第5話 方針変更
もともとこのエッセイは軽い息抜きで書こうと思ったのですが、書くならちゃんと書きたいという思いのあまり自分でハードルをあげてしまったなと思い直しました。
その結果、他の作品の更新が滞って本末転倒な状況に陥っていました。
ですので、これからは少し方針を変更しようと思います。
それにしてもエッセイとは難しい。皆さんはどんな方のエッセイがお好きですか?
むかしは村上龍や吉行淳之介が好きでした。なんでもバッサリ切るのがかっこいいと思っていました。エッセイの名手と言われる向田邦子や、山口瞳なんかも「○○がよい」みたいに断定的ですよね。最古の随筆『枕草子』なんかも「春はあけぼの」と断言します。
断言の気持ちよさというのはあります。
それが例え偏見であっても、それが一種の「粋」のように受け入れられる(江戸っ子は宵越しの金は持たぬ、みたいな感じです)。ネットでもバズる言説は曖昧なものではなく、「べきだ」「である」という形をとっている気がします。弱い言葉よりも強い言葉の方が分かりやすいし、気持ちいい。
けれど、断言とはそんな簡単なものだろうか、と思います。例えば人生を賭けるほどの大恋愛をしていて、簡単に「好きだ」と言えるだろうか。少なくとも私だったら戸惑う。逡巡する。言葉につまる。もちろん相手に想いを伝えないといけないので、言うと思いますが……
このときに起きているのは、自分の感覚(実感)と言葉の乖離だと思うんです。
「好き」にはlikeとloveの意味があるとか、人によって違う意味を持つとか……
少し難しい言い方をすると言葉って「他者」なんですよね。当たり前ですけど、自分とは異なるものなんです。
つまり言葉を選ぶって、近似的というか、さしあたり、間に合わせにしかならない。本当の気持ち(というのがあるとすればですが)と言葉の間にはズレがあると思うんですよね。
ちょっと脇道に逸れると、自分の「気持ち」も言葉で言い表し、認識しているから、人間の思考自体が言語によって規定されている、という考え方もあると思います。一理あると思うけど、言葉にできない「実感」があると思うので、さしあたり棄却します。
話を元に戻すと、断言って先のズレが大きいのかなと思うんです。
「春はあけぼの」かもしれませんが、正直、ケースバイケースじゃないですか? かと言って「春はあけぼのもよいが、日暮れもよい」だと様にならない。
確かに様にならないんですけど、ズレは少なくなるのかなって思うんです。
こういう曖昧さを残しつつエッセイを書こうと思っていたのですが、かなり難しかった。仕方ないので、もう少し生ぽい、こんな感じのものをこれからは書こうかなと思っています。
読んでいただけたら嬉しいです。
清原 紫
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