第33話 天敵は憎しみと共に去りぬ


 「カフェ・ベルトラ」の醜聞が新聞記事の一面を飾ったのは、マルモット伯爵邸の舞踏会の翌日のことだった。

 記事が出るのをその日に設定したのは、私からの最後の慈悲である。

 マルモット伯爵邸の舞踏会は個人主催の舞踏会では王都で最大の規模を誇り、おそらくエレオノールも参加するだろうと思っていたから。

 あの記事が出れば、社交どころではなくなる。

 これまで舐めた飲食店経営をしていたことが明るみになれば、新商品の失敗で減った客足が一気になくなるだろう。

 それに、いつもは見て見ぬふりをしている役人も黙ってはいない。

 なぜなら、記事が出たタイミングで「カフェ・ベルトラ」に立ち入り調査をすることになっている。そこで記事通りの問題が見つかれば、営業停止にすることになるだろう。

 そうするため、衛生省にリオネル様のほうで話をしたらしい。

 どういう手を使っているのかはわからないが、彼は役所絡みの手続きに長けている。

 だから、しばらくの間、エレオノールは社交の場に来ることはないはず。

 最悪の場合、王都から去ることになるかもしれない。

 ……だから、せめてマルモット伯爵邸の舞踏会は、心から楽しんでほしいと思った。

 それを聞いたリオネル様は、わかりやすく眉をしかめた。

「カタリナお嬢様は優しすぎますね。私ならそのような慈悲はかけません」

 どうやら、彼は私以上にエレオノールに憤っているようだ。

 私のほうは、すっかり胸のモヤモヤが晴れている。この前、リオネル様が彼女にぎゃふんと言わせたからだろうか。

 エレオノールは面倒な女だが、そのうち私を目の敵にするのに飽きるだろう。

 その時こそ、「カフェ・カタリナ」に平和が訪れる。

 『カフェ・ベルトラの衛生管理は素人以下! 元従業員が暴露するずさんな実態』

 マドレーヌが買ってきてくれた新聞記事の見出しに目を通してから、私は開店前の準備作業を始めた。

 記事の内容は、前にリオネル様に見せてもらったから知っている。

 このインタビューに応じた元従業員のルリカは、先週「カフェ・ベルトラ」を退職して密かにホテルの厨房で働き始めた。

 支配人に推薦状を書いたのはこの私。

 ほとぼりが冷めるまではルリカには裏方で働いてもらって、その後、彼女が希望すればホテルに残ってもいいし、うちの店に来たいと言っても喜んで迎えるつもりだ。

 すべては、私の思惑通りに順調に進んでいた。

 ――「カフェ・ベルトラ」崩壊のカウントダウンは、もう始まっている。



「カフェ・ベルトラが閉店するんだって。さっき通りがかりに見たら、店に貼り紙があったよ」

 そう常連のお客さんが教えてくれたのは、記事が出てから三日後のことだった。

「あら、そうなんですか? まだ開店してからそんなに経っていないのに大変ですわね」

「やっぱり、カタリナちゃんの腕前には敵わなかったんだよ。だって、パニーニもお菓子もこっちのほうが断然おいしいもん。やっぱり、カタリナちゃんが作るからかなぁ?」

 お世辞でも、褒められるとうれしい――が、笑顔で対応していると、背中に強い視線を感じた。

 振り返るとリオネル様と目が合った。

 彼は午前中いっぱい外出だったため、打ち合わせがてら部下のディランさんと遅いランチをとっているところ。

 私が男性客と話しているのを目撃すると、リオネル様はわかりやすく不機嫌になる。

(リオネル様ったら、意外と嫉妬深いのね!)

 ビジネスパートナーであり恋人でもある彼は、思いのほか独占欲が強いらしい。

 もし、私のほうの実家が反対せず、彼と結ばれることになったら、接客は絶対するなとか言いそうな勢いである。

 ……でも、それは嫌じゃない。

 むしろ、リオネル様にもっと束縛されたい。

 他の男性……例えば、フィリップがそんなことを言い出したら、心の中で粗大ゴミのシールを貼ってゴミ集積場に投げ捨てるのに!

 同じことを言ったとしても、リオネル様だったら胸がくすぐったくなる。

 こんな矛盾に満ちた気持ちは、いったい何なんだろう? 前世で恋愛経験がない私には、この感情の意味がよくわからなかった。

 ……まぁ、いいか! 悩んでも仕方がない。

 実家にどう認めさせるか考えると頭が痛いけれど、リオネル様を想う気持ちとおいしいスイーツがあれば大丈夫!

 そんな気持ちを込めてカウンターの中から見つめ返すと、彼は頬を赤らめて慌てて目を逸らした。



 週一回、ホテルカフェと中央駅の売店に視察に行くことにしている。

 ホテルや駅との物品のやり取りはマルコがやってくれるし、売店のシフト管理などはマドレーヌの担当である。

 二人は信頼できるスタッフ――彼らが目を光らせているから、路面店以外のことを日々あれこれと私が考える必要はない。

 しかし、忙しい時は任せるとしても、平常時はオーナーとして足を運ぶ必要があると思う。現場を見ないとわからないこともあるからだ。

 ホテルは支配人やメインダイニングのスタッフと話をして、厨房にいるルリカの仕事の状況を確認する程度で終わった。

 特に問題がないから、次はマルコと一緒に中央駅に行った。

 売店についても、相変わらず繁盛しているようだった。

 「カフェ・カタリナ」はメインストリートにあるため、地方からの旅行者にとって人気になっている。街中で見知ったカフェの商品に目を留めた人々が、お土産を買うためにカウンターに並んでいる。

 焼き菓子の中でも、見た目が美しいアイスボックスクッキーは売上も上々だ。

 渦巻き状の柄の他に市松模様のクッキーを増やしてみたが、これもお洒落だと王都の令嬢たちが好んで買い求めていく。

 リオネル様のお母様に紹介してもらった紙加工の専門業者に、クッキーの箱を作ってもらい、贈答用にも使えるようにした甲斐があった。

 従来、お菓子を入れる箱は金属や陶器製が多く、重いのが問題点だった。

 前世では高価なお菓子でも、紙の箱に入っているものが多い。厚紙を使えば潰れるのを防ぐことはできる。

 何かと荷物が多くなる旅行客にとって、紙作りの箱に入ったクッキーはありがたいのかもしれない。手土産に複数個を買い求める人が多く、毎朝のように大量に作っているのにすっかり品薄になっている。

「いつも以上に商売繁盛していますね!」

 うれしそうなマルコに、カウンター内で忙しなく働いている二人のスタッフを眺めながら私も頷いた。

「そうね。あなたが在庫の補充をうまくやってくれるから大助かりだわ」

 そんな会話をしていると、停車していた南部地方行きの汽車の扉が開いた。

 土産を買い求めたお客さんたちは、次々に汽車の中へと乗り込んでいく。

 そんな人混みの中で一際目立っていたのは、赤いドレスを着た貴婦人の姿――。

(……あら、エレオノールじゃない?)

 羽がついたボンネットに褐色の髪、ワインレッドのモスリンのドレスの上に黒の天鵞絨の乗馬服のジャケットという外出用の出で立ちをしている。

 後ろから大きなスーツケースを持つ侍女が付き従っている様子から察するに、店を畳んだから実家に戻るつもりだろうか。

 後先考えずに、私はエレオノールのほうに駆け寄った。

「エレオノールお嬢様!」

 振り返った彼女は、青白い顔をしていた。

 おそらく、新聞記事の醜聞や衛生省による取り調べ、短期間での閉店作業で疲弊しているのだろう。

 その様子を見て、私はこう思った。

(あぁ……ちょっと、やり過ぎちゃったかしら?)

 エレオノールには、私のように前世の記憶があるわけではない。カフェでバイトした経験もなければ、製菓学校に通ったわけでもない。

 生まれながらのお嬢様がいきなり飲食業を始めたら、失敗するに決まっている。

 放っておいても、いつかは閉店することになったはず。

 それなのに、少しやられただけでそれ以上の反撃をしてしまい、我ながらおとなげなかったかな、と少し反省してしまう。

 予想以上にリオネル様が手厳しかった、というのもあるけれど……。

 無表情のままのエレオノールに、私は尋ねた。

「お店を畳んだって聞いたわ……もう、南部に帰ってしまうの?」

「……そうよ」

 感情がない声で、素っ気ない返事をしてくる。

 雑踏の中で、気まずい沈黙が流れた。

「あの……色々と大変だったわね。でも、飲食店の経営がすべてじゃないわ!」

 精一杯の慰めの言葉を口にしたが、エレオノールは気分を害した様子で私を睨みつけてきた。

「……まぁ、あなた! このわたくしに同情していらっしゃるの?」

「エレオノールお嬢様……」

「思い上がるのもいい加減にしてくださらない? しばらくは、あなたと顔を合わせなくていいと思うとせいせいするわ……!」

 エレオノールは憎々しげに私を睨んでから、汽車へと乗り込んでいった。

 スーツケースを持つ侍女が申し訳なさそうに頭を下げ、エレオノールの後を追いかけていく。

「あーあ……すっかり、嫌われちゃったなぁ」

 発車のベルが鳴り、ゆっくりと動き始めた列車を眺めながら、私はため息をついた。

 女の友情は呆気なく壊れるもの。

 そもそも、彼女が私を対等な友人として扱っていたかどうかは疑問だったが。

「……大丈夫ですよ。カタリナお嬢様には、たくさんの味方がついているじゃないですか!」

「そうよね。万人に嫌われない人間なんていないわよね」

 朗らかな表情をしているマルコに、私はつられて明るくそう答えていた。

 しかし、私はこのときまだ知らなかった。

 エレオノールの私に対する憎悪が、思いのほか深いものだということを――。

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