第一章(歳月)4
四.
杉原は車の助手席に瀬上を乗せて市街地を走っていた。車は礼命会のものだった。ワゴン車の他にもう一台購入したようだ。新車だった。ワゴン車が古くなってきたので買ったのだろう。ファイブドア・ハッチバックの商用車で、一般的にライトバンと呼ばれる車だった。彼は大学生の時に車の免許は取ったのだが、全く運転しないペーパードライバーだった。銀行に入ってから、外回りの時、車に乗る必要が出てきて非常に焦った。その時、今、運転している礼命会の車と同じライトバンに乗った。決して、サイズは小さくないのだが、取り回しも良く、安定した走りにペーパードライバーの彼は救われた思いがした。礼命会の車は、厳密には、杉原が普段乗っているのとは違う自動車メーカーのものだ。でも、同じタイプのライトバンだから、彼は戸惑いなく運転できた。杉原は礼命会の車を運転しながら、ライトバンに限らず、実用性の高い商用車は侮れないと思った。
「杉原さん。さっき青沢先生に助けを求めて、大隅っていう大学生が教会に飛び込んで来ましたが、先生は、悩み相談のようなことをしているんでしょうか? 精神科医だから、診察と言ったほうがいいのかな?」
隣の席から瀬上の声がした。
杉原は、その問いに答える代わりに、こう尋ねた。
「瀬上君が、青沢先生って呼んでいる先生は、宗教家の意味、それとも医者の意味?」
「僕は、精神科医の意味ですが?」
「僕も、今は同じなんだ。今日、青沢先生に再会するまでは、ずっと宗教家として先生って呼んでた。でも、四年振りに先生を見て、精神科医だと思った。感覚的なものだけど、この人は、もう宗教家じゃない。たとえ、礼命会の教祖に戻っているとしても、中身は完全に医者だと思った。だから、今のことも、診察、あるいは、精神科医によるカウンセリングっていう気がする。宗教家より医者が人の悩みを聞くほうが偉いとかそんなことじゃないよ。ただ、先生の場合は、医者としての行為だと思った」
「僕もそんな気がします。でも、他にも、ああやって駆け込んでくる人がいるんでしょうか? 大変ですね」
瀬上が言った。
杉原はその言葉を聞いて、もう訊いても大丈夫だと思った。
「あの大学生も大変だけど、車道に飛び込もうとした時の君はもっと大変だった。一体何があったの?」
すると、特にためらいもなく瀬上は朝からのことを話した。
「学校をサボって家でゴロゴロしてたんですが、天気も良いし、午後から散歩に出ました。しばらく歩くと、突然、死のうという気持ちが湧いてきました。僕はその気持ちを振り払おうと走りました。でも、死にたいという気持ちは次第に大きくなるばかりでした。死んだら楽になれる。そんな気持ちにまでなりました。そして、僕はあの場所で車に跳ねられるため車道に飛び込もうとしたのです。僕は正気に戻った時、あの場所がどこなのか分かりませんでした。それぐらい、僕は自分の家から離れた場所まで行っていました」
杉原の家は街の東の外れにある。これから車で送る瀬上の家は街の西側にある。小さな街だとはいえ、彼が杉原の自宅近辺を知らないのは当然だった。それにしても、悩みがないのに、突然、死にたくなった? 自殺未遂をしたのに、あまり悲愴感が感じられないのも、そういうことが関係しているのだろうか? 杉原は、瀬上の話を聞いて、余計に分からなくなった。そして、ふと呟いた。
「デジャヴか……」
杉原の呟きを聞いた瀬上が尋ねた。
「水越賀矢という人が、僕をあのコンビニの前まで走らせたんでしょうか? 現実が預言の通りになるために」
「分からない。君が、突然、死にたくなったことも、彼女のように特別な力のある人のことも。それより、現実に分かることを考えよう。今、君を自宅に送るまでの間に、さびれた商店街がある。そして、その中に彼女がやっていたパンクファッション専門店『ダムドール』がある。今はもう店はやめたから、その店が入っていた空き店舗がある。僕は今からそこに行こうと思う。僕や君のように特別な力のない人間のできることは、現実を確かめることだと思う。空き店舗だって行ってみたら何かあるかもしれない。君のことに繋がる何かが見つかるかもしれない。少なくとも、超能力について二人で考えているよりは、ずっと現実的な可能性があると僕は思う」
現実から物事を見極めていくという杉原の考えに、瀬上も賛成した。
杉原は、瀬上を乗せたライトバンを商店街に向けて走らせた。少し走ると、繁華街から外れたところにある商店街についた。杉原は初めて牧多の車でここを訪れた時、「路上駐車をしても、こんなところに警察は来ない」と彼が言ったことを思い出した。あの頃より商店街は、更に閑散としていた。彼は車を商店街の入り口近くに停めると、瀬上を連れてダムドールの入っていた店舗に向かった。向かいに乾物屋があったことを思い出した。親切な店主だった。今も廃業せずにやっているだろうか。彼はそんなことを考えながら、人通りの少ない商店街を歩いた。
乾物屋もダムドールの入っていた店舗もあった。乾物屋は四年前と変わっていなかった。でも、その向かいにあるダムドールの入っていた店舗の老朽化は著しかった。
「朽ち果てている……」
思わず、瀬上が呟いた。
杉原も同感だった。
「水越賀矢先生は、前に、こういう古さを味わいとして捉えるって言ってたけど……。僕も、この老朽化をビンテージとかそんな風には捉えられない」
人が住まなくなると家は急にさびれるように思う。だとすると、この店舗も長年の店主水越賀矢がいなくなってから、急激に老朽化したのだろうか? 杉原はそんなことを考えた。
杉原は、その小さな二階建ての店舗を見ながら、瀬上に水越賀矢のことを話した。彼女は過酷な家庭に生まれた。父親は酒と博打にのめり込んでいた。母親が稼いだ生活費も酒と博打に注ぎ込んだ。彼女は親の愛情や家庭の温かさを知らずに育った。中学生の時、パンクロックに出会った。渇いた心を慰めてくれるパンクロックに彼女は深く傾倒していった。高校を一年で中退して運送会社に就職した。雑用係だった。ある時、彼女は人生の目標を持った。そして、運送会社を辞めた。彼女はパンクロックファッション専門店をやると決めたのだった。開店資金を貯めるため、道路工事、水道管工事など様々な肉体労働をした。わずか三年で金を貯め、パンクロックファッション専門店『ダムドール』を開いた。ファッションセンスに加えて、彼女自身の持つ強いカリスマ性によって店は流行り、全国的に有名な店にまでなった。
「暗い生い立ちにも負けず、たった一人で店を立ち上げて、それだけの有名店にするなんて、水越賀矢さんは、凄い人なんですね。でも、どうして、パンクファッションの専門家が礼命会の二代目教祖になったんですか?」
瀬上が杉原に尋ねた。
彼は答えた。
「ここから、話がややこしくなるんだ。 “神がかり”とか、さっきの超能力みたいなことが出てくるんだけど、信じる、信じないは別にして、とにかく話を聞いて欲しい」
そして、杉原はダムドールの入っていた店舗をもう一度見た。
最初は、『ダムドール』だったのが、ある時から、『礼命会ダムドール支部』に看板がかわった。そして、『礼命会ダムドール支部』の看板を書いた水越賀矢の達筆な字を彼は今も覚えていた。だから、「既視感」の文字を見て、彼女が書いたと分かったのだ。
今は看板はかかっていない。二階に小さな窓がある。彼女は二階の狭い部屋で十五年も生活をしていた。自分なら、三日で逃げ出してしまうと思いながら、瀬上に続きを話した。
今から四年前のことになる。水越賀矢が、パンクファッション専門店『ダムドール』を始めて十五年が過ぎた春のことだった。彼女は風邪をひいて寝込んだ。熱にうなされて見た夢には、地獄絵のような世界が広がっていた。血の池があり、針の山があり、責苦に遭っているのは若者ばかりだった。「若者を救え。時代の中で若者は苦しんでいる」という声が聞こえてきた。神の声だった。「助けてくれ!」という若者の声がした。「どうしたら、若者を救えるか。知りたいか?」神の声がした。水越賀矢は、「知りたいです」と答えた。その瞬間、「よし!」という声とともに神が彼女の体に入った。彼女は目が覚めた。熱はすっかり下がっていた。夢だったのかと思った。しかし、夢ではないとすぐ彼女は思った。熱が下がったのも神の力だと思った。そして、布団から出ると寝巻き姿のまま右腕だけで一時間、逆立ちをした。
そこまで話を聞いた瀬上が言った。
「右腕で一時間、逆立ちをしたというのも、夢だったと思います。 水越賀矢さんが高熱にうなされて見た幻覚だと思います。まさか、杉原さん、その話を信じているんじゃないですよね? そのことを神がかりって言っているんだったら、それは、全部、高熱で見た幻覚のことだと思います。僕が、突然、死にたくなったこととも、特に関係はないですね」
そして、ちらりと杉原を見た。
そこで、杉原は言った。
「瀬上君も、さっき、君と先生の出会いと僕と先生の出会いの酷似を知ったよね。そして、賀矢先生の書き残したあの紙を見た。四年前にも、賀矢先生は、同じように未来の出来事を言い当てた、というより、預言したことがあるんだ」
「さっきと同じような預言を水越賀矢さんは、以前にも、やっているんですか?」
瀬上が少し興味を持った。杉原は話を続けた。
礼命会ダムドール支部は若者のための教会だった。水越賀矢は、勧誘活動により二十人の若者を入信させると言った。それを聞いた青沢礼命は、もっと多くの人数でもいいのではないかと言った。だが、水越賀矢は言った。「二十人の若者を集めて、どこまで自分の力だけでやれるのか試したい」と。青沢は、彼女の熱意を尊重することにした。水越賀矢と杉原と、もう一人の若者信者牧多の三人で若者の勧誘活動をすることになった。二十人という数は少ない。それだけに、勧誘は簡単に行えるように思われた。だが、彼女は、あるメモを杉原と牧多に見せた。そこには、勧誘を行う日付と時間と場所が細かく指定されていた。決められた日時に、二十カ所の場所を回るよう指定されていた。それぞれの場所での勧誘時間は、10分から20分。この短い時間で宗教の勧誘をするのである。絶望的なスケジュールだった。だが、何故か、一カ所で一人の信者が生まれた。それも、奇蹟的な若者信者の誕生ばかりだった。例えば、指定された公園は、その日の朝、雨が降っていた。公園には誰もいなかった。いないのが当たり前だった。ところが、犬の散歩をする女子学生が、突然、現われ、水越賀矢と会話を交わすと、入信を誓ったのだ。隣にいた杉原は、何か見えない力を感じざるを得なかった。大学にも何校か勧誘に行った。それに、交番の前でも勧誘をした。パチンコ屋の換金所の近くでも勧誘をした。深夜の居酒屋でも勧誘をした。何故、そんな場所で勧誘をしたのか杉原には分からない。水越賀矢に訊いても分からないと言うだろう。何故なら、彼女は神の声を聞いて、無心にメモをしただけだったからだ。彼は、このことを神がかりの事例として、瀬上に伝えた。
「それは凄い。偶然じゃない。杉原さん。水越賀矢さんは、本当に神がかりということなんですね?」
「神がかりは、神が乗り移った人とか、神の意志を伝える人のことを言うそうだ。賀矢先生はその夢を見てから、不思議な力を持つようになった。だから、神がかりって言っても差し支えないと僕は思うんだ」
杉原は、瀬上にそう説明した。
青沢礼命に説明されると、全く違う世界の話だとしか思えなかったことでも、杉原から聞くと瀬上は信じられるような気がした。青沢は、水越賀矢に関して、一定の警戒心を持たせるつもりで、瀬上に彼女の話をするつもりだった。それが、男子大学生が教会を訪れたことで中断した。杉原は後を引き継いだつもりで、彼女の話をした。でも、杉原は水越賀矢に好意的な話をした。瀬上も、彼女に好意的な印象を持った。逆の結果になった。その理由を考えると、青沢礼命は、水越賀矢が、突然、いなくなったことにより、病院を辞めなければならなくなった。つまり、彼は実害を被っている。自ずと、彼女の負の面を強調しようとした。対して、杉原は四年前の大学時代の思い出である。しかも、平凡な彼の学生時代の唯一の青春の記憶だった。思い出は美化される傾向にある。杉原の場合、青春の唯一の思い出である。美化される度合いは、更に強い。杉原が水越賀矢のことを語る限り、美しい物語になるのは必定であった。
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