第一章(歳月)2

二.

青沢礼命こと、本名青沢紀秋は金持ちの家に生まれた。彼の父が、同族経営の会社の社長だった。父が祖父の跡を継いで以降、更に会社の業績は上がった。経営手腕が優れていたからだった。また、性格も温和で安定した申し分のない人物だった。彼には兄がいた。兄は優秀なG大学の経済学部に在学していた。彼もG大学の経済学部を目指して勉強していた。中高一貫の進学校に通い、G大学を目指す彼はエリートだった。彼はG大学の経済学部を卒業したら、父の会社に入社して、兄とともに更に会社を発展させる目標を持っていた。親族の誰もが幸せだった。父のお陰だった。そして、誰よりも、父が幸せなはずだった。だが、紀秋が高校二年の時、父は、突然、首を吊って死んだ。彼の誕生日の三日前のことだった。遺書は探しても見つからなかった。代わりに、紀秋の誕生日プレゼントが、父の書斎の机の引き出しから見つかった。以前から、彼が欲しいと言っていた高価な腕時計だった。ただ、父が、腕時計を彼に形見として遺したとは思えなかった。兄にも母にも何も遺していないのに、彼にだけ特別に形見を遺したはずはない。彼の父は等しく優しい人だった。だが、そう考えると、彼は余計に混乱した。父は、誕生日に、プレゼントの腕時計を彼に渡すために、あらかじめ用意していた。それなのに、誕生日の三日前に、遺書も遺さず衝動的に自殺したのか? だとしたら、父が衝動的に命を絶つ理由は? 父の人生は誰よりも幸せだったはずではないのか? 青沢は、父の自殺に遭遇して、人が生きることの意味が分からなくなった。だからこそ、父の自殺の謎をどうしても解明したいと思った。そのため、彼はG大学の経済学部から医学部に進路を変更し、精神科医になりたいと親族に申し出た。彼の話を聞いた親族は、彼の願いを許した。

 

杉原は青沢の左腕を見た。彼は、今も形見として、腕時計を左腕にしている。杉原にはどれくらいの価値があるのか分からないが、とてもシックな時計だ。そして、杉原は、就職する時に買った安物の腕時計を見た。青沢の腕時計と違い実用性のみを重視したものだ。二時四十分だった。青沢が話を始めたのが、二時十分だったので、ちょうど三十分経った。彼は外回りに出るようになってから、頻繁に腕時計を見るようになった。

青沢も、時間のことに気づいた。

「ここまで話すだけに、半時間かかった。これでは、礼命会の成り立ちから、その後のことまで話すのに、明日の朝までかかってしまう。詳しく話し過ぎたかな」

 

瀬上は言った。

「そんなことはありません。青沢先生が、僕を必死になって説得してくれた理由が、お父さんの自殺にあると知って、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。でも、先生のお話を聞いているうちに思いました。先生のお父さんが、幸せな人生だったはずなのに、突然、命を絶ったこと。それと、僕が、特に何かに苦悩しているわけでもないのに、突然、死のうとしたこと。そこに共通した何かがあるのかもしれないと思いました」

杉原は青沢に言った。

「僕も何か意味があるような気がするんですが?」

すると、青沢はこう答えた。

「まだ、そのことを考えるのはやめよう。瀬上君は、先ほどの極度の緊張状態から解放されたばかりた。だから、今の心理状態で何かを判断するのは難しい。今は、私が礼命会のことについて話すから、まずその話を聞いて欲しい」

二人は青沢の話に納得した。

 

青沢紀秋は、G大学の医学部を卒業して大学病院の精神科に勤めた。臨床医として実績を上げて出世したいという医師もいたが、彼は臨床を通じて、「父の自死の謎」を解明したいと思っていた。ある日のことだった。Uという男性が、民間病院からG大学病院へ転医してきた。治療経過が良くないため、大学病院での入院治療のため転医してきた。主治医になった彼は、初めての診察でUを見て驚いた。自殺した父にそっくりだった。容姿以上に雰囲気が似ていたのだが、彼はUに会うたびに死んだ父に再会しているような気になった。Uの病気は、それ自体は深刻なものではなかった。大学ではチームを組んでUの治療にあたった。病状は改善し、Uに退院の目処が立った。そのことで、青沢は抱えていた心の重荷が軽くなった。彼は精神科医としてのキャリアを積むにつれ、父の死に対して、自責の念を抱くようになった。本来、彼が自責の念を抱くことはなかった。父が自殺をした当時、高校生の彼に何もできなかったのは当然のことだった。周りの親族でさえ、突然、首を吊った父に何の予兆も感じ取ることができなかったのだから。だが、青沢は精神医学に習熟するにつれ、今の自分だったら、あの時の父を救えたかもしれないという思いに襲われるようになった。現実には不可能なことだ。そのことは分かっていたが、彼は自分を責めずにはいられなかった。それほど、父の死が彼の心に深い傷を負わせていたのだった。それだけに、父に似たUの病状の回復は彼の心を明るくした。退院の日が訪れた。デイルームで妻と一緒にいるUのところに青沢が会いにいくと、Uは「先生と私の強い信頼関係があったから私は良くなりました」と言った。そして、妻から借りた手帳にボールペンで描いた絵を青沢に渡した。手と手を強く握り合わせた絵だった。その後、実際に、二人は強く握手をして、Uは退院した。

 

青沢の話のその部分を聞いた瀬上が尋ねた。

「ひょっとして、その絵とは、そこに置いてある絵のことですか?」

「瀬上君の言う通り、礼命会の御神体である握り手様は、Uさんが描いた絵なんだ」

青沢は、改めて、握り手様を見ながら言った。

「青沢先生が治療した患者さんの絵が御神体なんですか? Uさんに霊的な力でもあったのでしょうか? あるいは、その絵自体にご利益があるとか?」

瀬上は尋ねた。

青沢は、「そのことは、この後、説明します」と言った。

 

Uは退院して三日後に死んだ。青沢の父と同じく自宅で首を吊って自殺した。青沢は主治医としての責任を取って大学病院を辞めた。そして、医者も辞めた。だが、当時の彼は、診断の誤りの責任を取って辞職したなどとは考えてはいなかった。彼は全く違うことを考えていた。神の存在だった。『父が自ら命を絶った当時、高校生だったから、私は父を救えなかった。だが、精神科医になって研鑽を積んでいる今の私なら、父を救えたと私は考えている。でも、それは本当なのか? 医者の傲慢ではないのか? それを見極めるために、神は、父に似たUさんを私の前に使わせたのだ。Uさんは、もう一人の父だった。そして、Uさんを救えた時にこそ、私は父を救えたことが証明されたのだ。神の審判だった。だが、私は、Uさんを救えなかった』。彼は医者を辞め、宗教家に転じた。

 

四年ぶりに聞いた青沢礼命の話の核心は、より明確になっていた。つまり、神の存在とは青沢の思い込みではないかということだ。

そして、青沢自身が言った。

「久しぶりに、この話を聞いた杉原君も、初めてこの話を聞いた瀬上君も、私が、私の思い込みで医者を辞めて宗教家に転身したことが分かったと思います。でも、それだけ、父の死に私は衝撃を受け、その後も悩んでいたということなのです。何故なら、神の存在など考えたこともない私が、あの時、生まれて初めて、神の存在を感じたからです。あの時の私は、神の存在を感じるほど極限状態にあったということです」

瀬上が言った。

「確かに、青沢先生自身の強い思いを感じます。ただ、それ以上に、先生の亡くなったお父さんとそっくりなUさんという人が入院してきて、しかも、退院してすぐ、先生のお父さんと同じ方法で命を絶ったというのは、そこに意味があるようで怖い気がします」

「私も、当時、同じことを思いました。でも、私は精神科医として、医学的に全てを分析しなければならなかった。父と似たUさんが入院してきたのは、あくまでも、偶然であった。そして、Uさんが、退院後、自ら命を絶ったことは、私の医者としての未熟さであり、本当は、退院できるほどには、まだ回復していなかった。それらのことを冷静に分析した上で、私は、その後の対応を決めなければならなかった。それなのに、すぐに大学病院を辞めたこと、更には、医者まで辞めたことは、あまりにも無責任でした」

杉原は青沢に言った。

「僕だって、当事者として、先生と同じ経験をしたら、冷静に医学的な分析ができる自信はありません。だから、過度にその頃の自分を責めないでください。仕方がなかったんだと思います」

それを聞いて、青沢は微笑んだ。

「四年の歳月が流れて、杉原君は大人になったね」


青沢に言われて、杉原は思った。大人になったのだとしたら、心のうちを、僅かだが、言葉にできるようになったことだと。四年前だって同じことを思っていたのだ。でも、何故か、それを言葉にすることができなかった。その変化が、自分がほんの少しでも大人になったという表れかもしれないと思った。

 

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