第一章(歳月)3
三.
青沢礼命が大学病院を辞めるまでの経緯を話した。すると、杉原が立ち上がり、「ここからの話は僕がします」と言った。それを聞いて、青沢は驚いた。だが、杉原は青沢の話を聞いていて気づいたのだ。彼も、礼命会での不思議な体験を、ずっと誰かに話したかったのだということに。彼も、礼命会との八カ月の関わりの中での不思議な体験を、ずっと誰かに話したかった。でも、その機会がなかった。何よりも、この不思議な体験を話せる相手がいなかった。だが、瀬上になら話すことができる。彼は青沢に代わって前に立ち、話し始めた。青沢は瀬上の隣に座った。杉原が二人に説教をしているようにも見えた。
青沢は医者を辞めてから、半ばヤケになって、街頭で演説をした。自分の感じている無力感を訴えた。その時、彼はこんな事例を挙げた。
「世界中の飢えた子どもは、一体、いつになったら、救われるんだ? 世界中で勃発している紛争は、いつになったら、収まるんだ? ずっと解決しないじゃないか? 幸せに浸りきって、毎日をぬくぬくと暮らしている我々には、果たして責任はないのか?」
道ゆく人々は、青沢の訴えに一定の共感と後ろめたさは感じても、足を止めてまで話を聞くことはなかった。もし、責任があったとしても、私たちには、何もできないじゃないか、そう思いつつその場を通り過ぎて行った。そして、その何もできない無力感こそが、青沢の訴えであり、結局、全ては堂々巡りで終わると彼ですら思っていた。だが、ある特定の人々が、彼の訴えに強く反応した。それが、高齢富裕層の人々だった。
青沢の言葉は、満ち足りたまま人生を終える高齢富裕層の人々に、罪悪感を抱かせた。そして、罪悪感を抱いたことで、彼らは自分の心にまだ良心が残っていることを確認できた。青沢礼命の言葉は、高齢富裕層にとって、心地よい痛みであり、安穏とした最後半の人生への適度なスパイスだった。彼らは過度に罪悪感を抱くことは望んでいなかったし、過度な良心も要らなかった。大事なのは、適度なことであり、それには青沢の言葉が、ぴったりだった。そして、瞬く間に、礼命会には高齢富裕層信者が集まり、丘の上に教会を建てるまでになった。青沢が、医者を辞めて宗教家に転身したのが、今から、十四年前のことだ。それから、わずか二年で教会を建設し、宗教法人礼命会が設立された。杉原が実際に知っているのは、四年前の教団のことになる。当時の信者数は約百人で青沢は教団を大きくするつもりはなかったから、信者は、ほぼ全てこの街の高齢富裕層だった。
杉原は目の前に座る青沢を見た。
「ありがとう。杉原君が、この教団のことを今も、それほど正確に覚えてくれていて嬉しいよ。もう四年も前のことになるのに」
青沢は、感慨深げにそう言った。
瀬上は、青沢と杉原の顔を交互に見ながら言った。
「僕は宗教のことについては分からないのですが、それでも、礼命会が順調に発展した教団だと分かりました。ただ、お話を聞いていて疑問に思ったことがあります。礼命会は、お金持ちの高齢者の宗教団体だと思います。だとすると、僕は礼命会に関係があるとは思えないのですが? 僕は平凡なサラリーマン家庭に生まれ育った高校生です。つまり、庶民の若者です。礼命会と接点があるとは思えないのです」
杉原は青沢を見た。彼は、形見の腕時計を見て言った。
「今、三時を過ぎたところです。私が長く話し過ぎたため、杉原君がコンパクトに話をまとめてくれました。だから、一時間ほどで礼命会の成り立ちを話すことができました。ただ、本題は、ここからです。瀬上君が抱いた疑問は礼命会の長年の課題でもあります。つまり、若者信者がいないことです。そして、私は二代目教祖である水越賀矢先生に、若者が入会できる礼命会にしてくださいとお願いしました。彼女なら、できると信じていました。でも、半年前に彼女はいなくなってしまいました」
「青沢先生。僕には、その水越賀矢という人も含めて、礼命会との接点があるとは思えないんですが?」
瀬上が言った。
「確かにそう思うでしょうね。そこで、瀬上君と杉原君に、先ほど言ったように、見てもらいたいものがあります」
青沢は立ち上がり、杉原の隣を通り抜けて、握り手様の置かれた台座のところまで行った。そして、台座の上にある一枚の紙を手に取った。瀬上は椅子から立ち上がり、杉原と並んだ。そこに、青沢が戻って来た。右手には白い紙が持たれていた。青沢はその紙を杉原に手渡した。
「既視感」
真っ白な紙に書かれたその達筆な文字を見て、彼は、水越賀矢の字だとすぐに分かった。
「この既視感という言葉は、賀矢先生が書いたものですね?」
「おそらく、いなくなる直前に書いたものだと思う」
杉原の問いに青沢は答えた。
それから、青沢は瀬上に説明した。
四年前の杉原と青沢の出会いと、今日の瀬上と青沢の出会いの酷似。しかも、今日、その場に杉原までいたこと。正確には、デジャヴ-既視感-ではなくても、水越賀矢は、今日のあの瞬間を預言したのかもしれない。彼女には理屈では説明できない不思議な力があるからだ。青沢はそう力説した。
瀬上は力説する青沢の顔を見ながら、内心、困惑していた。青沢や杉原の言っていることは事実だろう。嘘を言っていないのも分かる。ただ、それより、たった今、自殺未遂をした自分のことを心配するのが普通じゃないのかと思った。確かに、先ほどからの話も、瀬上の身を心配して話しているようなのだが、やはり、自分に関係のある話とは思えなかった。だが、青沢に助けてもらった手前、そのことが言えなかった。
その時だった。教会の扉が勢いよく開いた。そして、背の高い青年が立っていた。
「青沢先生。人は何故、生きるのですか? 僕は何故、生まれてきたのですか? 僕の生きる意味とは何なのでしょうか?」
青年はいきなりそう言った。
杉原と瀬上は驚いたが、青沢礼命は静かに微笑んだ。
「大隅君。バスで来たのかい?」
「いえ。バスが来るのが遅いので、バス停から、教会まで走ってきました」
「丘の上まで走って来た? 驚いたよ。素晴らしい体力だ。でも、喉が渇いただろ? 面談室で休憩しよう。飲み物もある。それから、少し大学生活について話そうか。いいね?」
「はい。何か飲ませてもらえると有り難いです」
大隅がそう答えると、青沢は彼を連れて面談室に向かった。
そして、杉原のほうを振りかえって、「瀬上君を車で送って欲しんだ。杉原君は車の運転ができるよね?」と訊いた。杉原が頷くと、「車の鍵を取りに一緒に来てくれ」と言った。それから、青沢は瀬上に、「今日は話が途中で終わってしまったけど、今度は、瀬上君のことを聞かせて欲しい。いつでも、教会に来てください」と言った。瀬上は頷いた。杉原は青沢と一緒に鍵を取りに行った。教会の廊下を曲がる手前に置いてある棚の引き出しから、青沢は車の鍵を取り出し、杉原に渡した。そして、青沢と大隅は廊下を曲がって、面談室に行った。面談室は教祖と信者が一対一で話し合いをする時に使う部屋なのだが、その他にも利用することの多い部屋だった。杉原も面談室で青沢礼命と話をしたことがある。その時は、水越賀矢も牧多も一緒だった。杉原は、念のため、少し待ってから、面談室の傍まで行った。中からは大隅の話し声が聞こえてきた。特に大きな声でもなく普通のトーンで話していた。よく分からないが、もう落ち着いたのだろうと杉原は思った。そして、瀬上のところに戻った。それから、二人で教会を出て、青沢に言われた通り、瀬上を車に乗せて彼の家に向かった。
後日、杉原は、大隅という大学生が突然、教会を訪れたことについて、青沢から電話で説明を受けた。大隅は、時々、思い詰めると、ああいう状態になってしまう。そんな時に、教会に話をしに来る、ということだった。そして、今、彼以外にも教会に若者が訪れるようになった。これこそが、水越賀矢の教団代表としての実績なのだと青沢は言った。彼女は、二代目代表に就任すると、青沢礼命と約束した通り、すぐに若者信者の勧誘活動を開始した。実際には、高齢富裕層以外の全ての人を対象に勧誘活動を開始した。礼命会の信者は高齢富裕層ばかりという偏りがある。この偏りを是正するには、若者に限らず、全ての世代の信者の獲得が必要だった。勧誘活動は街に出てビラを配るというオーソドックスな方法だった。彼女は元洋服店の店主として、対面で手渡しをすることの重要性―効果を知っていた。宗教の勧誘であれば、その重要性はより増すはずだ。彼女の努力によって、富裕層以外の平均的な高齢者も入信した。これまでいなかった三十代から五十代の年齢層も入信した。だが、十代から二十代の若者層の信者は未だにいないままだった。勧誘活動をしていて、礼命会という名前を知っていて警戒せずに話を聞いてくれる年齢層は、四十代以上だった。だから、若者に礼命会が浸透していないことが、若者が入信しない大きな原因だと彼女は考えた。そのために、彼女は、若者向けの悩み相談を始めた。その当時、精神病院に勤務していた青沢礼命にも、悩み相談を開設することを彼女は書面で伝え了解を得た。それから、徐々に教会を訪れる若者は増え、一年半が経った。だが、残念な事に、相談に訪れる若者はいるのだが、彼らは、礼命会に入信する気はなかった。水越賀矢にも、代表に復帰した青沢礼命にも、同じジレンマがあった。若者の中には、悩みを聞いてもらうことで十分に満足している者が少なからずいた。だから、わざわざ入信までしなくてもいいと思ってしまうのだった。杉原も、話を聞いていて、それでは永遠に若者層が入信することはないのではないかと思った。それから、ふと彼は考えた。若者は、今、目の前にあることだけで精一杯なのではないか? 入信して自分の一生の幸せを願うことなどできないのではないか? 何故なら、若者には、今、この瞬間のことしか考える余裕がないからだ。自分も若者層の一人として、杉原はそんなことを考えた。でも、青沢にはそのことは話さず、彼は静かに電話を切った。
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