第42話 笑顔


 肩が震える。


 これで終わりなんだ。

 幸せだった時間が全て、過去に変わる。

 明日はもっと幸せな筈。そう思い胸躍った夜は、もう二度と来ないんだ。





 膝が震える。

 白い息を不規則に吐く。

 気が付けば大粒の涙が、溢れてはこぼれ落ちた。


「ありがとな、ノゾミ」


 雅司が微笑む。

 どこまでも穏やかに。


「私、私は……」


 言葉にならなかった。やがてそれは嗚咽となり、涙と共に吐き出された。


「なんで……」


 絞り出すようにそう言い、膝から崩れる。


「なんであなた、こんな契約を……」





 美しく終わらせよう。

 それが雅司の望み。ずっとそう思ってきた。

 それなのに今、最後の時を迎え。

 気が付けば。

 悪魔として、契約者として。

 あり得ない感情を雅司にぶつけていた。


「なんで……なんでこんな契約にしたのよ! もう一度あの時に戻してよ! そうしたら私、缶コーヒーで契約するから! 迷わずに、考えずに! 任務として魂を奪うから!

 それなのに……何なのよあなたは! 何笑ってるのよ! 私が苦しむのが、そんなに楽しいの? 言いたくない、言いたくない! これを言えば、もうあなたと会えなくなる!」


 体が引き裂かれそうだった。

 悪魔として、彼の魂を欲したのは自分なのに。

 責められるべきは自分なのに。

 感情が、それを受け入れることを拒絶していた。


「雅司はどうなのよ! 本当に、本当にこれでよかったって言うの!」


 初めて見るノゾミの激昂。

 しかし雅司は笑みを崩さず、静かに語り掛けた。


「……死にたくないな。これからもずっと、お前たちと生きていきたい」


「え……」


 その言葉に顔を上げる。

 雅司の口から初めて聞く、生への渇望。

 嘘偽りのない、心からの願望。

 それはノゾミが、ずっと聞きたかった言葉だった。


「お前たちと、ずっと一緒に暮らしていきたい。これが本心だ」


 ひざまずき、ノゾミの手を取る。


「でも……多分それは、叶った瞬間に消えてしまう幻だ。確かに今、俺は後悔してる。もっとやり方があったんじゃないか……契約の時、どうしてもっと、真剣に考えなかったんだ。カノンの言葉、どうして受け止めなかったんだってな」


「……」


「でもな」


 そう言って立ち上がらせる。


「今からお前がくれる言霊ことだまは、そんな後悔も吹き飛ばしてくれるくらい、俺を幸せにしてくれるんだ。

 考えてみてくれ。この俺が、死にたくないと言ってるんだぞ? もっと生きていたいって言ってるんだぞ? 俺にとって、これ以上の幸せがあると思うか?」


 言ってることが無茶苦茶だ。そう思った。

 こんな状況なのに。涙が止まらないのに。口元がほころんでしまう。

 これが雅司なんだ。

 全ての矛盾を背負い。受け入れ。

 死すらも喜びに変えてしまう。

 そう。そんな雅司だからこそ、私は好きになったんだ。


「俺を幸せにしてくれ、ノゾミ。死にたくないと後悔させてくれ。俺を……俺を絶望から救ってくれ!」





 その言葉にはっとした。

 絶望から救う。雅司はそう言った。

 それは何なのか。

 考えるまでもない。彼の唯一の望みだ。

 魂を投げうってでも、叶えたかった願いだ。


 愛されること。


 これから彼は死ぬ。

 あの時の彼は、それだけを望んでいた。

 自らの死を。人生の完結を。


 でも。

 命の代価として求めた願い。

 それは絶望にあらがう、魂の叫びだったのだ。

 今の彼は、死を望んでいるのではない。

 愛してくれる存在を欲しているのだ。

 生きたあかしを求めているのだ。


 穏やかな口調。

 穏やかな笑み。

 それは決して、強がりなんかじゃない。

 叫びなんだ、願いなんだ、望みなんだ。

 私は悪魔として。契約者として。

 彼の思いに応えなければいけないのだ。


 そう思い。そう気付き。

 ノゾミは大きく息を吐き、涙を拭った。





「大丈夫か」


「ええ、大丈夫……ごめんなさい、取り乱しちゃって」


「いいよ、それぐらい」


 どこまでも穏やかに、雅司が微笑む。


「愛してる」


「え……」


 突然の告白。

 ノゾミが顔を上げた。


「雅司、今なんて」


「愛してるよノゾミ」


 もう一度そう言って、照れくさそうに笑う。


「どうして今、そんなことを」


「ああ、いや、何て言うか……これから俺は、女であるお前に大変なことを言わせようとしてる。でも、それってどうなんだ? やっぱりこういうのは、先に男が言うのが筋じゃないのかって、ずっと思ってたんだ」


「……あなたって本当、馬鹿みたいに真面目よね」


「ひどいな。これでも緊張したんだぞ」


「分かってるわよ、ふふっ……ありがとう、雅司。おかげで私も、少し楽になったわ」


「一世一代の告白、無駄にならなくてよかったよ」


「告白されたのって、初めてよ」


「前にも言ったけど、ノゾミほどの器量なら、男が放っておかないと思うんだがな」


「そんなこと言ってくれるのは雅司ぐらいよ。すごく嬉しい」


 そう言って微笑み。

 そして表情を引き締め。雅司を見つめた。


 涙が光る。


「私はあなたのことを……誰よりも愛してる。愛してるわ、雅司」


 言霊ことだまが放たれると同時に、二人を中心に青白い魔法陣が現れた。


「……ありがとう、ノゾミ」


 雅司の笑顔。それはこれまでに見た、どの笑顔より幸せそうだった。


「本当に、本当に愛してる。きっと私は、あなたにこの言葉を伝える為、生まれてきたんだと思う。そしてこの想いは、これからもずっと変わらない」


「愛してるよ、ノゾミ」


「……雅司!」


 雅司を抱き締める。

 この温もり、絶対に忘れない。そう思い、力強く抱き締める。

 雅司もノゾミを抱き締めた。


「愛されるって……いや、違うな。愛する人に愛されるのって、こんなに幸せなことだったんだな。今、最高に幸せだ」


「雅司、雅司……」


「今言うのはルール違反だけど……ははっ、死ぬのが惜しいな」


 雅司の目に涙が光る。


「ノゾミ、愛してる。俺を愛してくれて、ありがとう」


「私を愛してくれて、ありがとう」


 唇を重ねる。

 この世界で、最も愛する人との口づけ。

 その幸せに身を委ねた。

 何度も何度も重ね合い、笑い合った。


 青白い光の粒が二人を包む。

 愛し合う二人を、祝福するように。


「あの時。俺を見届けてくれたのはあの月だけだった。そして、それも悪くないって思ってた。

 でも今は違う。この世界で一番大切な、ノゾミに見送ってもらえるんだ。最高だ!」


「雅司!」


 もう一度、雅司を強く抱き締める。

 そして……唇を噛み。息を吐き。

 契約者としての最後の言葉を告げた。


「……私たちの契約は、これで完了しました。契約に則り、あなたの魂は私の所有するところとなります」


「ああ! ああ! 持っていけ!」


「雅司、愛してる!」


「愛してる、ノゾミ! ありがとう!」



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