第三章(独立)3

三.

『礼命会ダムドール支部』の看板の下で、狂気めいた笑顔を浮かべる水越賀矢の写真を見て、瀬上芯次は、彼女なら自分の中の何かを変えてくれると確信した。だが、あの日から、彼は、水越賀矢に会えないまま毎日を無為に過ごしていた。彼は、礼命会に彼女が戻ってきたかどうかの確認をしていない。確認をするためには、青沢礼命に会わなければならない。電話で尋ねたとしても、教会に来いと言われる。そして、彼の最近の様子を訊かれる。精神状態はどうか? 食欲はあるか? 学校には行っているか? 青沢は、宗教家であると同時に、精神科医でもある。自分が自殺を思いとどまらせた“患者”として瀬上のことを捉えているに違いない。責任感の強い青沢の様子を思い出すと、瀬上にはそれが分かった。だから、電話もしていない。色々と訊かれるのは瀬上の本意ではなかった。杉原に訊いていたら、水越賀矢が、牧多の家にいることが分かったはずだった。それなのに訊かなかった。杉原は、礼命会の二人しかいない若者信者の一人だ。杉原に連絡をすると、それが青沢にもすぐに伝わるかもしれないと思った。そう考えると、気が進まなかった。


結局、瀬上は、インターネットで水越賀矢の動向を知った。十一月半ばのことだった。その日も、彼は学校を休んでいた。両親が仕事に出かけた後、彼一人、リビングのソファーに寝そべっていた。朝から風が強くて寒い日だった。瀬上は、今日は午後からの散歩もやめて、一日、家にいようと思った。そして、学校のことについて考えていた。彼の通うB高校は普通の進学校だった。ほどほどの勉強量の生徒が中心の穏やかな高校だった。十一月に入ってすぐ、瀬上は一度、学校に行った。昼休みのことだった。同級生が、皆、受験勉強をしていた。この前までは、一部の生徒が受験勉強をしていただけで、大部分の生徒が、おしゃべりをして笑っていた。でも、もう違うのだと気づいた。ほどほどの勉強量の生徒も、皆、受験生になったのだと彼は思った。そして、幾らかの焦りを覚えた。彼は、自分で勝手に学校を休んでいる。それでも、知らない間に、同級生が大きく前進している姿にショックを受けた。彼は、次の日から、また学校に行かなくなった。


リビングの窓から見える庭ではムクゲの木が風で大きく揺れていた。いつも遊びに来る、つがいのキジバトの姿もなかった。彼はしばらく庭を眺めた後、手にしていたスマートフォンで「水越賀矢」と検索した。青沢礼命にも、杉原にも訊かないのだから、インターネットで検索するぐらいしか彼女を探す方法はなかった。これまでも、何度か検索をした。でも、出てくる結果は、「礼命会 水越賀矢」「ダムドール 水越賀矢」だけだった。常に結果は同じだった。その内、彼は検索しなくなった。彼は久しぶりに検索した。すると、突然、「救済される魂たち 水越賀矢」という新しい検索結果がスマートフォンの画面に表示された。ホームページがあったので見ると、礼命会のそれと同じく内容は乏しかった。でも、『救済される魂たち』は、立ち上げたばかりの教団だから、まだ載せることがないのだろうと思った。それから、瀬上は、メールアドレスでも電話番号でもなく、すぐに所在地の地図を見た。そして、ソファーから体を起こすと、階段を駆け上がって二階の自分の部屋に行った。作りつけの小さなクローゼットの中にあるダウンジャケットを引っ張り出して、今度は、階段を駆け降り、彼はそのまま外に出た。冷たい風が吹いていた。彼は慌ててダウンジャケットを着た。彼は駅に向かった。ホームページにあった地図を見ると、少し電車に乗った駅の近くに教団施設があるからだった。ホームで待っているとすぐに電車が来た。街の中心地に向かう電車だった。彼は電車に飛び乗った。電車に乗ると、乗客は、皆、彼と同じようにダウンジャケットや冬用のコートを着ていた。そのため、車内が急に窮屈になった気がした。彼は、こうやって少しずつ冬になっていくのだと思った。


しばらく走ると地図にあった駅についた。改札を出ると、知らない風景が見えた。この駅は、瀬上の家から、電車で十分ぐらいのところにあるから近い。でも、彼はこの駅で降りたことがなかった。何故なら、中心地に向かう電車に乗る場合、途中の駅では降りずに、必ず、繁華街のある中心地の駅まで行くからだった。瀬上に限らず、それは全般的な傾向だった。

でも、知らないはずの風景なのに、瀬上は、どこかで見たことがある気がした。駅前のロータリーの真ん中には、ブロンズ像と花壇があった。ブロンズ像は少女と少年が右手を太陽に向けてさしだしているものだった。こういう場合、優れた作品か否かにかかわらず、ブロンズ像は一様に退屈さを感じさせる。そして、その退屈さは、駅周辺の退屈さを象徴しているかのように思われた。バス停の近くにあるベンチには老人が数人座っていた。バスが到着すると、ベンチに座っていた老人は立ち上がりバスに乗り込んだ。バスは発進するとロータリーをゆっくり回って元来た道に消えて行った。その風景は、瀬上の家の近くの駅前と同じだった。そして、この街では、幾つも同じような風景が見られるのだった。

「知らない風景なのに、既に見たことがある気がする。これも既視感の一種だろうか?」

瀬上はそう呟くと、地図に従って駅の左手にある細い通りに進んだ。

通りには、宝飾店、本屋、電気屋などが並び、少し間隔を空けて、定食屋、蕎麦屋、鮨屋などの飲食店が並んでいた。電気屋のシャッターは閉まっていた。飲食店は準備中だった。更に、少し間隔を空けたところに、瀬上の目指す建物があった。異様な建物だった。赤を中心としたまだら模様の建物に、『救済される魂たち』と横に長い大きな看板がかけられていた。隣にある駐車場の向こう側は広い通りで、車の往来が多い。それだけ多くの人が、この建物を見ているということだった。


瀬上芯次は、水越賀矢に会うのだからと、それなりに覚悟してきたつもりだった。でも、この異様な感じの建物を見て怯んでしまった。彼は建物の中に入れず、駐車場をうろうろしていた。

「元々、ここは何をやっていた店なんだろう? 六台分も駐車スペースがあるけど、満車になることはあったんだろうか?」

瀬上はそう呟いた。風が冷たかった。彼は心細くなってきた。そして、帰ろうかと思った。

その時、突然、「君も信者さんなの?」と声をかけられた。

彼は驚いて顔を上げた。そこには背の高い七三分けの男が立っていた。彼の後ろにはワゴン車が停まっていた。

「僕は信者ではありません。あなたは教団の関係者ですか?」

背の高い男は答えた。

「俺は教団の関係者になるね。この建物を水越賀矢先生に貸しているから。牧多って言うんだ。ここは、昔は、『深々楼』っていう流行らない中華料理屋だったんだ」

話を聞いた瀬上は、この人物が、杉原が教えてくれた牧多賢治だと気づいた。パンクな感じではないと思った。むしろ、杉原以上にサラリーマン然としていた。水色のユニフォームがそれを表していた。

「それで、君は教会に用事があるの?」

「用事があるというか、そのつもりだったというか……」

そんなやりとりをしていると、次に、白のライトバンが駐車場に入ってきた。杉原だった。杉原は外回りの途中に抜け出してきた。分厚いコートを羽織っていた。

「牧多。遅くなってごめん」

車を降りて、牧多にそう言った。

そして、杉原は牧多の近くにいる瀬上の存在に気づいた。

「瀬上君。どうしてここに?」

「二人は知り合いなのか?」

杉原が、牧多に説明した。

「彼は瀬上芯次君。この前、話した四年前の僕と酷似した行動を取った高校生だよ」

牧多は、すぐに瀬上を見て訊いた。

「酷似したっていっても、君は死のうとしたんだろ? 今はもう大丈夫なのか?」

「僕にもよく分からないんです。普段から、特に死にたいと思っているわけでもないから」

「それなら、青沢先生に相談するといいよ。あの人、優秀な精神科医だから。そういうことに力を入れている病院にも勤めていたし」

と、牧多は言った。

瀬上は「はい。分かりました」と形だけの返事をした。

「僕は、水越賀矢先生の新しい教団を見るために来たんだ。牧多と待ち合わせをしていたところに君もいたから驚いたよ。ここのことは、どこで知ったの?」

杉原が瀬上に訊いた。

「ネットにホームページがありました」

「もうホームページがあるのか。知らなかった。それで、君は入信するために来たの?」

「はい。そのつもりで来ました」

瀬上は、はっきりと答えた。

その返事を聞いて牧多が言った。

「瀬上君。ここにいても寒いだけだ。早速、中に入って水越賀矢先生に会おう。そして、これはいい教団だと思えたら、すぐに入信しよう。それで、入信する場合、君に一つ頼みがあるんだ。俺は、今、水越賀矢先生のサポート役をしている。賀矢先生が独立する時に青沢礼命先生から正式に頼まれた。でも、仕事が忙しくて、なかなかサポートができないんだ。そこで、君にサポート役の代理をして欲しい」

「サポート役の代理?」

「具体的には、水越賀矢先生と教団の活動を俺に報告して欲しいんだ。できれば、内緒で」

「それって、スパイじゃないですか?」

瀬上が拒否反応を示すと、

「内緒っていうのは、そういう意味じゃなくて、賀矢先生や信者のみんなに不快な思いをさせないためなんだ。いちいちやることを目の前で報告されていたら、それこそ監視されてるみたいで嫌だろ? それにこれは、独立に際して、正式に青沢礼命先生と水越賀矢先生の間で取り決められたことだから、やましいことじゃないんだ。でも、それだけに俺が忙しくて何もできないから困っていたところなんだ。杉原。そうだよな?」

そう言って、牧多は杉原のほうを見た。

杉原は、四年前にも、牧多が平然と若者信者たちを監視していたことを思い出した。そして、今、諜報活動を自分に代わって瀬上にさせようとしている姿を見て、彼は嫌な面も大人になったと思った。

「青沢先生が、賀矢先生の独立に心配しているんだ。瀬上君。申し訳ないけど、手伝ってくれないかな」

杉原は、自分の言葉で瀬上に頼んだ。

「分かりました。入信することになったらやってみます」

瀬上は杉原の言葉を信用したようだった。

「決まったな。瀬上君。じゃあ、早速、教会に入ろう」

牧多が、すぐに建物に向かった。杉原と瀬上が彼に続いた。

瀬上は、牧多が、最初に見た印象と違う人物であることに戸惑った。だが、しばらく考えて、今の彼が、瀬上がイメージしていた、坊主頭で自分の不幸まで笑って話す牧多賢治なのだと思った。すると、人物が一致して、瀬上は、すっきりとした気持ちになれた。そして、彼は、いよいよ教会に向かった。




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