第34話 憤り


 山本を見守りながら、他の利用者にはいつも通りの対応をする。

 なんて人なの、あなたは。

 どうしてそんなことが出来るの?

 あなたがどれだけ辛いか、私には分かる。

 山本さん。

 確かに問題の多い人だ。

 我儘わがままで傲慢で、都合が悪くなると被害者の様に振る舞う。

 何度も雅司を引っ掻き、殴り、首を絞めて。

 人殺しと罵り、訴えてやると言った人。


「山本さん、可哀そうな人なんだよ」


 雅司によると、山本には子供がいないらしい。

 若い頃、結婚と離婚を繰り返し、自由奔放に生きてきたそうだ。

 居室に飾ってある若い頃の写真を見ると、美しさと華やかさがあった。


 しかし、非情な時の流れに飲み込まれ。

 20年前から文化住宅で独り、孤独な生活を送っていた。

 そうしている内に認知症を発症、近隣に迷惑をかけるようになり。

 唯一の身内である甥によって、この施設に入れられたのだった。


 どうして私が、こんな目に合わなくてはいけないの?

 私はどこで人生を誤ったの?

 記憶が安定している時に一度だけ、彼女からそう言われたらしい。


 涙ながらに。


 その彼女を抱き締め、「大丈夫、僕がいますよ」そう言って慰めた雅司。

 山本は子供のように泣いたそうだ。


 だがその日の夜には、またいつもの彼女に戻っていて。

 いつもより気合の入ったパンチをもらったよと、雅司は笑っていた。

 そんな彼女が今、旅立とうとしている。

 雅司の胸中を思い、ノゾミは唇を噛んだ。





 22時過ぎ。雅司は上司に電話をかけた。

 山本の状態を報告する為だった。

 しかし上司の対応は素っ気なく、変化があった時に連絡するだけでいいと言った。


「いや、ですから……変化はずっと起こってます。SpO2が80を切りそうなんです。血圧だって」


「それは夕方に聞いている。何も変わってないじゃないか」


「救急車を呼んじゃ駄目なんですか」


「雪城! お前、他の利用者さんを不安にさせたいのか!」


 雅司の要望に、上司が声を荒げる。


「そこにいるのは山本さんだけか? 違うだろ。他にも利用者さんはいるんだ。もう皆さん居室に戻り、休もうとされてるんだぞ。そんな時にサイレンが聞こえて、施設の前で止まる。どれだけ不安になるかぐらい、分からないのか?」


 ここぞとばかりに、虚飾の正論をぶつける。


「お前の仕事はなんなんだ。皆さんが安心して休める、そういう環境を提供することじゃないのか。それともお前の担当は、山本さん一人なのか?」


「いえ……違います」


「だったら無駄に騒ぐな。山本さんは、早番が来るまで見守ってろ。朝になっても改善しないようなら、ケアマネケアマネージャーに病院に連れて行かせる」


「……」


「勝手なことばかり考えるな。また迷惑をかけるつもりか」


「いえ、それは……」


 かつて会社の指示に逆らい、自分の判断で拘束を解いた雅司。それが転倒事故につながり、その利用者は二度と歩くことが出来なくなった。


「勿論、勝手なことはしません」


 そのことを出されると、何も言えなかった。うなだれ、声を絞り出すように答える。


「分かってるならいい。まあなんだ……山本さんのご家族も、山本さんの先が短いことは理解してくださってる。急変があったとしても、慌てて連絡する必要はない、そう言われている。

 だがここで暮らした2年は、山本さんにとって辛いものではなかった筈だ。お前だって、親身になって介護してたじゃないか。そんなお前に見守られてるんだ、彼女も本望だと思うぞ」


 正論を並べ、叱責し、過去の罪を責める。そして最後に、穏やかな口調で諭すように話す。

 相手を屈服、服従させる、お手本のようなやり方。

 ほくそ笑む上司の顔が浮かび、雅司は拳を握り締めた。

 従業員なんて、こうすれば感動し、尽くしてくる。馬鹿は扱いやすくていい。

 そう言う打算が透けて見え、憤った。


 これ以上話しても無駄だと思い、雅司は話を切った。


「何かあれば連絡します」


「いや……いい。お前を信用してるからな。万一息を引き取られたとしても、そこから先、俺たちに出来ることは何もない。早番が来るまでそのままでいい」


「……分かりました」


 電話を切った雅司は肩を震わせ、うなだれた。





「雅司……」


 限界だった。

 認識疎外を外したノゾミが、雅司を後ろから抱き締めた。


「……なんだ、来てたのか」


「うん……雅司に会いたくて。ごめんなさい……」


「いや、来てくれて嬉しいよ。寒くなかったか」


「馬鹿……なんであなたはそう、他人のことばかり考えるのよ……」


「すまんな。性分なもので」


「馬鹿……ほんとに馬鹿……」



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