翅のない魚

 ナツの肩を掴みながらリアキャリアに尻を乗せるオコは「お尻痛い。滑る。落ちる」と言いつつも楽しげな表情をしていた。オコの案内で狭い路地を上って行った先には雲を突き抜けそうなほど高いマンションがあった。他の集合住宅と同じような外観だが小綺麗さが漂っている。駐輪スペースにバイクを駐めて中に入る。指紋認証でオートロックを解除してロビーのドアを開けるとエレベーターに乗った。


「お父さんとふたりで住んでるんだけど」オコが口を開く。「仕事で家にはほとんどいないから。今日も本土に出張って言ってたし」それからナツを見た。「ナツはまだ勤務時間中だしオピドスの人には会いたくないでしょ。一応言っとこうと思ってさ」


 ナツは自分の足元を見るように俯き小さく頷いた。


「ま、みんな仕事中に遊んでるのはお父さんもわかってて注意してないみたいだしさ、やること終わらせた上で遊んでるんだから文句ないでしょ」


 エレベーターが最上階に着いた。他の集合住宅よりも部屋と部屋の間隔が広い。ドアを開けて中に入ると白と黒を基調にしたシンプルな内装が見えた。「綺麗」と呟くナツにオコは「お父さんあまり帰ってこないから。生活感ないだけ」と苦笑した。


オコの言う通り、廊下のドアを開けて彼の自室に入ると雰囲気が変わった。本や液晶付きの端末が置いてある生活感に溢れた部屋だった。


 オコはキャップを外しリュックを下ろしてどちらもベッドに置く。汚れたパーカを脱いで廊下に放り投げると半袖のTシャツの袖から出ている左腕にも痣があるのが見えた。ナツはその腕をまじまじと見る。オコはそれに気が付いたようだったが特に何か反応するでもなく「見せたいものがあるんだ」と言った。ナツは我に返ったように顔を上げてオコの顔を見た。


 オコはベッドを細い腕で引っ張り少しずつずらす。それから壁とベッドの間にできた隙間に体を滑り込ませた。何かを隠していたようで、今度はそれを押してナツが見える所まで引きずった。


 それは爬虫類用の大きな飼育ケースだった。透明なケースに、穴のいくつも空いた蓋がついている。その中にいるのは爬虫類、ではなさそうな生き物がいた。ナツは飼育ケースに近付き中にいる生き物をよく見た。白っぽい灰色の体は表面がキラキラと銀色に光っていた。棘のような毛が頭から胸部にかけて生えている。ムカデのような細長い見た目をしているが脚は6本。頭には長い触角がついていた。尾部には尻尾のようなものが数本。触角と尻尾は飼育ケースの中で窮屈そうに大きく曲がっている。


 そう、この虫、大きいのだ。頭部から腹部にかけては小型犬ぐらいの大きさがある。ナツは息を呑んだ。オコはベッドの上のリュックからパンを出すと飼育ケースの蓋を開けた。パンをちぎってケースの中に入れると虫はその上に頭を乗せるように動いた。


「この虫に食べさせるためにパンもらってたんだ」


「そうか」


「ナツの食料だっていうのはわかってたんだけど」


「それは別にいい」ナツは首を横に振った「ちょっとぐらいあげても」


「ありがと」とオコが微笑む。「本当は誰にも言わない方がいいと思うんだけど、ナツには言いたくなっちゃった」


 まあ、自分の食料になるはずのものを分けているのだから知る権利はあっただろうとナツは思った。虫は昆虫独特の左右に開く顎を使ってほとんど音を立てずにパンを食べている。どこを見ているのかわからない、体の割に小さな目。一生懸命かぶりつく姿に少しだけ虫への警戒心が解けた。


「触っても大丈夫なのか」


「鱗粉がつくけど、それでもいいなら」


 ナツは少しだけ開けた蓋の隙間から手を入れて胸部の背面を撫でてみた。思いの外毛は柔らかい。虫が少し体をくねらせた。その姿は魚のようにも見える。幼虫には見えなかったが、この虫には翅がなかった。空を飛ばない虫のようだ。


「何ていう虫かわかるのか」


「それがわからなくて」オコは頭を掻いた。「そもそも虫をあまり見たことがなかったから」


「そうか」


 紙島には自然がない。だから虫もほとんど出ない。出たとしても人家に生息できる雑食性の昆虫ぐらいだ。ゴキブリやカマドウマは見かけるが、草むらや川を生息地とする虫は生きていけない。


 尤もこれはこの時代の日本では、紙島に限ったことではなかった。関東や関西地方を中心に都市化がどんどん進んだ結果、昆虫に留まらずあらゆる生物が生きる場所を追われている。紙島を擁するこの街全体を見ても虫が棲める環境は少ない。だからナツも自然の中で生きる虫はあまり見たことがなかった。ましてやこんな大きさの虫など以ての外である。


「こいつ本土で買った中古の本にくっついてたんだ。辞典のセットが欲しくて箱ごと買ってから家で見つけて、その時の大きさはこれくらいだったんだけど」とオコが人差し指と親指で大きさを示す。10センチぐらいか。それでも充分大きい。「お父さんに内緒で飼って、いろいろ餌をあげてみたらパンをよく食べたからさ、僕の朝ごはんを分けてたんだけどそのうち脱皮して大きくなって足りなくなっちゃって」


 それで捨てられたパンを欲しがったのか。ナツは納得して頷いた。虫から手を離し飼育ケースの蓋を閉めた。


「ここじゃ狭くて可哀想かな、とも思うんだよね」


「放しても生きていけないと思う」


「そうなんだ。野良猫とかに食べられちゃいそうだなあとか思ってさ」オコは言って俯く。「どうせ放すなら自然のある所に放してやりたいんだけど、僕はこの街から出たことないし」


「そうか」


「ナツはどこから来たの」


「よくわからない」首を傾げた。「記憶の中ではこの街しか知らない」


「そうなんだ」少しだけ残念そうにオコが言った。「こいつが棲めそうな場所に行けたらいいんだけど」


 タケハナの顔を思い出した。「北の方」から来たという、あの太った生き物。饒舌になると喋り出すナツの知らない方言。恐らくナツの知る中で、この街の外から来た人間はタケハナしかいない。とはいえタケハナに頼るつもりは毛頭なかった。余計なことを話すつもりも。


 ナツはパンを食べる虫を眺めた。この虫の寿命はわからないが、狭くてもここにいる方が幸せなのかもしれないと思った。ナツやオコと同じように、この狭い世界に居続ける方が良いのかもしれない。


 オコとは集合住宅の前で別れ、ひとりで桟橋まで戻った。充電ステーションにバイクを駐め荷台をつけ直していると歓楽街のゴミ収集を担当する男に「今日は間に合ったんだな」と言われた。顔が真っ赤で吐く息は酒の臭いがする。


 給料は回収したゴミの量には比例しない。1番仕事量の多い地区を担当して時間ギリギリまで働いても、歓楽街でほとんど遊んで過ごしてももらえる金額は同じ。むしろナツとこの男の場合は男の方が多い。年齢でもらえる額が決まるからだ。1番体力があり良く働く20代から30代が最も多くの給料をもらえるようになっている。ナツはまだ数週間後に誕生日を控えた16歳。二十歳になるまではまだ時間がかかる。


 島内のゴミを積んだ船が出港した。いつもは甲板から外の景色を眺めているが今日は船内の椅子に座った。至る所から労働者のいびきが聞こえてくる。夕方になり夏の太陽は少し傾いている。ナツは窓から差し込む日の光に手をかざした。まだわずかに手の平に残った虫の鱗粉がキラキラ光っていた。



 オコは18歳の高校3年生。本土の高校の生徒だ。普段は自宅でリモートの授業を受け課題を提出しているため校舎には通っていない。週に一度の登校日だけ本土に出向いている。ナツと初めて会った日はちょうど夏休み前最後の登校日で帰りも早かった。「タイミングが良かった」とオコは言った。ナツは頷きながら飼育ケースの中の虫を撫でた。こうしていると愛着が湧いてくる。


「ナツはいつから働いてるの」


「中学卒業してから」


「偉いよね、僕より年下なのに自立してる」


 年下と言っても一歳しか違わない。それに、ゴミ収集の仕事だけでは収入が足りず結局大人に頼っている。ナツが何も言わずに首を横に振るとベッドに寝そべるオコは仰向けになった。天井のエアコンの吹き出し口を眺める。


「来週から高校の夏期講習行くことになってんだけどさ」


「ん」


「本土だけど市内のホテル。二週間対面授業だって」


「そうか」


「僕サボろうと思ってる」オコは言った。「虫を自然のある所に放しに行ってくる」


 ナツは虫から手を離し顔を上げた。彼からは寝転がるオコのつむじのあたりしか見えない。「街を出るのか」とナツはぽつりと言った。


「うん」


「どこまで行くんだ」


 オコが体を起こした。今度は背中しか見えなくなった。ベッドから下りると机の上から道路地図を持ってナツの隣に座った。オコの表情はナツが思っている以上にさっぱりしていて覚悟や意気込みのようなものは感じられなかった。かと言って街を出ることを軽く考えているわけでもなさそうだった。潔い、という言葉が1番しっくりくる顔をしていた。ナツの左側に座った彼は地図を開いた。


「このあたりから関東にかけては都市化が進んで虫が住めるような環境は少ない。関東から北に行くほど都市化は緩やかになってるんだって。学校で習った」


「北」ナツは無意識のうちに呟いた。


「動物園とか昆虫館の人に相談することも考えたんだけどね」オコはナツを見た。それから少しはにかむような笑みを浮かべる。「本当の自然の中にいる虫が見たくなったんだ、僕が」


 見開きいっぱいに本州が描かれたページ。そこに紙島の姿はない。それだけ小さな島なのだ。逆に言えばそれだけ本土が大きいということである。北に行くのはどれだけ時間がかかるのだろうかとナツは思ったが想像がつかなかった。


「それに、いい加減僕も一度は街を出ないと駄目かなって思ったからさ」


「そうか」


「今度のゴミの日にはもう夏期講習始まってるからさ。今日で虫に会えるの最後だよ」


 ナツは頷いたが地図から目が離せなかった。まだ都市化が進んでいないという、関東より北の地。そこに書かれた地名を見つめていた。それから「俺も行きたい」と口走っていた。


「え」


「俺も北に行きたい」


 何の考えもなかった。覚悟もなかった。ただ行きたいと思ってしまった。狭いこの世界に居続けた方が良いという考えはその地名を見た瞬間吹き飛んだ。衝動的と言っても良い。ナツはズボンのポケットから一枚の四つ折りにした紙を出して、唖然とするオコの前で開いた。ノートの切れ端のような乱暴に破り取られた後のある紙には、罫線に従わない乱雑な字で名前と地名が書いてあった。


「親が俺を施設に預ける時に書いたやつ」


 オコが紙をのぞき込んだ。それから地図を見ながら指でなぞる。「ナツの親は北の方から来たんだね」


「施設の方で調べたけど今はもうない地名だった。相当前に合併して地名が変わってた」


「そうなんだ」


「でも、デタラメでもその地名を書いたことには意味があるんじゃないかって」言いながらナツは自分の考えに根拠がないことを改めて感じた。ただの希望的観測だ。それにすがりたいだけだ。ナツの言葉を聞いたオコはうつむき地図を持つ手に力を入れた。


「僕は、少しでも可能性があるなら、親に会った方がいいと思う」オコは言った。「居住区はそうでもないけど歓楽街は閉まってる店が多いし島どころかこの街全体の人口が減ってきてる。多分、そのうちオピドスの時代は終わる」


島の人口が減ればゴミの量も減る。ナツの仕事はなくなる。それはゴミが多すぎて収集が間に合わないことよりも重大な問題だった。


「通信崩壊の原因はフラメルだった。この街ではオピドス、というか長南グループが幅を利かせているからあまり聞かないけど、フラメルを掘ってる長南が悪いっていうのが世の中の認識。ライバル企業の力も大きくなってるし、いきなり倒産とかはないと思うけど、今までどおりにはいかないはず」そしてオコは上目遣いにナツを見る。「ナツの親が貧困層だとしても、子どもひとりで生きていくよりは大人といる方がお金の心配は減ると思う。オピドスは見限った方がいいよ」


 長南グループの力は大きい。紙島はその縮図のようなものだ。オピドスに雇われたナツのような貧困層にとって警察よりも怖いのは長南グループだ。それが常識だった。少なくとも、この街では。ナツは街の外に長南が権力を持たない世界があることを知らなかった。それでは街の外では何が権力を握っていて何が1番強くて人々は何を恐れているのだろうか。全く想像がつかなかった。オコが表情を緩めて苦笑した。


「なんて脅しちゃったけど、まあ、さすがのオピドスも従業員を急に切るなんてことはしないと思うし、それなりのケアはしてくれるだろうけどね。ごめん、本当はちょっとひとりで行くのが不安だった。一緒に来てもらえたら嬉しいし心強いとは思う。でも僕は家出しても親に怒られるぐらいで済むけどナツは働いてるわけだし」


「いや、本当に」オコの言葉を遮るようにナツは言った。「俺も行く」


「大丈夫なの」


「大丈夫かはわからない」ナツは紙を畳んでポケットにしまった。デタラメの住所、本名かもわからない名前。これはナツにとってはお守りのようなものだった。そして、ナツ自身を知る唯一の手がかりで、親とナツを繋いでいる絆のようなものだった。


「でもいずれこの街にいても行きていける保証がないなら、生き延びられるかもしれない場所に行きたい」


 オコがナツを見た。いつもは右半分しか見せない彼が真っ正面からナツを見つめていた。顔の左半分を覆う痣は何度見ても少しぎょっとする。見慣れないものに対する一種の拒否感のようなものを覚える。だがナツは別のことを考えていた。初めて会った時から思っていたが、この時改めて性別のよくわからない顔だなと感じた。声もどちらかというと高い方で本当は女の子なんじゃないかと疑いたくなる時もある。


 オコはニヤけるような安堵するような微妙な笑みを口に浮かべながら「ありがとう」と言って右手を差し出した。手の甲まで痣の広がる左手でナツの右手を取って握手をさせた。ふわりと鼻をくすぐる匂いはシャンプーか洗濯用洗剤か。ナツは変な気分になってきた。女の子みたいだと思っていることを見透かされたような気がした。


「じゃあ、よろしくお願いします」と頭を小さく下げたオコにナツの心臓が跳ね上がった。右手にオコの熱と柔らかい手の平の皮膚を感じた。不覚にも少し勃起した。



 通信崩壊の対策、と言うのだろうか、長南グループは通信崩壊後から政府を巻き込んで全国の“都市化”を推し進めた。長南グループの張り巡らせた通信網から漏れる地域のないよう、二度と通信崩壊を起こさないよう、山を切り崩し森の木を薙ぎ倒し長南グループのビルを建てる。


 実際は彼らの用いた素材フラメルが原因なのだが、それから国民の関心を逸らすように都市化は驚異的なスピードで進んでいる。関東地方を皮切りに、近畿地方を筆頭とした西日本は完全に都市化を完了し、つい最近山梨県の都市化が完了したと政府が宣言した。それより北より行かなければ自然は見られない。それがどれほどの距離なのか、どんな場所なのか、ナツには想像すらできなかった。



 今日は日が沈んでも気温が下がらない。タケハナは滝のような汗を変な柄のタオルで拭きながら苦しそうに呼吸していた。タケハナは暑がりだ。ナツには少し寒いくらい冷房の効いた部屋にいるのにタケハナは少し皮膚の露出した頭頂部を拭いてから「暑いねえ」と言った。


 ナツは答えなかった。そしていつも通り黙々と頼まれたことをこなすために皿の上のカステラを口に放り込んだ。舌の水分が奪われて少し噎せた。タケハナが壁に預けていた背中を起こして近付いた。蒸れた汗の臭いが鼻を突く。暑いのは好きじゃない。早く夏が終われば良いと思う。タケハナの丸太のような腕がこちらに伸びた。目が合う。ナツはタケハナに触れられたくない気持ちをごまかすように口を開いた。


「しばらく街を出る」


「え?」


「2週間ぐらいで戻る、と思う」


 タケハナの肉に埋もれた一重目蓋が見開かれた。驚いている様子だ。ナツはカステラを食べるのを続けようと皿を持ち上げたがタケハナがそれを取り上げた。ナツは思わず顔を上げた。タケハナは汗を滴らせ不規則な呼吸で肩を上下させていた。


「どこまで行くの」


「北の方」


 タケハナは顔の汗を拭いて鼻を啜った。「北ならまあ安心かな」と呟いた。それからそそくさと壁に寄った。「今日はここまででいいよ。ありがとね」


「でも」


「大丈夫、ちゃんとお金は払うからさ」とタケハナは腕の端末を操作する。躊躇うナツに彼は身を乗り出してナツのズボンのポケットを弄った。オピドスのカードを出して自分の端末にかざす。「ちょっと」とナツがタケハナの腕を掴んだ。触られたくなかったのにこちらから触ってしまった。その拍子に見えたタケハナの皮膚に映る端末画面にナツは息を呑んだ。いつもの金額より明らかに多い。ゼロがひとつ多かった。全身にじわりと汗をかいた。タケハナはまた鼻を啜り顔をごしごしとこすった。


「しばらく会えないからその分ね。街を出るならそれなりに必要になると思うし」


「いらない」


「もらってよ、結構心配してんだよ」そう言ってタケハナはナツのポケットにカードを戻した。ナツは汗でぬるぬるするタケハナの腕から手を離して床にへたり込んだ。


 タケハナは「旅はいいよ」と言った。「好きな人もそう言って送り出してくれた」


 上手く乗せられたのだなとナツは思った。今頃タケハナの思い人はこの生き物のいない時間を謳歌しているのだろうな。俺だったらそうする。


「柄じゃないけど、ナツ君にひとつだけアドバイスね」照れ臭いのかタケハナは頭を掻く。「街を出たら赤い星を探すといいよ」


「星」とナツは呟いた。


「ここじゃほとんど見かけないけどね。ナツ君のことを助けてくれると思う」


 星が助けてくれるのか。意味はよくわからない。タケハナは「またね」とナツに向けて小さく手を振り食べかけのカステラにフォークを入れた。


 職場には、児童養護施設から急に連絡が入ったので様子を見に行きたいからしばらく仕事は休むと言っておいた。オコが考えた嘘だ。「実の親の元を訪ねるのと育ての親の所に帰るのにそんなに違いはないでしょ」というのがオコの言い分だ。よくそんな屁理屈を思いついたものだ。ちゃんとした学校に通えばそういう知恵もつくものなのかなとナツは思った。


 オピドスがナツに宛てがっている住まいは風呂も水道もない四畳半のアパートだった。屋根のある場所で寝られるだけマシではあった。自分のものはほとんど何も持たずに施設を出たので、この街を出ると言っても荷造りは必要なかった。


 高校の夏期講習が始まる日、四畳半のアパートを出たナツはオコと本土の港で待ち合わせた。オコはいつも背負っているリュックひとつでやって来た。


「虫は」とナツが訊ねるとリュックを開けて見せた。虫がぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。頭から腹部までであればこのリュックでも間に合うが、尻尾や触角が折れ曲がっていて少し可哀想である。もう少し大切に扱っているものかと思っていたが想像以上に雑だった。オコは触角をファスナーに挟まないようゆっくりとリュックを閉め、通信端末を手に取った。


 オコの持っている六角形の端末は展開型と呼ばれる。普段は手の平に収まるほどの小さなアクセサリーだが通信端末として使う時にはタッチパネルが展開される仕組みだ。


 フラメルは日本の通信端末の形状を多様化させた。オコの持っている展開型、タケハナの持っている端末はプロジェクション型。他には通話を主な手段として使っている人に好まれているイヤー型もある。耳の穴に装着するタイプの、タッチパネルもない小さな端末だ。


「ナツの電子マネー貸して」とオコが言うのでナツはポケットからオピドスのカードを出した。オコはそれを受け取り「やっぱり」と呟く。それからオコの通信端末にオピドスのカードをかざすと別のカードを出して再び端末にかざした。それをナツに差し出した。


「オピドスのカードで支払うと足取りがお父さんにバレちゃうからさ」


「そうなのか」とナツはカードを受け取った。どこにでも売っているありふれたメーカーのカードだ。オピドスのカードに比べればセキュリティが緩かったり紛失した際の保障がなかったりと不便な部分はあるが、そのあたりを注意して使っていれば特に問題はない。


「常に監視してるわけじゃないけど」と言ってからオコは端末の画面を見遣る。「結構入ってたね。貯金してた?」


「ま、まあ」ナツは目を逸らした。あなたの所の給料では足りないので性的嗜好が少し特殊な人から金をもらっていますとは言えなかった。ましてや、今回の旅の金まで出してもらったことなど。


「それだけお金あるなら交通費のことは心配なさそうだね」とオコが言った。「とりあえず行こうか」


 ふたりは路面電車に乗って街の中心部を目指すことにした。街を出て北に向かう手段はいくつかある。鉄道を乗り継ぐ方法もあれば、港まで鉄道で向かいフェリーに乗る方法もある。


「一番現実的なのは飛行機かな」とオコは端末を見ながら言った。いずれの方法を採用するにしても街の中心部に行くのは必須。鉄道も空港までのバスも中心部から出ているからだ。オコの隣に座ったナツが端末の画面をのぞき込んだ。


「飛行機ならすぐ北に行けるのか」


「直通はないけどね。でも今夜の便に乗っても明後日には着く。関西の空港で一回下りて次の朝北に行く便に乗るんだ」


「金曜日までには帰れそうだ」ナツが呟いた。


「金曜までに帰りたいの?」


「そういうわけじゃないけど」


「僕はどうせならもうちょっと長く旅をしたいんだけどなあ」膝の上に乗せたリュックを抱えながらオコは窓の外を眺めた。「いろいろ見てみたい」


 ナツも振り返って窓を見遣る。それからオコを見て思い出した。帽子を被っていない。痣を隠すために被っていたのではないのか。彼なりにいろいろ考えて帽子を被るのを辞めたのか。単純に忘れてきただけなのか。そもそも帽子を被ることに特に意味はなかったのか。


「あ」とオコが呟いた。窓に両手をつけて顔を近づける。鼻先が窓に触れている。「あのトラックさあ」


「トラック」


「何か見慣れない地名書いてあった」


「気付かなかった」オコを見ていたとは言わなかった。


「ちょっと行ってみようか」


「早速寄り道」


「今言ったでしょ、今夜飛行機に乗っても明後日には北に着いちゃうんだってば。余裕余裕」


 路面電車が停まった。オコが椅子から立ち上がりいそいそと運転席にカードをかざして運賃を支払って下車した。ナツは慌てて追いかけた。

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