第一章(歳月)
一.
青沢礼命の運転するワゴン車は、午後の市街地を走っていた。道は空いていた。車窓に映る風景は次々と変わっていった。青沢は助手席に座る瀬上芯次に話しかけていた。車に跳ねられて自ら命を絶とうとしたばかりの瀬上に対して、青沢は、彼を刺激しないように静かに話しかけていた。杉原は後部座席で、青沢礼命の慎重な話し方を聞いていた。青沢は、教団を辞めて、自死予防に力を入れている精神病院に勤めていた。そこでの経験が生かされていると思った。でも、同時に疑問が湧いた。青沢は自分で立ち上げた礼命会の教祖を引退してまで、その精神病院に勤めたのである。それなのに、病院を辞めてしまったのだろうか? そして、再び礼命会の代表をしているのだとしたら、青沢は一体何のために、病院に勤めたのだろう? もしかしたら、青沢は、病院を辞めたくて辞めたわけではないのではないのか? 状況が分からない現時点で考えられるのは、青沢礼命が、教団を託した二代目教祖水越賀矢に何かがあった。そのために、青沢は教団に帰って来ざるを得なかったのではないか? 大きな可能性として考えられるのは病気だろう。彼女が病気で教祖を続けられなくなったということだ。もしかしたら、入院しているのかもしれない。治療に時間のかかる病気のため退院できない。そう考えると、青沢礼命が教団に戻ったことに説明がつく。
杉原は、自分の考えに没入することがあった。
この時が、そうだった。
「杉原君? どうした? 急に黙り込んで。瀬上君も心配している」
杉原は青沢の声にようやく気づいた。バックミラー越しに青沢が杉原を見ていた。既に何度も、呼ばれていたようだった。
我に返った杉原は、バックミラーに映る青沢の顔を見た。すると、助手席の瀬上が振り返った。
「杉原さん。僕は瀬上芯次といいます。B高校の二年生です。もしかしたら、杉原さんは、さっき僕が車道に飛び込もうとした場面を見て、ショックで気分が悪くなっているのではないでしょうか?」
憔悴した表情で瀬上が訊いた。
「そんなことないよ。確かに驚いたけど、大丈夫。それより、僕も自己紹介をするよ。僕は杉原和志。A銀行に勤めている。さっきは、外回りの途中で、あの場面に遭遇したんだ」
杉原は瀬上に笑顔で言った。憔悴した表情の瀬上に笑顔を見せてやりたいと思った。それから、まだ、瀬上が自殺をしようとしたことに関しては何も訊かないようにした。青沢もまだそのことには触れていなかった。
その時、杉原はふと思い出した。そして、瀬上に尋ねた。
「青沢先生が、君と僕たちは話をすべきだと言った時、僕を見て、先生の説得に応じた気がしたんだけど、だとしたら、僕の何を見て決めたの?」
すると、瀬上は杉原の問いに気まずい様子で、こう答えた。
「杉原さんを見て、こんなに人の良さそうな顔をした人が在籍していた宗教団体の教祖なら、話をしても大丈夫だと思ったんです」
それを聞いて、杉原は言葉に詰まった。
青沢は車を運転しながら思わず笑った。
「杉原君。笑って、すまない。でも、意地悪な顔をした人だと思われたんじゃないから、悪いことじゃない。それと、今、君は銀行に勤めているのか? A銀行は堅実な銀行だけど、君が銀行に勤めるなんて思わなかった。窮屈なんじゃない?」
杉原は、青沢の感想はどうも皮肉っぽい気がした。すると、瀬上がほんの少しだが笑っているのが分かった。杉原は青沢の感想をそのまま受け入れることにした。杉原は車の窓の外を見た。ワゴン車が坂道を上っていた。彼は、車が丘の上にある礼命会の教会に向かっていることに気づいた。話をしている間に、車は市街地を通り抜けていた。そして、丘の上に向かっていた。
この小さな街には丘がある。礼命会の教会が建つ前は、丘の上にはゴルフ場しかなかった。だから、ゴルフをしない人は、丘に上ることはなかった。彼も、彼の両親もゴルフをしないので、丘に上ったことがなかった。杉原が、丘に上ったのは、胃痛で倒れているところを青沢礼命に助けられ、そのまま、このワゴン車で教会に訪れた四年前のあの日が初めてだった。
坂道を上る車の中で杉原は思い出していた。当時の礼命会は、高齢富裕層ばかりを信者として集めていた拝金主義の宗教団体だった。杉原は青沢礼命に出会ったその日に入信することになったのだが、その際、参加した集会の最後に、高齢富裕層信者が、教会に設置された大きな木箱に、寄附として札束をボンボンと放り込んでいくのを見て驚いた記憶がある。そういう教団だった。若者信者は二人しかいなかった。杉原ともう一人、同い年だが、中学生の時から礼命会に入っていた杉原より遥かに信者歴の長い牧多という男だった。坊主頭にライダースジャケットを着て、黒のスリムジーンズにハイカットスニーカーを履いたパンク青年だった。背も高いし、一見、恐そうな印象を与えたが、実際は、頭の切れる青年だった。杉原ともよく気が合った。後に、彼は兄の経営する中華料理店で経理として働き始め、お互い忙しくなり、疎遠になった。だから、今、牧多がどうしているか杉原は知らない。そして、牧多の行きつけのパンクファッション専門店の店長が、礼命会二代目教祖になった水越賀矢だった。杉原の礼命会での活動は僅か八ヶ月しかない。その僅かの期間、青沢礼命を始め、杉原も、牧多も、水越賀矢に振り回され続けた。彼女が、教祖青沢礼命に無断で行った、あることが地元の新聞にまで取り上げられたのだ。杉原は生まれて初めて、記者から取材を受けた。あんな経験は二度とご免だ。場合によっては、警察沙汰にまでなりかけたのだ。そもそも、水越賀矢は、神がかりと呼ばれる半神的な人物だった。だから、自身の宗教団体を立ち上げるべきだった。でも、彼女は礼命会に入った。事態が収束してから、そのことを、青沢礼命は、水越賀矢にこう言った。礼命会という一つの宗教に二つの神がいるのは、『双頭の神』という異形の状態だと。にもかかわらず、青沢が、水越賀矢を二代目教祖としたのだ。その理由は……。
「杉原君。教会に着いたよ」
また自分の考えに没入していた杉原に、ようやく青沢の声が聞こえた。彼は、ワゴン車が止まっていることに気づいた。車の左側のスライドドアが開いていた。砂利の敷かれた駐車場に青沢と瀬上が並んで立っていた。彼は車を降りた。丘の上から街が一望できた。目の前に青空が広がっていた。空気は澄んで、ひんやりとし、辺りはとても静かだった。杉原は、今、自分が丘の上にいることを実感した。とても懐かしい気持ちになった。
杉原は教会のほうを見た。礼命会の教会は白い建物で、四年前は、まだ新しかった。そして、今、駐車場から見える教会も、変わっていなかった。壁は真っ白なままで、四年の歳月を感じさせなかった。
彼は瀬上と並んで、教会を見ていた。瀬上は彼とよく似た感じの若者だった。平均的な身長に、髪型は、どの高校の校則にも抵触しないであろう平均的な高校生カット。無難な服装、この日の彼は、紺色のセーターにベージュの細身の綿のパンツを穿いていた。普通の高校生の典型とでもいうべき瀬上を見て、杉原は高校生の時の自分を思い出した。
瀬上は、先ほどより、少し元気になった。
「この丘の上に教会があるなんて知らなかった。僕はここにはゴルフ場しかないと思っていた」
と呟いた。
初めて教会を見た感想も、かつての杉原と同じだった。
青沢も二人を見て、
「並んでいるのを見ると、杉原君と瀬上君は似ている。今どきの大人しい若者だ」
と言った。
それから、青沢は教会に向かって歩き始めた。
杉原は、彼の背中に向かって言った。
「先生。その前に水越賀矢先生のことなんですが? 今、どこにいるんでしょうか?」
青沢は立ち止まって振り返った。
杉原は続けて言った。
「賀矢先生は今、重い病気で入院している。だから、急遽、先生が病院を辞めて、教会に戻った。僕の推理です」
それを聞いて、青沢は答えた。
「杉原君の推理そのものは、常識的なものだ。可能性としても十分にあり得る。でも、入院しているわけじゃない。おそらくあの人はタフだから、今も元気なはずだ。ただ、どこにいるのか分からない。いなくなってしまったんだ。それで、急遽、私が教団に戻って来た」
水越賀矢は病気で入院していたのではなく、突然、いなくなったのだった。教団の代表を投げ出して失踪したのだろうか? いなくなった理由は? 教会は混乱しなかったのか? 彼は青沢に尋ねた。
青沢はこう言った。
「賀屋先生が何故、いなくなったのか? この後、そのことに関して見て欲しいものがある。彼女がいなくなったことで、教会が混乱することは、幸いなかった。信者の一人が、賀矢先生がいなくなったことに気づいて、すぐに私に連絡をくれたから。教団の代表は賀矢先生になっていたけど、実際の教団管理者は私のままだった。だから、私がすぐに教会に帰って来て、再び代表になったんだ」
「でも、病院を辞める時は、そんな風にはいかなかったですよね?」
「私が作った宗教団体だ。責任がある。だから、病院のことはやむを得ない」
青沢はそう言った。
三人で並んで歩きながら、杉原は考えていた。四年の歳月は、丘の上の教会には変化を与えていなかった。でも、それは建物が劣化していないという物質的な次元でのことだった。そうではなく、人が生きる上での四年という歳月を考えてみた時、彼は大学を卒業して社会人になった。隣を歩く瀬上は、今日、初めて会ったから詳しいことは分からない。でも、四年前の彼は、まだ小学生だった。その彼が四年後の今日、自殺未遂をするなんて想像もしなかっただろう。青沢礼命は、精神科医に戻って精神病院に勤めていた。髪を短くし、清潔感のある服装で歩く姿を見れば、彼が医者として充実した毎日を過ごしていたことが分かる。二度と礼命会の教祖に戻るとは思っていなかっただろう。そして、いなくなった水越賀矢だ。理由は分からないが、彼女自身も、まさか自分が皆の前から姿を消すことになるとは思っていなかったはずだ。これも大きな変化であり、最も衝撃的な変化だ。そう考えてみると、人というのは、四年という歳月さえ変わりなく穏やかに生きることは難しいのかもしれない。
青沢礼命が教会の扉を開け、杉原と瀬上に中に入るように言った。
教会の中に入ると、全てが四年前のままだった。演台があり、真ん中を通路にして両側に長椅子が並んでいた。そして、演台の近くには、礼命会の御神体である、手と手が強く握り合っている絵『握り手様』が置かれていた。平凡な大学生だった杉原の中で、唯一の学生時代の思い出が、礼命会で活動していた時だった。その期間は僅か八カ月だったが、その僅かの期間に、彼の四年間の大学生活の全てが凝縮されていた。そんな気さえするのだった。
青沢と瀬上と杉原は、まず何から話すべきかを決めることにした。
瀬上が言った。
「まず、礼命会の成り立ちから教えてください」
その通りだった。青沢が瀬上と話しをしたいと思っても、何も知らない瀬上とは話し合えない。青沢は、杉原と瀬上を一番前の長椅子に座らせ、礼命会の成り立ちについて話し始めた。話は、青沢が高校生の時に、彼の父親が、何の前触れもなく、突然、自ら命を絶ったことから始まった。それを聞いて、瀬上は、青沢礼命が、先ほど、車に跳ねられて自殺しようとした自分に対して、必死で生きるように説得した、その熱意の理由を知った。そして、思わず、顔を伏せた。杉原は何も言わず、彼をそっとしておいた。
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