闇の中の太陽になるのは誰だ?
三上芳紀(みかみよしき)
序章(デジャヴ)
杉原和志は自宅近くのコンビニの前で、考え事をしていた。地元のA銀行に勤める彼は、まだ社会人二年目だった。十月に入ってようやく秋の気配が訪れ、外回りをする彼も暑さから解放された。杉原は濃紺のスーツに同系色のネクタイをし、黒の鞄を持っていた。銀行員として相応しい服装だった。彼は地元のP大学を卒業して、同じく地元のA銀行に就職した。今、彼が自宅近くのコンビニにいるのは、彼の外回りの担当地域に、新しく彼の自宅近辺も加わったからだった。理由は前任者の転勤だった。それだけだった。でも、杉原にとっては、それだけでは済まなかった。生まれた時から住んでいる場所だけに、地域の住民は皆知り合いだった。子どもの頃、「和志ちゃん」と自分のことを呼んでいた人たちの家を回るのである。しかも、定期預金とかローンとか”カネ”の話をするのだ。『あの小僧が一丁前に』と向こうは思わなくても、杉原自身が思ってしまう。既に家々を訪ねる前から、その思いに捉われてしまっていた。
どの家から訪ねよう……、杉原が考えていると、少し離れたところから、声が聞こえた。
「ちょっと待って!」
力強い声だった。
その声に、我に返った杉原は、目の前の光景に気づいた。
高校生くらいの青年が、周りにいた人たちに歩道の上に仰向けに押さえつけられていた。
そして、
「死なせてください。このまま、道に飛び込ませてください」
という青年の声が聞こえた。
どうやら、車道に飛び込もうとしたところを、その場にいた人たちに止められたようだった。
コンビニの店長が、携帯電話を持ったままうろたえていた。
「自殺未遂って警察のほかに救急車も呼んだほうがいいのか?」
男が店長に言った。
「警察にも、消防署にも、連絡する必要はありません。彼の自殺念慮は、私が取り払ってみせます」
「自殺念慮? あなたは、医者ですか? 精神科医? それなら、是非、お願いします」
店長が男に頼んだ。
だが、男は店長の問いには答えなかった。
近くにいた若いカップルの男のほうが尋ねた。
「あんた、医者なのかよ?」
男は答えた。
「医者としよう」
若いカップルの女のほうが言った。
「医者としよう? それって、医者じゃないってことよね?」
それを聞いた若い男が叫んだ。
「あんた。ふざけてんのか!」
だが、男は、その声を無視して押さえつけられている青年に向かって言った。
「車道に飛び込んだら、君は車に跳ねられて死ぬだろう。そうすれば、君の望み通り、生きることの苦しみから逃れられるかもしれない。でも、君は死にたいと思っている今も、心の奥底では、生きがいのある人生を生きてみたいと思っている。この辛い現実を脱して幸せになりたい。そう強く願っている。そして、君が願っている未来はもうすぐ訪れるかもしれない。こう言われると、そんなことお前に分かるのかと君は思うだろう。でも、それと同じだけ、もしかしたら、そうなるかもしれないと君は思っている。但し、ここで、車に跳ねられて死んでしまったら、その未来は絶対に訪れない。死ぬとは全てが終わることだ。可能性が無になることだ。二度とやり直せないんだ。だから何があっても死んではいけない。生きて君の未来を確かめよう。そして、もし良かったら、私に君の悩みを聞かせてくれないか?」
男の話を聞いた青年は、冷静さを取り戻し、「はい」と答えた。
その様子を見て、青年を押さえつけていた人たちは、彼から離れた。コンビニの店長も携帯電話をズボンのポケットにしまった。若いカップルも、その場を立ち去った。それらの人々は、青年が冷静さを取り戻したことを理解したと同時に、医者ではないにせよ、男が、青年の悩みを聴くだけの常識を持った人間であることを理解した。つまり、いかがわしい人間ではないと分かった。すると、今度は、自殺をしようとした青年にこのまま関わることの面倒を回避するため、男に全てを押しつけてしまおうと考えた。そして、そこにいた人たちは、さっと消えるようにいなくなってしまった。
青年は、立ち上がると、ズボンについていた汚れを手で払った。
男は、髪を短くして、白いシャツの上に淡いグレーのジャケットを羽織っていた。清潔感のある男だった。
二人は向かい合って立っていた。
そして、杉原は、今、目の前で繰り広げられた光景を見て頭が混乱していた。何故なら、今、目の前で繰り広げられた光景は、四年前に、この場所で杉原自身が体験したことを、ほとんど、そのまま再現したものだったからだ。ただ、決定的に違うところがある。それは、杉原は車に跳ねられようとしたのではなくて、胃痛で倒れたところをある男に助けられたことだった。そして、それが、今、目の前にいる男だった。当時、小さな宗教団体の教祖をしていた。だが、今は、本来の精神科医に戻って、精神病院で医師として働いているはずだった。それが何故、この街にいるのか? 病院はこの街から遠いところにあるはずだった。小さな教団は礼命会といった。そして、男の名前は青沢礼命といった。本名は青沢紀秋といい、今、目の前にいる清潔感のある男に相応しい名前だった。教祖名の青沢礼命は、宗教につきまとう、ある種のいかがわしさに相応しい名前だった。当時、薄青色の眼鏡をかけて、いつも真っ黒な服装をしてたのも、青沢なりの演出だった。
杉原は、あの日のことを思い出していた。四年前、彼が大学三年生の夏休みのことだった。彼はこのコンビニの前で腹痛を起こした。今、杉原が立っている場所のすぐ前のところに倒れ込んだ。いつもの胃痛だとは思ったが、あまりの痛さに立っていられなかった。コンビニの店員が、かけつけた。高校生のカップルが近くで見ていた。通りにいた人が携帯電話で救急車を呼ぼうとした。その時だった。
「ちょっと待って!」
という声とともに、青沢礼命が現れたのだった。
彼は杉原の腹に手を当て、
「悲しみがあなたの胃を痛めつけています」
と言った。
コンビニの店員が、「あなた、医者ですか?」と問うと、その時も、彼は、「医者としよう」と答えた。
そして、その答えを聞いた高校生のカップルの男が、先ほどの男と同じく、「ふざけるな!」と叫んだのだった。
しかし、この後、実際に、杉原の胃の痛みは治った。すると、今と同じように、周囲にいた人たちは、これ以上、杉原と青沢礼命に関わるのは面倒だとさっと消えてしまった。
そして、杉原はジーンズの汚れを手で払いながら立ち上がり、青年と同じように青沢礼命と向かい合った。その時、街路樹のセミの声がうるさかったことを杉原は今でもよく覚えている。
杉原は、四年前のことを思い出し、目の前で繰り広げられた光景と重ね合わせ、これも、デジャヴの一種なのかと考えた。しかし、デジャヴというのは、ある光景に刹那の既視感を抱くものではないのか? つまり、「あっ! この状況って前にもあった」と思った瞬間、もうその感覚は消滅してしまっている、そういうものだと杉原は認識している。でも、彼は、専門的な知識には乏しい。
そこで、彼は、こういう行動に出た。
「青沢先生。お久しぶりです。杉原和志です。どうして、今、ここに青沢先生がいるのか分かりません。だから、とても驚いています。そして、お訊きしたいことが沢山あります。でも、その前に、先生にお尋ねします。今のこの状況って、デジャヴなのでしょうか?」
彼は青沢に向かって尋ねたのだった。
歩道の真ん中で、青沢礼命は、青年と向き合ったままだった。コンビニの前にいる杉原とは少し距離があった。その場所で、青年を見つめたまま、青沢礼命は答えた。
「私も、この状況に遭遇して、昔、同じ経験をしたことがあった気がした。だから、デジャヴだと思った。でも、杉原君が、そこにいることに気づいた瞬間、これはデジャヴとは言えないと思った。デジャヴとはあくまでも既視感のことであって、過去に、現実に杉原君の胃痛を治した時のあの状況と、今の状況が酷似していることは、デジャヴとは言わない。だから、私も君に何と説明していいか分からない」
先ほど、車道に飛び込もうとした青年は、突然、青沢礼命と杉原が話し始めたことに驚き、同時に、理解できない話の内容に戸惑っていた。
青沢も、偶然とは言い難い、杉原との奇妙な形での再会に戸惑っていた。青沢礼命は、神秘的な体験を経て、宗教団体を立ち上げたほどの人物だった。それだけに、この奇妙な再会に、神的な意味を感じざるを得なかった。
青沢礼命は、向かい合っている青年に、静かに名前を訊いた。瀬上芯次と答えた。高校二年生の若者だった。
「瀬上君。君は、私たちと親しくなるべきだと思う。私は青沢礼命。宗教家だ。そして、彼は杉原和志君。かつて、私の宗教団体礼命会で活動していた。だが、間違えないで欲しいのは、これは、宗教の勧誘ではないということだ。私は、今、神秘的な現象に直面してとても驚いている。杉原君も同じだ。君自身の話とともに、そのことについても、君と話したい。いや、話す必要があると思う」
青沢礼命の話に、瀬上芯次は、更に戸惑った。でも、杉原の顔を見ると、こう言った。
「分かりました。お話を聞きます」
杉原は、瀬上が自分を見て、青沢礼命の話を聞く気になったことが分かった。瀬上は、一体、自分の何を判断基準にしたのだろうかと思った。
「では、私の車で移動しよう」
青沢が言った。
杉原は、車と聞いて、路肩に停めてある白のワゴン車に気づいた。四年前にも青沢礼命が乗っていたワゴン車だった。ボディの両側面に「神と真と愛 礼命会」と描かれているため、変に目立つ車だった。杉原はワゴン車の後部座席に乗った。瀬上は助手席に乗った。青沢礼命が、エンジンをかけるとワゴン車を発進させた。三人を乗せた車は市街地に向かった。杉原は、青沢が、「青沢礼命」として、再び、礼命会の代表をしているのが事実だと、この車により分かった。この車に医師青沢紀秋が乗るのは、不可能なことだと誰の目にも明らかだからだった。
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