なくした女の子

 オコの言っていた通り、川沿いの広場に駐められたトラックには荷台に大きく見慣れない地名が書いてあった。「街の外から来たのか」とナツが呟くとオコは辺りを見回す。それから川にかかる橋を指差した。


「あっちでお祭りやってるみたい」


 行くつもりなのか。ナツは思ったが言わなかった。そしてオコはナツの予想通り橋を渡って川の向こうにある古めかしい造りの門をくぐった。ここは日本が鎖国をしていた江戸時代、海外と交流のあった数少ない場所だ。今では19世紀初頭の町並みが再現された観光地となっている。


 オコに続いて門をくぐると和風の建築物と洋館のような建物が混じった不思議な光景が広がっていた。さらに今日は夏祭りの最中のようで頭上には赤い提灯がぶら下がっている。上を向いて提灯を眺めているとオコがナツの手を引いた。


「ナツ、あれ」


 ナツがオコに促され東側の洋風の建物の向こうを見遣ると、そこには明らかに雰囲気の違う小屋があった。観光地の景観にそぐわない、くすんだ赤い布を張ったテントのような小屋。まだ中を見ることはできないのか、気にする素振りで通り過ぎる人はいても中に入ろうとしない。


 入り口のあたりではスキンヘッドの男が半袖のシャツを肩まで捲り上げて作業をしていた。立てかけている看板には先ほど見たトラックの荷台に書いてあったものと同じ地名。


「あれ何の屋台だろうね」


「食べ物、ではない気がする」とナツは言った。図ったように腹が鳴った。オコがナツを見た。ナツは目を逸らす。


「ここで何か食べようか」


「空港に行かなくていいのか」


「空港までお腹持たないでしょ」からかうように言ってオコは西側に向かって歩き出した。ナツは小さく溜め息をついた。オコって思っていたより子どもっぽい。


 西側の道沿いにはずらりと屋台が並び、早くも客が並んでいる店もあった。「ナツは何食べる?」とオコが言った。「僕違うの買うからさ、半分こしよう」


「いや、俺は」


「お金結構持ってたじゃん」


「飛行機代かかるだろ」と言ったその瞬間だった。甘いような香ばしいような匂いがしてナツはその先の言葉を呑み込んだ。振り向くと頭にタオルを巻いた中年男性が大きな鉄板の上で中華麺を焼いていた。ソースの匂いだ。ナツの爪先が屋台に向いた。ふらふらと近付くと中年男性は顔を上げてナツを見た。「ちょうど今できたところだよ」と言う彼にナツは頷いてポケットからカードを出した。


「美味しいじゃん」左隣に座るオコがナツから分けてもらった焼きそばを一口食べて言った。「さっきのナツ、花に引き寄せられるちょうちょみたいだった」


 例えが綺麗で妙に恥ずかしい。ナツは黙って焼きそばを食べ、オコが買ってきたたい焼きの尻尾を囓った。オコは餡子の詰まっていない端の部分をちぎってリュックに入れている。一応、虫のことも考えてたい焼きを選んだらしい。


「こうやってお祭りに参加するの初めてかも。ナツは?」


「施設にいた頃何回かは行った気がする」


「そうか」とオコは頷いた。「僕んちから花火見えるしさ、別に行かなくてもって感じだったんだよね」


 確かにあれだけ高い場所にある部屋なら花火もよく見えるだろう。「もう一口ちょうだい」とオコがナツの抱えている焼きそばに箸を近付けた。ナツは焼きそばを啜りながら肘で遮る。


 しばらくオコの右腕とナツの左腕が静かに攻防戦を繰り広げていたが、東側から聞こえてきた音楽にナツの手が止まった。オコの箸が焼きそばを摘んだ。「あ」と声を上げるナツ。オコは「さっきのお店開いたのかもね」と言ってからナツに見せつけるように焼きそばを口に運んだ。


 赤い布のかかった小屋の前には行列ができていた。行列と言うよりは人だかりと呼んだ方が正しいかもしれない。きちんと順番通りに並んでいるかどうか怪しい状態だ。先ほど小屋で作業をしていたスキンヘッドの男がマイクを片手に淀みなく話す。はいはいどうぞいらっしゃいませ、お代は見てのお帰りです、どうぞこちらから、どうぞこちらからいらっしゃいませ。どこで息継ぎをしているのだろうかとナツは思った。


 近付いてみると男の頭にはミミズが這ったような傷跡がいくつもある。男は口を動かしたまま赤い布を少し捲って中を確認した後、前に向き直った。オコを見てほんの一瞬だけ啖呵を辞めた。誰も気が付かないほどの間だったが、ナツにはそれがとても長く感じられた。見られた張本人は特に気にするでもなく「入ろう」と言ってナツの骨張った手首を掴んだ。


 小屋の中はむせ返るような熱気がこもっていた。木の板や柱に布を張っただけのような建物なので風通しが良いように見えたが、案外そうでもないらしい。客席より少し高くなっているだけの粗末なステージの上では前髪を切り揃えたショートボブの女性が蛇を頭から囓っていた。着物の上に結んだ白い前掛けが赤く染まっていくのが、客席後方にいるナツとオコにも見えた。オコは目を丸くしながら「すごい」と両手を叩き、ナツは「生の蛇って美味いのか」と呟いた。


 蛇女が終わると客の半分ほどが出口で料金を支払って出て行った。どうやらこれが見世物のクライマックスだったようだ。オコがまたナツの手首を掴んで客席の最前列を陣取った。ステージの上に両手を出すようにしてオコが低い天井を見上げた。目を輝かせている。そんなに面白かったのか、とナツは少しだけ顔を引きつらせた。


 手品や大道芸、妖怪のミイラなど内容は盛り沢山だ。次々に見せられる芸にナツの頭が追いつかない。さっき曲がったスプーンは戻らないのか、ミイラの正体は結局何だったのか。疑問が処理できないまま次の芸が始まってしまう。一方オコは波のように押し寄せる芸の数々を楽しそうに眺めていた。すごい、へえ、そうなるんだ、何これ。


 ナツが疲れ始めてきた頃ステージに上がったのは、赤い着物の少女だった。片脚と尻を使って這って移動する彼女は腕が見えなかった。太夫元と思われる男が皿を出す。そこに置かれた金平糖を少女は右脚で器用に掴み放り投げると口に入れた。大きく口を開いて舌を出すと白い金平糖が乗っていた。


 オコとナツの後ろで歓声が上がった。オコは何も言わなかった。手も叩いていなかった。呆然としながら彼女を見上げていた。一方ナツは金平糖を投げる少女の、裾をたくし上げられた脚を見ていた。脚を高く上げる瞬間の脚の付け根を、ただ見ていた。


 小屋を出ると風がナツの額の汗を乾かした。オコはリュックを前に抱えたままぼんやりとしていた。顔が火照っているのか頬が少し赤い。小屋にいたのは30分ほどだったはずだが、内容が濃厚すぎた。オコが川を向いて地面に座った。ナツも隣に座った。数分間の沈黙の後オコが口を開いた。


「すごかったねえ」夢見心地な声のオコ。ナツは小さく頷いた。


「あの女の子腕なかったね。隠してるだけかな」ぽつりとオコが呟いた。


「金平糖の奴か」


「うん」


「あいつ男だ」


「え」


「ちんこあった」


「見たの?」


「見たんじゃない、見えた」


「見たんじゃん」


「見えただけ」そう言って小屋を見遣った。まだ客は途切れないが先ほどよりは落ち着いている。スキンヘッドの男の啖呵も蛇女の悲劇的な身の上話に変わっている。視界の隅にこちらに向かってくる人影が見えてナツは振り向いた。


 ぶかぶかのTシャツに、これもまたぶかぶかのハーフパンツを穿いた少年だった。短い髪は少し跳ねている。右腕は肘から先がなく、左脚は義足だった。少年はナツと目が合うとにっこり笑った。涼し気な目元に黒い瞳。その目がオコを捉えると嬉しそうに細められた。ツヤのあるピンク色の唇がゆっくりと開く。


「ね、君たちさっき僕のこと見てたよね」


 オコはそこでやっと振り返った。少年を見て唖然としている。少年はオコの顔を見るとほくそ笑んだ。オコがナツを見て「男の子だ」と呟いた。だから言っただろ、ちんこあったって。


 少年はオコの顔を覗き込むようにして左腕を背中に回しながら歩み寄った。彼の左脚の義足はナツが見たことのない形だった。脛の部分を模したチューブにバッタの脚のような部品が付いていて、歩くたびに忙しく動いている。


 貧困層にも腕や脚のない人はいて、オピドスに雇われると装具を貸してもらえるようだが、誰もこんなものは着けていなかった。バッタの脚の付け根に描かれたロゴマークのようなものを見てナツは思わず「赤い星」と呟いた。赤い五芒星のマークだった。


 少年はオコに近付くと「君どこの太夫さん?この辺でやってるの?」と訊いた。オコもナツも首を傾げた。特に質問を投げかけられた張本人は口を半開きにして言葉が出ない様子だ。


「オコは興行の人じゃない」ナツが代わりに答える。


「え、そうなの。なんだ」少年は目を丸くする。「てっきり同業者が見に来てくれたのかと思った。ね、それって生まれつきなの」


“それ”とはオコの顔の痣のことだ。「あ、あー、そうだけど」とオコがやっと声を出した。


「いいね、服の下にもあるの?見せてよ」


「こんな所で脱げないよ」


「ま、そうだよねえ」少年はあっさりと引き下がった。「君はオコ君か。僕はヒノキ。関東の興行なんだけどね、こっちの人たちと見世物やってんだ」


「関東」ナツが呟くとヒノキは頷いた。


「全国いろんな所に行くよ」


 ナツとオコは顔を見合わせた。その様子にヒノキが首を傾げる。


「僕らまだ街から出たことないから」とオコはリュックを抱え直した。


「ここ結構そういう人多いよね。生まれてからずっとこの街だ、ってさ」そう言ってヒノキは嬉しそうに口の端を上げる。「珍しかったんだ、よそ者」


 ナツとオコは頷いた。義足のバッタの脚のような部品が折り畳まれてヒノキはオコの前にしゃがみ込んだ。どういう仕組みなのだろう。彼の意思が義足に伝わっているかのように動く。


「外に出る気はないの?」


「いや、じつはこれから北の方に行こうと」


「なんだ、それなら僕たちと行こうよ」


「え」


「僕たちこの祭りが終わったら関東に一旦帰るんだ。トラックに乗せてもらうように僕から頼んであげる」


 オコは立ち上がってナツに顔を近付けた。「どうする?」


「飛行機より時間がかかる」ナツはしゃがんだままこちらを向いてにこにこ笑っているヒノキを一瞥してから言った。


「まあ、そうなんだけどさ」


「何かあるのか」


「いや、お父さんに夏期講習行ってないことがバレた時にさ」とオコが頭を掻く。「足取りが辿りにくいかな、っていうのは、ちょっと思った」


「なるほど」


「なになに?家出?」ヒノキがオコとナツの間に首を突っ込んできた。あの義足はよく動くのに音が小さい。ヒノキが立ち上がってここまで来るのにも気付かなかった。


「確かにここから関東まで2日ぐらいはかかると思うよ。でもオコ君が言った通り足取りはバレない。それにタダ」


「タダ」思わずナツは復唱した。ヒノキがにやりと笑った。


「訳ありな子どもたちからお金を取るほどうちの座長も悪人じゃないよ。ヒッチハイカー拾って行くのもそんなに珍しいことじゃないしね」


 オコがナツを見た。ナツはいつもより少し大きく頷いた。ヒノキはそれを確認するとふたりにくるりと背を向けた。


「じゃ、僕また出番だから次の休憩までその辺で待ってて」


 ヒノキは何度かの休憩の後最後の出番を終えてオコとナツの元にやって来た。外は暗くなり小屋には灯りが点いている。それが余計に怪しげな雰囲気を増大させていた。


 ヒノキはまだ16歳で、夜遅くまで働かせてもらえないのだと言う。子どもを守る法律は年々厳しくなり18歳未満はほとんど満足に働けない。それが良いことなのか悪いことなのかは、格差の生まれたこの時代では微妙な所である。ナツのように若さ故に苦しい生活を強いられている子どももいる。


「座長に訊いたらオッケーだって。今回は座長ひとりで遊んで帰るって言ってたし半分酔っ払ってたからもうどうでも良かったんだろうね」


 祭りの会場から少し離れた所に駐めたトラックの荷台。開いた扉から脚を投げ出して座るヒノキは屋台で買った焼き鳥を頬張っていた。交互に揺らす脚は義足と生身でほとんど大差ないほど滑らかに動いている。ナツはわずかに聞こえるモーター音に耳をすませながら義足を見ていた。ヒノキがナツの顔を覗き込むように体を折り曲げた。


「脚、気になる?」


「いや、すごいなって」


「いいでしょ、これタダでもらったんだ」


「初めて見た」


「この街じゃ星口玩具の義足なんて使ってたら叩かれるよねえ」


「星口玩具」


 初めて聞いた。オコがナツに体を寄せる。「長南グループのライバル会社なんだ。あっちの方がずっと小さい会社なんだけど」と小声で言った。


「そうなのか」


「あれ見てもわかるけどさ、やっぱりすごいんだ。多分フラメルなんかなかったらとっくに負けてる」


 街の外では星口玩具が権力を握っているのだろうか。街の外の人々は長南グループが怖くないのだろうか。想像もつかない。しばらく待っているとスキンヘッドの男がやって来た。「みーだ」とヒノキが言った。「啖呵師で運転担当。僕らは“みー”って呼んでる」


 みーは背は低いがそれなりに鍛えられたようながっちりした体つきをしている。吊り上がった目でオコとナツを一瞥した。


「こいつらを乗せて行くのか」


「うん。オコ君とナツ君だって」


 みーは表情を変えずに「片付けを手伝え。座長はもう使い物にならん」と言って踵を返した。「ヒノキはそこで待ってろ」


 ヒノキは不満げに唇を尖らせる。オコとナツは立ち上がってみーについて行った。ナツは成長期の割に摂取できる栄養が少ないためか痩せている。が、体を使う仕事をしているので重いものを運ぶのには慣れていた。オコは汗をかきながら「こういう所で働いてる人との差って出るよなあ」と言いつつも真面目に小屋を解体し赤い布をまとめていた。


 小屋の片付けが終わる頃にはふたりは汗と埃で体中がベタベタになっていた。さすがのオコもこの暑さでパーカを脱いでいる。後で洗え、とみーが大きなたらいと洗濯用洗剤を出してきた。それからふたりに「風呂入りに行くぞ」と言った。オコは小さく右手を上げた。


「僕は後でひとりで行く」


 体の痣を見られたくないのだろうなと思ったナツは頷いた。みーも「そうか」と言った。ヒノキだけが「えー」と声を上げた。


「じゃあ僕も後でオコ君と行く」


「ヒノキは俺たちと行くぞ」すかさずみーが言った。腰に手を当ててヒノキを睨む。


「えー」


「いいから早く脚取れ」


「歩けないじゃん」


「俺が背負って行くから」


 ヒノキは子どものように頬を膨らませながら渋々従う。ソケットに隠れて見えなかったヒノキの左脚は膝から先がなかった。みーに背負われると左腕だけでしがみつく。「おい苦しいぞ」と言うみーの声を聞きながらナツはオコを見た。オコは通信端末を展開させていた。「お父さんに1回連絡入れとこうかな」とひとりごちるオコに「行ってくる」と声をかけて背中を向けた。


 客のピークを過ぎた銭湯には人がほとんどいなかった。脱衣所で服を脱いだヒノキは片脚で跳ねて風呂場に行こうとしていた所をみーに止められていた。裸になったみーの背中には頭と同じようなミミズが這ったような傷跡があった。太い傷跡はミミズと言うよりは蛇のようだった。


 体を洗ったヒノキが這って湯船まで移動していた。二本の脚で歩くよりも速いかもしれない。かなり慣れた様子だった。ナツが湯船の中で正座をしながらぼんやりとしているとヒノキが近付いてきた。


「ナツ君とオコ君はさ」


「ん」


「なんで北に行くの」


「俺は親を探しに行く」それから虫のことを話して良いか考えた末に「オコはよくわからない」とごまかした。


「ふーん」とヒノキが呟く。光を吸い込むような真っ黒な目が楽しげに細められた。「後で本人に訊こうかな」


「そうしてもらった方がいいと思う」


 銭湯から戻るとオコはトラックの荷台の中にいた。覗き込んでいたリュックを閉めた。ナツは声を潜めて「弱ってないか」と訊ねた。


「大丈夫そう」とオコは答えて立ち上がる。「僕もお風呂入ってくる」


「わかった」


 みーがナツにランタンを渡し「おやすみ」と言ってトラックの運転席に乗り込んだ。ナツは着ていた服を洗ってオコから借りたTシャツとパンツで荷台の奥に寝転がった。オコが戻るまで眠るつもりはなかったが、疲れていたのかいつの間にか目を閉じて眠っていた。


 目を覚ますと点けっぱなしだったランタンの灯りが消えていた。もう一度点けて辺りを見回すとオコがまだ戻っていなかった。どれくらい眠っていたのかはわからないが戻るのが少し遅い気もする。リュックを見遣るとファスナーが開いていた。中を見ると空っぽだった。ランタンで照らすとリュックの内側に着いた鱗粉が銀色にきらきら光った。ナツは荷台を開けてトラックを下りた。


 トラックが駐められているのは川沿いにある幅の広い歩道に作られた広場だ。祭りの会場は既に暗くひっそりとしているが、街灯も立っているしまだ開いている店もあるので幾分か明るい。裸足にスニーカーを履いて近くを歩いた。川沿いの柵にナツたちの洗った服が干してある。生ぬるい風が頬を撫でるが暑苦しいというほどでもない。


 オコはどこに行ったのだろうか。虫もいないし、どこかで餌でもやっているのだろうとナツは思った。公衆トイレを見つけたのでついでに用を足してトラックに戻ることにした。


 トイレに入った瞬間に見えた人物にナツは思わず足を止め、逃げるようにトイレを出た。それから外の壁に背中をぴったり付けてゆっくりと顔を入り口に近付けた。中を覗き込むと手洗い場のあたりの床に座り込むオコとヒノキが見えた。オコもヒノキもナツと同じような格好をしている。床には松葉杖が転がっていた。ヒノキがオコの髪を左手で掴むと彼は顔を近付けて唇を重ねた。オコが小さく声を上げた。ヒノキは肘までしかない右腕をオコの後ろの壁に押し付けると体を彼の脚の間にねじ込むように入れた。


「舌、出して」ヒノキが言った。オコが躊躇いながらも口を開けた。ヒノキは再び顔を近付けると音を立ててオコの舌を吸った。舌が絡まり唾液の水音がトイレに響く。ヒノキが左手を頭から離してオコの脚の間に滑り込ませた所でナツは自分の股間まで勃起していることに気が付き慌ててその場を離れた。


 女みたいな男ふたりがキスをしていた。ナツは自分がふたりの何に興奮したのかがよくわからなかった。まあ、とにかくオコが近くにいることがわかって良かった、と思うことにして足早にトラックに戻った。今度はそこでもう一度驚いた。トラックの陰に虫がいた。地面に転がったパンを食べていた。そのすぐそばにみーが立っていた。Tシャツにジャージのズボンを履いてサンダルを足に引っ掛けている。ナツはみーと目が合った瞬間自分のペニスの勃起が落ち着くのを感じた。


「起きてたのか」みーが平然と言った。「外出るならズボン穿けよ」


「トイレ行ってた」とナツは答えてから虫を見た。その様子にみーは察したようだった。


「こいつ、おまえらが連れてたのか」


 ナツは頷いた。みーは吊り上がった目で虫を見遣る。「久しぶりに見た」と呟くのをナツは聞き逃さなかった。


「ほかにも見たことあるのか」


「昔何回か別の種類のデカい虫を見た」とみーは答えて手に持っていたパンを虫に投げる。「10年以上前だ。見世物小屋のネタとして飼ってた」


 10年以上前。ナツは肩を落とした。もうこの虫の仲間はいないのかもしれないと思った。みーは続けた。


「北に行くんだろ。あっちに虫に詳しい奴がいたはずだ。見世物で飼ってたデカい虫のことも何回か相談したことがある。あいつなら何か知っているかもしれない」


 ナツが顔を上げた。みーは睨むようにこちらを見ている。多分敵意があるわけではないのだ。生まれつきそういう顔だというだけで。ナツには何となくそれがわかった。


「ところで、ヒノキ見かけなかったか。トラックにいないんだが」


「あー」とナツは目を逸らした。みーは呆れたように溜め息をついた。


「オコといるのか」


 ナツの顔が引き攣った。みーは苦い顔をしていたが驚いた様子ではない。「あいつああいう奴が好きなんだ」とボヤくように言った。それから暗い空を仰ぎながら「オコは誰にも買われてないんだな」と意外そうに呟いた。ナツは眉根に皺を寄せた。


「育ち良さそうだからな」


「オコはそういうのじゃない」


「他人と違う見た目で生まれてくるのも才能のうちだ」何故か少し楽しそうにみーは言った。「親が子に与えた財産だよ。“あれ”だけで価値があるんだからな」


 ヒノキは腕と脚が片方ずつないことを売り物にしている。あれが先天的であれ後天的であれ、女の子の格好をして脚でいろんなことをこなす姿に感動や哀れみや性的興奮を覚えた客が彼に価値を見出して金を払う。


 才能、という単語にぎゅっと心臓を掴まれた気がした。ナツの体には目立った特徴がない。周りより少し背が低くて吊り目で三白眼。それだけだ。自分の見た目に価値があれば島のゴミ収集なんてしなくて済んだかもしれない。そう思った。


それと同時に、散らかった部屋で汗を拭くタケハナ思い出す。ナツはタケハナに価値を見出されたのだと思った。タケハナの汗や臭いを我慢しながら洋菓子を食べている間ナツは確かに価値のある人間だった。少なくとも、あの生き物にとっては。


 子どもは親を選べない。親が馬鹿なら子どもも馬鹿になる。ナツは親から何の財産も与えられなかった。結局、ナツはこうやって生きるしか方法がなかった。


「虫、あまり周りに見せない方がいい」みーが言った。「こいつ多分夜行性だ。夜になったら逃げ出すぞ」


 みーはゆっくり踵を返して運転席のドアを開けた。ナツは黙って虫を抱えてトラックの荷台に上がった。パンの食べ残しと一緒にリュックに虫を詰め込む。ファスナーをしっかり閉めて両腕で抱えて寝転んだ。


 早くも親を探すという決意が鈍ってきた。ナツには何の価値もない。だから親もそうなのだと思ってきた。価値のない親の所に行っても自分の生活が良くなるとは思えなかった。この虫には仲間はもういないのかもしれない。最後の1匹かもしれない。俺もそういうことにしていいかな。


 



 高速道路を走るトラックはほとんど揺れることなく滑るように移動している。ランタンの灯りひとつしかない、窓のない荷台の中では外の様子がわからない。荷台には一応換気口はついているものの、それだけで快適になるはずもない。みーはこまめに休憩を取るようにはしてくれているが、やはり暑苦しい。オコとナツは半裸になって暑さをやり過ごしていた。


 移動時間が長すぎて話題のなくなったふたりは身の上話を始めた。とは言えナツには話すような過去もない、と自分では思っている。自分のことを話すよりもオコの話を聞いている方が面白い。


 オコには兄がひとりいる。彼は父親とは違う職業に就いた。自衛官だ。どこに所属しているのかオコの口からは語られなかった。


「お父さんと僕は紙島に住んでるんだけど、兄ちゃんとお母さんは本土に住んでたんだ。今は兄ちゃんがひとり立ちしたからお母さんは実家でおばあちゃんと暮らしてる。別に夫婦仲が悪いとかじゃないんだけど、まあ、僕が原因というか」


「原因」


「本土にいたら虐められるだろってさ。暮らすには不便だけど紙島の方が僕にとっては安全だろって」そう言ってオコは暗がりでもよくわかるぐらい顔をしかめた。「いじめっ子って島とか本土とか関係なくどこにでもいると思うんだけど」


「俺もそう思う」と頷きつつも、彼の両親が彼を何から守りたかったのかが、ナツにはわかった。もちろんいじめっ子からも守りたかったのだろうが、多分、今こうしてナツたちを運んでいる興行のような考えを持った人々からもオコを守りたかったのだ。彼らの考えを頭から否定するつもりもないが、富裕層の息子であるオコがわざわざ自分の容姿を売り物にする必要もない。


 休憩中のヒノキはオコとナツとで明らかに態度の温度差が違う。ナツは昨日のことを思い出して少し居たたまれなくなった。恥ずかしいことをしていたのは自分ではないのに、ふたり揃っている様子を見るとこちらが恥ずかしくなる。


 そんなナツにヒノキが唯一興味を持ったのは夕食の時だった。高速道路沿いに設けられた施設の飲食店でテーブルを囲み安い定食を食べた。ヒノキは短い右腕を容器に添えて少し前屈みになりながら左手に箸を持っている。彼の右隣に座るオコはその様子を興味深そうに眺めていた。「すごい」と呟くオコにヒノキは得意げな顔をした。


「5、6年はやってるからね」


「生まれつきじゃないんだ」


「オコ君と違ってね」言いながらヒノキが顔を上げる。向かいに座るナツと目が合った。ナツは無料で大盛りにした白いご飯を頬張りながらヒノキを見た。


「ナツ君は右手あるのに使わないんだね」


 思わず「ん」と声が漏れた。テーブルの下にしまっていた右手を出した。ナツの隣でラーメンを食べていたみーが「右腕はあるから使うものじゃない」と言った。それから眉をひそめるナツを見遣る。「左利きは右利きに比べて少ないんだ」


「どうして」


「理由はわからない」


「利き手は遺伝するって聞いたことある」オコが言った。


「遺伝ってなんだ」ナツは今度はオコの方を向く。


「親から引き継ぐんだよ。顔とか声とか性格とか、親に似るんだ」


「そうなのか」


「ナツの親も左利きなのかもね」


 自分は親の一部なんだとナツは思った。親の一部だから親と一緒にいたくなったのかもしれないな、と。それから首を傾げて「オコの痣は遺伝なのか」と訊いた。オコは苦笑していた。


 その日は高速道路を下りてすぐの道路施設の広い駐車場で一晩過ごすことになった。ナツがリュックを抱いて寝ていると日付が変わる頃になって顔に妙なくすぐったさを覚えた。夜行性の虫がリュックから胸部まで出してナツの顔を足蹴にするように這っていた。ナツは起き上がり虫を顔から引き離すと虫とリュックを両脇に抱えてトラックの荷台を下りた。オコはやはりいなかった。


 みーが運転席のドアを開けて顔を出す。「虫の餌あるぞ」と言って食パンを出した。ナツはみーの待ち伏せていたような様子に目を丸くしたがすぐに気を取り直してパンを受け取った。ちぎって地面にばら撒き、その上に虫を置いた。ナツの背後でみーが運転席のドアを閉める音がした。


「今日もオコに置いて行かれたのか」トラックを下りたみーが両腕を組みながらナツの顔を覗き込む。ナツは顔を背けた。


「別に置いて行かれたわけでは」


「明日には着く。それまでの辛抱だ」


「辛抱してない」首を横に振りリュックをひっくり返して振った。黒い小さな丸いものがポロポロ落ちた。多分虫の糞だ。


「この虫翅がないんだな」


「みーが見たことある虫はどうだった」


「みんな翅があった。幼虫の時にはないやつもいたけど」


「この虫幼虫なのかな」


「よくわからないな。昨日話した虫に詳しい人に訊けばわかるかもしれない」


 ナツは頷いた。それからしゃがみ込んで虫を眺めた。ボサボサの毛にまみれた顔を動かしながら一生懸命にパンを食べている。


「ヒノキは10歳の頃に事故で手足を切ったらしい」みーが言った。「それまでは右利きだったんだと」


「そうなのか」


「ヒノキは元から才能のあるオコとは違う。なくしてるんだ、あいつ」


 ヒノキとオコは似たような所があるのかもしれないとナツは思っていたが、それはどうやら違うようだ。ヒノキとナツがそれぞれの理由で左手を使うように。ナツは顔を上げて隣で立っているみーを見上げた。「みーのそれは」と指を差す。みーは髪のない頭を撫でて「これか」と言った。ナツは頷いた。


「若い頃に怪我した」とみーが答える。「そしたら髪が生えなくなった」


「あー」


「でもあまり眠らなくて良くなった」


 ナツが目を丸くするとみーが少しだけ目を細め「だから運転手やってんだ」と言った。確かにみーが休憩中に寝ている所を見たことがなかった。昨日夜行性の虫が逃げ出したのに気が付いたのも彼が起きていたからだったのだ。


「なくしても得るものはあるみたいだ」みーは肩をすくめて踵を返す。「明日虫のいる所に連れて行ってやる。そいつほど大きくはないけど、あの街から出たことないなら小さいのでも珍しいだろ」


「ん」


「おやすみ」


 みーは運転席に戻ってドアを閉めた。ナツは虫を持ち上げると頭部を上にしてリュックに入れた。「ごめん」と呟きながら長いコードをまとめるように触角をしまいこみファスナーを閉めた。鼻から息を大きく吸い込む。空気のにおいは街と変わらない。ずっと荷台に乗って揺られているだけだからか、あの街を出た実感がない。今どのあたりにいるのか地図で知りたい。明日オコに教えてもらおうと思った。


しりとりでもしようか。暗い荷台の中でオコが言い出した。15歳以上の人間がしりとりをするのは退屈が極まってきた時だ、というのがナツの持論である。旅3日目にして早くも究極の退屈が近付いてきた。ナツは揺れ始めた荷台の壁に腕をついて体を支えながら汗を拭った。


「いや、しりとりはまだ早いと思う」


「早いって何」


「しりとりは最後の手段に取っておいた方がいいと思う」


「しりとりってそんなに大事にしておくものなの」とオコが言ったあたりでトラックが停まった。荷台の揺れも止まり積んでいた荷物がしんと静まり返る。程なくして扉が開いた。みーが立っていた。


「虫のいる所」とみーは顎で外を指し示す。「少し見て行こう」


 オコとナツが荷台を下りると、狭い道の片側に畑が広がっていた。向こうに行くにつれて緩やかに上り坂になっている丘に作られたキャベツ畑だ。オコが「緑」と呟いた。それにナツは小さく何度も頷く。ふたりともこんなに緑の広がる光景は見たことがなかった。義足を着けて助手席を下りたヒノキがふたりを見て首を傾げる。


「キャベツ知らないの」


「いや知ってるし普通に食べてたけど」とオコが答える。「畑にあるのは見たことなかった」


 キャベツの上を白い小さなものが飛んでいるのが見えてナツはその場にしゃがみ込んだ。アスファルトに両腕をついて畑に向かって首を伸ばす。飛んでいるのは蝶だった。手の中にすっぽりと収まるほどの大きさしかない白い蝶がキャベツの上をヒラヒラと翅を動かしながら飛んでいた。ナツは感嘆のあまり息を吐いた。オコも同じ体勢で畑を覗き込む。「モンシロチョウ」とみーが言った。


「モンシロチョウなんて本でしか見たことなかった」オコが言った。


「キャベツに卵を産むんだ。雄が雌を探して飛んでる」


「雄も雌も同じに見える」


「モンシロチョウの雌は人間には見えない色を持っていると言われている」みーはナツの隣に膝を曲げてしゃがんだ。「雄にはそれが見えているんだ」それから手前のキャベツの外側の葉を捲った。所々穴の空いた葉に同化するような緑色の体の芋虫がいた。モンシロチョウの幼虫だ。オコとナツは顔を見合わせた。これが姿を変えて翅を獲得してヒラヒラ飛ぶようになるとは到底思えなかった。


「オコ君さ」義足のバッタのような関節部分を折り畳んでヒノキが屈み込んだ。「最初僕のこと女の子だと思ってたでしょ」


「だって、格好も顔も女の子みたいだったから」


「オコ君には僕の色が見えてなかったんだねえ」


「ナツは気付いてたよね」オコが言ったのでナツは頷いた。ヒノキが「へえ」と感心するように声を上げた。


「よくわかったね」


「見たんだってさ」


「何を?」


「何って」


 ヒノキとオコの会話をよそに、ナツはキャベツの葉に止まっているモンシロチョウと、それに近付くもう一匹をまとめて両手で包み込むようにして捕まえた。みーが「翅を閉じて指で挟んで持つらしい」と言ったので両手に1匹ずつ持ってしげしげと眺めた。指に鱗粉が付いた。オコの虫にも鱗粉がある。虫は蝶の仲間なのかなとナツは考えた。それからみーに向かって右手を上げた。


「こっちが雌だ」


「どうしてわかったんだ」


「どうして」ナツはみーの言葉を繰り返して首を傾げた。みーの言っていることがよくわからなかった。


「ナツ君は性別を見分けるのが得意なんだねえ」ヒノキが意味ありげに頷く。オコも同じリズムで首を動かしていた。ナツは「だから、ヒノキのは見たんじゃなくて見えたんだ」と言い訳がましく言って目を逸らした。


 大きな駅の前でみーは荷台の扉を開けた。その瞬間ナツの鼻が海のにおいを捉えた。ナツが暮らしていた街と似たようなにおい。建物が多くてよく見えないが海が近い所なのだと思った。


「悪いが新幹線に乗りたければ自力で駅まで行ってくれ」みーが言った。トラックの助手席の窓が開いてヒノキが顔を出した。


「興行が紙島に行ったら僕のこと見に来てよ」


 オコが頷き「お世話になりました。ありがとうございます」と頭を下げた。ついでにナツの後頭部を軽く押した。ナツもぎこちなく「ありがとうございます」と言った。最後にみーは食パンの入った袋をナツに渡した。


「昨日の残り」


「ん」


「気を付けて行けな」そう言って軽く右手を上げながら踵を返す。「良い旅を」


 走るトラックが曲がり角に消えていくまで見送ってからナツは袋からパンを1枚出してオコに差し出した。虫に1枚分をちぎってリュックに押し込み、もう1枚は自分で囓った。


「さて、どうやって行こうか」とオコが食パンを一口食べた。


「昨日みーに教えてもらった」


「うん」


「もう少し北に行った所に虫に詳しい人がいるらしい」


「へえ」


「場所も聞いた」


「行ってみよう」オコが言ってリュックを背負い直す。「でもいつの間にみーからそんな話聞いてたの」


「オコがヒノキと」と言いかけてナツは自分の口に手を当てて俯いた。ごまかすようにパンを頬張った。オコの顔がみるみるうちに赤くなっていく。


「見たの」


「1回だけ。最初の夜だけ。キスしてる所だけ」放り込んだパンで上手く口が動かない。


「見てたのか」


「キスのほかにもしたのか」


「それ訊く?」


「いや、やっぱりいい」首を横に振りごくりとパンを飲み込んだ。タケハナのフェチシズムでお小遣いを稼いでいるナツだが、キスはしたことがなかった。タケハナが「キスは好きな人に取っておかなきゃ」という信念を持っているからだ。だからヒノキとオコがやったことに多少の興味はあったが追及はしないことにした。それから上目遣いでオコを見る。「ヒノキと別れて良かったのか」


「だって僕ら北まで行かなきゃいけないじゃん」


「そうだけど」


「ああいう生き方もちょっと憧れるけどね。どこにでも行けて自由な感じがする」


「確かに」


「でも今はナツと一緒に北まで行って、それから一緒に街まで帰る」そう言ってナツを見た。「僕ら目的は違うけど目指してる場所は同じだもんね」


 ヒノキはモンシロチョウみたいだとナツは思った。男の子か女の子かよくわからなくて、どこにでも行ける翅を持ったモンシロチョウ。それに比べたら自分はリュックに詰め込まれた正体不明の虫だ。翅もないし綺麗じゃない。両親がわからなくて出自が不明なあたりもこの虫に似ている。この2日間虫と夜を過ごしてみてつくづくこいつとの共通点を思い知らされた。だから、自分は地道に這って移動するしかない。空を飛べないから仕方がない。


 昆虫は不思議だ。同じ昆虫なのに翅があったりなかったり顎の形が違ったりする。でもまあそれは人間も同じか。痣があったりなかったり手足があったりなくしたりしている。端末で地図を確認していたオコが顔を上げた。


「新幹線乗ろうか」


「ん」


 駅の構内に向かって歩くオコに付いて行く。ナツは何とはなしに「やっぱりキス以外の話も聞こうかな」と呟いた。「その話はもう良くない?」と上擦った声でオコが言った。

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