第三章(独立)2

二.

教団『救済される魂たち』は、十一月一日に立ち上げられた。礼命会の教会で、青沢礼命と水越賀矢が話し合ったのが、十月の下旬の夜のことだった。あの日から、一週間で教団を立ち上げた。急ピッチで教団設立のための作業が行われた。彼女は、礼命会ダムドール支部を立ち上げた時と同じやり方をした。元中華料理店『深々楼』の店内にあったテーブルと椅子を処分した。それから、近くのホームセンターで購入した白いパーテーションで厨房と自宅に通じる通路の部分を隠した。更に、朱と白と黒の三色のペンキを使って、店の外壁のまだら模様をパーテーションに再現した。刷毛で描かれたその模様は、外壁同様、異様な感じがした。水越賀矢が牧多に味わい深い店だと言った通り、色落ちした朱の壁に、まだら模様のパーテーションが組み合わされ、その空間には、非現実的な雰囲気が生まれた。そして、長椅子を並べ演台を据えると、そこは、確かに宗教施設になった。御神体は、彼女が、神がかりになった時に見た夢である地獄絵だった。彼女が、その時の夢を思い出して描いたものだった。残酷な描写が生々しいため、普段は布で覆うことにした。演台の隣の台座の上に飾られた。これらの作業を予定では、三日で完了するはずだった。だが、深々楼はダムドールより店舗が大きいため、作業に時間がかかった。五日を要した。


六日目に看板の塗り替えをした。店から外されて、牧多の自宅の裏庭に雨ざらしにされていた深々楼の看板を再利用した。三色のペンキと一緒に買ってきたうぐいす色のペンキを使って全面を塗り直した。半日、陽にあてて乾かしてから、刷毛を使って黒のペンキで、「救済される魂たち」と一気に書いた。勢いのある字に彼女は満足した。天気が良かったので、一日で塗り替えの作業は終わった。ただ、一人で看板をかけることはできなかった。翌日、仕事の帰りに牧多が手伝いに来た。前の日の夜、彼女が電話で頼んでおいたのだった。


牧多と一緒に長椅子を一つ外に運び出すと、それを踏み台にして、二人で看板を元の場所にかけた。

「礼命会ダムドール支部の看板をかけて以来ですね。それにしても、うちの店が宗教施設になるなんて。不思議な気がします」

牧多は笑った。

その笑顔を見ながら、水越賀矢は、あることを考えていた。それは、彼女に、ここを教団施設として貸したことを、牧多は、兄にも母にも言いそびれたままになっていることだった。言い出しにくい彼の気持ちは理解できる。でも、もう教団は活動を開始する。本当は、「早く家族の許可を得てくれ」と言いたかった。だが、それはやめておこうと思った。性急に要求したことから、かえって、牧多の家族の感情を害することは避けたかった。彼の判断に任せることにした。


作業は無事に完了した。ただ、予定より日数がかかり、十月三十一日になっていた。予定では、数日で作業を完了させて、すぐに信者の勧誘をするはずだったが、それを変更せざるを得なくなった。教団設立の十一月一日から勧誘を始めることにした。『救済される魂たちの立ち上げの日に、私を待っている若者たちを集める。素晴らしい始まりになる。これでいい』。彼女はそう思った。うぐいす色の看板に書かれた文字が、彼女の気持ちを表していた。


そして、十一月一日になった。

まず、ホームページを立ち上げた。内容は、立教の主旨、教祖名、設立年月日、連絡先、所在地など。必要最低限のことだけだった。実績がないので記載することが、まだ無かった。

水越賀矢は、一階の厨房の近くにある座敷を使っていた。早急に売却されるわけでも、取り壊されるわけでもないこの家には、日用品から家具まで、あらゆるものが処分されずにそのままになっていた。だから、家主が引っ越した今も、牧多家の日常生活がそのまま残っていた。壁にかけられた牧多の父の遺影がこちらを見下ろしていた。その部屋を使う気にはなれなかった。唯一、この座敷だけが彼女のいられる場所だった。牧多によると、中華料理店が営業していた時代には、この座敷は休憩室として使われていたらしい。座卓と座布団があるだけで、そこに牧多家の日常はなかった。彼女はモスグリーンのパーカーを着て座卓に向かっていた。座卓の上には、彼女のノートパソコンが置いてあった。先ほど、ホームページを立ち上げた。だが、彼女自身、誰も知らない宗教団体のホームページをインターネット上に掲載しても見る者はいないと、特に期待はしていなかった。彼女が、若者信者獲得のために真剣に取り組むのは、これからだった。

彼女はノートパソコンの隣に置いてある資料を手に取った。

「待たせてしまった。一刻も早くあなた達を救わなければならないのに」

彼女は資料を見て呟いた。

資料はA4用紙五枚分の名簿だった。約百人の名前、生年月日、連絡先、日付が印刷されていた。この名簿に記載されているのは、若者ばかりだった。水越賀矢は、その若者全員と直接話をしたことがある。この名簿は、礼命会悩み相談利用者の名簿だった。一年半前、彼女が礼命会悩み相談を開設した日から、突然、姿を消した半年前までに悩み相談を利用した若者のリストだった。

「礼命会では救うことができなかったあなた達を、『救済される魂たち』で私は救う。馴れ合いの社会の中で、自立したくてもできない若者たちを救う。それが私の神命であり、新教団設立の意義」

水越賀矢は、そう言って利用者リストに目を通した。


悩み相談利用者リストは、礼命会の関係者以外が所持していてはならないものである。現在、彼女は礼命会を脱会して別の教団を立ち上げた関係外の人間だ。資料も元データも破棄しなければならない。彼女はそのことを分かっていて、今からリストを頼りに電話をしようとしている。青沢礼命が危惧していたのは、こういうことだった。彼女はあの夜、青沢から指摘された自身の問題点も、綺麗に忘れてしまっていた。水越賀矢は、自分の中の正義を信じて行動する。この場合も、利用者リストを礼命会に無断で使用することは、若者たちを助けるためには当然許される。という論理が彼女を正当化していた。彼女は極めて独り善がりだった。


礼命会悩み相談利用者リストには、約百人の利用者が並んでいるが、その大部分が、一回だけの利用で終わっていた。興味本位で訪れただけの若者も複数存在する。水越賀矢は、その一回だけの利用者にも電話をかけるつもりでいた。但し、手当たり次第に電話をするのではなかった。一回だけの利用者の中にも、彼女からの連絡を待っている若者がいることを、水越賀矢は知っていた。それが誰なのかも分かっていた。彼らは次回も訪れるのが怖かったのだ。何故なら、水越賀矢と話をしていると、自分が変わる気がしたからだ。人は変化を恐れる。たとえ、それが良い方向への変化であっても、ためらうことがある。彼女は教団を設立して、すぐに彼らを入信させるつもりでいた。だが、彼女自身の事情-母の死-があり、計画に遅れが出た。水越賀矢は、遅れを取り戻すためにも、教団設立初日から勧誘を開始した。


彼女は、これから、約百人の利用者の中の四十人の利用者に電話をかける。そして、その四十人全員が、『救済される魂たち』の信者になることを彼女は知っていた。では何故、その四十人が、彼女からの連絡を待っているのかが、水越賀矢に分かるのか? それこそが、彼女が神がかりである証だった。名簿に並んでいる名前の中で、四十人の名前だけが、彼女には、光って浮き上がっているように見えた。他の約六十人の名前は光ってもいないし、浮き上がってもいない。彼女は、その四十人こそ、彼女を待っている若者だと分かっていた。彼女は、名簿を見て電話をかけ始めた。すると、「賀矢先生からの電話を待っていたんです」という声が聞かれた。そして、電話をかけるたびに、「すぐに教会に行きます。信者になります」と電話の向こうの若者が言った。電話をかけ始めて、立て続けに十人の利用者が、『救済される魂たち』に入信すると言った。更に、電話をかけた。同じように、彼女の電話を待っていた若者の声がした。水越賀矢は、教団を立ち上げて良かったと思った。あのまま礼命会にいては、若者は信者にはならず、悩み相談に訪れるだけだった。青沢礼命の言葉に従って副代表になっていたら、常に、あのジレンマに悩まされ続けていたのだ。彼女は、自分が正しかったことを心の中で確認しながら、電話をかけ続けた。すぐに、十九人の勧誘に成功した。次は、二十人目になる。二十人といえば、四年前、立ち上げた『礼命会ダムドール支部』の若者信者の数だった。彼女は、この四年のことを考えた。あの頃は確かに、暴走気味だったと自嘲気味に彼女は笑った。それから、今の自分のことを考えた。礼命会二代目代表を四年務めた。宗教家として貴重な経験だった。そして、突然の母の死。父は三年前に死に、母も死んだ。父も母も、もうこの世にはいなくなった……。


彼女は、ふとため息をついた。

その時だった。彼女の全身に大きな衝撃が走った。電気ショックともいうべき強烈な衝撃だった。目の前が真っ暗になった。そして、次の瞬間、常に体の中で燃えていた炎が消えた。最後に、体の中から大きな何かが抜け出した。あまりの衝撃に、彼女はしばらく放心状態になった。


実際には数分の間の出来事だった。彼女は気がついた。

「何があったのだろう? 今、私は気絶していたのか? まあいい。分からないことを考えても仕方がない。とにかく、早く電話をしなければ」

そして、彼女は勧誘を再開するべく名簿を見た。

すると、何故か、名簿の中の光って浮き上がって見えていた名前が消えた。彼女は驚いて、名簿をめくってみた。A4用紙五枚の名簿を一枚一枚丹念に見た。だが、五枚の名簿は、光りもせず、浮き上がってもいない百人の名前が並ぶだけの、ただの名簿になっていた。

彼女は焦った。そして、かろうじて覚えていた次の若者、つまり、先ほどまで名前の光っていた二十人目の若者に電話をかけた。二十一歳の男子大学生だった。

「水越賀矢先生ですか? お久しぶりです。ずっとお話ししたいと思っていたんですが、急にどうでも良くなりました。今は礼命会の人じゃないんですか? だったら、勝手に電話してこないでください」

男子学生はそう言うとすぐに電話を切った。

水越賀矢は、その瞬間、気づいた。


私は神がかりではなくなったんだ。今、気を失っていた間に、神が私の体から抜けたんだ……。


スマートフォンが彼女の手から滑り落ちた。ゴトンという鈍い音とともに畳の上に落ちた。彼女は、そのまま茫然としていた。


その時、入り口から牧多の声が聞こえた。

「教団の立ち上げ、おめでとうございます」

そう言って、彼は、パーテーションを少しずらせて通路を歩いて座敷の前まで来た。座敷は通路からそのまま上がれるようになっているので、襖を開けると彼は靴を脱いで、部屋に上がった。笑顔で水越賀矢を見た。すると、彼女が、茫然としているので異変を感じた。

「先生。どうしたんですか?」。何度、声をかけても返事をしない。その内に、彼は座卓の上の名簿を見つけた。彼は膝をついて名簿を手にした。その間も、水越賀矢は茫然としたままだった。牧多は、名簿を見て気づいた。

「賀矢先生。これは礼命会の悩み相談の利用者名簿ですよね。生年月日が俺より若いヤツばかりです。そんな若者ばかりが載っている名簿なんて礼命会の悩み相談しかない」

水越賀矢は、牧多の声に気づいた。そして、平静を取り繕って何とか答えた。

「あなたは、やっぱり、頭がいいわね。タイトルも載せていないこのリストを見て、すぐに悩み相談の名簿だと分かるなんて」

「おだてても、ダメです。この名簿と元データは没収します。青沢先生に渡します」

牧多は容赦なく言った。彼は、あの夜、水越賀矢も了解した上で、青沢礼命から彼女のサポート役を頼まれた。実際には、監視役という意味だった。以前から、彼は職務に徹するところがあった。青沢は彼のその性質を見込んで頼んだ。

「このリストの若者は、全員、私が相談を受けた利用者なの。だから、青沢先生というより、私の利用者です」

彼女は牧多と話をするうちに、少し気持ちが落ち着いてきた。

「礼命会に賀矢先生が在籍していたら、その主張が通るかもしれません。でも、先生は、もう礼命会を脱会しました。賀矢先生。青沢先生と約束したように、ルールを守りましょう。もう、こういうやり方はやめましょう」

牧多は真剣に言った。

「あなたは、昔から、変に真面目なところがあるわね」

彼女はため息をついた。そして、

「十九人の利用者には、もう電話をかけました。そして、本人たちの意志で入信したいから、近いうちに教会に行きますという返事がありました。牧多君。名簿も元データも返します。その代わり、十九人の入信だけは認めてください」

と、牧多に言った。

「そんな風に言われると、俺が信仰の自由を妨害しているみたいで困ります。分かりました。その十九人については何も言いません」

彼はそう答えた。

水越賀矢は、牧多にデータの入ったメモリーカードを渡した。

牧多はそれを受け取ると、ふと尋ねた。

「先生。俺が名簿とメモリーカードを没収しておいて訊くのも変ですが、何人ぐらいの若者が入信するはずだったんですか? 四年前の時みたいに、もう分かっていたんですよね?」

水越賀矢は半ば本気でこう言った。

「全部で四十人よ。凄い数でしょ? それをあなたが、ボツにしてしまったの。どう? 没収したデータを返す気になった?」

牧多は一瞬、困惑した表情を浮かべたが、

「確かに、四十人っていう数を聞くと、先生に申し訳ない気がします。でも、やっぱり、ルール違反はやめましょう。新しい教団が若者にとって本当に良い教団になるために」

と言った。

「そう言われてしまうと、私も何も言えなくなります。『救済される魂たち』を真に若者たちを救うための教団にします。牧多君。今日から全てが始まります。あなたも力を貸してください」

水越賀矢は言った。

牧多も「はい」と笑顔で返事をした。


牧多は仕事があるので、すぐに工場に戻って行った。

牧多がいなくなってから、水越賀矢は考えた。『牧多に訊かれた時、信者数を四十人と答えたが、あれは違った。正確には、三十九人だった。でも、もし、あの時、牧多が名簿を返してくれていたとしても、三十九人の信者は集まらなかった。二十人目の男子学生以降は、全員に断られた。何故なら、私が神がかりではなくなったからだ』。何故、突然、神がかりではなくなったのか? 彼女は考えてみた。だが、分からなかった。ただ、十九人という若者が入信しても、ダムドール支部の時の二十人の信者に一人足りないことを考えた。その一人の差が、自分が神がかりでなくなったことを決定的に表している気がした。

「一人の差がこれほど重要な意味を持つなんて。いなくなった神からの残酷な置き土産だ」

そう呟く彼女は、徐々に自分が神がかりではなくなったことを実感していた。


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