第35話 寝取り令嬢の憂鬱2


 気がつくと、わたくしは店のソファーに寝かされていた。

 どうやら、ショックのあまり気を失ってしまったらしい。

 すでに衛生省の役人は帰った後で、食材の納品を止める作業をしているパティシエ以外はスタッフ全員が退勤したとのことだった。

「大丈夫ですか、お嬢様? 侯爵邸の馬車を待たせてありますので、裏門から帰りましょう」

 侍女の言葉に、わたくしは眉を顰めた。

「……なぜ、そんなにコソコソと帰らなきゃいけないの?」

「そ、それは……」

 言い澱む彼女を問い詰めると、外は恐ろしいことになっていると言う。

 今朝の新聞記事に出た店を一目見ようと人が訪れ、悪意がある者は店に石を投げつけたり、外壁にいたずら書きをしたりしている。

 そして、それを知ったこの建物の貸主が怒り出し、営業停止になったなら早急に出て行けと喚き立てる始末――。

「なんで……なんで、わたくしがこんな目に……」

 思わず、泣き始めたわたくしに侍女は困惑する。

「お嬢様は、何も悪くありませんわ。ただ、運が悪かっただけでございます」

 そう言って慰められると、少しはささくれ立った心が凪いできた気がする。

 そう……わたくしは、できることはやったつもり。

 猫アレルギーは生まれつきだから仕方がないし、殺鼠剤の購入を渋ったのはコストを削減するためにはやむを得なかった。

 仕方がない……そう、仕方がないのよ。

 そうは言っても、営業停止になったらどうすればいいのだろう?

 建物の貸主が立ち退きを要求しているって言うなら、もうどうすることもできない。

「……早く帰らないと……弁護士に、閉店の手続きもお願いできるか確認しないと……」

 ゆっくりと起き上がり、侍女の肩を借りてわたくしは裏口から外に出た。

 彼女が言った通りだった。

 衛生省の役人によって、扉には「衛生不適格店舗により営業停止」のビラが貼りつけられている。

 それを見てのいたずらだろうか……店の外壁には落書きがされ、窓ガラスが割れているところもある。

 ほんの少し前まではピカピカだったのに、「カフェ・ベルトラ」はすっかり落ちぶれてしまった。

 この店を出店するのに、お父様からどれだけのお金を融通してもらったかを考えると、わたくしは悲しくなった。

 どんなに短くても半年くらいはもつと思っていた。

 だからこそ、初期投資を惜しまず一軒家を借りて、「カフェ・カタリナ」の顧客を全員奪ってやるつもりだったのに!

 結局、わたくしに残ったものは借金だけになってしまった。

 持参金のほとんどを使い果たし、従業員の最後の給金を払えないような惨めな状況に陥るなんて、誰が思っただろう?

 そして、これから必要になる弁護士費用のことも考えなくては……。

 店の周りにたむろしている男たちの視線を避けながら、わたくしは馬車に乗り込んで、逃げるようにその場を立ち去った。



 惨めな気分でグラストン侯爵のタウンハウスに戻ると、執事が丁重に迎えてくれた。

「エレオノール様、ベルトラ子爵様がいらっしゃっております」

「えっ、お父様が……?」

 手紙で連絡もなしに、なぜここにいるのだろう?

 嫌な予感が頭を過ぎったが、とりあえず執事と共に客間に向かった。

「お久しぶりです、お父様。王都には、お仕事でいらっしゃいましたの?」

 お父様はソファーに座ったままの状態で、わたくしの顔をじろりと睨んだ。

「何を悠長なことを言っているのだ、エレオノール? お遊びのカフェ経営で、我が家を破産させるつもりなのか」

「破産? 何のことですの!?」

 そう問い質すわたくしに、お父様は懐から出した手紙を開いて見せてきた。

 それを手に取って読んだわたくしは、無言のままで項垂れる。

「どういうことなのだ? この手紙を送ってきたジュリアン・マルニアックとか言う記者は、お前にライバル店の記事を書かされて会社を解雇されたとか言っている。訴えられたくなければ賠償金を寄越せ、と」

「まあ! なんてさもしい考えでしょう!」

 弁護士費用を要求してきたのに飽き足らず、実家に脅迫まがいの手紙を送りつけるなんて、どんな了見だろう?

 わたくしに直接請求しなかったのは、「カフェ・ベルトラ」の経営状態がよくないのを察したせいかもしれないが……。

 あるいは、腹いせに恥をかかせたかったのかしら?

 あまりの屈辱に震えるわたくしに、お父様はため息を漏らした。

「エレオノール……お前が王都にこれ以上いると、厄介なことになる。三日以内に荷物をまとめて南部に戻りなさい」

「ですが、お父様! フィリップ様の近くを離れるわけには……」

 首を横に振るわたくしに、お父様は呆れている様子。

 厳しい目つきで一瞥しつつも、諭すように言った。

「貴族の令嬢として、お前は恥ずかしいとは思わないのか? グラストン侯爵令息に請われてここにいるわけではなかろう?」

「そ、それはそうですけど……」

「それでなくとも、また新聞に載るような騒ぎを起こしたそうじゃないか。あのカフェ店の件は、私が代わりに全部やっておく。まだ令息と結婚していないお前の不祥事に、侯爵家の使用人を巻き込むわけにもいかないからな」

 お父様がおっしゃることは、すべてが正論だ。

 正論過ぎるから言葉のひとつひとつが、鋭い刃になって心臓に突き刺さってくる。

「とにかく、三日後にお前は帰るのだ。私はしばらくホテルに滞在して、マルニアックという男の件やカフェの件を片づける……どれだけ持参金を目減りさせたか知らないが、三日後に南部に帰らなかったら、お前を最も厳格な修道院に送るからそのつもりで」

 お父様が放った『修道院送り』という言葉に、わたくしは唇を震わせた。

 修道院に閉じ込められたら一巻の終わり。

 フィリップと結婚することはおろか、舞踏会に出て殿方とダンスを踊ることも、素敵なドレスを身に纏うことさえできなくなってしまう。

 仕方がなく、わたくしはお父様の言いつけ通りにすることにした。



 南部に帰るのを、フィリップは止めてくれなかった。

 お父様の命令だから従うべきだというのはわかるけれど、婚約者なんだから少しは離れ離れになるのを悲しんでくれてもいいのに――。

 三日で荷造りをするのも大変な話で、侍女に持たせる分は最低限にし、あとは別便で送ってもらうことにした。

 そして、中央駅で南部地方に向かう汽車に乗るタイミングで、王都での最後の試練が待ち受けているなんて皮肉なものだ。

 ――カタリナがそこにいて、わたくしに声をかけてくるだなんて!

 同情されたみたいで、腹が立ったわ。

 だって、そうじゃない?

 自分はすべてを手に入れているくせに、すべてを失って王都を去るわたくしに声をかけるなんて! ふつうは空気を読んで、そっと見送るものじゃない?

 その瞬間、このところ忙しすぎて燻っていた彼女に対する憎悪の感情が燃え上がった気がした。

 この一連の出来事は、おそらくカタリナからの挑戦状。

(だったら、その挑戦状は受けてあげるわ。今のわたくしの惨めな気分を、あなたにも味合わせてあげるから!)

 憎しみという糧を得て、ようやく最悪だった気分が晴れ渡ってくる。

 車窓の向こうに見える鄙びた風景を見ながら、わたくしはゆっくりと笑みを浮かべた。

 

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