第2話

 マリカに初めて会ったのは中学3年の時、高校生のふりをして短期バイトをしてた7月の終わりだった。

 高等部に進んだ水泳部時代の先輩から、時給のいいカフェで夏休みにバイトをしないかと誘われた。内部進学できる中高一貫の私立校に俺たちは通っていた。俺は小学生の時から勉強は嫌いじゃなかったし、成績は良いほうだった。だから中3といっても、進学にとくにプレッシャーも焦りもなかった。

 それに、大手の商社で働く父親は九州で単身赴任中だったし、母親は大学病院の小児科医で常に仕事に追われていて、不規則な休みの日以外家にいることはなかった。

 だから俺は中学生にしてはあまり家族とかかわらない生活をしていた。といっても、両親がどれだけ家族も仕事も大切にしているか理解していた。毎日メッセージのやり取りをしていたし、ふたりとも一緒に過ごせるときにはいつも俺を中心に考えてくれて、自分が親の人生で大きな存在だと感じていた。

 だから俺も家や塾で勉強をしていたし、親に迷惑がかからないようにしていた。自由を手に入れる代わりに「それぞれが自分の人生に責任を」という、小さい時から教え込まれたウチのポリシーを俺はいつも律儀に守っていた。


 そのカフェは家から自転車で20分くらいの場所にあった。俺はその頃どうしても欲しいクロスバイクがあって、バイトで資金を足せるのは嬉しかった。バイトのことを親に話すか迷ったけど、夏休み中の1ヶ月ちょっとなら気付かることはなさそうだったし、説明するほうが面倒に思えてやめた。

 そのカフェのバイトは高校生以上という条件があったので、俺は先輩に同級生として紹介してもらって面接に行った。カフェのイメージ作りの一貫とかで、オーナーはフロアー担当のバイトを容姿重視で選んでいるみたいだと先輩から聞かされていた。俺の身長が平均より高かったし、顔つきとか話し方のせいもあって、普段中学生に見られることはあまりなかった。オーナーとの面接は5分程度の簡単な受け答えだけで、その場で採用の返事をもらった。夏休みに入ったらすぐに来るように言われて、さっそくシフトを組まれた。

 カフェのフロアー担当の制服は、白いシャツに黒いパンツと、チョコレート色のタブリエだった。客を席に案内してメニューと水を出し、注文をとって、ドリンクと食事を運ぶ、というのがバイトの役割だった。オーナーがいない時間帯はキャッシャーもした。キッチンでは調理師が食事を作り、オーナーは夕方から夜にかけてカフェにいることが多かった。俺がバイトに入るのは平日火曜以外の週4日で、10時から15時までだったけど、たまに人手が足りなくて夕方まで残ることもあった。駅前というわけではなかったけど、カフェからはJRと地下鉄のふたつの駅にアクセスできて、近くにはオフィスとか病院があった。カフェといってもけっこう料理に力を入れていたので、平日のランチは毎日満席だった。でもオープンから11半時まではいつも空いていて、ホールに俺がひとりで入っていることが多かった。

 マリカを初めて見かけたのはバイト2日目の午前中、ほかに客がいない時だった。その日は目に突き刺さるような強い日差しが降り注いでいて、気温は午前中から30℃を超えていた。

 マリカがカフェに入ってきた時、フロアーに出ていたのは俺だけだった。テーブルに案内しようと俺が彼女に近づくと、彼女は店内を見まわしていた。

 「お好きな席へどうぞ」

 俺がそう声をかけると、彼女は口元にかすかな笑みを浮かべた。それを見た瞬間、俺の呼吸は数秒間止まったような気がした。

 彼女はネイビーブルーの薄い生地に、白い細かい水玉模様がプリントされたワンピースを着ていた。彼女が歩きだすと、スカートが空気の動きを表すみたいにヒラヒラと動いた。なんだか彼女の周りの空気だけ涼しそうに思えた。

 俺の前を通り過ぎたその人から、爽やかで高そうな香水の匂いがかすかにした。一瞬、俺の周りの酸素が薄くなったような胸苦しさを覚えた。髪の先から靴のヒールまで彼女の後ろ姿は俺の視線をすごい力で吸い込んだ。

 彼女は店内を見知っている様子で、迷うことなく窓際のベンチシートに腰を下ろした。メニューを見ることなく、白いトートバッグからB5判のスケッチブックと鉛筆を取り出して、時どき視線を窓の外に移しながら絵を描いていた。

 彼女の顔立ちは、目立つとか華やかというのではなかった。すっきりした目元、形のよい鼻、小さいけれど主張された唇が、整った輪郭の上で一緒になると、バランスがよくてとてもきれいに見えた。知的とか、上品といった形容詞が似合いそうだなと思った。でも、俺の視線が動けなくなったのは、彼女の外見だけが理由じゃなかった。彼女のオーラが俺の心の奥の何かを激しく揺さぶったからだった。そんな経験をしたのは初めてだった。

 俺よりけっこう年上だと思ったけど、大学生以上の女の人の年齢を推測するのは難しかった。それまであんまり考えたことがなかったけど、もし俺に好みのタイプというのが存在するなら、彼女みたいな人じゃないかなと思った。

  数分待ってから俺は彼女のテーブルに近づくと「ご注文はお決まりですか?」と感情のない声で質問した。

 彼女はスケッチブックから顔を上げ、俺と目を合わせると口元に笑みを浮かべて「アイスコーヒーをお願いします」と答えた。

 彼女の声は想像よりも少し高くて、俺の耳に心地よく響いた。 

 その日以降、彼女を週に1度か2度カフェで見かけた。いつも10時半過ぎにやって来てアイスコーヒーかアイスティーをオーダーして、ランチで店内が込み合う前に出ていった。窓際の席に座って、スケッチブックに絵を描いていることが多かったけど、たまにタブレットを出して何かを書いている姿も見かけた。彼女が店内にいる間、俺の全身の神経は何をしていても彼女の方向に集中してしまうみたいだった。彼女の姿が見えない朝は、少しがっかりしている自分がいた。

 8月にしては涼しい、バイト4週目の月曜日の雨が降る朝、いつものように彼女は窓際のベンチシートに座って、スケッチブックの上で鉛筆を忙しなく動かしていた。肩より少し長いくすんだ茶色の髪は、ヘアクリップで後ろに束ねられていて、小さな耳には4つのダイヤでできた花びらみたいな形のピアスが光っていた。ボートネックの黒いカットソーは彼女を飾る鎖骨を強調して見せていた。

 彼女の服装とか雰囲気から、オフィスで働いている人には見えないな、となんとなく思っていた。主婦って感じでもないし。20代後半くらいなのかな…

 早番の調理師は、いつものようにキッチンでランチの下準備をしていた。ほかに客もいなくてフロアーにひとりだった俺は、彼女のテーブルにアイスティーを置きながら、「いつも絵を描いているんですね」と話しかけた。

 前の週に何度も考えて、迷って、勇気を振り絞って声にした言葉だった。

 彼女は少し驚いた表情をして顔を上げ、アイスティーを置く俺の姿をまじまじと見つめた。

 俺は声をかけたことにも、自分の言葉に対しても猛烈に恥ずかしさを感じて、すぐに立ち去ろうとした瞬間、彼女の柔らかい声が耳に届いた。

 「最近、知人の本の挿絵を描く仕事をしていて……私、このカフェがとても気に入っているの。ここに座っていると、手が勝手に動き出すみたいに描ける気がして。だから、打ち合わせに行く日はここに立ち寄ることにしてるの」

 彼女にとっては何気ない挨拶の一環の微笑みが、俺の鼓動を早めた。

 俺は考えるよりも早く「挿絵、見てみたいです」と口走っていた。

 どうしてそんなことを言ったのか、俺は自分の発言に頭が混乱した。

 彼女は迷惑そうな素振りを見せずに、「仕事と言っても、このスケッチブックは下書き……というよりも、アイディアを形にしている、下書きの下書きのようなものだから。ごめんなさい、これには人に見せられるような絵はないの……」と、まるで小さな子どもに言い聞かせるようにゆっくりと話した。

 俺はまた手に負えない恥ずかしさに襲われ「邪魔してすみません」と早口で言い、急いで彼女のテーブルから離れて、彼女の視界の外のドリンクを作るカウンターの後ろに逃げ込んだ。

 それでもその短い会話のおかげで、その日以降彼女が来店した時や注文した時に俺に向ける笑顔には、それ以前にはなかった親しみのようなものが含まれている気がした。

 そのカフェでの俺のバイトは8月いっぱいだった。このバイトが終わったら、彼女と会うことは二度とないことはわかっていた。逆に言えば、恥ずかしい思いをしても今後会わない相手だからと開き直る気持ちもあった。

 最後の週の日曜の夜、家で小さな白いメモ用紙に俺の名前と連絡先を書いて小さく折りたたみ、翌日バイトで履くパンツのポケットにメモを入れておいた。次に彼女に会ったら渡すつもりだった。

 その週は木曜の朝に彼女が来店した。水曜日まで毎朝彼女の姿が見えないことに落胆したし、もし今週彼女が来なければ2度と会うことがない現実に焦りもした。

 木曜の朝、俺が彼女のテーブルにアイスコーヒーを運んだ時、用意しておいたメモをグラスの横に置きながら「俺、今週でここのバイト最後なんです」と、自分でも意外に思えるほど小さな声でつぶやいた。

 何度も繰り返し頭の中でシミュレーションを重ねたシーンだった。

 彼女はメモを開かないでも俺の連絡先だと察したらしく、「そっか、もう夏休みも終わりだもんね」と笑顔を俺に向けた。

 それから彼女は、和紙でできたシンプルな名刺をケースから一枚取り出し、テーブルの端に置いて「私の名刺、いる?」と少し首をかしげ、俺の反応を観察するように言った。

 俺は素早く名刺をつかんで「ありがとうございます」とささやくように声をもらして、テーブルから足早に離れた。

 まさか彼女の連絡先をもらえるなんて期待もしていなかったから、俺は心の中で叫びまくるほど喜んでいた。俺はそそくさとドリンクカウンターの陰に隠れると、調理師の人がキッチンで作業をしているのを素早く確認してから、彼女の名刺を左の手のひらに置いて見つめた。手が震えていて、名刺が見づらかったので、仕方なく両手を使って持ち直した。和紙でできた名刺には、彼女の名前、電話番号とメールアドレスが黒い文字で印刷されていた。

 井上茉莉花

 「マリカ」

 俺は無意識に彼女の名前を口にしていた。

 名刺を持つまだ震えが止まらない自分の手をながめ、どうしてだろうと考えてみたけど理由が思いつかなかった。

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