知らない自分

 オコが窓口の駅員に声を掛けた。都市化の進んだ街はどの施設にも電子案内板があって操作をすれば大概のことはわかる。この駅にも当然そのような設備はあった。にも関わらず彼は敢えて人に頼っていた。


 駅員も少し面倒そうな顔をしていた。それからオコの顔の痣を見て少し驚いたような表情を浮かべてその間を取ったような顔付きに落ち着いた。オコは駅員に新幹線の発車する駅への道程を訊いてから「ありがとうございます」と丁寧に礼を言った。ナツも少し遅れてから小さく頭を下げた。駅員が窓口の奥に引っ込むのを見てからナツは案内板を指差しながら口を開いた。


「これ使わないのか」


「うん」と頷きながら案内板の端を指差すオコ。その先には特徴的なロゴで「Opidos」と書かれていた。「お父さんにバレないように、一応ね」


「これ使うとバレるのか」


「どの時間にどんな人が何を調べたのかぐらいは記録してるよ。プライバシーを侵害したいわけじゃなくて、そういう情報の統計を取って機械の改良をしていくんだって。表向きはね」言いながらオコは端末を出した。「これも通信は切ってる。オフラインでも使える地図とか保存して見られるようにしといた」


「なるほど」とナツは頷いた。街を出る時にオコに電子マネーのカードを交換させられたことを思い出した。


「ナツもオピドス製の何か持ってたら言ってよ。こんなことで街に連れ戻されたら残念過ぎる」


「多分、大丈夫」とナツが答えた直後だった。オコの背負ったリュックがもぞもぞと蠢き始めた。ナツは慌ててオコの背中に覆い被さるように体を寄せてリュックを隠した。オコも異変に気付いたようだ。「どうしたんだろう」と呟きナツの身長ほどはある電子掲示板の陰に隠れた。この虫は恐らく夜行性だ。昼間はほとんど動かず夜にリュックを抜け出す。この時間帯はあまり動かないはずだ。


「さっきのパン合わなかったかな」とオコがナツを見遣る。


「トラックで移動してる間はずっとあのパン食べてた」


「そうか、そうだよね」


「オコの読んでた虫の本には何か書いてなかったのか」


「本?ええと」とオコは頭を掻く。「カブトムシの幼虫なんかは酸欠が原因で土から出てくることがあるみたいだけど」


「息苦しいのかな」


「わかんない。ちょっと開けてみようか」


 オコとナツは顔を見合わせて小さく頷き合った。ナツがファスナーを少し開けると長い触角が跳ねるように飛び出し、次に頭が出てきた。その時点でナツは危機感を覚えて「あ」と呟いた。虫は頭を使ってファスナーの隙間を広げるとあっという間に体を外に出してオコの背中を伝い床に下りた。普段の緩慢な動きからは想像もつかない速さで駅の出口へ這っていく。ナツは走り出した。虫しか見ていなかった。オコは驚いた様子の周囲の人々を見てから駆け出した。


 虫の動きには迷いがない。頭を小さく振りながら何かを辿るように駆けていた。まるで誰かに導かれているようだ。こんな様子は紙島でも見たことがない。この街には何があるんだ?虫は交差点の曲がり角もほとんど動きを止めることなく進んでいった。やがて虫はやや狭い通りに入った。その通りの、こちらも狭い入り口のある建物にサッと身を隠すように入り込む。


 ナツは建物の前にある紙がベタベタと貼られた看板を見上げた。紙に隠れて看板の字は読めなくなっていた。看板の向こうはトンネルのように屋根が続いている。その奥の扉は開いていた。脇にかいた汗がシャツの生地に触れないままナツの細い腕を伝ってきた。それをズボンで拭いてからナツは歩みを進めた。


 奥の扉に続く道を囲む壁にも紙が無数に貼られている。何かのロゴが描かれたシールが幾重にも貼り付けられているのだ。ナツは壁を撫でるように触った。風化したシールがボロボロと剥がれた。下に貼られたポスターが比較的綺麗な状態で露わになった。「当館では人工生命体の雇用は行っていません」の文字。その文章の意味を考える余裕は、ナツにはまだなかった。


 扉の向こうの部屋は暗く外からの明かりだけでは奥が見渡せない。ただ、広い空間であることはわかった。何かの機械がごちゃごちゃと置かれている。機械はどれも古そうで、太いコードが蛇のように床に這っていた。僅かな明かりで足元を見ながら歩いた。その中にやけに細い線を見つけて視線を移すと虫がいた。ナツは「いた」と呟いた。それに誰も答える者がいないことでようやくオコとはぐれてしまったことに気が付いた。心細さのせいかやけに強く虫を抱き上げてしまった。


 辺りが急に暗くなった。ナツは振り向いたが明かりの入らない部屋では何も見えない。誰が扉を閉めたのかも分からなかった。物音がしてナツは音の方向から離れるように後ずさった。その後に聞こえた「んっ」と力を込めるような声に驚いて身を竦めると真横で何か重いものが落ちる音がした。身体中にじわりと汗をかいて頭がひんやりとしてきた。恐怖のあまり声も出ない。とにかく動かなければという一心で虫を抱えたまま走り出した。「よいしょ」と緊張感のない声とともに背後から聞こえる鈍く大きな音。声の主が何か重いものを動かしていることはわかった。その重いものがナツに向けられていることも。


「あらあ?」


 その声は女のものだった。だが女性だとわかった所で形勢が逆転するわけでもない。ナツはできるだけ声の主と距離を置こうと走った。が、太いコードが足に絡んでバランスを崩し転んだ。「うわあ」とナツの口から情けない声が出た。女が「あらあ?」ともう一度言った。足音が遠ざかる。程なくして部屋全体がパッと明るくなった。そこでナツは自分の手足がガタガタと震えていることに気が付いた。床に突き刺さったままの斧が見えた。


「ごめんなさいね、お客さん?」


 のんびりとした声にナツが顔を上げると、部屋の壁際に女性が立っていた。二十代ほどで、身長はナツより少し低いぐらい。黒髪は彼女の腰の辺りまで延びている。派手なピンク色のワンピースを着ていて裸足だった。女性は耳にかかる髪を掻き上げ「すみませーん、もしもーし」と天井に向かって呼び掛ける。


「客じゃない」ナツは震える体をゆっくり起こす。「虫を探しに来た。すぐに出る」


 女の表情がパッと明るくなった。「あら、あらあらあらあ」と歩み寄るとナツの前にしゃがみ込みナツの顔を触る。「やっぱり虫が来たのね。でも変ね、この子虫っぽくない」


 女の目はナツの方を見ているが焦点が合っていない。目が見えない人なのかもしれないと思いナツは「俺は虫じゃない。こっちにいるのが虫」と言った。


「それはわかるよ。この子ね。ママから聞いたおとぎ話と一緒。本当にいたのね」と女はナツの胸元にいる虫を撫でる。それから再びナツに触れて首元に顔を近付けた。「あなたもいい匂い。オリーブ油で焼いたら美味しそう」


 またヒヤリとした汗をかいた。扉の向こうから鈍い音がして「ナツ、ナツ」と声が聞こえた。ナツは女を押し退けて立ち上がり扉を開いた。汗だくになって肩で息をするオコがいた。


「ナツのこと追いかけたんだけど、途中でバテちゃって」


「虫、ここにいた」


「良かった。ありがとう」とオコがナツから虫を受け取った。部屋の中を見て少しだけ後ずさった。


 女が立ち上がりオコとナツに歩み寄る。「その子、あなたたちの虫ちゃんだったのね。大切な子なら食べるわけにはいかないよね、残念だけど」と眉を下げた。それからオコに歩み寄ると胸の辺りに顔を近付けてにおいを嗅いだ。ギョッとするオコを気にする素振りも見せず女が「すごい汗。もうその子は食べないから、お詫びをさせてくれない?」と言った。


 女曰くライブハウスだったというその建物の奥の部屋には生活感はあるがシンプルな光景が広がっていた。椅子とテーブルとベッド。古びてはいるがきちんと物がしまわれている。ケケと名乗った女はオコとナツの名前を聞いてからオコを先に風呂場に行かせた。キッチンの電気ヒーターで湯を沸かしながら「ごめんねえ、あたし目が見えないからナツのこと虫だと思っちゃった」と言った。キッチンを行ったり来たりするその様子は盲目とは思えない。


 彼女はこの元ライブハウスで一人暮らしをしているらしい。防音設備のあるこの建物なら外の雑音に惑わされることなく生活できる。昆虫食が好きで自分で罠を仕掛けて捕まえ調理しているそうだ。駅にも虫にしか感知できないフェロモンを撒いているとのこと。だからオコの虫は急に暴れだしたんだ。


 ナツは虫を抱えて部屋の隅に座り込んでいた。汗だくになった服は洗面所の洗濯機の中でガラガラ回されている。目が見えないケケはナツが全裸でもお構いなしである。ケケはティーポットとカップをテーブルに置きながら辺りをキョロキョロとして「あれ?椅子使っていいのに」と言った。ナツがひとつしかない椅子に座る。ケケはテーブルの上に腰を下ろした。


「ナツのにおいは虫に似てるんだよねえ、美味しそう」


「俺は虫じゃない」


「でも食べたら絶対美味しいよ」そう言うとケケは笑って機嫌が良さそうに頭を振った。


「どうして虫を食べるんだ」


「美味しいから」即答するケケ。「ねえ、ナツは本当に虫じゃないの?」


「違う」


「そう」どこか納得していないようなケケの声色。彼女はテーブルの上のティーポットとカップを避けてナツににじり寄った。「ね、一口食べさせて」


「嫌だ」


「お願い。ちょっと舐めるだけだから」とケケは媚びるような目で言った。「怪我させない。約束。絶対。一生のお願い」


 こんなに軽率に「一生のお願い」を消費できる無邪気さが少し羨ましいとナツは思った。一度席を立ってリュックに虫を押し込んでから再び椅子に座った。椅子を引いてテーブルに身を乗り出した。ケケが手を伸ばしナツに触れると嬉しそうに引き寄せて首の付け根辺りを咥えた。痛くはなかったが舌で汗を舐め取られる感触が少し気持ち悪かった。頬の産毛が焼けるようなピリピリした感覚を覚えた。


「ちょっと焦げたみたいな香ばしい味?あんまり食べたことないな」顔を上げたケケが言って唇を舐めた。ヤカンの中で沸騰した湯が暴れまわる音がする。ナツが見遣るとヤカンの口から立ち上る湯気の向こうにオコが立っていた。全裸で眉根に皺を寄せて口を半開きにしてこちらを見ていた。


 ナツがシャワーで汗を流した後でケケは熱い茶のようなものを淹れた。飲んでみると紅茶のような味だった。ケケはテーブルに座り「これ貰ったんだけど読めないからさ」と茶葉の入った袋をナツに渡した。ナツはパッケージを眺めた。“星口玩具”の文字が目に飛び込んできて思わず「星口玩具」と口に出して読んでしまった。ケケが納得したように頷いた。


「そうだ、そこから届いたんだった」


「この町に星口玩具があるのか」


「ううん。星口玩具はもっと北。一度お世話になっただけなんだけど時々贈り物が届くんだよね」


 オコがナツに顔を近付け「ヒノキも星口玩具の義足使ってたでしょ」と言った。「福祉用具っていうのかな、そういうの作るの得意らしいんだ。サポート用ロボットとか」


「そうなのか」


「北に行けばもっと見ることになると思うよ」


 このやり取りでケケはオコとナツが北に向かうと知った。だからだろうか、ふたりがこの家を出る頃に二枚の紙製のチケットを差し出した。横長のチケットには綺麗な三角形の山が描かれていた。


「あたしは行かないからあげる」そう言ってからケケはオコとナツの間を見るように顔を向けて微笑んだ。「ナツ、死にそうになったらまたここに来て。あたしが食べてあげる。どうせ死ぬならいいでしょ?」


「駄目。絶対駄目」オコが頬を膨らませて怒った。歩みを促すようにナツの背中を押した。「そもそもナツはそんなに早く死なないよ」と歩き出した。遠ざかる足音に気が付いたのかケケが手を振った。


「当館では人工生命体の雇用は行っていません」の張り紙が目についた。このことをオコに訊ねようとナツが口を開きかけたがその前にオコがナツの体を眺め「本当に大丈夫?食べられちゃってない?」と心配そうに訊ねた。


「大丈夫」とナツは頷いた。張り紙のことを訊ねる気が削がれた。代わりというわけでもないが「それより」とケケから受け取ったチケットをオコの前に掲げた。チケットに書かれた地名を指差す。


「これ、俺達の行き先と同じ」





 雪が見たいんだよね、とオコが車窓の外を眺めながら言った。ナツは聞き間違いだと思った。


「ごめん、よく聞こえなかった」


「雪」


「雪」


「僕らのいた街、あんまり雪降らなかったでしょ」


「そうだな」とナツは頷いた。確かに雪は1年に1度降るか降らないかぐらいだし、積もっている所に至っては見たことがない。


「北に行けば雪が見られるのかなって」


「でも今夏だし」


「北の方って寒いんでしょ?」


「そんなに寒いのか」


「寒いんじゃない」


 冗談で言っているのだろうか。オコとは長い付き合いではないので判断ができなかった。ただ、表情は至って真面目だ。きっと本気で言っているのだろう。でもいくら北と言っても真夏に雪は降らないだろう、とナツは思っている。夏にてっぺんの雪がなくなった富士山の画像をどこかで見たことがあるような気がしたからだ。


 日本で1番高い山に雪がなくなるのだから夏に雪は降らないのではないか。いやしかし高等教育を受けているオコがこう言っているのだし夏に雪が降る地域が国内にもあるのかもしれない。どうなんだろう。やっぱり冗談で言っているのかもしれない。自分が知らないだけでオコはそういう冗談を言う人間なのかもしれない。


 ナツが頭の中で考えを行ったり来たりさせている間に新幹線は目的の駅に辿り着いた。通路側に座るオコは「着いた」と言ってさっさと席を立った。抱えていたリュックを背負い自動で開いた扉からホームに下りる。「雪が降るような気温じゃないな」と少し残念そうに呟く彼の声を聞いて、ナツはオコが本気で雪が降ると思っていたのだと確信した。


 駅の規模はふたりがいた街と同じくらいだった。ナツは少しだけ安心感を覚える。北には見たことのないものしかなくて目に映るすべてのものに圧倒されるのだと思っていた。親しみやすい景色もあるようだ。


 オピドス製の案内板はこの駅では見当たらない。オコが観光案内所にいるスタッフに声をかけた。端末の地図を見せるとスタッフの女性が「カイヅカさんの所ですか」と言った。タケハナと似たような訛りにナツはハッとした。ここは北なんだとようやく実感した。


 駅の東口から出るバスに乗った。白地に赤と青の線の入った小さなバスだ。東側にある大きな川を越えると前方にいくつかの山が見えた。夏の青々とした木々の茂る山にオコが目を丸くする。車内の通路に顔を出してフロントガラスから外を眺めた。


「すごいね。緑」


「ん」


「虫いそう」


 30分ほどバスに揺られ、オコが案内所のスタッフから聞いたという目的のバス停に着いた。ナツは降りて停留所の看板を見る。思わず「UFOの里」と口に出してしまった。


「UFOってなんだ」


「未確認飛行物体を英語で書いた時の頭文字を取ってUFO。まあ、宇宙人の乗り物とか?」


「宇宙人っているのか」


「わからないけど」とオコは肩をすくめて歩き出す。「町おこし的なことでもやってるんじゃないかな」


「町おこしってなんだ」オコに早足で付いていきながら今度はそう訊いた。


「町を宣伝するためにいろいろ活動すること、かな。この町にはUFOが来るからみんな見に来てくださいって宣伝してるんだと思う」


「本当にUFO来るのか」


「そういう核心を突いたことは言わない約束なんじゃないかな」オコは苦笑しあたりを見回した。「自然が多い所だね」


 ナツも周囲を眺めてから頷いた。車道沿いのガードレールの向こうに畑や木々が見える。何の畑だろうか。細長い草が生えているように見えた。キャベツ畑ではないことしかわからなかった。


 狭い歩道をしばらく歩くと左手に石段があった。そこを上り鳥居を潜ると広場があり、さらに階段が続いている。オコが端末を見ながら階段を上った。その先で左右をきょろきょろ見回してから「こっちかな」と呟き左の道を進んだ。右手側に立ち塞がるように佇む緑色の山はまるで壁だ。しかもそちらの方から妙な音がする。何かを震わせているような音がいくつか聞こえてくるのだ。オコも時折山の方を見遣っているから気にはなっているのだろう。音を出しているものの姿が見えないから余計怖い。オコの背負うリュックに付いた取っ手を掴むと彼が肩越しにこちらを見た。


「え、何」


「変な音するから」


「確かにするけど」


「なんだろう」


「なんだろうね」歩く速度を落としたオコが言う。「怖いの?」


「怖くないのか」


「怖くはないかな。変だとは思うけど」


 程なくして建物が見えてきた。八角形の屋根のついた円柱状の、2階建ての施設。オコとナツのいる道路を挟んで反対側には駐車場と思しき広場とぼろぼろの建物がある。


 とりあえず、人の気配のありそうな八角形の屋根の建物の方を見てみることにした。山に隣接するこの建物はすぐそばに山の遊歩道へ続く階段がある。そこを行く者たちを導くかのように、階段の近くには石でできた奇妙なオブジェが鎮座していた。吊り上がった大きな黒い目に、開けた小さな口。ぼんやりとした表情に見えるが、それもまた不気味だ。ナツがリュックを掴む手にも力が入る。


「そろそろ放して欲しいんだけど」オコが言うがナツは首を横に振った。


「こんな所に人がいるのか」


「確かに、階段上ってからは車すら見ないね」


 オコの住んでいる紙島は1キロ平方メートルにも満たない人工島で、そこに5000人が暮らしている。人口密度がこことはまるで違うのだ。ナツの住まいがある本土の街も大企業長南グループの息がかかっているためか、紙島ほどではないにしても企業に関わる多くの人々がひしめき合っている。こんなにがらんとした風景はあまり見ない。


 建物の中に入ると小さな開閉式の窓のあるカウンターと、同じような大きさの本が詰め込まれた本棚があった。本の背表紙は日に焼けてほとんど見えなくなっている。受付の小さな窓には「すぐ戻ります」と書かれた紙が貼ってあった。紙も色あせてはいないし、古いものでは無さそうだ。


「人、いそうだね」


「ん」


「とりあえず近くを見てみようか。虫いるかも」


「外は変な音する」


「大丈夫だよ、多分」


 ナツは山から響く奇妙な音を防犯装置か何かだと考えていた。あれだけ自然の残る山なら虫は確かにいそうだが、あまり立ち入りたくはない。オコはナツの様子を見て苦笑した。


「わかった。じゃ、山の方には行かないでさっきあった別の建物でも見に行こうか」


 ナツは小さく頷いた。彼はオコのリュックを掴んだまま歩く。「歩きにくいんだよなあ」とオコはボヤいたが振りほどきはしなかった。道路を挟んで向こう側にある建物は鍵もきっちり閉められていて、人が出入りしている気配もなかった。ガラス張りの引き戸から中を見ると乱雑に何かの道具が置かれている。刃物のようなものや、大きなシャベルが見えた。


 特に何の収穫も得られず八角形の屋根の建物に戻ると、脇の水道で履いたままの長靴に水をかけている男がいた。この暑い中長袖の白いシャツに長ズボン。つばの広い帽子を被っている。男は水を止めて首にかけたタオルで汗を拭きながら顔を上げた。オコとナツと目が合った。


 男の年齢は見た限りでは30代前半といったところか。吊り目の一重まぶたで全体的にあっさりとした顔立ちだ。「ごめん。気が付かなかった」と男は帽子を取った。髪が汗で濡れていた。


「ここに用?」


「あー、はい」とオコが頷いた。


「中で少し待ってて」


「わかりました」


 受付の小さな窓の向こうにある事務室を眺めながら待っていると男が「お待たせ」と言いながら入ってきた。「UFOの里へようこそ。入館料はこちらに」と差し出された通信端末は四角くて白くつるんとした質感だった。言われるがままカードを出すオコを遮るようにナツはポケットから出した紙のチケットを男に見せた。男が目を丸くした。


「年代物だな。そんなのどこで手に入れたんだ?」


「南の町で貰った」


「やっぱり紙は残るな」何かに納得したように頷いてチケットをズボンのポケットにしまうと彼は小さな窓を開けて事務室側のカウンターに置かれた名札を首にかけた。「館長 貝塚伊吹」と書いてあった。彼が駅の案内所で名前の出たカイヅカだった。


 カイヅカは黒いカーテンのかかった何かの入り口を指差し「あそこから見に行ってくれ」と言った。ナツが再びオコのリュックを掴んだ。カーテンの向こう側は細い通路になっていた。青いライトがぼんやりと点いた暗い通路を歩くと、人感センサーが付いているのか壁の展示ケースに明かりが灯った。ナツがびくりと肩を震わせる。声こそ出さなかったが彼の震えがリュック越しに伝わったようでオコが振り向いた。


「大丈夫?」


 ナツが首を横に振る。オコは困ったように笑いながら「別に怖いものじゃないよ」と言った。明るくなった展示ケースの中には円盤のついた塔がいくつも連なるジオラマだった。


「昔の人はこの町がこうなると思っていたらしい」後ろをついて来たカイヅカが展示ケースのガラスを指でつついた。「ここはだいぶ前に町おこしのために作られた施設。もうほとんどお客さんは来ないんだけど、一応俺が管理してる」


「そうなんだ」オコが呟いた。


「物珍しさで来る人もいるんだけど、君たちはそういう感じでもないんだな」カイヅカは不思議そうに言うと先を歩いた。通路を抜けると球体に円盤をつけたような大きな置物が見えた。「これはUFO。宇宙人の乗り物」


「宇宙人って本当にいるのか」ナツが言った。


「このあたりでは昔はよくUFOが飛んでいたみたいだな」


「そうなのか」


「あっちにあるのが宇宙人の模型」とカイヅカの指差す先には大小様々な宇宙人の模型が点々と置いてあった。その中のひとつに「赤い星」とナツが声を漏らした。五芒星のような赤い体の中心にひとつの目のついた宇宙人の模型があったのだ。「あれはパイラ人だな。割と友好的」とカイヅカが説明した。


「あっちの大きいのは」ナツが顔の赤い宇宙人の模型を見遣る。


「フラットウッズモンスター。3メートルある。あとめちゃくちゃ臭い」


「こっちは」


「グレイタイプ。背は低め。下等な生物っていう説もある」


「あの紙は」


「CIAの機密文書。来館者にコピーして配ってる」


「機密文書配っていいの」オコが呟いてから「そんなことより」と語気を強めた。「僕らカイヅカさんが虫に詳しいって聞いて来たんですけど」


 カイヅカは意外そうに眉を上げて「あ、そっちのお客さん?」と声を上げた。「それならそうと早く言ってくれればいいのに」


「見てもらいたい虫がいるんです」とオコが言うとナツはリュックから手を離した。ファスナーを開けて中から虫を出した。まだ昼間のためか虫の動きは鈍い。カイヅカが目を丸くして嬉しそうに「おお」と言った。


「大きいやつか。こいつをどこで見つけたんだ」


「えっと、僕は紙島に住んでて」


「紙島っていうと九州の?」


「はい。本土で買った古本にくっついてました」


「そうか。どうりでこの子が九州訛りで喋るわけだ」カイヅカは頷きながらナツを見た。ナツはオコに向かって首を傾げる。オコは「訛ってるよ」と囁いた。全く気が付かなかった。俺訛ってたんだ。カイヅカとそこまでたくさんやり取りをしたつもりもなかったのに気付かれたということは相当訛っていたのだなと思った。


「触ってみていいかな」とカイヅカが訊いた。オコが頷き虫を差し出すとカイヅカは胸部を掴んで目の高さまで持ち上げた。背面を眺めてから裏返して腹面を見る。「無翅昆虫だな」


「なんだそれ」


「元から翅のない昆虫。原始的ってやつだな」


「原始的ってなんだ」


「進化する前の姿を残してるってこと」カイヅカは答えてから「シミかイシノミだと思うんだけど。ちょっと顔見せて」と話しかけながら虫の体を傾け顔を覗き込んだ。「うん、多分シミだな」


「シミ」


「それにしてもよく九州で生き残ってたな。東北まで来たのは初めて?」


「東北どころか街を出たのが初めてです」とオコが答えるとカイヅカは「そうか」と小さく頷いた。それからオコに虫を渡しながら「君たち若そうだし尚更イチから説明してやらないといけないな」と言った。


「説明、とは」オコが首をひねる。ナツも同じような表情をしていた。カイヅカは手についた虫の鱗粉をシャツで払ってからCIAの機密文書を展示しているケースを指の関節で小さく叩いた。


「これ、1940年代の記録」


「そんなに昔の記録が残ってるんですか」


「通信崩壊で日本の電子記録は大ダメージを受けた。クラウド上のデータはほぼすべて失われたらしいな。ペーパーレス化の進んだ2020年代以降の記録がごっそり抜け落ちてしまったんだ。1940年代の紙媒体による記録はしっかり残っているのに2020年代以降の電子媒体による記録は消えてしまったという変な状況になった。その中でなかったことにされたものも結構ある」


「この虫もそうなのか」ナツが虫をリュックにしまいながら言った。


「そういうこと。君結構察しがいいね」


「いや、別に」


「巨大化した虫はかつて珍しいものじゃなかった。通信崩壊で消えた記録の中に残っていたはずだよ」


「なんで虫はいなくなったんだ」


「人間が狩って数を減らしたか、環境の変化で住めなくなったのか。そのあたりはわからないけど、ここにはまだ時々巨大化した虫が来るよ」


「本当に?」オコが声を上げた。


「そいつらを調べるために俺はここにいるから」そう言ってカイヅカは笑顔を見せた。「山に登ってみようか。運が良ければ見られるかもしれない」


 ナツが表情を曇らせた。普段から明るくはない彼の顔色がさらに悪くなった。オコは「カイヅカさんがいるんだし大丈夫なんじゃない」と声をかける。カイヅカがナツを覗き込んだのでオコはナツの代わりに「山から聞こえる音が怖いみたいで」と説明した。


「音?」


「ジージー言ったりしてる」ナツがリュックの陰からカイヅカを睨むように見上げた。カイヅカは何度か瞬きをして両腕を組み天井を見上げた。それから何か思い当たることがあったのか「あ」と声を上げ、吹き出すように笑った。


「君たちセミは知らないのか?」


「セミ?」オコとナツが同時に呟いた。カイヅカはオコの背中に隠れるナツの肩を叩いた。


「あれはセミの鳴き声だ。噛みつくような虫じゃないし大きいのも最近は見てない」


「虫って鳴くのか」


「犬とか猫みたいに口から鳴き声を出すわけじゃないけどな。セミは腹部に発音器があって鼓膜を震わせて音を出すんだ。ほかには翅を擦り合わせて音を出す虫もいる」


「そうなのか」


「日が暮れる前に山を下りたいし、そろそろ行こう」とカイヅカが先頭に立って歩き出した。オコが振り向き「もうリュック掴む必要ないよね」とナツに言った。


 石で作ったオブジェの横を通り階段を上った。山の中なので当然、木や草で覆われているが、人が歩けるよう道は整えられていた。「さっきまでこの遊歩道の草刈りしてたんだ」とカイヅカは言った。


 セミの鳴き声が方々から響き、音が高い所から降ってきているような感覚になる。カイヅカが1本の木を指差した。


「あそこにセミがいる。見えるか?」


 よく目を凝らすと木の幹の茶色い瘤に扮しているかのような、大きさ数センチほどの虫が翅を畳んで止まっていた。確かに音の一部はそのあたりから聞こえてくる。


「セミは夏の虫なんだ。この鳴き声が聞こえてくると、あー夏が来たなって思うんだ」


「夏の間はずっと鳴いてるのか」


「夜は鳴かない。朝になって気温が上がってくるとまた鳴き始めるんだ」


 虫には季節や時間がわかるのかとナツは思った。人間が風や気温で季節を感じるのと同じように、虫もいろいろな方法で時間の流れを感じ取っているのだろう。カイヅカは歩きながら話し始めた。


「通信崩壊であらゆる記録が消えてなくなって、少し不思議なことが起こったんだ」


「なんですか」オコが顔を上げた。


「史実の物語化」カイヅカは言って、ちらりと背後のふたりを見遣った。「実際にあったことが民話のように語り継がれるようになった。口頭伝承ってやつかな、民俗学はよく知らないけど。まだ100年も経っていないような事実がまるでフィクションのように語られるようになったんだよ」


 ママから聞いたおとぎ話と一緒、とケケが言っていたのをナツは思い出した。オコの虫の存在を確認した時だ。これが「史実の物語化」なのだろうか。「都市伝説みたいな?」とオコがカイヅカに訊ねた。


「そんな感じ。デカい虫もそうだ。関東以南ではすっかり物語の生き物って感じだ。まあ確かにあっちは都市化も進んでいるから滅多に見られない。幻の生き物って解釈も間違いではないかもな。君たちは俺を何で知ったんだ?」


「見世物小屋の人に教えてもらって」


「なるほどな。ああいう人たちが虫を見せびらかしてるとますます胡散臭さが増すんだよな」カイヅカが笑う。「まあ、UFOと同じかな。信じてる人がいて、疑う人もいる。見たことのある人もいるし、見たがっている人もいる」


「虫の物語ってどんなのがあるんだ」ナツが訊ねるとカイヅカは天を仰いで「そうだな」と呟いた。


「ここからもっと北に行った所に、デカい虫による害で滅んだ町がある」


「害」


「ハチみたいな人を襲う虫が現れたとか、バッタに畑を食い荒らされたとか、いろいろ説はあるんだけどな。その町は地図から消えたと言われている」そう言ってカイヅカは前を向いた。


 遊歩道にはところどころ石でできたオブジェが置かれていて、それぞれ顔つきが違う。怪獣映画に出てきそうな生き物に見えるものもあれば、爬虫類のような顔をしているものもある。遊歩道の目印の役割を果たしているようだ。オコは服の下に風を送り込むようにシャツの胸のあたりを引っ張った。


「カイヅカさんはその話、本当だと思ってるんですか」


「どうだろうな。でも」カイヅカが立ち止まった。振り向き笑顔を見せる。「この山に出るデカい虫達はみんな北を目指して飛ぶ」


 気が付くと足元は土と草ばかりの道から砂利道に変わっていた。「もうすぐ頂上だ」とカイヅカが言った。道幅も広くなっている。砂利道を歩き始めてすぐにくすんだ白い建物が見えた。数本の柱が奇妙な形に組み合わさった展望台で、その下の地面には銀色に光る球体が数個埋め込まれている。ここも町おこしのために作られたのだろう。


 オコが口を手で押さえながらナツの肩を叩いた。カイヅカも「お」と小さな声で言ってからオコとナツを制止するように腕を伸ばした。ナツは展望台を見上げた。上に伸びるにつれて絡み合うようにくっついた柱。それにぶら下がるようにしてカイヅカと同じくらいの体長はあろうかというトンボが止まっていた。広げた4枚の翅は薄く向こう側が透けて見えるが、細かい網のような模様もしっかり確認できる。目は大きく、頭の大部分を占めていた。3人はオブジェの陰に隠れてトンボを見遣る。


「オニヤンマだ」とカイヅカは言った。「君達トンボは知ってるのか?」


 オコとナツは大きく首を横に振った。それを見てカイヅカは続ける。


「有翅昆虫の中でも原始的なやつだ。飛ぶ能力は昆虫で1番だと思う。シミみたいに這うことはできないけど、あの腕で獲物を掴んで食べるんだ。顎の力も強い。普通の大きさのトンボでも指を咬まれたら結構痛い」


「僕らも食べられたりしますか」


「するかもしれないな」とカイヅカはあっさり答えた。ナツが両腕で抱え込むようにオコのリュックを掴んだ。「虫潰れるって」とオコが小声でナツに言った。


「まあ、そんなに長く止まっているような種類じゃないからしばらくここで大人しくしていようか」


 カイヅカの言うとおり、オニヤンマはほどなくして翅を羽ばたかせ飛び去って行った。キャベツ畑で見たモンシロチョウとは違う飛び方だった。上下にふらふらしない。直線を描くようにまっすぐ飛んでいた。「やっぱり北だ」とカイヅカが呟いた。そのまま3人は山を下りることにした。


「もうひとつ物語を教えてやろうか」坂道を下りながらカイヅカが話し始めた。「デカくなったのは虫だけじゃないらしい」


「ほかにも巨大化した生き物がいたんですか」


「魚とか、タコとか。人もいたらしい」


「人?」


「そう。そいつらはみんな北を目指すらしいんだ。さっきのオニヤンマみたいにさ」


 オコとナツが黙って顔を見合わせた。


「地図にない町が具体的にどこにあるのかはわからないけど、巨大化した生き物たちが目指す方向にその町はあるんだろうなって気はしてる」


 実際に巨大化した昆虫たちが北に向かっていくのを見てきたカイヅカがそう言っているのだ。地図にない町も、人が巨大化したことも、物語の中だけの話ではないのだろうとナツは考えた。


「君達の虫もきっと北に行きたがっているよ」カイヅカはオコの背負ったリュックを見て言った。地図にない町。そこが自分達の目指す場所なのだと、オコとナツは思った。


「あ、なんか痒い」突然オコが言い出した。「うわ、何だこれ」


 ナツがオコを見ると、彼の右腕に小さな赤い点が浮かんでいた。少し腫れているようにも見える。痒いのか爪を立ててカリカリと擦っていた。


「蚊に刺されたんじゃないのか」


「蚊?」


「都会の若者は蚊も知らないのか。幸せだな」


「蚊ってなんですか」


「血を吸う昆虫」


「血を吸うんですか」


 どうりでカイヅカがこの暑い中長袖のシャツを着ているわけだ。ナツの顔があからさまに青くなっていくのを見てカイヅカが笑う。「ウイルスとか菌を媒介することもあるけど、このあたりの蚊なら刺されても腫れて痒くなるだけだから大丈夫。後で薬やるよ」それからナツに向かって首を傾げた。「君は刺されてないんだな」


「俺は何ともない」


「えー、なんで?」オコが不服そうに声を上げた。


「まあ、そういう体質なんだろうな」とカイヅカが言った。


「モンシロチョウの雄と雌見分けてたし、蚊にも刺されないし、何だかずるいな」


 ずるいか?とナツは思ったが口には出さなかった。


 3人が山を下りて施設の前に戻る頃夕立が降り始めた。施設の2階にある浴場で汗を流す。展望風呂という名のとおり大きな窓がついているが、夕立のため遠くまで見渡すことはできなかった。カイヅカはオコの体に多少は驚いた様子ではあったが特に口に出すことはなかった。ナツは尻まで真っ青な彼の痣を眺めていた。


 ナツは勘違いをしていたことにようやく気が付いていた。オコは自分の痣のことをそれほど気にしていないのだ。多分痣を気にしているのは彼の親の方で、いじめられないように紙島からほとんど出さなかったり他人と風呂に入らないように仕向けていたのだろう。そしてオコもまた、島にいた頃はそんな親の考えに敢えて従っていた。島では被っていた帽子を本土で外していたのはそのせいだ。あの街から離れるにつれて彼は親の言いつけを守らなくなってきている。


 湯船に入るオコと目が合ったのでナツは「ケツまで青い」と言ってみた。オコは「赤ちゃんの頃はみんなそれなりに青かったんだよ」と言いながら肩まで浸かった。


「成長すると消えるんだってさ、普通は」


「俺も青かったのかな」


「親に会えたら聞いてみれば」


「そうする」とナツは頷いた。


 風呂から上がり廊下を歩きながらカイヅカは広間を指差した。


「あそこで良ければ今夜寝るのに使っていいよ。座布団と毛布ぐらいしかないけど」


「ありがとうございます」とオコが言った。それから促すようにナツを見る。ナツも慌てて「ありがとうございます」と頭を下げた。


 施設を出るタイミングで雨が上がった。地面から独特のにおいが立ち上っていた。今まで嗅いだことのないようなにおいだから土のにおいかもしれないとナツは思った。夕立のおかげか暑さもだいぶ納まった。山から聞こえる虫の声が変わっていた。昼間のセミよりも澄んだ鳴き声だった。「ヒグラシだ」とカイヅカが教えてくれた。「セミの一種なんだけど、朝と夕方の涼しい時間帯に鳴くんだ」と。


 施設の向かいにある鍵の閉められた建物は、昔は土産物屋と食堂が入っていたらしい。キッチンは今も使えるようで、カイヅカはそこで作ったラーメンを振る舞ってくれた。縮れた太麺にあっさりとした味付けの醤油ラーメンだった。


「君達はちゃんぽんとか皿うどんの方が馴染みがあるのかな」


「嫌いじゃないけど毎日食べるわけじゃないです」とオコは答えた。ナツはその会話には加わらずひたすらラーメンを啜っていた。


 外がすっかり暗くなりカイヅカは「明日の朝また来るから」と言い残して近くにあるという自分の住まいに戻って行った。オコとナツは施設の2階にある広間に座布団を何枚か敷いてその上に横になった。畳縁にUFOの絵が描いてある。カイヅカが火をつけてくれた渦巻き状の線香の匂いが広間に漂っていた。これを焚いていると蚊の駆除ができるらしい。ナツは寝そべったまま虫の鳴き声の納まった暗い山を窓から眺めていた。


「もう痒くないのか」


「うん。薬塗ったら良くなった」オコは答えて腫れの引いた腕を上げた。「僕ら虫のこと何も知らなかったんだね」


「ん」とナツは小さく頷いた。国道114号を走る車の音がここまで聞こえてくる。陸の生き物のことを知りたければ動物園に行けば良いし海の生き物なら水族館、虫なら昆虫館に行けば良いと思っていた。ここは昆虫館とは違う。日常の中に虫がいて季節を共に感じて生きている。


「地図にない町」オコが腕を下げて呟く。「どうやって探せばいいんだろう」


 ナツは少し考えてから「カイヅカは地図から消えたって言ってた」と溢した。「昔は載ってたんだと思う」


「そうか。昔の地図と今の地図を見比べてみればいいのか」声を上げてオコは通信端末を弄り始めた。ナツがオコににじり寄る。オコは地図を見て何かを探していた。地図を拡大したり縮小してから「あった」と声を上げナツに端末の画面を向ける。「ここからもう少し北にこの辺で1番大きい街がある」


「ん」


「そこの図書館に行こう」


「図書館」


「通信崩壊で電子データを見られなくなった時にみんな何をしたと思う?」


「わからない」


「図書館に行ったんだよ。昔の紙の情報は図書館にあったから。僕の親もそうしたって言ってた」


「図書館に古い地図があるのか」


「多分ね」オコのその言葉はあくびが混じっていた。「行き先が決まったことだしもう寝ようか」


 ナツの返事を聞く前にオコは寝息を立て始めた。寝付くのが早い。ナツは鼻から大きく息を吸って蚊取り線香のにおいのついた空気を肺に取り込むと目を閉じた。山の頂上で見たオニヤンマを思い出す。カイヅカ曰く、あのオニヤンマも北に向かって飛んでいた。巨大化した虫は皆、北を目指す。北に行きたいのは自分達だけじゃないのだ。


 何故虫達は北を目指すのだろうか、と考えた時、自分はどうなのだとふと思った。親を探す。当然そのつもりだ。でも、親の書いた地名は古いものだった。もう存在しない地名だ。そんなデタラメなメモを信じて自分は北を目指すのか。


 いや、そうじゃない。親の書いた地名がデタラメだろうと何だろうと関係ない。俺は北に行きたくなったのだ。オコが北の方にまだ自然が残っていると言い出した時、反射的に、本能的に、俺も北に行きたいと口走ってしまったのだ。親の書いたメモなんて後でつけたそれらしい理由に過ぎない。


 ナツは目を開けた。そうだ、俺は親のことなんて最初から信じていなかった。いい加減な住所を書いて姿をくらました親のことなど頼れるはずがない。鼓動が速くなるのを感じた。それじゃあどうして俺はここまで来たんだ。仕事の上司に嘘までついて街を出たんだぞ。何故虫達は、俺は、北を目指すんだ?北には何があるんだ?


 いや、誰がいるんだ?


 カサカサと虫が動く音がしてナツは我に返った。体を起こすとリュックから器用にファスナーをこじ開けた虫が腹部の半分ほどまで体を出していた。四つん這いで近付き虫を抱え上げた。6本の脚をもがくように動かす虫をぼんやり眺めた。悪夢から目が覚めたような気分だ。背中にじっとりと汗をかいていて心臓がドキドキする。へたりこむように座った膝の上に虫を置いて溜め息をついた。虫はナツの骨張った膝の上で大人しくなった。


「わかるよ」ナツは呟いた。虫の気持ちはわかる。早く北に行きたいのだろう。わかる。でもオコに言われたから。一緒に北まで行って、それから一緒に街まで帰る、と。だから先に行っちゃ駄目なんだ。虫も一緒に行こう。そのまま虫を抱いて座布団に横になった。

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