第34話 寝取り令嬢の憂鬱1
(……はぁ、疲れたわ。疲れ果てたわ)
窓ガラスに映る美しい憂い顔を眺めながら、わたくしはため息を漏らす。
ガラスの向こう側に見えてくるのは、鄙びた田園風景。
(せっかく王都に来ることができたというのに、また南部地方に逆戻りなの?)
その苦々しい思いに、唇を噛む。
この三日で、何もかもが振り出しに戻ってしまうなんて信じられなかった。
フィリップとの婚約が白紙になるかもしれない……こんな危機に陥るだなんて。
舞踏会の翌日――その日のことを、わたくしは一生忘れることはないだろう。
それほどに、これまでの人生の中で一番ショックを受けた日だったから。
朝っぱらから渋い顔をしたグラストン侯爵家の執事が、わたくしに手渡してきたのは新聞だった。
新聞なんて、貴族の令嬢が朝一番で読むものではないわ。
わたくしの優雅な朝は、新鮮な果実がたっぷり入ったオートミール、ジンジャーミルクティーから始まる。
わたくしの美貌と腰の細さは、日々の節制の賜物だわ。
ほら、よく言うでしょう? 湖に浮かぶ白鳥は人知れず水を掻くって。
だから、ティータイムのように誰かと楽しむ場所で、わざわざ好き好んで貧相なお菓子を食べるのは愚の骨頂。
「カフェ・カタリナ」に並んでいるぽっちゃりなお嬢様たちをそう罵ってやりたいけれど、品がいいわたくしだもの……ちらっと軽蔑の眼差しを向けるだけで我慢しておくわ。
――さて、咳払いをしてくる執事を上目遣いで見ると、わたくしは新聞の第一面に視線を落とした。
「な……なによ、これ……っ」
そこに書かれていた見出しに、わたくしは衝撃を受ける。
『カフェ・ベルトラの衛生管理は素人以下! 元従業員が暴露するずさんな実態』
それは、あまりにもスキャンダラスな煽り文句。
急いで記事の内容を読み始めるが、どうしても新聞を持つ手が震えてくる。
元従業員が働いていた店のことを暴露するのは、よくあること。最近、二人辞めているからそのどちらかが小遣い稼ぎのために、インタビューに応じたと思った。
しかし、こんなことをさせる原動力はいったい何なのかしら?
わたくしの脳裏に、疑問と……そして、なぜかカタリナの顔が浮かんできた。
(あの子が仕返しをしたの……!?)
わたくしが前にナンパ男たちに書かせた醜聞記事。
あの復讐で、うちのスタッフを買収したのではないかしら……?
怒りと屈辱を堪えながら、わたくしは傍に控えていた執事に尋ねる。
「フィリップは……彼は、どこにいるの……?」
「お坊ちゃまは、すでに王宮に出仕されております。エレオノールお嬢様のことを心配されておりました。弁護士の手配などはわたくしが代行いたしますので」
それを聞いて、嘆息した。
婚約者の一大事だというのに、フィリップは呑気に仕事に行ってしまった。
もし、彼がわたくしのことを心から愛しているのなら、休みをとってわたくしに付き添ってくれたはず。
ユーレック子爵は、カタリナにそうしてあげたのではないかしら……?
そう……これと同じようなことを、わたくしはカタリナにしたのだわ。
ただ、記事に書かれていたことは認めざるをえない部分もある。
メアリーの話によれば、カタリナは相当の綺麗好き。自ら厨房の掃除をするほどの徹底ぶりだと言う。
でも、そんなことをわたくしに求められても困るわ! わたくしは生まれながらのお嬢様よ?
事業のためだとしても、下女の真似をするなんてできるわけがないじゃない!
いずれにしても、この記事の内容を新聞社に文句を言って訂正させなくてはならない。
そのためにも、執事が言うようにまずは弁護士に会うことからしないと。
「そうね……あなたの言う通りだわ。弁護士の手配をお願いするわ」
「かしこまりました」
執事がダイニングルームを出て行くと、わたくしは新聞を床に投げ捨てた。
まだ、その時は迫りくる惨劇を理解していなかったのだ。
わたくしは、「カフェ・ベルトラ」に急いだ。
あんな新聞記事が出たら、衛生省の役人が来てしまうじゃない……!
わたくしは、お店の衛生状態を自分では管理をしていないから、実際のところよくわからない。
厨房についてはパティシエに、そして、店内については 主任スタッフに任せっきり。
でも、本当に記事のような事実があったとしたら大問題でしょう?
すべての責任は、わたくしが負わねばならないことになる。
客の入りとかを心配するよりも先に、とにかく衛生省が怖い。
彼らがうるさくなったのは、ごく最近の話。
数十年前に流行った疫病の原因が不潔な食器や厨房にあると言い出して、抜き打ちで料理を出す店を取り締まるようになった。
日頃から、その対策ができていればまだよかったけれど、まだオープンして間もないのよ?
店内にネズミが出ることなんて、あるわけないと思っていたの。
畏れ多くもこのわたくしに陳情してくるスタッフはいたわ。でも、どうせ自分の懐にそのお金を入れるんだろうと高をくくって、放っておいたのよ。
だって、客足も思いのほかよくないし、殺鼠剤なんて買ったら赤字だわ。
だからと言って、いまさら猫を飼うのは……。
わたくし、猫アレルギーが酷くって……猫のことを考えただけで、鼻がムズムズしてくるわ。
馬車から降りると、店の前にはすでに人だかりができていた。
「何なのかしら……?」
わたくしは侍女に言って、道を開けさせて「カフェ・ベルトラ」の入口のドアを開けた。
その瞬間、足元に小さな何かが走り抜ける。
「きゃーっ!!」
わたくしはあまりのことに悲鳴をあげた。
だって……それはネズミだったのよ! しかも、よく太ったネズミ!
恐怖のあまり立ち竦むわたくしに、黒いコートを着た紳士が声をかけてきた。
「お嬢さん、あなたがこちらの店の経営者のベルトラ子爵令嬢ですか?」
「……え、ええ。そう……ですけれど……?」
さっき見たネズミの恐怖で震えているわたくしに、彼は帽子を取って恭しく挨拶をしてきた。
「申し遅れました、子爵令嬢。私は衛生省の官僚のベルグでございます」
それを聞いて、すべてを悟った。
一番来てほしくない時に、抜き打ち検査が来るなんて……!
しかも、さっき遭遇したのとは他のネズミが床を駆け回っているところに!
もう、知らぬ存ぜぬで誤魔化すことはできない。
「……今朝の新聞記事を見まして、こちらの店舗の衛生状態を確認に伺いました。問題があるのは一目瞭然。営業停止処分は免れられないでしょうな」
「営業停止処分……」
その言葉が示唆するのは、「カフェ・ベルトラ」にとっての絶望。
店舗のスタッフたちが見守る中、わたくしはその場で崩れ落ちていた。
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