聞いたか?」
と言った。瀬上が知らないと答えると、要約してペンダント売りの話をした。瀬上は話を聞いて驚いた。
続けて、牧多は話した。
「その時、ペンダント売りをさせられた若者信者が、賀矢先生にマインドコントールをされたんだ。賀矢先生の意志に従わないと、大きな不幸に陥る。こういう状態になった。今、君は冷静だけど、他の若者信者がそれだけ熱狂しているのも、既にマインドコントロールをされているからかもしれない。注意するように」
「注意するって言われても、どうすればいいんですか?」
「そんなに心配しなくていい。青沢先生によると、本当にマインドコントロールにかかったわけではなくて、賀矢先生の強い人間的な影響力で、それに近い状態になっているだけだ。だから、何かのきっかけで、突然、元に戻るから」
「それにしても、そんな大事なことを、何故、杉原さんは話してくれなかったんでしょう?」
「杉原は、君が混乱するといけないと思って、話さなかったんだろう。じゃあ、時間がないから。また報告をお願いするよ」
そう言うと牧多は急いで電話を切った。
七時半だった。瀬上はベッドから起きると、そのまま一階に降りた。瀬上の両親は、もう家にいなかった。そんなに早く出勤する必要はないのに、父と母は、いつも、早く家を出る。理由は、健康のために、距離のある市役所まで歩いて出勤するからだった。二人には、一つも病気をせずに天寿を全うするという大きな目標があった。そのための、ウオーキングだった。
瀬上は、いつも着ている紺色のセーターとベージュの綿のパンツに着替えた。ロールパンを食べて牛乳を飲んで朝食を済ませた。スマートフォンで『救済される魂たち』のホームページを見た。特に変化はなかった。礼命会のホームページも見た。こちらも変化はなかった。B高校のホームページも見た。校舎の窓から生徒が手を振っている写真が大きく載せられていた。この写真は学校案内のパンフレットの表紙にも使われていた。瀬上は、その写真を見ながら、これから自分はどうなるのだろうかと思った。『救済される魂たち』の集会に参加した後だけに、B高校のホームページを見ると、よけいにそう思った。
彼は外出する準備をした。
彼は今日も教団に行くのだった。
瀬上は電車に乗っていた。
今日は天気が良いので、瀬上も他の乗客も、一昨日より軽装だった。
彼は空いている席に座って、一枚の紙を読んでいた。
あの日、集会が終わってから、瀬上は、水越賀矢から、「信仰の実践」という紙を渡された。これからのスケジュールが書かれた紙だった。土日も信仰の実践のため教会に来るようにと書かれていた。その下に、十一月と十二月のカレンダーが印刷されていた。そして、今日が、実践の初日だった。ただ、カレンダーには、「実践」と「休」しか書かれていないため、実践とは具体的に何をするのかは分からなかった。
駅についたので電車を降りると改札を出た。天気が良かったので、ブロンズ像の少女と少年がさしだした手の先にちょうど太陽が見えた。集合時間は十時だった。九時半になっていた。瀬上はそのまま教団施設に向かった。
教団につくと、瀬上以外の信者は既に集まっていた。そして、全員が駐車場にいた。駐車場にはボディカラーが黒の大型のワゴン車が三台停まっていた。車の傍に紺色のジャンパーを着た三人の男がいた。運転手のようだった。
驚いたのは、若者信者全員が、揃いの真っ白なパーカーを着ていることだった。大学のスポーツサークルの集まりのように見えた。でも、胸元に大きく『救済される魂たち』と赤い字でプリントされているのを見て、やはり、信者の集まりだと思った。
その時、教会のドアが開いて水越賀矢が出てきた。彼女も真っ白なパーカーを着ていた。
「瀬上君。教会の中へ」
瀬上は水越賀矢に言われて教会の中に入った。すぐに皆と同じパーカーを渡された。パーテーションの向こうに座敷があるから、そこで着替えるように言われた。でも、瀬上はセーターを脱いでパーカーに着替えるだけなので、その場で着替えた。そして、
「先生。これから、何をするんですか?」
と訊いた。
「瀬上君の人生の最初の止揚になると思う」
何を言っているのか分からないので、瀬上はそれ以上訊くのを諦めた。
外に出ると、若者信者が、それぞれワゴン車に乗り始めていた。
瀬上も慌ててワゴン車に乗った。
二台のワゴン車に信者が七人、一台に信者が六人と水越賀矢が乗った。三台のワゴン車に均等に七人が乗った。運転手が一斉にエンジンをかけた。エンジンの音に信者は緊張した。通りに近いところに停めてあるワゴン車から順番に広い通りに出た。手前の反対車線を通り越して右折すると、三台のワゴン車は一列に並んで街の中心地に向かう道を走り始めた。速度は抑えられていたが、大型の黒のワゴン車が連なって走る姿は、周りを走る車に威圧的な印象を与えた。先頭を走る車に水越賀矢は乗っていた。瀬上は次を走る車に乗っていた。
瀬上は車に飛び乗って目の前の空いている席に座った。隣の席の信者の顔も見ていなかった。隣には、青白い顔をした青年が座っていた。この前の集会で、「礼命会を解体せよ!」と叫んだ青年だった。
瀬上の視線に彼は気づいた。
「僕は円崎兼行。君は?」
「B高校二年の瀬上芯次です」
「僕はV大学を中退した。大学なんて何の意味もないって分かったからね」
自己紹介が終わったということだろうか。円崎は、それだけ言うと黙ってしまった。
瀬上は、円崎に礼命会を本当に解体したいと考えているのか訊こうとした。でも、後ろに座る信者が、全員、瀬上をじっと見ているため訊けなかった。車内の空気がわずかに張りつめているのが分かった。彼はこの前の集会が終わってから入信した信者だった。他の信者は全員、悩み相談利用者の信者だった。瀬上は異質な存在だった。そして、自分が、皆から警戒されていることをこの時、知った。瀬上はそのまま自分の席で静かにすることにした。それから、沈黙の時が流れた。誰も何も話さなかった。瀬上は息苦しさを感じていた。そして、街の中心地に近くなり、繁華街が見えて来た。その時だった。突然、運転手が話し始めた。六十過ぎの鋭角的な顔をした男だった。
「本日、当車両の運転を担当しております枚本です。間もなく、目的地に到着します。目的地は、繁華街の近くにあるW駅です。駅近くの駐停車禁止区域に車を停車しますので、素早く車を降りてください。そして、水越賀矢先生のところに集合してください。夕方、同じ場所に迎えに伺います。三台のワゴン車のどれでも結構です。急いで乗車してください。以上です」
そこで話が途切れた。円崎が運転手に訊いた。
「駅で何をするのかまでは、賀矢先生から訊いていませんか?」
すると、枚本という運転手が答えた。
「全ての信者よ。どんな困難に遭遇しようとも、栄光の一点を見つめて前に進むこと。魂の救済は、その時にこそ成し遂げられる。落命を恐れぬ心を持って臨みなさい」
駅で何かをするということ以外、結局、具体的なことは何一つ分からなかった。乗車している信者全員が、内心、軽い苛立ちを覚えた。
瀬上が思わず訊いた。
「W駅はいつも混雑している駅ですが、命を落とすことってあるんでしょうか? それと、この大きなワゴン車はレンタカーですか? それとも、教団の車ですか? もしかしたら、枚本さんも信者ですか?」
枚本が、瀬上のほうを振り向くと微笑んだ。でも何も言わなかった。
瀬上の言葉を聞いて、これまで、ずっと黙っていた信者の中の一人が、
「もういいよ。賀矢先生に直接訊こう」
と言った。皆も、「そうしよう」と言った。
瀬上が、わずかだが、皆に受け入れられた瞬間だった。
枚本に言われた通り、信者は、急いで車を降りると、水越賀矢のところに集まった。W駅の駐輪場の前だった。W駅は、いつも混雑している駅だった。そして、何故か、いつもトラブルを抱えている駅だった。ゴミの散乱、喧嘩、泥酔客、窃盗など。静かな街の中心にある駅としては不自然なことが多かった。駅員は常に構内を見回り、対策もしっかりとしているのだが、改善しない。水越賀矢は、これからこの駅の清掃活動をする。『救済される魂たち』の信者が、清掃活動をすることで、W駅のトラブルが根本的に解決するとは彼女は思っていなかった。むしろ、大事なのは、この駅がいつもトラブルを抱えていることだった。彼女はこの駅のトラブルを利用しようと考えていた。そして、彼女はこの駅にまつわるある秘密を知っていた。
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