第二章(示唆)3
三.
牧多賢治は、トレードマークのように着ていたライダースジャケットも、膝の破れたジーンズも身につけていなかった。彼は、今、左の胸元に「中華総菜 深々楼」と刺しゅうの入った水色のユニフォームを着ていた。ジャンパー型のユニフォームに合わせると、どうしても、スラックスタイプのズボンを穿かざるを得ない。牧多は、人生でまさかこんな格好をする日が訪れるとは思っていなかった。自ずと坊主頭もやめざるを得なくなった。今、彼は、おしゃれな感じの七三分けにして黒縁の伊達メガネをかけている。それが、今の彼ができる精一杯のおしゃれだった。社会的地位は、服装に大きな制約をかけるということを牧多は知った。彼は、『中華総菜 深々楼』の経理部長だった。
「賀矢先生には秘密にしてくれって言われたけど、他人がこの状況を見たら、俺がかくまってると思われる。杉原に相談しよう。あいつなら、先生も許してくれるだろう。ところで、杉原って、今、何の仕事をしてるんだろう?」
牧多は、流行らない実家の中華料理店『深々楼』を流行らせた。
同級生の父親がやっている大手スーパーチェーン店に中華総菜を卸す契約を取りつけ、一気に店の業績を上げたのだ。彼の兄と母、そして、従業員数人で総菜を作っていたのだが、中華料理店の厨房では狭くて作業がやり難い。従業員も増やしたい。そのため、昨年、郊外に工場を建てた。工場といっても、それほど大きな建物ではない。中華料理店としての営業に完全に見切りをつけて、総菜と弁当作りに業務を絞りたかった。それには、使わなくなったカウンターとテーブル席がいつまでもある古い店舗から移転したかったのだ。移転後、彼の兄と母は工場の近くのマンションに住んでいた。兄は一昨年、結婚したので妻と子どももいた。牧多は、以前から住んでいるマンションにそのまま住んでいた。古い店舗兼自宅は、いずれ売るにしても、今は忙しくてそのままになっている。空き家の状態であり管理は近くに住んでいる牧多がしていた。
ちょうど一週間前の夜遅くのことだった。仕事が終わって牧多がマンションに帰って来ると電話が鳴った。水越賀矢からだった。牧多は慌てて電話を取った。
「賀矢先生。今、どこですか? 教会からいなくなったって知り合いから聞きました」
礼命会は水越賀矢が代表に就任してから、彼女の努力により様々な年齢層の信者が入った。牧多も、知り合いの五十代の信者から聞いた。
「その話は後でするから、どこか寝泊まりできるところは無いかしら? 教会には、もう帰れないから」
事情は分からなかったが、とにかく、牧多は、車で水越賀矢を迎えに行った。彼女は小さな公園で待っていると言った。行ってみると、どこに彼女がいるのか分からなかった。声のするほうに近づくと、ようやく彼女がいることが分かった。真っ黒な衣装を着ているため、闇と同化していた。それから、彼女を車に乗せて走った。
「どうしたんですか? 突然、いなくなるなんて」
牧多は、彼女がげっそりと痩せていることに気づいた。
「教会の奥に、青沢先生の書斎があるのを知ってる? 教会を建てた当時は、青沢先生もそこで寝泊まりをしていた。ベッドも小さなキッチンもある。もちろんシャワーも。あの丘をバスで上って、毎日、教会に行くのって、結構、面倒なのよ。だから、先生は教会を建てて少ししてから、書斎だけ改築したんだと思う。私も最初は、借りていたマンションから、教会に通っていたんだけど、そのうち、面倒になってあそこに住むようになった。マンションも引き払った」
助手席で、それだけ喋ると彼女は黙ってしまった。
「それで、寝泊まりができる場所を探しているんですね。それは分かりました。ただ、肝心の何故、いなくなったのかと、どうして教会に帰れないのかを教えて欲しいんですが?」
牧多が訊いても、水越賀矢は黙ったままだった。答える気がないんだと彼は諦めた。そこで、
「今、実家の中華料理屋と奥の自宅が空いてるんです。そこなら、寝泊まりができます」
と、彼女に告げ、空き家になった自宅に向かった。
しばらく走って、ふと助手席を見ると、水越賀矢は眠っていた。街灯に照らされる彼女の顔は死人のように青白かった。
今、牧多は昼休みだった。工場の裏口を出たところにいた。食事を取りに行く従業員が出入りする。本当は電話で話したかったが、牧多は杉原にメールを送った。
杉原は喫茶店の奥の席で、オムライスを食べながら牧多が送ってきたメールを読んでいた。この喫茶店は、ビルの裏側にあり目立たない。静かに時間を過ごすのに適していた。彼は胃弱のため、今日も、昼食後にホットミルクを飲む。ブラックコーヒーは控えるようにしていた。牧多のメールには、水越賀矢のことが書かれていた。
「賀矢先生。戻って来たのか。でも、今、牧多の家にいる?」
杉原は牧多が古い中華料理店から工場に移ったことを知らないため、意味がよく分からなかった。でも、とにかく返事を送った。
「仕事を早く終わらせて、夕方にはそっちへ行く」
返信をもらった牧多も、杉原が今、何の仕事をしているか知らなかった。だが、とにかく店の前で待っていればいいと思った。
牧多は、ほっとして工場の中にある事務所に戻った。
杉原は牧多にメールを送ってから、しばらく考えた。牧多は、杉原がA銀行に勤めていることを知ったら驚くだろう。何故なら、牧多は、杉原が人づきあいが苦手で、大学生の時、わざわざ人との接点の少ないアルバイトをしていたことを知っているからだった。働き始めてから、杉原自身もよく考える。そして、改めて、分かったことがある。杉原は、人づきあいが苦手というより、横並びの人間関係が苦手だということだった。息苦しくなるし、手足を縛られているような気がする。それに比べると、外回りは一人で行動する分、息苦しさに襲われることがない。だからといって、外回りが楽だということではない。ただ、絶えず左右を見て、自分だけ列から飛び出してはいないか。そのことを確認しなければならない面倒くささに比べれば、遥かに気軽に思えた。銀行の内勤業務で窒息しそうになった自分を外回りで回復させている。杉原はそんな風に毎日を乗り切っていた。
夕方になった。牧多は急いで仕事を終わらせた。工場から店まで車で十分ぐらいだから六時前には、店の駐車場にいた。少しすると、駐車場に白のライトバンがゆっくりとまった。中からスーツ姿の杉原が降りて来た。
「営業の仕事してるのか?」
「A銀行に勤めてるんだ」
杉原が銀行員になったと聞いて、やはり、牧多は驚いた。
杉原は「お前の七三分けにも驚いたよ」と言った。
牧多は苦笑いした。そして、杉原を連れて店に入った。
杉原は、牧多の店に入ったのは初めてだった。店内の広さは、個人営業の飲食店として平均的なものだった。スーパー向けの総菜業務一本に絞ってから、中華料理店として営業していないことは知っていた。とはいえ、厨房は総菜を作るのに毎日忙しいはずだった。それが、厨房も稼働していないのが分かった。牧多に訊くと、
「郊外に小さな工場を建てて移転したんだ」
と答えた。
そして、二人で窓際のテーブル席に座った。かつては朱色だった壁も天井も色褪せてしまっていた。天井のしみが目立った。陽が暮れて窓から街の灯りが遠くに見えた。深々楼は繁華街から少し外れたところにあったが、決して、悪い場所ではなかった。牧多の父が商売下手な人でなければ流行っていただろうと杉原は思った。
「昔、杉原にも話したけど、親父が死んで俺は喜んだ。でも、今、考えると、あんまり親父が商売下手だったことに、ずっと苛立ちを感じてたんだと思う。親父が死んだから喜んだっていうより、苛立ちから解放されてすっきりしたんだと思う」
二人で話をしている中で、牧多は、昔の自分のことに触れた。杉原は、彼は大人になったと思った。
それから、牧多が、水越賀矢のことについて、手短に説明した。牧多は、彼女がいなくなったことは知り合いから聞いて既に知っていたということだった。そして、彼女から一週間前の夜遅くに連絡があって迎えに行った。寝泊まりするところがないと言うので、空き家になっているこの家を使うよう勧めた。何故、突然、いなくなったのかということについて彼女はその理由を言わない。加えて、彼女はもう教会には戻れなくなったと言うのだが、その理由も言わないと牧多は言った。
杉原は、牧多に、先日の瀬上のことを話した。四年前の杉原と、その日の瀬上の奇妙な符号-デジャヴ的-を話した。そして、その時、再会した青沢礼命から水越賀矢が教会に書き残していった「既視感」という言葉を見せられた。そこに、彼女の不思議な力が働いているのではないかと思ったと話した。
すると、牧多が呟いた。
「いなくなったことも謎、いなくなっていた間にも、また別の謎が生まれてた。謎だらけだ」
杉原も、牧多の話を聞いて、確かに、分からないことばかりだと思った。明解に答えが出ていることが一つもなかった。
その時、静かに店の奥から水越賀矢が現れた。居間かどこかで休んでいたのだろう。彼女は牧多の家に寝泊まりさせてもらっている。だから、奥から現れても驚くことではなかった。しかし、杉原は驚いた。彼女は黒いセーターを着て、黒の細身のパンツを穿いていた。そして、牧多の家族が使っていたピンク色の古いサンダルを履いていた。サンダルはゴムが乾いてひび割れていた。彼女は以前より、髪が長くなっていた。
「杉原君。お久しぶりです。元気そうで何よりです」
「ご無沙汰しています。賀矢先生こそお元気そうで何よりです」
水越賀矢は、背広姿の杉原に驚いた。A銀行に勤めていることを伝えると、更に、驚いたようだった。
彼女は、二人が座るテーブルの近くまで来た。
そして、牧多に向かって言った。
「突然で申し訳ないけど、牧多君、あなたに、お願いがあるの。是非、この場所を教団施設として使わせて欲しい。私が新しく立ち上げる教団の施設として。この店舗には、ダムドールにも勝るとも劣らない味わい深さがある」
水越賀矢は真剣だった。だが、突然のその申し出にも、
「それより、本部に戻って青沢先生と一緒に教団の仕事をするべきだと思います。青沢先生は病院を辞めて戻ってきたんです。そのことを考えてください。それに俺も、まだ、突然、賀矢先生がいなくなった理由を教えてもらっていません」
と、牧多は冷静に答えた。
そして、次に、彼は真顔でこう尋ねた。
「先生。それに、この建物を本当に教団施設に使うつもりですか? 新しい教団の運気が落ちますよ」
杉原には、牧多が言いたいことが分かった。杉原は、今日、初めて、深々楼を訪れたのだが、まだら模様の外観に驚いた。店を建てた時には、外壁は全て朱色に塗られていたようだった。だが、今は、朱色の部分と色落ちした白っぽい部分と、更に、黒ずんだ部分が混在する、まだら模様になっていた。杉原はまだら模様の外壁を見て、イモリの赤い腹を思い浮かべた。瓦も薄茶色になってしまっているが、元々は黄金色だったようだ。新築した当時は、鮮やかな中華料理店だったのだろう。でも、今は、全く違うものに変化してしまっていた。
すると、水越賀矢は言った。
「輝く花は器を選ばない。それに、このお店は素敵な外観、素敵な器です」
「店を建てた時、親父は自分が口下手だから、せめて店の外観を派手にして目立とうとしたんです。そして、無理をした結果がこれです」
牧多はそんな話をした。
すると、水越賀矢が突然言った。
「青沢先生には本当に申し訳ないと思っています。病院まで辞めさせてしまいました。それに、私もできれば教会に戻りたいのです。 でも、それはもう無理なのです。私は、私の神に従い若者たちのために生きなければならなくなりました。礼命会は既に成熟した宗教団体です。つまり、大人たちのための宗教です。安定はしているけど、若者の期待に応える柔軟性がない。だから、若者信者が集まらない。このことは四年代表を務めた私だからこそ分かります。若者のために新しい教団の設立が必要なのです。そして、礼命会は、私にとっては仮の宿でした。『双頭の神』は、いつかは、解消されなければならない宿命にありました。今、その時が訪れました。これは、神命であると同時に、宿命なのです」
礼命会に若者信者が集まらない理由については、彼女が言う通り、彼女にしか分からないことだった。だが、『双頭の神』にはいつか終止符を打つ時が訪れるということは、杉原も牧多も感じていたことだった。でも、もっと先のことだと思っていた。けれども、彼女の訴えは切実だった。礼命会に戻るのはもう不可能だということが伝わってきた。
しばらくの沈黙の後、牧多が静かに彼女に言った。
「『双頭の神』にいつか終わりが来ることは、青沢先生も分かっています。でも、現実に終わりにするのは、賀矢先生です。仮の宿から巣立つのは賀矢先生だからです。そして、それは、悲しいことでもあります。だからこそ、賀矢先生から青沢先生に、そのことを正直に伝えなければならないと思います。その瞬間、青沢先生が感じる心の痛みを、賀矢先生も感じなければならないからです。何かを終わりにするということはそういうことだと思います」
牧多の話を聞いた水越賀矢が、彼の顔を見つめながら言った。
「私の店に、あなたが初めて来た時のことを今でも覚えています。十年前。あなたは十五歳だった。自分で脱色した金色の髪を、私にも自慢していた、生意気で、元気のいいパンクスだった。それが、まさか、こんなに大人になっていたなんて……」
牧多の話を聞いて杉原も思った。会わなかった四年の間に、牧多は大人になった。杉原よりも遥かに大人になった。杉原は、牧多に引き離されたというような、そんな焦りはなかった。それよりも、彼と出会ったあの頃が、遠くなった気がした。彼はそのことを思うと、少し寂しい気がした。
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