いびつな純愛

続 七音

第1話

 俺、波多野陽太は、4歳の時にスイミングスクールに通わされて以来中学2年まで勉強と水泳だけにひたすら時間を費やしてきた。どちらもコツコツとひとりで努力した分が、残酷なほど点数やタイムで目に見えるのが気に入っていた。

 俺には兄弟がいなかったし両親も仕事で忙しいから、ひとりでいることが多かったし、好きだった。多くはないけど大抵いつも3、4人くらい仲がいい友だちがいた。けど、何年生になってもクラスの特定の人たちとしか話せなかったし、クラス替えまで一度も話したことがない人たちがたくさんいた。女子と友だちになったことはなかった。正直女子と話すのは苦手だった。

 中学2年の夏休みに入ったばかりのころだった。

 俺は、午前中の水泳部の練習を終えてから家でお昼を食べて、自転車で友だちの家に遊びに行った。約束の時間から30分近く遅れてインターフォンを鳴らすと、デニムのショートパンツに白いTシャツ姿の友だちのお姉さんが玄関を開けた。

 「アイツ、どうしても買いに行かなきゃいけない今日発売のなんかがあるとか言って、さっき出てったんだよね。2時半くらいに戻るから、陽太にゲームして待っててって伝えといてだって」

 彼女は、胸まである長い髪の毛先を指に絡めながら気怠そうに話した。今までこの家に遊びに来た時に何回も彼女と顔を合わせたことはあったけど、まともに話をしたのは初めてだった。

 俺はジーンズのポケットから電話を取り出して時間を確認すると、午後1時半になるところだった。もうちょっと早く連絡くれればよかったのに、と心の中で友だちに文句を言った。自転車で片道20分の道のりを出直すかどうか迷いながら玄関で立ちつくしていた。

 でも友だちのお姉さんは、俺が待つことが決まっているかのように「早く上がりなよ。アイスあるけど食べる?」と奥のキッチンから俺に質問をした。

 1時間くらいなら待てるか、と思いながら、俺は視界に入らない友だちのお姉さんに向かって「はい」と返事をして靴を脱いだ。

 その時の俺には、4歳年上の高校生のお姉さんがすごくおとなに見えた。

 彼女とふたりでテレビの前のフローリングに座って、アイスを食べながらレーシングゲームを始めた。2度終えると、お姉さんはコントローラーを投げだして「あーあ、なんでいつも私が負けるかなぁ。ゲームって男の子が勝つようにできてるわけ?なんかムカつくなー」と後ろに手をついて天井を仰ぎながら言った。

 俺は何を言えばいいのかわからず、でも何か言わなければいけない気がして「すいません」と視線を床に落としたまま小さい声でつぶやいた。

 次は手加減しなきゃいけないのかもな、と考えた。

 彼女は俺の思考を見透かしたかのように、ハハっと短く笑って俺の目を見た。ショートパンツから出ている彼女の白い長い足が目に入った。ターコイズ色に塗られた彼女の足先のツメは、俺の口にミントチョコの味を連想させた。

 「陽太ってさ」と彼女は俺の方に身体を向け、俺の顔をのぞき込むようにして首を傾けた。彼女の長い、チョコレート色のまっすぐな髪がサラサラと動いた。

 「すっごいきれいな顔してるよねぇ。女の子にモテるでしょ?」

 彼女は観察するように俺の表情を凝視しながら、ふたりの間にあった距離をじりじりと縮めた。本当はあるはずのない、彼女の瞳の中の意味ありげな光のせいで、俺の身体は緊張して鼓動が速くなるのがわかった。

 彼女はそんな俺の反応をからかうように、うっすらと笑いながら「彼女とかいるの?」と聞いた。

 俺は友だちのお姉さんの目を見据えたまま小さく首を振った。それが合図だったかのように彼女は一気に俺との距離を縮めて、俺の唇に彼女の唇を押し付けて舌を入れた。彼女がさっき食べていたイチゴのアイスの味が、俺の舌に残っていたソーダ味をかき消していった。

 俺はぎこちない手つきで最初は恐る恐る、次第に本能指示通りに彼女を触った。彼女の髪は人間の一部とは信じがたいほど滑らかで、彼女の肌は感動的に柔らかかった。彼女の顔が俺の鼻に近づくたびに、長い髪からフローラルな香りがした。彼女の全てに俺の身体は否応なく反応し、セックスは想像以上に気持ちよくて、あっけないほど簡単で、驚くほど自然だった。

 俺が初めて体験したキスもセックスも、俺の感情とは全く無関係で予測外な出来事だった。

 この夏の日以降、お姉さんと顔を合わせるのが気まずくて、友だちの家に遊びに行くのをやめた。彼女とはたった一度だけの関係に終わった。俺は今でも彼女の名前を知らない。中3になって俺が部活を辞めてクラスが別になると、その友だちと話すことはなくなった。

 一度経験してみたら、それまでの人生にはどうして含まれていなかったのか不思議に思えるほど、セックスをする機会はあちこちに転がっていた。その辺で知り合った女子高生とか女子大生とか。的を絞った女の子たちを相手に、こう言えば俺のしたいようにさせてくれるだろうというマジックフレーズのコレクションが、俺の頭の中のリストに徐々に増えていった。たぶんその頃俺が一番楽しんでいたのは、口先だけの言葉で、目の前の人を俺の思惑どおりに行動させることだったんだと思う。ゲームで新しいシナリオを攻略していく感じか。




 俺は4月に15回目の誕生日を迎えても、誰かを好きになるってことがどういうことなのか、理解できなかった。自分が初恋を経験したのかどうかも知らなかった。

 友だちが彼女といる時すごく楽しそうだし、幸せそうに見えた。俺も女の子を見てかわいいなとか、きれいな人だなと思うことはよくあった。女の子たちと遊びに行ったり、触り合ったりキスしたり、セックスるするのはドキドキして楽しかった。でも、好きになるっていうのが、どこからどう始まるのか俺にはよくわからなかった。これが好きっていう気持ちなのかも、と何回か思ったことがあったけど、同じ女の子に頻繁に連絡されたり何回か会ったりすると、いつも面倒にしか感じなかった。初めのころに味わっていた好奇心みたいな衝動は、自分でも驚くほどあっけなく消え去った。相手にあんまり強い感情を見せられると、俺にはその子の気持ちが理解できなかったし、面倒を超えて恐怖感すら覚えた。

 もしかしたら、俺は人間的に欠陥があるんじゃないかとも思った。感情欠落とか。それでもべつにいいと思ったし、誰かを好きになれないことが自分の強さに思えていたのかも。とくに、好きな子にフラれたり、彼女と別れて人生が終わったような表情をしている友だちを見ると、俺が通過することはない別世界のことみたいに感じた。そんな時俺は、そっちにはいないし行かないんだ、と優越感に浸りながら友だちを横目で眺めていた。

 そんな俺が15歳の夏から、自分で納得がいかない気持ちを多く抱え始めた。名前がよくわからない感情が重くのしかかってくることが頻繁におこった。それが胃の上のあたりに湧いてくるのは、いつもマリカのせいだった。でも俺があの人のことを本気で好きになるなんてことはありえなかった。彼女にとって俺がそうであるように、俺にとって彼女はそんな対象じゃないはずだった。

 そう確信していても、マリカは俺がそれまで知り合ったどんな女の人とも違うことは、出会った瞬間から気づいていた。俺の中であの人は、最初からちょっと特殊枠に位置していたんだ。

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