【脱人間作家】

QUILL

脱人間作家

 椅子は一つしか用意されていない。

 小説家を志して十数年、様々な新人賞に応募するも、一度として受賞はおろか、候補としてすら残ったことはない。つい数日前、余命を宣告された。半年生きられるか分からないということだった。最後の夏になると思った。


 僕には三年付き合っている恋人がいる。

 彼女は村山由佳や窪美澄の小説が好きだと言い、それらを読んだことのない僕には、同じ世界を全く違う目で見つめる彼女が魅力的に映った。彼女とは、駅前のファミレスで出逢った。ちょうど三年前の今日、家の鍵を職場のロッカーに忘れて、行く宛もないので仕方なくそこに居座っていたのだった。外では雨がザーザー降っていて、僕は安部公房の文庫本を開きながら首を傾げていた。



「その本、面白い?」



 彼女は物珍しそうな顔で、僕の文庫本を覗き込んだ。



「面白くはない。難しい。でも、自分は共感できない事とか、考えたこともなかった事とか、そういう知らない感情や風景が文学だと思っているから」



 ふーん、と彼女は急に興味を無くしたように窓の外に視線を移した。



「あっ、ねぇ見て」



 彼女が指差す方向を見ると、マンホールの蓋が勢いよく噴き上げた水によって持ち上がっていた。



「あれ、すっごい面白いね。潮吹きみたいで、見てて楽しい」



 その言葉を聞いて、僕はドキッとしてしまう。彼女は変な意味を込めて言ったつもりは当然無いだろうが、僕の脳裏には甘い吐息を漏らす彼女の姿が浮かんでいた。



「ねぇ、今夜ってファミレスで明かすつもりなの?」



 返答に僕は迷う。これってまさか……。

 いや、でもそんな小説の中みたいな出来事が現実にあるはずがない……。

 彼女はいじらしそうに僕の顔を見つめ、汗のかいたメロンソーダを一口飲むと、グラスについた口紅を拭った。僕は気付けば首を横に振っていた。彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。



「もし良かったらさ、うちに来ない?」



 僕は二つ返事で頷いていた。




 彼女は家に着くなり、ベランダに出て煙草を口に咥えた。窓の外が一瞬明るくなって、煙が流されていくのが見えた。僕はただ、部屋の中から呆然と、煙草を吸う彼女の横顔を見ていた。すると突然、彼女がベランダから手招きをしてきた。


 僕はベランダへ出た。すると、彼女は僕の耳元で、「君さ、死にたいんでしょ?」と聞いてきた。僕は全身に鳥肌が立った。え、なんでそれを……。

 僕は情けない言葉を紡ぐことしかできない。彼女は面白そうに笑った。そして、煙草を咥えた顔を近付けてくる。



「ほら咥えて」



 煙草の先端は、本来咥えるものではない。

 煙が出る方は、副流煙であるため、主流煙を吸うよりも肺を穢すことになる。それでも。

 僕は、煙草の先端を咥えた。彼女が吸った煙が、吐き出されて僕の口に入ってくる。僕はむせた。涙目になりながら、それでも懸命に彼女の吐く息を吸った。そして、煙草がほとんど灰になってしまうと、彼女はそれを灰皿に押し付けて、僕にキスをしてきた。すごく煙草臭かった。それでも、既に僕の全身は彼女のことを求めてしまっている。彼女の口腔内に舌を押し込んで、熱いディープキスをした。欲望が止め処なく溢れ出して、どうにでもなればいいと思った。




 彼女に手を引かれ、ベランダからベッドルームへと場所を移動する。さっきよりも長いキスをして、彼女の羽織っていた薄手のシャツに手を掛けた。薄手のシャツを脱がせたら、キャミソールによって強調された身体の輪郭に興奮してしまった。僕が慣れない手つきで洋服を脱がせ、前戯に移ろうとする様を、彼女は笑いを堪えているようなおかしそうな顔で見ていた。僕は思った。彼女は、今日までに何人も男を家に連れ込んできているのだ。当然のことなのに、そんなことを想像したら、急にさっきまでの興奮が冷めてしまった。ブラホックに掛けた手を引っ込めて、僕は脱いだブリーフを履き直した。間接照明すら落とした部屋の中で、彼女は月光に照らされながら、少し寂しそうな顔をした。



「どうしてやめちゃうの?」



 彼女の問いかけに、咄嗟には反応できなかった。僕は困ったような顔を浮かべて、口を開いた。



「あなたとじゃ、気持ちよくなれない気がしたから」



 彼女は少し俯いて、やがて悲しそうに笑った。



「そっか、そうだよね。色んな男と身体を重ねてきた私じゃ、気持ち良くなれないよね」



 僕は返すべき言葉が見つからなくて、視線を彷徨わせていた。すると彼女が、

「ねぇ、それならセックスよりもっと気持ち良いの興味ない?」



 僕は迷いながら、頷いた。彼女はベッドの下の収納を漁り、その中からジップロックを取り出した。葉っぱが入っていた。



「これを炙って吸うんだよ」



 学校にたまにいる、悪いことばかりを生徒に吹聴する教師みたいだと思った。彼女は率先して、例を示すように専用器具のようなものを取り出してきた。彼女から、いかにも体に悪そうな匂いがした。さっきよりも艶かしい顔で、彼女はこちらを見てくる。



「あなたもどう?」



 僕は頷いた。筒を咥えて、人間の道を踏み外す快感を覚えた。それから僕と彼女は数時間眠って、明け方に目を覚ました。僕はこの人と壊れたいと思って、彼女の乳を揉みしごいた。そこで、お預けにしていたセックスをした。




 その晩から、僕と彼女は暮らし始めた。だけど彼女は、家事を一切しなかった。正確に言えば、家事が一切できなかったのだ。維持費はあまりかからなかったから、助かった。けれど、次第にボロボロになっていく彼女を見るのは辛かった。僕が彼女のことを性的に消費すればするほど、彼女の寿命は短くなった。



 彼女との別れは、確実に近づいてきていた。僕は涙を流しながら、彼女に手紙を書いた。今まで沢山気持ちよくしてくれてありがとう、とそう書いた。僕は彼女との日々を、小説にすることにした。共に作家を志す友人は、何故か「絶対にやめとくべきだ」と難色を示してきた。



 僕はまだ、刺激が足りなかった。

 小説を書いても、誰も誉めてなどくれない。彼女はもう壊れてしまっていて、いずれ解体しなければならない。僕は闇市で入手した注射器で、身体にヤクを打ち込み始めた。ラリってる時は、筆が進んだ。原稿は確かに、完成に向かっていた。




 そんな中、家に警察がやってきた。

 タイミングは最悪だった。僕が、新しい女性と愛し合っている最中だった。流石に全裸でチャイムに出るのはマズイと思ったので、下半身にはバスタオルを巻き付けて、下駄をつっかけドアを開けた。



「警察です。窃盗の容疑で、あなたのお宅を家宅捜索させていただきます」



 俺は状況が飲み込めず、焦ってそれを引き留める。



「ちょっ、まっ、待ってください! 僕が何を盗んだって言うんですか!?」



 警察は家の中を訝しげに覗き込み、やがて目当てのものを見つけたのか、指をさした。



「あなたが盗んだのは、あれですよ」



 僕がその指の先を見たら、三年間僕が愛していた彼女がいた。

 僕はひたすらに困惑し、警察官に問い掛ける。



「え? ひょっとして、僕はあなたのカノジョさんを略奪してしまったということですか? うわぁ〜そうですか、それなら申し訳なかったです。だいぶ僕が壊してしまいましたけど、まだ愛せると思うので、お返ししますよ。この度は本当に申し訳……


 そこでハッとした。警察官が心底怯えたような顔をして、一歩か二歩、退いていることに。僕は謝って、潔く家の中に警察を入れた。




 警察官は二人連れで、二手に分かれて部屋の中を調べていた。その片割れが、

「あ〜こりゃあ、ダメだ。もう返したってどうにもならない」と僕が放置していた女性のことを見て言った。そして恨めしげに僕の方を見て、「君さ、これは立派な窃盗罪だよ。なんなら、器物損壊罪にも当たるよ」と言った。


 ん? どういうことだ?


 僕は確かに、彼女のことを壊した。だけど、それが法律によって裁かれるだと? どうして。

 その女性についていた方ではない警官が、部屋のカーテンを開けた。暗く湿った部屋に、数年ぶりに光が差し込んだ。そして、僕はずっと目を背けていた現実を直視することになった。




「お前さん、酷い暮らしだな。何なんだ? その注射器は。吸い殻も酷いし、これはシンナーか? おい、この白く汚れたプランターはなんだ? うわ、すげぇ臭いぞ」



 僕が三年間愛した挙げ句、壊した女はラブドールだった。生きている人間ですらない。ただ、今愛しているものを気安く触られるのは苛立たしく、僕は包丁を握り、警官の元に飛び込んでいた。



「てめぇ、いい加減にしろよ。俺の愛してるものを、これ以上奪おうとするな」



 花を根本から引っこ抜き、土を整形して作ったアナルには、僕の愛液や精子が沢山付着していた。警官が焦った様子で警棒を取り出し、応戦してくる。



「お、おい! これは公務執行妨害だぞ! ラブドールに関しては、損害賠償モンだ! お前こそいい加減にしろ! お前は永遠に刑務所暮らしだ、分かってるのか!」



 僕はここで初めて、自分のしていたことが尋常じゃないことに気がついた。

 そして、深く落ち込んだ。



「こいつを取り押さえろ。取り敢えず署に送ったら、精神鑑定を受けさせろ」



 僕は抵抗することなく、両手を差し出した。手錠が嵌められ、パトカーに乗せられる。左右の警官は署に到着するまで、終始無言だった。




 警察署に到着し、簡単な取り調べを済ませた。精神鑑定を受けた後、精神に異常が見受けられれば、情状酌量の余地は充分にあると教えられた。




 白く冷え切った廊下を歩まされた。ところどころ蛍光灯がチカチカしていて、目が眩んだ。配管と思わしきものや電線も飛び出していた。物々しい観音開きの鉄扉をいくつか破って進んでいくと、その先に手術室のような妙に大きな部屋があった。中央にポツリとスチールのデスクがあり、折り畳みの椅子が向かい合わせに置いてある。一瞬眩い光に部屋が包まれ、その後、精神科医のような女性が現れた。その人は、椅子に座った。そして、僕を対面の椅子に座るよう促した。


 僕は椅子に座った。開口一番、精神科医と思しき女に問い掛けた。



「あの、僕は狂っているんですか?」


 精神科医は、微笑んだ。



「いえ、あなたは狂ってなどいませんよ」



 僕は地面が崩れ落ちるような衝撃を覚えた。

 え? どういうことですか?



「私たちがね、あなたを狂うように仕向けたんですよ」



 はぁ? 思わず声が漏れてしまう。



「余命宣告の件はどう説明するんですか? ラブドールだって一目惚れで僕は選んだんですよ」

 僕は問い掛ける。


「余命宣告はね、嘘です。あなたはその方が焦って作品を生み出すでしょうから。『脱人間作家』というタイトルで小説を書くと決めて、一体何ヶ月経ったんですか? 第一、あなたはこれを機にちゃんと小説を書き始めたでしょう? そういうことなんですよ。あっていうか、私のこと覚えてませんか」



 僕は思考を巡らせる。そして、思い出し、驚愕する。



「余命宣告をしてきたお医者さん……? お、おい! お前は一体誰なんだ?」



 その人は言った。



「私は○○出版社の新人発掘担当ですよ。だから、あなたが持ってきた『脱人間作家』の原稿の存在を知っているんでしょう」



 僕は背筋が凍った。この人は手を変え品を変え、僕ら新人の元に接近していた。そして、何が何でも作品を完成させようとしている。

 僕はこの人と会うのが、人生で3回目だ。




「ラブドールの件は? どう説明するんだ!?」



 僕は必死に訴え掛けた。



「あぁ、あれはね、あなたが幼い頃から幾度となく見せていたんです。あなたはこの子と将来付き合うんだよ、ってね。まぁ所謂、英才教育ってやつですね。いや違うな、変態教育の間違いか」


 そいつは笑った。最低な奴だと思った。



「でも、なんでそんなことしてたんだよ? 俺が創作を始めるなんて、その頃には誰も分からなかったことだろう」


「いや、分かるんですよ。最近は科学技術の発展でね、誰にどんな才能があるのか解析する技術が発明されたんですよ。だからその技術をね、有効活用させてもらって、作家を芽から育てさせてもらってるんです。あなたはね、最底辺の暮らしを体験した方がね、良い文章が書けるって指標が出ていたんですよ」



 僕は頭を抱えた。今すぐにでも、普通の人間に戻りたい。でも、身体の隅々に荒んだ暮しの影が現れていた。僕は腹が立った。こいつの期待を裏切って、一般人に成り下がってやろうと思った。



「ふざけんな! 俺は日常に戻る! こんなのたくさんだ!」



 そう言って、椅子から立ち上がろうとする。

 しかし、身体が椅子から剝がれない。ビクともしない。



「おい! な、何をした!」



 僕が大粒の冷や汗を流しながら叫ぶと、女は笑った。

 そして、何故か背後から小説家を共に志す友人が姿を現した。



「お前、自分で書いてたじゃんか。小説の書き出しに、『椅子は一つしか用意されてない』って。お前の椅子はそれだよ。お前はな、この先、人間を脱落した作家として売り込まれていくんだよ」



 友人は悪魔のように笑いながら言う。彼は先日、書籍化が決まったばかりだ。気付けば、部屋は真っ暗になっていた。そして、再び視界が開けると、目の前には悍ましい光景が広がっていた。






 無数の椅子に束縛された新人作家たちが、血走った目で原稿を執筆している。友人曰く、原稿が完成するまではこの部屋から出れないと言う。どう考えても、異常だ。しかし、異議を唱えた者は、永遠に作家生命を剝奪されるらしい。


 僕は迷う。

 小説『脱人間作家』を完成させるか否か。

 しかし、思い出すだけでも吐き気を覚える自分の性癖や生活に、僕は耐えられる自信が無かった。情けなく筆先が震え出して、とてもじゃなく字を書けそうな状況ではない。汗と血と涙に塗れた生々しい空間で、僕は発狂しそうになった。


 そして、

「ああああああああぁぁぁ! 書けない書けない!」

 発狂。鬼のような形相で編集者が近寄ってくる。

 僕は口を開いた。



「こんな劣悪な環境で傑作が生まれるはずがない。俺はここに来て思ったよ。作家なんて人間がやるべき職業じゃないってね。こんな思いをするくらいなら、ありふれた暮らしに戻る方がマシだ」



 その言葉を聞いて、編集者は眉間に皺を寄せる。大きな稲妻が頭上に走り、僕は気を失った。




 気付いたら、本棚のある書斎にいた。

 目の前には原稿があって、『脱人間作家』と題名だけが記された原稿用紙が遺されていた。僕は鏡を見る限り、顔色も良く、健康そうな身なりをしている。ただ、どうしたことか、自分の名前が思い出せない。

 僕の人生は、真っ白な原稿用紙になってしまった。

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