地図にない町

 翌朝施設を出たオコとナツは最寄りの駅へバスに乗って向かった。駅から大きな都市へと向かうバスが出ていたのでそれを使うことにした。新幹線を利用すれば都市まで30分もかからないようだが、バスの方が安上がりだった。


 1時間ほどバスに揺られていると外の景色は見たことのないものに変わっていった。住んでいた街とも、今までいた場所とも違う。強いて言うならそれらを足して割ったような景色だった。自然と人工物が混ざり合い調和した街並み。地面はすべてをアスファルトで固めるのではなく敢えて土を残して木々を生やしている。街の中にはしつこいぐらいに「杜の都」という単語の入った看板が掲げられていた。


 歩道では時折見たことのない形の車椅子を見かけた。小さな車輪が数個付いた、いかつい見た目の車椅子だ。あれも星口玩具の製品だろうか。オコもこの景色には新鮮さを覚えたようで「こんな街もあるんだ」と呟いていた。


 オコとナツが目指しているのは市街地から少し離れた、この街で1番大きな図書館だった。地下鉄とバスを乗り継ぎ1時間ほどで着いた。木々に囲まれた自然豊かな立地ではあったが、やはり意図的に緑を残しているような様子だった。


 図書館の中は広々としているが利用者は少ない。所々に設置された蔵書検索用の端末の画面では赤い星がぶち模様のように体に散らばった猫のキャラクターが動いていた。「赤い星」とナツが呟いた。街を出たら赤い星を探すといいよ。タケハナの言うとおりにするつもりもないが、赤い星を見ると自分達が正しい方へ進んでいるような気がした。


 オコが配架図を眺めている。ナツはその横のデジタルサイネージを見た。1分ごとに切り替わる画面にどこかの職場の求人票が表示された。「人工、ナチュラル不問」の文字でナツはオコに訊ねたいことがあるのを思い出したが、オコは「自分で探すより聞いちゃう方が早いね」と言ってナツを見たので言葉を飲み込み頷いた。


 エレベーターで2階に行き、長い通路を進み数え切れないほどの本棚を通り過ぎ奥のカウンターにいる職員に声をかけた。対応したのは全体的に線が細く、切れ長の目が印象的な髪を耳のあたりまで伸ばした職員だった。


「県内の今の地図と、昔の地図を見比べたいんですけど」オコが言うと職員は立ち上がり「ご案内します」と歩き出した。


「どれくらい前の地図、とかわかりますか」


 職員にそう問われオコとナツは顔を見合わせた。


「カイヅカさんからその話は聞いてないな」


「地図から消えたとしか聞いてない」


 職員が立ち止まる。振り返った職員の片目が背後のふたりを観察するようにゆっくりと動く。オコとナツもぴたりと動きを止めた。


「県外の方ですか」


「は、はい。ええと、九州の」


「こちらの部屋を使ってください」オコの言葉を遮るように職員は言って会議室のドアを開けた。広い机に椅子が数脚置いてあるだけのすっきりとした部屋だった。「書庫から地図を持って来るのでお待ちください」と職員は部屋を出た。


「何なんだろう」オコが小声で言った。わけがわからないナツは小さく首を横に振った。程なくして職員が細い腕が折れそうなぐらいの厚さの地図の束を抱えて部屋に戻って来た。それを机に置くと「他に見たいものがあればカウンターに申し出てください」と言い残して去って行った。閉じられたドアを少しの間眺めてからナツは「あの人何か知ってるよね」とナツに確かめるように言った。ナツは答えずに茶色くなった地図を1枚めくった。


 職員の持って来た資料は答えそのものだった。現在の地図と50年ほど前の、県北の地図。地図から消えた町は拍子抜けするほどあっさり見つかった。職員は地図から消えた町のことを知っていたのだ。それを敢えて言わずに、オコとナツに調べさせた。ふたりは再びカウンターに行き先ほどの職員を捕まえて今度は鉄道の路線図を出してもらうよう頼んだ。会議室に資料を持って来た職員にオコは言った。


「僕ら地図にない町に行きたいんです」


 職員は特に驚いた様子はなかった。かと言ってそのことを良いとも思っていないようで、聞こえないふりをするように目を逸らした。


「何か知っていることがあれば教えてくれませんか」


「図書館は調べ物をする所です。職員の知っていることから何かを教えることはできません」


「そうか」ナツは妙に納得して小さく頷いた。オコが訝しげにナツを見遣る。彼の様子を気にも留めずナツはドアの方を指差す。「じゃああの画面にいる猫はなんだ」


 職員は会議室を出てすぐに戻って来る。手にはあの猫のぬいぐるみと、可愛らしいフォントで文字が打ち込まれた小さなパネルだった。ナツはパネルを手に取る。なまえ、ほしにゃん。うまれたところ、ほしぐちがんぐ。すきなたべもの、おさかな。にがてなもの、こんちゅう。チャームポイント、あかいほしのもよう。みんなのしりたいことをしらべるおてつだいをするよ!なんでもきいてね。


 ナツは理解した。この街で誰が権力を握っていて、誰が畏れられているのかを。そして、タケハナが赤い星を探せと言った理由を。ナツは「ありがとう」と言ってパネルを職員に返した。「町に行く方法を調べたら出て行く」


「資料はそのままでいいので、終わったらカウンターに声をかけてください」どことなく安堵した様子で職員は言って部屋を出た。オコは何故か少し嬉しそうな表情でナツの顔を覗き込む。


「なんだ」


「ありがとうが言えたなって」


「それがどうかしたか」


「だってナツ“ありがとう”ってなかなか自分から言わなかったんだもん」


 そんなことはないだろう、と思ったが口には出さなかった。


 地図にない町は県北の内陸、大崎平野に位置する小さな町だった。50年前の地図ではいくつかの線路が町内で交差している様子が見て取れたので、鉄道で比較的簡単に訪ねることができたのだろう。が、最新版の路線図では町の手前の駅で線路が途切れていた。オコは路線図を見ながら頭を掻いた。


「一旦海側の町に行ってから手前の駅までの鉄道に乗ると、歩く距離は少なくて済む。でも遠回りかな」


「新幹線は」


「うん。でもこの駅からだと10キロぐらい歩かないといけないな。新幹線お金かかるし」


「こっちの線路は」


「新幹線ルートほどじゃないけど結構歩く。でも1番お金からないのはこれ」


 両腕を組んでオコが呻く。それを見てナツは広げた地図を重ねてまとめながら「とりあえず市街地に戻ろう」と言った。「いずれそこまで行かないと鉄道に乗れない」


「そうだね」とオコは頷いた。路線図を閉じて会議室を出た。


 市街地行きの地下鉄に乗り込んだ所でオコがナツに顔を寄せた。「さっきの図書館システムのことだけど」


「星口玩具の」


「そう。やっぱり僕らの街を出たら星口玩具が強いんだなって思ったよ」小さく溜め息をつくオコ。「オピドスだって図書館システム作ってんだよ」


 多少は悔しい気持ちもあるのだろうかとナツは思ったが、どうやらそういうわけでもないらしい。オコは「現実早めに見られて良かったかも。やっぱりお父さんと同じ所に就職するのは辞めとこう」と、ぼそりと言っていた。


「街を出るのか」


「まあ、そういう選択も視野に入れて、だね」


 ナツが押し黙る。オコが意外そうに眉を上げた。「え、何」


「俺は街から出られないと思う」


「寂しいの?」


 ナツがそっぽを向いた。オコはその顔を追いかけるようにロングシートから身を乗り出す。「ナツって結構そういう所あるよね」


「そういう所ってなんだ」


「でもさ」とオコが姿勢を戻す。「ナツの親がここで見つかったらこっちに移り住むんでしょ」


「わからない」


「成人になるまでは大人と一緒にいた方がいいと思うけどな」


 これからのことなんて考えられなかった。虫を自然のある場所に放したら街に戻って今までどおりの生活をするつもりだった。親を探すというのがただ北に行きたいだけの後付けの理由だと気が付いた今、親と一緒に暮らす自分を想像すらできなくなっていた。


 地下鉄が市街地の駅に着いた。ほとんどの乗客がここで下車した。オコとナツはその流れに乗るようにホームに出た。市街地の大きな駅まで戻ると改札の前がやけに混雑していた。


 柱のデジタルサイネージを見ると地図にない町の手前まで走る路線のうちのひとつが運休になっていた。アナウンスが響いているが何と言っているのかよく聞き取れない。オコとナツは顔を見合わせた。一度海側の町まで迂回するルートを取らざるを得なくなった。ふたりは改札を抜けて沿岸部へ向かう路線に乗り込んだ。


 鉄道は東の海の町を目指しながら緩やかに北上する。途中から窓の外に海が広がる。全国的にも有名な景勝地を通過した。今日は晴れているので海がよく見えた。


 紙島と本土をほぼ毎日行き来するナツにとって海は珍しいものではない。だがよその海は初めて見た。紙島の周辺のようないかにも工業地帯というような雰囲気は感じない。造船所らしきものはなく漁船と遊覧船がのんびりと海上を滑るのが見えた。同じ海でも全然違う。図書館システムのキャラクターほしにゃんのプロフィールを思い出す。すきなたべもの、おさかな。こういう海ではどんな魚が獲れるのだろう。


 1時間半ほどかけて鉄道は海の町へ着いた。乗り継ぐ鉄道が発車する時刻までまだ時間がある。一旦改札を出て駅舎を出た。駅のすぐそばの広場でイベントが行われているらしく、テントがいくつか設置されて賑やかな声が聞こえてきた。オコが駆け寄る。


「なんかいろいろ売ってる」と指差した先にはイボのついた赤い物体が容器に収められていた。「なんだこれ」とナツが呟いた。


「うめえよ」と赤い物体のそばに立つ女性が言った。オコはテントの陰に隠れるように容器越しの女性に顔を近付けた。


「ちょっと聞きたいことがあるんですけど」


「何?」


「僕ら途切れた線路の向こうに行きたいんです」


「あんだやー、あんなとこ行っても何もないべっちゃ」


「何もないのか」ナツが言った。女性はその声を聞いて「よその人?」と首を傾げた。今の一言でバレたのか。そんなに訛っていたか。


「駅からあるってくしかないべし、それに今は」女性の声はそこで途切れた。彼女の背後でふたりの男性が白い容器を抱えながら何やら話していた。女性が振り返るのでオコとナツもそちらに耳を傾けた。


「またか?」


「んだ。最近多いな」


「どーする、また持ってくか?」


「めんどくしぇ」


 女性がふたりの覗き込む箱の中を見遣り「あー」と呟く。それからオコとナツを見た。「そうだ。あっちさ行くならこれ持ってってけろ」


「何ですか」オコが首を傾げると話し込んでいた男性のひとりが箱をこちらに持って来た。中には敷き詰められた氷と、ひとつの胴体から頭がふたつ飛び出した魚が入っていた。ナツは息を呑んだ。


「こいな変なの取れたらヤマノカミサマに持ってくことになってんだっちゃ」


「ヤマノカミサマ?」


「さっき言ってた線路の向こうの町さある神社。どうせ行くんだっちゃ?持ってってけろ」


 さっき何もないって言ってたのに、神社はあるのか。ナツは思ったが言わなかった。それからオコに向かって小さく頷いた。それを見てからオコは箱を受け取った。1両だけの鉄道が駅のホームに入るのが見えた。女性が「あれ乗んだっちゃ?」と言ったので、オコとナツは早足で駅に入った。「頼むね」と背中に声をかけられた。「まーたヒトガタ出んだべか」と男が疲れたように漏らすのをナツは聞いた。


 車両内は乗客で椅子が半分ほど埋まっていた。駅を出て町を抜けると広い畑が見えた。畑に生えた草の根本に水が張ってあるようで、陽の光を受けてきらきら光っている。「水田だ」とオコが言った。


「お米ができるんだ」


「そうなのか」


「学校で習った。バケツで育てたことあるけど、僕が食べる前に鳥に盗られちゃったんだよな」


「鳥も米を食べるのか」


「虫だってパン食べるしね」


 駅で停車するごとに乗客は減っていき、終点の手前の駅で乗客はオコとナツだけになった。傾き始めた陽の光も相まってやけに寂しい。「次の駅には改札がありません。お降りのお客様は運転席で運賃のお支払いをお願いします」とアナウンスが流れた。アナウンスの後すぐに鉄道は止まった。


 運転手が腕を伸ばして差し出したのはカイヅカが持っていたものと同じ白くて四角い端末だった。ふたりはカードをかざして下車した。短いホームと小さな待合室だけの小規模な駅だ。「線路の跡を辿ってみようか」とオコが言って歩き出した。


 線路を右手に、できるだけ離れないように歩いた。周りは水田に囲まれていて、風が吹くたびに青々とした草が音を立ててそよいだ。どこかでヒグラシが鳴いている。いつの間にか気温が下がっていたのだ。


 どれくらい歩いただろうか。オコが「大体なんで海の魚なのに山の神様の所に持って行くんだ」とボヤき始めたあたりで目の前に異様な光景が広がり始めた。行く手を阻むように長い金網が立っているのが見えた。十字路が町の境目のようだが、金網は先がよく見えないほど遠くまで続いている。恐らく地図にない町はこの金網にぐるりと囲まれているのだろう。扉のようなものは見える範囲ではなさそうだ。


「どうしようか」


「扉のある所を探すか、このまま上って越えるか」


「越えちゃった方が早そうだね」


 金網は2メートルほどの高さしかなく、侵入防止の道具を取り付けている様子もない。試しに先に上ってみようとナツが金網に手をかけた瞬間だった。オコが「あ」と言った。ナツが振り返るとこちらに飛んで来る大きな生き物が見えた。大きな目に薄い翅。オニヤンマだ。カイヅカの所で見たオニヤンマだろうか。やはりここを目指していたのか。


 オニヤンマは高度を下げるとオコに向かってまっすぐ飛行した。避ける間もなくオコとオニヤンマは正面衝突した。いや、そう見えただけで実際にはぶつかっていなかった。オニヤンマはオコの持っている魚を狙っていたようだ。箱ごと6本の脚で器用に掴んで飛び立とうとしていた。オコが箱を離さないのでナツは駆け寄ってオコの腕を掴んで箱から引き離した。


 一瞬だけ宙に浮いたオコは背中から地面に転がりそうになるのをなんとか腕で阻んでいた。ナツはそのまま転がり体を砂だらけにした。オニヤンマは箱から飛び出して地面に落ちた頭がふたつある魚を見つけると、箱をあっさりと捨てて魚を掴んだ。旋回して高度を上げる。


「トンボって魚食べるんだ」


「虫もパン食べるしな」


 オコとナツはそのままオニヤンマを見送るつもりだった。魚を取られたことはどうも思わなかった。が、そこに現れたもうひとりはそう思わなかったようだった。何かが爆ぜるような渇いた音が湿った空気を震わせた。オニヤンマがバランスを崩して水田に落ちた。ナツは体を起こしてオニヤンマに近付いた。右側の前後の翅がボロボロになっていた。半分以上千切れた翅を羽ばたかせようと動かすので、水田の水がバシャバシャと跳ねて泥と一緒にナツの顔と体にかかった。


 ナツは振り向いた。唖然とするオコが見えた。その向こうの金網のてっぺんに跨るようにして座る男の姿も。男は銃身の細長い猟銃のようなものを構えていた。袖のないシャツから出た腕は栄養不足で痩せたナツでも驚くほどに細い。彼の腕が長い上に血色が良くないから余計そう見える。


 男はオニヤンマが飛べないのを見ると構えていた銃を下ろして金網から飛び降りた。20代半ばに見える男が歩み寄って来てナツは彼の背の高さに気付いた。ナツより頭ひとつ分は大きいであろうその男は目にかかるほどの長さの前髪を掻き上げてオニヤンマを見た。それからナツを見遣る。感情の読めない冷え冷えとした双眸に少し分厚い唇。ナツは心臓が跳ね上がったかと思うほどに高揚した。今まで感じたことのない胸のざわめきを覚えた。男はどこか艶っぽい唇を開いた。


「魚」


「魚」


「持って来てくれたのか」


 この男のために持って来たつもりはなかった。が、すぐに答えられなかった。

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クテノレピスマの生存戦略 馬瀬 曽波子 @maze_sobako

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