第33話 別れの時
クリスマスを一週間後に控えたその日。
夜勤に入った雅司を待っていたのは、利用者の急変だった。
山本。
認知症が進み、自分の名前すら忘れることのある利用者。
感情のままに言葉を発し、スタッフに暴言を浴びせる人。
雅司もよく首を絞められ、「人殺し」と罵られていた。
1か月ほど前から、食事摂取量が落ちていた山本。
そのことを主治医に伝えていたのだが、主治医は「まあ、高齢ですからね。こんなもんでしょ」と笑って取り合わなかった。
雅司が出勤して見たのは、そんな彼女が、居室のベッドで朦朧としている姿だった。
「山本さん……やばいと思うよ」
日勤帯のスタッフ町田が、そう言って雅司に同情の視線を送る。
「朝からずっとこんな感じ。バイタルはぎりセーフって感じだったんだけど……今はかなりやばい」
「どれぐらいですか?」
「血圧、上が70から上がってない。熱もあるわね、1時間前に38度ちょっと。あと、サチュレーション(SpO2)が80前半」
「報告は?」
「勿論してるよ。でもエリア長からは、見守り継続って指示だけで」
「マジか……」
脈も、触診で測れないほど弱々しかった。
「これで見守りって、終わってるよね、ほんと」
「まあ……分かってましたけど」
雅司が大きく息を吐き、立ち上がった。
「とにかく晩飯の準備をします。いつもより早めに終わらせて、他の利用者を居室に誘導します。町田さん、何時までいけます?」
「こんな状況だし、いいよ。19時までなら」
「助かります。後でジュース、おごりますね」
「ジュースだけかい!」
「ははっ。それじゃあ、よろしくお願いします!」
雅司のことを考えると、どうにかなりそうだ。
カノンが来たあの日から、雅司の存在が日に日に大きくなっている。
少しでも長く、彼の傍にいたい。
そう思い、ノゾミは何度も認識疎外を使い、施設に来ていた。
雅司にも気付かれない認識疎外。
素の雅司を見て、新しい発見をする。それが楽しかった。
職場での雅司は本当にすごい。
どんなことがあっても悠然と構え、笑顔を絶やさない。
利用者たちは全員、重度の認知症。何があっても、時間が経てば全て忘れていく。
でもそんな彼らも、献身的に働く雅司に対し、ある種の安心感を持っていた。
信頼と言ってもいい。
それが誇らしかった。自分のことの様に嬉しかった。
もっと見ていたい、彼のことが知りたい、そう思った。
今日はメイも同行していた。初めてのことだった。
「いや……今日はその、な……」
そう言って、鎌を手にしたメイを見て。
理解した。
魂を刈るんだと。
利用者たちが全員居室に戻り、静寂が訪れたフロアー。
時間は21時過ぎ。既に町田も退勤していた。
雅司は山本の居室のドアを開放し、その前に椅子を置いて座っていた。
時折佐藤が、「帰るから! ドア開けて!」と怒鳴ってきた。
その度に笑顔を向け、「息子さん、明日迎えに来られますよ。だから今夜一晩、よろしくお願いしますね」そう話す。
佐藤は「じゃあ早く寝なくちゃね」そう言って、嬉しそうに居室に戻っていく。
渡辺が、顔を強張らせて近付いてくる。
「いつになったら、息子に会わせるんじゃ!」
「渡辺さん渡辺さん。息子さん、日曜で仕事休みだから、明日電話するって言ってましたよ」
「明日……明日は日曜なんですか」
「ええ。だからその時、ゆっくりお話ししてくださいね」
「そうか……日曜なんですね。ここにいると、何曜日なのか分からなくなってきますな」
「大丈夫ですよ。その為に僕らがいるんです。渡辺さん、寒いですから布団、ちゃんと掛けてくださいね」
「ああ、ありがとう。明日、息子から電話があるんですね」
「ええ、お昼頃だそうです」
「分かりました。おやすみ」
「おやすみなさい、いい夢を」
いつもと変わらない光景。
ここで間もなく人が死ぬ。そんな風には見えなかった。
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