第二章(示唆)
一.
杉原と瀬上が、ダムドールの入っていた店舗を見に来た。彼らは老朽化した建物を見て驚いた。そして、ひとしきり話をして帰った。彼らは気づかなかった。その時、店舗の二階の小さな窓が、ほんの少しだけ開いて、二人を見ていた人物がいたことを。その人物こそが、誰であろう水越賀矢だった。彼女は、昨夜、無断で店舗に入って、二階の部屋に隠れていたのだった。二階の窓から杉原の姿を見た瞬間、彼女は何か異変が起こったと思った。杉原がここを訪れていたのは四年も前のことである。しかも、彼は、『ダムドール』ではなく『礼命会ダムドール支部』に訪れていた。何か異変があったと考えて当然だった。杉原や青沢からすれば、水越賀矢が異変を起こしたということになっている。でも、もし、そうであったとしても、彼女にも何が起こったかまでは分からない。杉原や青沢は、彼女の力を過大に捉えている。あたかも、全能であるかのように。
彼女は、昨夜遅くに、店舗の裏のドアを開けて中に入った。鍵を壊したわけではない。鍵は前から壊れている。ドアノブを強く二、三回捻れば簡単に開くのだった。狭いとはいえ、暗い一階の店内を迷わず階段に辿り着き、彼女は二階の部屋に上がった。二階の部屋も店舗と同じで狭い。小さな台所にシャワー室とトイレ。そして、畳の間があるだけだった。四年振りに部屋に上がった彼女は、あまりの狭さに、よく十五年も、こんなところに住んでいたものだと我ながら思った。管理している不動産屋が、定期的に窓を開けて換気をしているはずだった。でも、この店舗には借り手など無いと、ほったらかしにされていた。そのため、すぐに窓を開けて部屋の空気を入れ換えた。商店街は七時を過ぎると真っ暗になる。街灯もない。彼女は倒れ込むように仰向けに横になった。畳から黴臭い匂いがした。彼女は丈の長いコートを羽織り、光沢のあるシャツを着ていた。幅の広いパンツにショートブーツを履いていた。身につけているものは全て黒で統一されていた。彼女は、以前から、黒い衣装を好んで着る。黒のライダースジャケット、黒のTシャツ、黒のジーンズなど日常的に黒いものを身につけている。でも、今日、黒で服装を統一しているのには違う意味があった。彼女は喪に服していた。彼女の母が亡くなったのだった。
彼女が、突然、姿を消したのは失踪したわけではなかった。半年前のある日の午後、彼女に病院から電話があった。知らない名前の病院だった。だが、しばらく考えて彼女は思い出した。この街に昔からある病院だった。ただ、あまりにも流行らない病院なので、既に閉院したと思っていた。立地条件が悪いわけでもないし、病院そのものに大きな問題があるわけでもない。問題は、この街に、大きな公立の総合病院と私立の総合病院が、次々と建てられたことにあった。街の人々は、皆、公立か私立どちらかの総合病院に行くようになった。元々、あまり流行っていなかったこの病院に患者がいなくなったのは当然だった。建物は古く、外来の診察を受ける際にも、入院患者の面会に行く際にも、病院の入り口で靴からスリッパに履き替えるような病院だった。その病院に母が入院したという電話だった。「主治医から大事なお話がありますので、できるだけ早く来院してください」。担当の看護師から電話でそう聞かされた時、彼女は、母の死が近いことを悟った。彼女は気が動転した。誰にもそのことを告げないまま、病院に向かった。それから、閉院したと思われているような病院で、彼女は母の看病だけに専念した。失踪したと思われても、やむを得ないことだった。
彼女の母は全身をガンにむしばまれ苦しみの中で死んでいった。母の最期は無惨だった。彼女は喪に服していたが、明日から、活動を再開する。本当は、ここで活動を再開したかった。でも、ここは周りに敵が多すぎる。だから、せめて母に祈りを捧げるために、彼女はここに来たのだった。暗い部屋の中、彼女は畳の上に仰向けになったままだった。天井の闇が無限に広がっているようだった。
彼女は体を起こすと、一階に降りた。鉄の階段をブーツの踵が踏むたび、カーンカーンという乾いた金属音が何もない店内に響いた。一階のコンクリートの床の上に立つと、彼女は、ようやくくつろぎを覚えた。十五年間、彼女の店があった場所である。ここだけが、彼女が心休まる場所だった。開店初日、MC5の「キック・アウト・ザ・ジャムズ」を大音量で店内に流していた。すると、乾物屋の店主が飛び込んできた。商店街中に音が漏れて大騒ぎになっていると言われた。しぶしぶ音量を下げた。それ以降も、周りからは、変わり者だと思われた。でも、気にならなかった。好き勝手にやれたのだから。あの頃が、一番楽しかったのかもしれない。彼女は、しばらく思い出に耽った。それから、三年前に父が死んだ時のことを思い出した。母から連絡があった。「もう危ないから会ってやってくれ」と言われた。彼女は断った。間もなくして父が死んだ。葬式にも出なかった。母と父の親族が数人しかいない葬式だったと母から言われた。それを聞いても、彼女は何も思わなかった。それより、改めて、母への大きな疑問が湧いた。あんな男と何故、ずっと一緒に暮らしてきたのか? 彼女が子どもの頃、母はよく言った。「あなたのためだから」。『私のためを思うのなら、今すぐに別れるべきだ』と幼心にも彼女は思った。彼女が家を出てからも、「そんなに簡単に別れられるものじゃないのよ」。そう言っていた。酒乱の気があった父は暴れることがあった。それでも、「そんなに簡単に別れられるものじゃないのよ」と母は言った。水越賀矢は、母のその言葉を聞くたび、吐き気のする思いがした。自堕落な父は母を頼り、母もそんな父を頼っていた。自立できていない者同士が、マイナスの支え合いをする。そして、お互いを嫌いつつ、同時に、お互いを必要としている矛盾した関係だった。「共依存」的な関係だったと彼女は思った。
彼女は両親のような生き方は絶対しないと思った。死んだ母については、内心、彼女の生き方を奴隷のようだと思っていた。父の奴隷ということではなかった。運命に対する奴隷ということであった。母は運命に一切、抗わなかった。彼女は母から学んだ。黙って耐えていても、物事は悪くなるだけだということを。母は最期に本当のことを言った。「私の人生は絶望だった」。母の葬儀には喪主として出席した。母の葬儀も、わずかな数の親族が集まっただけだった。忍従の母の人生も、酒と博打に終わった父と同じ結果だったように彼女には思われた。
暗闇の中、店の床のコンクリートを彼女は静かに屈んで、そっと右手で触った。とても冷たかった。長くは触っていられないほど冷たかった。
『この社会には、私の両親のような人間がとても多い。自立した人間などほとんどいない。馴れ合い、もたれ合い、そして、足の引っ張り合い。だから、自分が無い。漠然として停滞した人生。そして、その総体である漠然として停滞した社会。群れるな。一匹の狼であれ! 大人を矯正することはもう不可能だ。彼らは、馴れ合いの世界でしか生きられないように調教されている。若者を救わなければならない。私の中の神が、時代の中で苦しむ若者を救えと言ったのも、このことだ。私は、今こそ、神命を果たすため立ち上がる』
そして、夜が明けた。水越賀矢は、二階の窓の近くに座って、それとなく外の様子を窺っていた。今夜、商店街に人がいなくなってから、店舗を出るつもりでいた。そのため、昼の間は二階に隠れていた。午後になり、店舗の一階の辺りから話をする声が聞こえてきた。彼女は窓を少しだけ開けて下を見た。二人の若者がいた。一人は見覚えがあった。もう一人は男子高校生のようだが、見覚えはなかった。
「杉原君だ。スーツを着ている。隣の男の子は誰だろう? 弟かしら? いや、杉原君は、兄弟はいない。以前、彼の暗い家族関係を直接、彼から聞いたから覚えている。彼も父親のことで悩んでいた」
彼女は、それから、二人の話を聞いた。二階まで届く大声で話をしているのである。耳を澄ます必要もなかった。話の内容に驚かされた。何故か、杉原は、水越賀矢のことを隣の若者に語って聞かせていた。周りに人はいない。いたとしても、杉原の話を聞いて、誰も内容は理解できなかった。何故なら、彼は、大声で神がかりのことを話していたのだから。そのため、他人の存在を心配する必要はなかった。それより、水越賀矢が気になったのは、何故、この店舗の前で、二人が自分の話をしているのかということだった。彼らが、ここに訪れた経緯は具体的には分からない。だが、何かが起こったことは間違いない。
彼女は、二階の小さな窓をそっと閉めた。
「暗くなったら、私もすぐにここを出よう」
そう呟くと、彼女はそのまま動かずにいた。しばらくすると、窓の外から聞こえていた声が消えた。彼女は、細長い指でもう一度、窓をほんの少し開けた。下を見ると、杉原と隣にいた若者の姿はもうなかった。窓を閉めると、彼女は目を閉じた。じっと夜を待った。夜になり一階に降りた。そして、裏の出入口から外に出ると、素早く商店街を走り抜けた。彼女の姿は商店街を抜け出し夜の闇の中に消えていった。
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