Walzer
増田朋美
Walzer
「確かに僕らは事情がある方、ときには障害のある方も、預かってはいますけど。」
ジョチさんは、目の前にいる親子連れ二人にそう言った。
「そうですか。やっぱり前例がありませんか。そうなると、この子を何処へ預けたらよいのでしょうか?」
お母さんはジョチさんに尋ねた。目の前にいるのは、小さな女の子と、そのお母さんである。お母さんは、とても困ったようすで、
「お金はいくらでも払いますから、一日だけでもこの子を預かっていただけないでしょうか?」
と、再度尋ねた。
「そうですね。」
ジョチさんは、考え込む仕草をして言った。
「お金がどうのという問題じゃないんです。彼女はまだ4歳、それで問題を起こしたのであれば、親御さんがそばについてあげるべきなんじゃないでしょうか?」
「そうなんですが、どうしても切り上げなければならない仕事があるんです。こちらは、福祉施設でしょう?それは、子供の為だけではなく、親のためにも機能しているんじゃありませんか?」
ジョチさんはそう言われて困ってしまった。
「しかしですね。まだ、4歳。それなら、保育園に通うとか、そういうことをするべきなのではないでしょうか。例えば、障害のある子供さんを受け入れてくれる保育園とか。」
「そうですが、保育園にいこうとしても、行きたがらないのです!」
お母さんは強く言った。こんな言い方をされれば、相当困っていることがわかる言い方だった。
「それなら、保育園に問題があるのではないでしょうか?保育士の、先生に相談したらどうですか?」
ジョチさんがそういうと、
「何度も保育士の先生に改善を求めましたが、他のことに気を取られているようで、まったく取りあってくれないんです。」
お母さんは、つらそうに言った。
「そうですか。それでは、佐藤香織さんの主訴についてお尋ねしたいんですが?たしか、足が痛いと言っているとおっしゃいましたが、それ以外に何か言ったことはありますか?」
ジョチさんは、隣りに座っている小さな女の子、つまり佐藤香織さんを見ていった。
「はい。まりちゃんに悪いことをした、と毎日いっていますが、まりちゃんという人物が誰なのか、よくわからないのです。」
お母さんはそう言った。
「病院の先生にも聞きましたが、幻覚を見たのではないかと言われました。病名としては、統合なんとか症というそうですが、小さ過ぎて、診断ができないそうです。」
「統合失調症ですか。それなら、余計にお母さんが、そばにいてやるべきなんじゃないでしょうか。きっと周りの大人が不適切な態度を取ったために、そうなったと思いますから、それを回復させるためにも、そばにいてやるほうがよろしいと思います。」
ジョチさんはそう言ったのであるが、
「でも、私は、どうしても切り上げなければならない仕事がありまして。これから、教授会などありますし、忙しいんです!もう、どこの施設へ行ってもそばにいてやれ、そばにいてやれといいますが、どうして親のことは何も考えてくれないんでしょうね!」
お母さんはそう答えた。
「それは、子供さんが、それだけ重大な問題をもっているからですよ!保育園に行きたがらないのは、そういうことでしょう!」
ジョチさんがそういうと、
「そうなんですか!結局、みんな私のことを間違えていると言うんですね。
私は、静岡大学の教授なんです。だから、教えなくてはならない生徒がいっぱいいるんです。失礼ですけど、一日だけ、預かってください!そうしていただかないと、ほんとうに困ります!」
お母さんはそういって、椅子からたちあがり、荷物をもって出ていってしまった。こんなとき、ちからづくで椅子に座らせるとか、そういうことができたら良いのに、とジョチさんは思うのであるが、足が悪い自分にはそれはできないのだった。それよりも、お母さんのことを見ようともしないし、泣こうともしない香織ちゃんのことが気になった。
「可愛いお嬢ちゃん。」
杉ちゃんが彼女に声をかけた。
「まったく困ったお母ちゃんだなあ。自分の、都合でかってに出かけちゃうなんて。」
杉ちゃんに言われて、香織ちゃんは、やっと泣き始めた。
「まあ、偉いやつは、自分のことしか考えなくなっちまうんだよなあ。どうしてなんだろうね。ほかにも、そういう人をみたことあるよ。そういうときは、お前さんも、いかないでくれって、ちゃんと意思表示するんだよ。」
「そうですね、なんだかわがまますぎるんですよね。仕事で活躍もしたいし、子供さんもほしい。本当はどちらか片方を諦めるくらいの覚悟が必要ですよ。昔のお母さんは、子育てに専念することを厭わなかったのに、いまのお母さんは、わがまますぎるといいますか、なんといいますか。」
ジョチさんは大きなため息を着いた。
「まあねえ、静岡大学の教授となりますと、ただでさえ、自分は偉いと思い込んでいますから、他人から指摘されたら頭にくる度が強すぎるのもあると思いますけどね。」
「よし、とりあえず、おじさん、ケーキ買ってきてあるから、一緒に食べようか。こっちにおいで。」
杉ちゃんは、小さな香織ちゃんを、食堂へ、つれていった。そして彼女に椅子に座ってもらい、冷蔵庫からケーキを出して、彼女の前においた。
「ほら食べろや。一応、ラム酒なんかは抜いてあるから大丈夫。」
確かに、プラムケーキだった。いちごショートではなかった。香織ちゃんは、杉ちゃんにケーキをきってもらうと、美味しそうに食べ始めた。
「よしよし、食べられれば大丈夫だ。悩んでいるやつは大体腹がへっているからな。それなら、まず初めに何か、食べるのが大事だぜ。」
杉ちゃんに言われて香織ちゃんはちいさく、
「ありがとう。」
といった。それと同時に水穂さんが、ピアノを弾いている音がした。小さな女の子に考慮したのだろうか。湯山昭の、お菓子の世界から、お菓子の行進曲を弾いていた。
ケーキを食べ終わった香織ちゃんは、小さな女の子らしく、すぐに走って四畳半に行ってしまった。そして、水穂さんの隣りにちょこんと座った。水穂さんがお菓子の行進曲を弾き終わると、香織ちゃんは小さな手で拍手をした。
「どうもありがとう。」
水穂さんが、そういうと、香織ちゃんはもっと弾いて欲しいといった。水穂さんがモーツァルトのトルコ行進曲を弾くと、楽しそうに聞いていた。不思議なことにテレビアニメのテーマなどはねだらなかった。水穂さんが、ショパンの、ワルツ一番を弾くと、体を振って踊りだした。どうやら知能が高い子供さんなのだろう。そうなると、地元の保育園でしていることは、つまらないことなのかもしれない。
「香織ちゃんは、どんな音楽が好きなの?」
水穂さんがそう聞くと、
「ママは、いつももっとゆっくりした曲を聞いてるの。でも、香織は、おじさんが弾いてくれた曲がすき。」
と、にこやかにいった。
「なるほど、じゃあママにピアノを習わせてとか、そういうことは言えないの?」
水穂さんは、改めて聞いた。
「言えないの。ママは毎日仕事ばかりで、香織が黙っていれば、怒らないから。」
子どもらしくない発言だった。普通の子であれば、うるさいくらい保育園であったことなどを親に喋るはずなのに。
「じゃあ何もしないで、香織ちゃんは、家にいるの?」
水穂さんがそう聞くと、
「いつも保育園が閉まるギリギリまで居て、帰ったらご飯を食べてすぐ寝ちゃうの。」
と、香織ちゃんはこたえた。
「そうなんだね。ママにおしゃべりしたいとか、どこかへお出かけしたいとか、そういうことを言えたらいいのにね。そうすれば、存在しない人と喋る必要もなくなるでしょ。」
水穂さんが、優しくそういうと、
「そんなこと、いったって。」
香織ちゃんは、小さい声でいった。
「ううん、いいんだよ。ママに、何処かへ連れていってとかお願いすることは。」
水穂さんはにこやかに言った。
「そうですよ。法律で言えば、虐待ですよ。いわゆるネグレクトみたいな感じ何じゃないですか。こちらからしてみたら、育児放棄ですよ。」
ジョチさんが二人のやり取りを聞いて言った。確かにそうなることは、虐待の一つなのかもしれなかった。
「だからそうだな。もし今日お家に帰ったら、一番好きなものをママに作ってって、お願いしてご覧?」
水穂さんが優しくそう言うと、
「ママは香織がそういう事言うと、いつも嫌な顔をするの。だからママじゃなくて、おじさんのほうが優しいね。香織、おじさんとずっと居たいな。」
と、香織ちゃんは言うのであった。
「本当はそれだけでは行けないんですけどね。」
ジョチさんは困った顔で言った。
「とにかくですね。このようなことが続くのであれば、もしかしたら児童相談所とか、そういうところに通報する可能性もあります。今日だけということならまだ大目に見ますけど、、、。本当に教授会で仕事が長引くために彼女をここへ預けたのでしょうかね?」
皆、一瞬顔を曇らせた。
「そうだねえ。お母さんは一生懸命やっているのかもしれないけどね。それが通用するかどうか、、、。たしかに、難しいところだぞ。でもねえ、お母さんは、一人だけだというのも確かだよね。それでは、ねえ。」
杉ちゃんが、そうつぶやいた。他のみんなも同感という感じの顔をした。香織ちゃんは、もう一度ピアノを弾いてくれと水穂さんに頼むのだった。水穂さんが、もう一度ショパンのワルツ一番を弾いてあげると、香織ちゃんはまた体を動かして音楽を楽しいんで居るようだった。
「そうなんだね。それならもう少し、好きな音楽ができるといいのにね。」
と、杉ちゃんが言うと、香織ちゃんは、
「嬉しいな。香織はおじさんとずっと居られたらいいのに。」
とにこやかに笑うのだった。その様子は、とても楽しそうで、とても精神障害があるようには見えなかった。最も、子供なので、すぐに頭の切り替えができるということになるのだが、それだけでは無いような気がする。
「それでは、香織ちゃん、ちょっと聞きたいんだけどな。」
と、水穂さんは、そっと彼女をの頭を撫でて言った。
「先程、ママと二人で来たとき、香織ちゃんは、まりちゃんという人を見たと言ったね。あれは、本当に香織ちゃんが見たのかな?それとも、誰か実際にいた人とと間違えたのかな?その辺、おじさんに教えてくれないかな。香織ちゃん。」
水穂さんは、そうにこやかに聞いた。もうしっかり水穂さんを信頼しているような顔をした香織ちゃんは、小さな声で、
「うん。どうしても、寂しかったの。」
と、つぶやいた。
「寂しかったの?」
と水穂さんがそう聞き返すと、
「そうなの。だから、まりちゃんと遊んだことにしたの。そうすれば寂しくないでしょ。だから、まりちゃんと遊んで、まりちゃんがそばにいれば寂しくないって思うことにしたの。」
彼女は小さな声で言うのだった。
「それで、まりちゃんと言う人は、実際にいる人なの?保育園の同級生?それとも親戚?」
水穂さんがそう言うと、
「居ないの。」
泣きそうな声で、香織ちゃんは言った。
「わかった。わかったよ。寂しかったんだね。保育園で友達がなかったのかな。それとも、先生がひどいことをいったのかな。それでも、香織ちゃんは本当に寂しかったんだ。おじさんだって、そのあたり知ってるから、わからないわけじゃないよ。香織ちゃんの寂しい気持ちをね。おじさんだって、友達がほしいって、思ったことはあったけど、それを実現することはどうしてもできないから。それは、おとなになっても同じなの。だから、遠慮しないで寂しいって言っていいんだよ。いない人と話をして、居るような気持ちになっては、余計に寂しさが増すだけでしょ。それならもっと悲しいよね。そんな悲しいことは、二度と繰り返したくないよね。」
水穂さんは、彼女を叱らずにそう言ってあげた。そういうことが言えるのは、水穂さんのような人でなければだめだと、杉ちゃんも、ジョチさんも、思ったのであった。
「そういうことなら、ちゃんとママに寂しいって口に出して言えるね。そしてママになにか対策を取って欲しいってことも。それを口に出して言えるのは、香織ちゃんだけだよ。」
水穂さんは香織ちゃんと真正面から向き合って、そっと彼女の肩に手をかけた。
「でも。」
香織ちゃんは小さな声で言う。
「そうかも知れないけど、確かに恐怖心はあるのかもしれないけど、でも香織ちゃんが口に出して言わないと、何も変わらないんだよ。それは、覚えておいてほしいな。そして、大事なことは、それを変えられることができるということでもあるんだよね。」
今度は香織ちゃんではなくて、水穂さんのほうが涙を流してしまった。
「おじさんには決してできないことなの。だけど、香織ちゃんにはそれができるじゃない。素晴らしいことじゃないの。それができる、変われる、そして変われる身分にあるんだから。」
「おじさん、身分って何?」
香織ちゃんはぽかんとした顔でそういうのであった。たしかに、4歳の女の子には、同和問題の話をさせることは無理だと杉ちゃんたちは思った。水穂さんも、香織ちゃんの顔を見て、それを察してくれたらしい。
「だから、変われる身分にあることを、大事にしてね。生きていることに憎むのではなくて感謝できることに、幸せを持って。その気持ちで生きてれば、きっと幸せになれるから。」
水穂さんは、そう言って香織ちゃん肩を叩いた。香織ちゃんは、水穂さんがそう言ってくれていることに、詳細はよくわからないけれど、理解してくれたようだ。
「おじさんは、香織とは、違うの?」
「そうだよ。そういうことになるんだよ。詳しくは学校にいってから教えてもらえる。歴史の先生がちゃんといるから、その先生に聞いて御覧なさい。いいね。」
水穂さんがそう言うと、
「そうなんだ。香織も、おじさんと同じ身分だったら、おじさんとずっといられるのかな?だって、保育園も、ママも何もしてくれないよ。保育園ではただののろまと言われるだけだし、それに、ママも、香織がなにか話そうとしても、うるさいとか、仕事をしているから来ないでとか、そういう事を言って、話なんか聞いてくれないよ。だったら、香織はおじさんといたほうがいいの。こんな寂しいの、もう終わりにしたいよ。」
香織ちゃんはそういうのであった。
「終わりにしたいか。それほど寂しいってことなんだろうな。」
杉ちゃんが思わずつぶやくほど、香織ちゃんの顔は真剣だった。
「そうなんだね。できるだけ早く、ママに、寂しいって言えるといいね。それは、ちゃんとママに言えることが大事なんだよ。こんな汚らしい身分の人間と居るよりも、ママが一緒にいてくれたほうが、香織ちゃんは幸せになれる。それは、覚えておきなさい。それだけは、どんなに偉い人であっても変えられないことなの。」
水穂さんは、小さな声で一生懸命話していたのであった。香織ちゃん自身も真剣だった。
「でも、香織の話し聞いてくれて、、、。」
また泣き出してしまいそうになる香織ちゃんに、
「きっとママにおじさんと一緒にいたいと言うことを言ったら、おじさんは、誘拐罪で捕まってしまうかな。それは、嫌だよね。そうでしょ。」
と水穂さんは言ったのであるが、
「でも、おじさんは香織のことを、悪いことだとか、そういう事言わなかったじゃない。それに、寂しいんだねって、わかってくれたじゃない。それをしてくれたのは、おじさんだけだよ。だから、香織はおじさんと一緒のほうがいいの。おじさんはそれも行けないっていうの?」
香織ちゃんはそういうのである。困った顔をしている水穂さんに、
「じゃあね、香織ちゃん。ママが迎えに来たら、今のセリフを、ママにもう一回言ってみてもらえませんかね。それを使ってくれれば、ママも変わろうと思ってくれるはずです。」
とジョチさんが、そう言って香織ちゃんを水穂さんから離した。
「待っておじさん、もう一回さっきの曲を弾いて。」
香織ちゃんがそう言うので、水穂さんは、ワルツ一番を弾いた。それは確かに間違いも何も無いんだけど、でも、悲しそうな表情で弾いていたから、香織ちゃんはあまり楽しそうではなかった。
「大丈夫だよ。そのうち、こいつもわかってくれるだろう。大人の醜悪な感情はいずれ身についてしまうんだろうけど、それはできるだけ先送りさせてやりたいわな。」
杉ちゃんは、そう苦笑いした。
「お前さんはとても美しい心の持ち主だ。だから、ちょっと変なふうに行ってしまっただけだ。だからそれを大事にして、自分を大事に生きろ。」
それと同時に、ガラッと玄関の引き戸が開いた。
「申し訳ありません。遅くなって。香織を迎えに参りました。」
ということは、香織ちゃんのお母さんがやってきたのだった。でも香織ちゃんは、お母さんが来ても何も嬉しそうな顔をしていなかった。そして、もう一度、水穂さんにワルツを弾いてくれと頼む。お母さんが廊下を歩いてくるのは足音でわかった。そしてお母さんが四畳半のふすまを開けると、香織ちゃんが水穂さんの演奏を聞いているのが見えた。水穂さんの着物の柄を見たお母さんは、水穂さんが誰なのかわかってしまったらしい。
「ちょっと待ちなさい!あなた、うちの子をたぶらかして何をするつもりなんです!香織を返してください!」
お母さんは水穂さんにきつく言った。そのような言い方をするとは、香織ちゃんは思っていなかったらしく、
「ママ嫌い!おじさんが、香織の話を聞いてくれた人だったのに、そんなひどいこと、しないで!」
と負けないくらいの声で言った。
「いいえ、そういう着物着ているんだったら、そんなことができる人ではありません!香織を返してください!香織をたぶらかして、香織を、どこかで誘導していくつもりですか!もしかして、なにか悪いことでも吹き込んだわけではないでしょうね!」
「ママ嫌い!」
お母さんがそう言うと香織ちゃんは、そういったのであった。
「ママを嫌いになっちゃだめ。おじさんは、そう言われるしかできないんだよ。それが身分というものだから。わかるかな。」
水穂さんが優しくそう言うと、香織ちゃんは泣き続けていたが、お母さんはさっさと帰りましょうといった。たしかに、大学の教授になるような人であれば、銘仙の着物を毛嫌いする可能性はあった。お母さんはお礼も言わずに、手を引っ張って、香織ちゃんを連れて帰っていった。
Walzer 増田朋美 @masubuchi4996
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