第二章(示唆)2
二.
瀬上芯次は、特に理由もなく学校を休んで家にいた。父も母も仕事に出ているから、彼が学校を休んでいることは知らない。瀬上は誰もいないリビングのソファーに寝そべって、あの日のことを思い出していた。彼が車に跳ねられようとした日のことだった。あれから一週間になる。
「杉原さんは、良い人だけど、ちょっと変わった人だな」
瀬上は、杉原が、ダムドールの入っていた店舗を見た後、家まで車で送ってくれた時のことを思い出していた。
瀬上と一緒に、彼の家の前で車を降りた杉原は、瀬上の家を見て言った。
「僕は、便宜上、この街の住宅街を三つの階層に分類している。一つは高級住宅街。もう一つは貧困層住宅街。最後が中間層住宅街。僕は、一応、最後の層の住人に該当するけど、瀬上君も同じだね」
瀬上は、だから何が言いたいのだろうと続きを待った。でも、杉原は外回りの仕事に戻らないといけないからと言って、急いで車に乗って行ってしまった。
「普通が一番。だから、死のうなんて思わずに生きなさいって言うつもりだったのかな?」
瀬上はそう呟いた。そして、そう思うようにした。でも、本当は、杉原は、瀬上の家を見て、自分と同じ階層だと気づいた。だから、そのことが言いたかっただけのような気がした。
昼になったので、ソファーから起き上がり、台所にあったカップラーメンと菓子パンを食べた。午後になると家を出た。彼は学校を休むと、いつも目的なく街を歩く。今日もそうだった。一週間前の午後もそうだった。学校には、ほとんど行っていない。だから、ほぼ毎日、午後は散歩をしていた。B高校は悪い高校ではない。暴力を振るう教師もいない。いじめも無いとは言えないが、あまり無い。でも、瀬上は学校にいると、窒息しそうになる。何故かは分からないけど、学校にいると自分がダメになっていく気がする。だから、学校をサボって散歩をしているのだった。そして、一週間前のあの日、散歩の最中に、突然、死にたいという気持ちが湧いた。
彼の父と母は、二人ともこの街の市役所に勤める公務員だった。職場恋愛による結婚ではなく、彼の両親は学生時代から交際していた同級生だった。安定した人生を送るためにと、二人で相談し市役所の試験を受けて合格した。そして、市役所に勤めてから時期を見て結婚した。彼の両親は、計画性の高い人間だった。加えて、強い安定志向のため、二人は常に保身的であった。近所の人の噂話で、父と母のことをよく耳にする。市役所では貝のように黙っているらしい。現在、父は市民課、母は保険年金課に配属されているが、職場では仕事以外のことは何も話さない。昼休みに職員同士で世間話をしていても加わらない。父も母も、余計なことを言って問題を起こしたくないのだった。だからといって、出世したいのかといえば、それも違う。出世したいのならば、職場内でのコミュニケーションは積極的であるべきだ。父と母は出世も避けている。二人の信念は現状維持だった。そのために、徹底した事なかれ主義を貫いていた。
瀬上は、元々は、積極的で行動的な人間だった。小学校の頃は、学級委員長にも立候補して選ばれた。放課後、校庭で陽が暮れるまで友だちとサッカーをした。そういう子どもだった。そして、そういう活発な子どもであることを両親は嫌った。口頭で注意するわけではない。校庭で遊んで陽が暮れてから帰ると、嫌な顔をした。学級委員長になったことを喜んで報告した時は、父も母も黙殺した。瀬上は、次第に活発ではない子どもになっていった。子どもにとって、無言でも両親の意志というものはすぐに伝わるものである。否、無言の意志のほうが、子どもには敏感に伝わるのかもしれない。彼は両親の望む何もしない子どもにいつの間にか変わっていった。でも、人間の本質は変わるものではない。成長した彼は、抑圧された若者になった。つまり、本当の自分を押し殺して生きる若者になった。
瀬上は、青沢礼命から杉原と似ていると言われた時のことを思い出した。
『杉原さんと僕には決定的に違う何かがある。そして、僕にはそれが何か分かる。でも、僕は杉原さんのことを深く知らない。だから、憶測でものを言うようなことは控えよう。一つ確実に言えることは、杉原さんも単独行動型の人間だ。その点は僕と同じだ。群れないことは良いことだ』
瀬上は、そんなことを考えながら散歩をしていた。そして、立ち止まった。街中にある図書館の前まで来たのだ。彼は館内に入って、資料室に向かった。
街の図書館は、それほど大きくはない。瀬上が小さい頃は、隣に公園があって図書館の窓から木々と芝生の緑が見えた。その静かで美しい景観を街の人は愛していた。ところが、ある時、公園を壊して大きなビルが建った。外壁は濃いグレーで窓が小さく要塞のような印象を与える建物だった。ビルが建ったことで、公園の緑がなくなった上に、図書館に陽が差し込まなくなった。図書館は暗い影に覆われたようになった。そのため、来館者数も減った。瀬上は学校をサボっている時、よく図書館に来る。暇潰しのためだったが、それでも、彼は来館者数の減少に歯止めをかけている一人ではあった。
瀬上は資料室で宗教の本のある棚を見ていた。でも、資料室にある本は、学術研究書が中心で、彼の探している本はなかった。だから、資料室を出て、一般の書籍から探すことにした。静かなフロアーの隅に哲学書と並んで宗教関係の本があった。彼は目的の本を探した。すると、『最新版日本新興宗教一覧』という本があった。彼はその本を手に取った。最新版といっても、発行されたのが二十年前という場合もある。だから、確認すると、二年前に出たばかりの本だった。四人がけのテーブルについて、目次を見ると、かなり後ろのページに「宗教法人 礼命会」とあった。そのページをめくって見ると、「宗教法人礼命会 開祖青沢礼命 現教祖水越賀矢 設立年月日 所在地」という最低限の情報だけだが、確かにあった。瀬上は、この前、インターネットで礼命会を検索してみた。ホームページはあったのだが、この本と同じ最低限の情報しか載っていなかった。しかも、何の工夫もない殺風景なホームページを見ていて、礼命会とは偽の宗教団体ではないのかと疑った。だから、今、小さな扱いでも、宗教の本に礼命会が載っていることを知り、ようやく本物の宗教団体だと思った。確かに、丘の上の教会は立派な建物だった。だが、瀬上は、青沢という当事者の説明ではなく、第三者の手による客観的な情報が欲しかったのだ。彼にも、それだけ、宗教への強い疑念があった。
瀬上は、改めて、現教祖水越賀矢という文字を見ていた。
「水越賀矢。架空の人物ではなかった」
そう呟くと、彼はテーブルの上に置いてあるスマートフォンを手にした。そして、インターネットで、「ダムドール」を検索した。ホームページがあった。開くと真っ黒な画面の真ん中に、銀色でダムドールとあった。文字の下には小さな銀色の骸骨が五つ揺れていた。その下に、「お店は閉店しました。思いでの写真を掲載しています。よろしければご覧ください」とあった。photographをクリックした。
瀬上は、初めて水越賀矢を見た。彼女は黒い皮のジャンプスーツを着ていた。スキンヘッドで眉毛もなかった。おそらく店内で常連客が撮ったものだろう。
「この格好で街も歩いたのか。挑発的な人だ。いや、挑戦的というべきか」
青沢と杉原の話を聞いていた瀬上は、水越賀矢が青沢と同じ歳ぐらいだと推察していた。写真の彼女は、それよりかなり若い感じがした。
他にも、沢山、写真が掲載されていた。ドレッドヘアにしてレゲエスタイルで砂浜に立っている写真もあった。場所は日本ではないようだった。服装は瀬上には理解できないものばかりだったが、どの写真にも楽しげに笑っている彼女の姿があった。だが、その中で、一枚だけそうではない写真があった。商品も商品を置く棚もない空っぽの店内の前で、彼女が一人で写っている写真だった。彼女の頭上に『礼命会ダムドール支部』と書かれた看板が写っていた。それまでの水越賀矢とは違って狂気めいた感じのする笑顔だった。彼女は真っ黒なコートを着ていた。笑顔を浮かべる彼女の顔は真っ青だった。
彼は、写真の狂気めいた水越賀矢に強い関心を抱いた。
「この人はもう教会に帰って来たんだろうか?」
水越賀矢の狂気めいた笑顔に恐怖を覚えながらも、その中に秘められた強い力に彼は心惹かれた。
「この人に会えば、きっと僕の中の何かが変わる。今、この人はどこにいるのだろう?」
彼の思いに根拠はない。
だが、瀬上は直感的にそのことを感じ取った。瀬上芯次は写真の中の彼女を見つめながら、その思いが確信に変わっていくのを感じた。瀬上は子どもの頃と、今の自分が違うことには気がついていた。そして、それが、成長した結果によるものではないことも分かっていた。子どもの頃、活発な少年であっても、成長するに従い無気力な青年になることは、それほど珍しくないはずだ。でも、瀬上の場合、成長した結果と考えるには、今の自分に対して、強い違和感を覚えるのだった。瀬上は思った。この違和感は、外圧、つまり、両親の意志によりゆがめられた心のいびつさによるものだと。
だからこそ、瀬上は自分を変えたかった。あるいは、元の自分に戻すというべきか。だが、一人では無理だった。どうして、そうなったかは分かっても、どうすれば治るのかが分からないからだった。難しい病気のようだった。原因は分かるけど、治療方法が分からない。だからこそ、誰かの助けが必要だった。瀬上の心のゆがみを治せる誰かが現れるのを、彼はずっと心の中で待っていた。そして、今、その人物が現れた。写真の中にいる水越賀矢だった。時々、彼は、もう本当の自分は心の中から消えてなくなってしまったような気がする。そして、そう思う時、彼は言いようのない恐怖に襲われる。瀬上は彼女の力を借りて、本当の自分を取り戻したいと思った。
心の中で消えそうになっている本当の自分を……。
それが、彼の切なる願いだった。
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