秀麗にて秘奥あり候
逸崎雅美
第1話
『秀麗にて秘奥あり候』
~土岐の彼方に~
<目次>
まえがき
第1章 兵法書と思想書
第2章 天皇と室町幕府
第3章 領国経済体制
第4章 船田合戦
第5章 進士家と明智家の養子
第6章 明智家崩壊
第7章 細川藤高の中間
第8章 朝倉家寓居
第9章 将軍足利義輝弑逆
第10章 信長上洛
第11章 信長家臣の出世頭
第12章 武田家滅亡
第13章 朝廷との確執と信長の密謀
第14章 本能寺の変
第15章 炎の坂本城
あとがき
<主な登場人物>
・明智光秀
本小説の主人公。1522年(永正19年)、美濃の武儀郡中洞村で生まれる。父は、成瀬元頼。母は、当地の豪族の中洞源左衛門の娘の佐多。元頼は、美濃8代守護の土岐成瀬(しげより)の四男。つまり、光秀は守護の土岐成瀬の孫で、土岐氏最後の守護となった頼芸の従弟。背の高い美男子。ただ若い頃は女癖が悪く、また武芸百般と大ぼらを吹くなど放蕩息子であった。性格は、父と似た自信家で野心家でもあった。父の死後は、美濃の明智家支流の進士家の養子になる。続いて、東美濃の雄で格上の土岐家支族の明智本家の養子になる。そこで美濃太守の斎藤道山に出仕するが、道山とともに明智家も長良川の戦いで敗れてしまう。家族や郎党を西美濃に置き去り、単身流浪の旅に出る。先ず京に向かい幕臣を目指すが、時の将軍である足利義輝は、三好一党に追われて朽木に隠遁中であった。そこでは幕府重臣の細川藤高の中間になる。その後、京に戻れた藤高は、光秀を朝倉家臣に推挙する。やがて光秀は、朝倉義景、将軍となった足利義昭、覇王を目指す織田信長に仕える。そこで狡猾な策謀家の光秀は、信長に認められ家臣筆頭の重臣になるも、1582年(天正10年)に主君信長を暗殺する本能寺の変を実行する。さしもの狡猾な策士家も人生最後の決断は、高齢(60歳)もあって我が家・一族の一所の繁栄を願うとともに、父の遺言でもあった守護・土岐氏再興を実現するためには、どうしても幕府の征夷大将軍によって、守護に任じられることが必要だと考えてしまった。
・織田信長
尾張織田家の長男、父や重臣から英才教育を受ける。兵法書と法書を好み、特に『韓非子』で学んだ冷徹さと合理性を駆使し、統治学と帝王学を実践する。岐阜城主になると、中国春秋時代における統一国家の構築過程を基軸にして、その頂点に立つ覇王を目指す。
その象徴として、『麒麟(きりん)』の花押がある。麒麟は中国で生み出された架空の動物で、牡の麒、牝の麟がある。特に、『麟』の性質は、「仁厚く、このうえなく天下が治まる至治(しち)の世に現れる」とされていた。このことから、信長は『至治』の世を目指すことを政治理念とし、この新しい花押を1564年(永禄7年)の11月頃から使用している。前年に小牧山城を築城し、美濃攻略を本格的に始めていた頃のことである。この年に尾張を出て、美濃の加治田城、宇留摩城、猿啄城の攻略を開始している。さらに、『印』については、有名な『天下布武』の印がある。1567年、美濃の斎藤龍興の稲葉山城を落とし、『岐阜城』と改めて中央進出の拠点とした。天下布武とは、日本全国を武力で統一するという意志を示したものであり、美濃の地を『岐阜』と改めたが、これは中国の『周』の文王が、岐山の地によって中国を統一したことで、信長も『岐』を使って日本を統一したい願いを込めたもの。さらに、天下布武の『武』は、中国では積極的に戦うことの意味である。
・細川藤高
室町幕府の御供衆やお部屋衆を歴任する。足利将軍の義輝や義昭よりも年上の腹違いの異母兄でもある。戦よりも歌学を好むが、光秀とは数奇な運命の中で固い絆で結ばれていくが・・・。将軍の実子で長男でありながら、細川家よりも格下の三淵家の養子に出された。すぐに父の義晴が将軍職に就くと、名門・和泉半国の守護である細川播磨守の細川家の養子になった。その後は、将軍となった腹違いの弟・義輝のお部屋衆として幕府に従事する。そもそも藤高の母の里である清原家は、経書(儒学の経典)を天皇や公家に講義する家柄で、藤高も幼少の頃から学問や歌学などを学ぶ有職故実を知る教養人であった。
本能寺の変で光秀に同心しなかった理由は三つ。一つは、藤高の中間から始まった光秀が戦時の指揮力と実行力を買われ、織田家家臣の筆頭に出世し、それも藤高は与力とはいえ、光秀の指揮下に置かれてしまった屈辱があったこと。二つ目は、ほとんど公家や将軍家の故事に無知識だった光秀に、有職故実を教えたのは藤高だったが、それを横取りして要領よく出世の道具にしたのが光秀であったことの苛立ち。三つ目は、徐々に戦時よりも歌学に回帰する藤高は、学問素養のない光秀よりも、秀吉の子飼いの前野将右衛門に歌学の才を見出して、その誼を繋いで友情を結んでいた。このことによって、光秀の信長誅殺の動きは、藤高から将右衛門を通じて羽柴秀吉に流れていたこと。
まえがき
私は、戦国時代の歴史については門外漢の素人です。歴史小説を執筆するのも初めてのこと。ただ、素人なりにここ数年、戦国時代についての勉強を重ねてきました。取材旅行として、歴史の舞台であった京都、大阪、広島、岡山、愛知、川越などを巡りました。京都では本能寺跡と南蛮寺を巡り、二つの寺があまりにも近距離にあることで、二つの寺が地下道で繋がっていたという俗説もあながち否定できないと直感できました。最後に訪れた埼玉県川越市の『喜多院』では、天海大僧正の寿像と江戸城から移築された三代将軍家光の誕生の間が保存されていました。家光の母である春日局の化粧の間なども残されていて、これらは江戸城内にあった紅葉山の別殿を移築したもの。現存する当寺の資料等を精読すると、春日野局は単なる乳母ではなく、家光を生んだ母であることが如実に分かるとともに、天海僧正の親子二人に対する並々ならぬ深慮と愛情が伝わってきました。天海僧正が明智光秀の義理の従弟である明智秀満だとすると、徳川家康のブレーンの一人して、光秀の孫の三代将軍家光を陰で支えた理由がよくよく理解できるものでした。荒唐無稽の話だと失笑されそうですが、歴史の真実は意外性があるものです。即ち、家光の父は徳川家康で、母は光秀の娘である春日野局という説です。これは次回作『光秀の娘、春日局(仮題)』で詳説したいと思っています。
歴史の空白部分
戦国時代の史実に関して私は、(1)高名な歴史家の研究や著作(2)郷土歴史家による古文書や伝聞の書 (3) 有名作家による歴史小説の著書を読破してきました。
その結果判明したことは(1)では、各研究家の歴史観に相違がみられるとともに、科学的な検証が可能な今日にあっても、歴史の事実についてまだ不明の空白部分があること。特に、郷土史の古文書や口伝については、確証が得られなければ、謎として歴史の埒外に置かれていること。(2)については、古文書や長い間言い伝えられた口伝があるにも拘わらず、概ね公の歴史調査では、秘匿扱いもあって埋もれている部分が多いこと。それでも最近になって、それらが一般公開されるに至り、俄かに再評価されることが少なくないこと。(3)では、小説家は歴史研究の専門家ではないにも関わらず、かつ創作小説であるにも関わらず、その面白さと文学性の高さなどで、ベストセラーとなってテレビ・ドラマや映画で大きく放映されました。その結果、実際の歴史の事実とは異なる歴史観や印象が一般に広く浸透してしまっていること。さらに、近代における時の政権によって、開戦鼓舞などのために、歪曲された信長像や秀吉像が国民に広く印象として浸透していったこともあったようです。この他にも、軍記書や歌舞伎などに影響を受けた歴史印象もあったようです。しかし今日では、新たな古文書や遺跡の発見が相次ぎ、専門家による科学的な分析と検証によって、空白であった歴史の謎が徐々に解明されつつあります。
以上のことから、素人の私が創作の歴史小説を作成するに当たり、上記の状況を踏まえつつ執筆しました。判明した新たな真実を採り入れる一方で、私流の歴史舞台を構成し、未だに歴史の空白の部分については、歴史家ではないので遠慮なく創作の歴史小説としての自由な創意工夫と想像力によって、その穴埋めをさせていただきました。
武将の行動の源
戦国時代の多くの武将の行動心理は、我が家、我が一門の栄華を求めたことにあります。それは経済的地盤を築くための領土拡大と、末代までの子孫の繁栄の行動に表れています。その子孫繁栄については、彼等は本妻以外の妾(継室)を複数持つなど、種の保存のための生殖行為を前面に出しています。戦国時代は、忠義よりも、家の安定や繁栄が優先する時代であったといえます。それでも、彼らの異性の相手の中には、必ず一人ぐらい夜の臥所で無意識に官能美を感じていた女性もあって、愛おしさをより感じ、寝所では特別な愛情を注いでいたことと想像します。それらの女性は、例えば、織田信長は生駒家出身の側室『吉乃(きつの)』、豊臣秀吉は宇喜多直家の継室だった『福』、徳川家康は明智光秀の娘である『福(定説では斎藤利三の娘で稲葉一鉄の孫の斉藤福、私の説では後の春日局』)ではないかと推側しています。
英雄色を好む
さて「英雄色を好む」と言われ、その例として信長、秀吉、家康がよく挙げられます。実は光秀も同様なのです。むしろ若い頃の光秀は、前記三人以上の好色で女癖の悪い遊び人だったと読んでいます。ただ、光秀は『三日天下』だっただけに、頂点に立った権力者として、強権的に女性に対する奪取行動が目立つこともなく、さらに実直・勤勉のイメージが強いため、妾も持っていなかったと誤解を生んでいるだけのことなのです。特に、若き頃のイケメン光秀のプレイボーイぶりは、品行方正宜しからず、女癖の悪さが目立っていると強調したいもの。私の歴史検証の結果では、その一生を正妻だけに愛を注ぎ、妾は一切いなかったとする光秀の愛妻説は、事実誤認だと決めつけられるようです。つまり、光秀も子孫繁栄を望み、「英雄色を好む」に値する剛の武将であったという事です。さらに驚くことに、その精神構造は信長や秀吉以上に、冷酷で狡猾な策謀家であることも判りました。これらのことから、当小説の題名は、『秀麗にて秘奥あり候/~土岐の彼方に~』と強かな仮面の男にさせていただきました。
最後に、重ねて申し上げれば、私は歴史家ではなく歴史については門外漢です。本著はドキュメンタリー的歴史書や本格的な歴史小説を目指したものではなく、あくまでも戦国時代を舞台に借りたフィクションの世俗的な創作小説を目指しています。
そのことから、史実には配慮が不足している面が多々あると思います。
その点を読者の皆様にお許しをいただきつつ、戦国時代の耽美的でドラマチックな描写によるビブラート振動を気軽に楽しんでいただければ、望外の喜びです。最後に、偉大なる文豪の歴史小説の大作を過小評価するつもりは毛頭ないことを改めて述べさせていただきます。遠い時代の世界に現代人をいざない、多くの読者に大きな感動を呼び込む文学作品に対する尊敬の念は、今以ていささかも衰えることはありません。
第1章 兵法書と思想書
武士の学問
室町将軍、守護大名、城持ちの有力豪族などの戦国武将の多くは、狭義の意味での軍事戦略や兵法の基本については大きな差異がない。何故ならば、当時の武将たちは自らの経験などによって培われた判断能力を駆使する以前に、その基礎となる兵法、宗教、思想、歴史などの学問を幼少期から一様に学んでいたからである。得手不手や好き嫌いはあっただろうが、志のある者は、地頭、小豪族、国人、地侍でも兵書や宗教などを学問として学んでいたといえる。そして、その多くは僧侶から学び、紀元前の中国の戦国の世であった『春秋時代』などの書物を基本にしていた。極論すれば、戦国時代の武将らは禅僧を師として、公儀、政道、法度、節目を『公(おおやけ)』に立って、領国支配の正当性を一人の人格に凝集していたともいえる。
ただ、これらの根源となっている中国思想は、百家争鳴と言われるほど学派も多ければその分野も多岐にわたっている。例えば、孔子の学派である儒家には、孔丘(こうきゅう)、曾参(そうしん)、孟軻(もうか)、苟況(じゅんきょう)があり、墨子の学派である墨家には、墨擢(ぼくてき)、名家には、公孫竜(こうそんりゅう)、恵施(けいし)、道家には、老聃(ろうたん)、荘周(そうしゅう)、法家には、商鞅(しょうおう)、管仲(かんちゅう)、申不害(しんふがい)、韓非(かんび)があって、各々その著作書が存在していた。それらの多くは渡海して我が日本にも伝来し、多くの武将たちなどが学んでいたのである。従って、学ぶ兵法書によっては、生き方や実践方法に差異があったものと考えられる。
韓非子
例えば、織田信長の革新的行動に最も大きな影響を与えていたのは、『韓非(かんび)』の著作である法術書『韓非子(かんびし)』だったと言われている。この書は、法律によって国を治めるための帝王学的な思想書である。信長の合理的な命令・指揮や冷徹な戦略、果断で徹底した懲罰などの行動は、この書に学んだ成果であったといえる。この書の中の幾つかの教えを実践し、そこで成功を収めると、次にはこの法術の唱えるところを、自信をもって全面的に取り入れて、さらに果敢に実践していったものと考えられる。従って、信長の具体的な統治、戦略、知略は、他の武将達とは徹底的に異なり、これらが見事に功を奏し、彼を天下人に近づけさせていったものと思慮する。
韓非子の例を掲げると、「君主が見るには国中の眼を使う。聴くには国中の耳を使う」と説き、「君主は国中に情報網を張り巡らせ、情報を独占しても臣下には教えない」としている。また「刑と徳の二つの斧の柄を握り、臣下を統率する」と説き、「臣下は罰を恐れ、賞を喜ぶので、刑罰で脅し、徳で臣下を操れ」としている。さらに「君主は名(言葉)と形(実績)とを照合すべき」と説き、成果の評価は、「最初の言葉と一致しなければ、臣下に罰を加えるべし」としている。このように織田信長の行動を裏付けるような思想が、韓非子にはいくつも書かれている。特に、戦国時代最大の悪人と評され、将軍義輝を弑逆した新将軍の義昭の仇でもある松永久秀を許すだけでなく、奈良の国を切り取り次第で与えるという奇策を講じている。韓非子では『五つの虫』で、「悪人も使い方次第」と説いている。
なお、信長は吉法師と呼ばれていた元服前には、『天王坊』という寺で、行書、草書の読み書きから始まり、基礎的な学問への道に入っている。ここでは順次、般若心経、観音経、庭訓往来、貞永式目などを学んだ。さらに元服すると(14歳以降)、瑞泉寺の沢庵和尚と呼ばれている臨済宗妙心寺派の沢彦宗恩(たくげんそうおん)を師として、四書(論語、孟子、大学、中庸)、五経(詩、書、礼、易、春秋)など、中国の兵法書や詩文などを学んでいる。
花押と印
織田信長の中央への進出と統一国家への象徴とされる物に『花押(かおう)』と『印』がある。
信長の花押は、数回以上変更されているが、象徴的なものとして『麒麟(きりん)』の花押が有名である。麒麟は、中国で生み出された架空の動物で、牡の麒、牝の麟がある。特に、『麟』の性質は、「仁厚く、このうえなく天下が治まる至治(しち)の世に現れる」とされていた。
このことから、信長は『至治』の世を目指すことを政治理念とし、この新花押を1564年(永禄7年)の11月頃から使用している。前年に小牧山城を築城し、美濃攻略を本格的に始めていた頃のことである。この年に尾張を出て、美濃の加治田城、宇留摩城、猿啄城の攻略を開始している。
さらに、印については有名な『天下布武』の印がある。1567年、美濃の斎藤龍興の稲葉山城を落とし、『岐阜城』と改めて中央進出の拠点とした。
天下布武とは、日本全国を武力で統一するという意志を示したものである。これとともに、美濃の地を『岐阜』と改めたが、これは中国の『周』の文王が、岐山の地によって中国を統一したことで、信長も『岐』を使うことで日本を統一したいという願いを込めたものである。また、天下布武の『武』は、中国では積極的に戦うことの意味が定着している。ただ異説として、「戦いを止めさせて平和をもたらす」ことの意味だとする考え方もある。この根拠には、(1)入洛後の朝廷との関わり合いの中で、信長自身が「天下静謐(せいひつ)」の言葉を用いたこと。(2)古代中国では、武は積極的に戦うという意味であったが、後の時代では『武』は戦うことを止め、平和をもたらすという意味に変化しているとの説があること。(1)は事実だが、信長の京へ入洛するための戦いが終わり、その成果が結実しつつあって、次の段階にある残る有力大名と戦いについて、朝廷などを利用するための政治的な深慮遠謀の発信だったと考えられる。(2)は、中国の歴史考察の問題。『韓非子』などの多くの書は、『秦(しん)』が中国全土を統一する以前の紀元前221年までの500年間の時代の物である。
春秋時代と戦国時代もその範疇に含まれる。従って、これらは中国古代の思想書といえる。秦が統一を果たす前に、秦は評判の高い思想家の韓非を呼び出し、韓非子の書について熱心に説明を受けたという逸話も残っている。
信長と光秀の精神像
現代に及んでも、光秀が信長を弑逆した理由は諸説あって一般的には謎になっている。歴史の素人がその理由を口挟むべきではないが、信長が光秀を高く評価して重用していた理由こそが、信長を弑逆したことへと繋がっていった気がする。
信長のイメージは、サイコパス、率先垂範、短気、革新的な合理主義者がある。一方、光秀は、律義者、良識者、こよなく妻子を愛し家臣を大切にする温厚な性格で、有職故実の知識に優れた教養があると言われている。実際に書簡の結語は、信長は「勤言と候」を、光秀は「勤言と恐恐」を多く使用しているように、上から目線と下から目線の違いが表れているのは確かなこと。ただ、有職故実の知識に優れた教養があるとされることは、そのほとんど全てが細川藤高からの伝授であり、公家の近衛前久に至っては、光秀の有職故実の知識については、単なる受け入れ程度の知識と見ていたようだ。つまり、織田家家臣の武士団の中で藤高を除けば、室町幕府と天皇・公家の禁裏について、最も予備知識を持っていたということであろう。
一方、『日本史』を編纂したルイス・フロイスが書いた光秀評の一例を紹介すると、「裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなかった。戦においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。築城に造形が深く、優れた建築手腕の持ち主であった。戦いには熟練の武士を使いこなしていた。人を欺くため72の方法を深く体得し、かつ学習したと吹聴していた。その才覚、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けていた。主君とその恩恵を利することをわきまえていた。自らが受けている寵愛を保持し、増大するために不思議な器用さを身に備えていた。絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛の情を得るためには、彼を喜ばせることを万事につけて調べているほどであり、信長の嗜好や希望に関しては、いささかもこれに逆らうことがないように心掛けた。信長は奇妙なばかりに親しく彼を用いた」としている。
これらのことから、信長が光秀を特段に重用していたこともその理由も判る。そして、二人は同じようなアイデンティティの持ち主で、性格や人格が似ていることもよく判る。
例えば、比叡山の焼き討ちでは、光秀は反対したとされているが、その軍功により論功賞は家臣最大で、比叡山のある滋賀郡を与えられるとともに、坂本城の築城を許され、織田家臣の中で初めての城持ちとなっている。要するに、信長と光秀は、同じような倫理観と幅広い知識を持っている戦闘的な人間なのである。
従って、光秀が信長を弑逆した根拠は、同じような倫理と知識を持っていた結果、いずれどこかで衝突することは避けられなかったのではないか、と考えている。
主君弑逆の真因
『本能寺の変』における明智光秀の主君弑逆の真因については、長らく論争が続き、近年に至っては、『怨恨説』『野望説』『四国説』『黒幕説』『土岐氏再興説』が浮上しているが、それらのどれもその可能性については完全否定をできない側面がある。古くから伝えられてはいるが、最も信憑性に欠けるとされる怨恨説についてさえも、完全否定はし難い面がある。例えば、居並ぶ家来衆の面前で信長に欄干に叩き込まれ、さらに家康の饗応役の際にも人前で罵倒されてその任を解かれ、すぐに秀吉の援軍に向かうことを命じられる。その際には、二国の領国を召し上げられたことなどに対する恨みである。だがこれは、信長が次の一手を講ずるための演技だったと疑っている(徳川家康謀殺の罠)。
しかし、いずれにしても、独裁者・信長に対する恐怖心とそれらから伴う将来不安を抱えていたのは、光秀だけではなく、信長の息子を養子にしている秀吉を含め、信長家臣一同にも相通ずるもの。従って、どの説もあり得る原因の一つだとは考えている。また、それらの複数の要因が重なり、合い相まって信長討ちのクーデターを決心したとも推察できる。
特に黒幕説では、反信長には、朝廷(天皇と公家)、幕府再興を願う西国公方と言われる将軍義昭と幕府役人衆、毛利や長宗我部のような反信長の強力な大名ライバルもまだ控えていた。ただ、いずれにしても政変を断行する光秀にとって、最初で最後の絶好の機会だったことは間違いない。
謀反決意の最後の一押し
しかし、以上の複数の要因が重なり合っていたものの、最後に光秀のクーデターの実行を強力に後押ししたのは、荒唐無稽との批判を浴びる覚悟で言えば、『信長に命じられた徳川家康の暗殺命令』だったと考えている。つまり、本能寺で7月3日に開催される予定の茶会における徳川家康謀殺の罠である。信長は若くして領主になった時に、弟信秀を騙し討ちにしたように、家康を本能寺で葬ることを策謀し、密かに信頼している光秀だけにその実行を命じた(秀吉の援軍を命じたのはカモフラージュ)。つまり、信長が無防備状態にあることで家康を安心させ、安土詣と堺の遊覧ができるように策したもの。そのため、信長自身も僅かな供で本能寺に出向いて、家康を安心させ欺いたものである。
この具体的な詳細は本編で綴ることとするが、信長と同様に戦時の光秀は徹底した合理主義を貫き、その点を信長に買われて出世街道を突き進んできた武将である。ところが1580年頃から、出世頭の座は秀吉に脅かされるようになり、四国問題では、ますます窮地に追い込まれつつある状態になっていた。
高齢光秀の心境
明智光秀は、信長の家臣の中では抜けた高齢者であり、息子も幼く細川藤高のように息子に当主の座を譲れる家族構成になかった。つまり、明智家は将来不安を抱えていた。戦国時代の武将は、皆が我が家の末代までの子孫繁栄を願って戦い生きている。信長も藤高も後継者を作り、その血脈が永く継続させることが我が使命と考えている。光秀には、その残された時間が少なかった。まさに『時は今あめが下しる五月かな』である。
その昔、室町幕府に任じられた守護の土岐氏の末裔の人間・明智光秀が、信長が画する自身の親族と清州以来の子飼いの部下を中心とした『統一国家構想』の実現を目の当たりにしたとき、最も義憤に駆られたのが、非道で過酷な家康暗殺命令であった。自分もいつか邪魔になれば、信長に容赦なく抹殺されるという恐怖心に襲われたことと思う。この頃の信長の容赦ない冷徹で理不尽極まりないやり様が、むくむくと信長弑逆を決意させて、それを実行した結果、徳川家康を最大の窮地から救ったのである。明智光秀は、家康の最大の恩師である。江戸時代では守護制度がなかったが、この明智の恩に報いるために、土岐氏の末裔を武家として復活させている。
翻って、主君弑逆の最大の真因については、本能寺の変の二年ほど前に遡った頃からの政局変化や織田家・家臣団の世代交代の状況が影響している。光秀自身の高齢と若き後継ぎ問題による将来不安にも繋がっていった。光秀一族郎党の今の繁栄がどこまで続くものなのかと、疑心暗鬼となったことも挙げられる。このように、光秀の将来には、残されている生の時間的猶予があまりなかったことが、事変の急流を大きく呼び込んだものと考えられる。
参考までに、当小説の主要人物の生まれと死亡の年及び本能寺変時の年齢を分かり易く西暦で羅列すると、斎藤道三1494年~1556年(既に死亡)、明智光秀1522年~1582年(60歳)、織田信長1534年~1582年(48歳)、豊臣秀吉1537年~1598年(45歳)、徳川家康1543年~1616年(39歳)となる。
光秀は、道三を除く他の四人と身近に接していたのだが、本能寺の変の時点では最も高齢の60歳になっている(フロイスは67歳であった記述しているが、一方で60歳よりも若いという説もある)。老臣佐久間信盛が息子の信栄とともに信長に追放されたが、高齢で役に立たずの一掃ではなく、信長の命に十分応えることができなかったことが真因である。齢六十を超える高齢者の光秀も、そう遠くない時期に我が身もそうなるのでは、と疑心暗鬼になったことは確かであろう。ただ信長自身は、まだまだ光秀には使い道が十分にあると判断していたといえる。現代でも一般的に、光秀は本能寺の変の時点でも、齢六十を超える高齢者とは思われていない。理由は、(1)出自とともに生年が不明であったこと(誕生は諸説あり、最も若い説では本能寺の変時は五十歳代)(2)僅かに残された肖像画が二枚目の美男で、若い時のものしか現存していないことによる若いイメージが強いこと、
(3)本能寺の変の寸前まで秀吉とともに臣下筆頭として、エネルギッシュに働いていたことが挙げられる。ただ、信長は秀吉を『猿』と呼び、光秀を『金柑頭』と呼んでいたように、光秀の頭には毛髪がなかった禿頭だったと考えれば、老いの側面は読み取れる。翻って、光秀が我が齢を熟慮すれば、今後の一族郎党の将来に、不安を抱くのは自然の摂理である。
一方、統一国家の永年継続を目指す信長は、いずれ信長血族(信忠、信雄、信孝)と小姓組・旗者などの直臣に、東海、近畿、中国、四国を領有させるとともに、光秀や秀吉の肥大しすぎた外様家臣をかつて佐久間や林などを追放したように、遠国の九州に飛ばす(配置転換)ことは、胸に秘めていたのは事実。しかし、律儀で頭脳明晰すぎるという印象の光秀は、それらを実行された後には、自分の若き後継ぎなどの一族郎党は、九州移封後には、いずれ遠くない将来に朝鮮や中国に転戦させられる危険性も予知していたともいえる。戦国時代の武士の本分は、一所において一族が長く繁栄し、生き延びることにある。それは転戦が続いてきた光秀も同じ思いであり、論を待たない真実の武士の生きる道であった。だが、統一国家を目前に控えた1582年には、二人の思いと生き残りの方法には、大きな隔たりを生じていたといえる。
光秀は信長の考える統一国家の実現を阻止し、それに代わる国家像として、一度は捨てていた『幕府の再興』の道しかないと回帰していったのだろう。鞆の浦にいる義昭が京に戻り、かつての幕府が再興されれば、地方には再び守護や守護代の整いが始まり、安定した政局の中で名門・土岐氏の血も蘇り、守護への復活が実現する可能性はなくはない。我が子や一族がそこに生きられるようにと、期待をしていたのだろう。
藤高は光秀に同心せず
しかし、一方の信長と秀吉は、同一の思想と構想を持っており、旧幕府下の制度では、全国規模の軍事力を保持できず、そのため、権力者となっても思うような権力行使が困難と見ていた。これは光秀の盟友の細川藤高も同様の考え方だったといえる。そこでは、全国的な規模での増収を期待できる新たな年貢制度や段銭の仕組みを施行することができないと判断していた。即ち、強力な軍事力を背景にして、将軍を任命できる権力象徴の皇家を自由に差配することによって、天皇を頂点とした統一国家を目指していたといえる。その信長や藤高の思想に同調していた秀吉は、信長、光秀の亡き後に、最大の軍事力保有者となり、天皇を支える公家にもなって、天下に号令する権力者を目指した。
揺れる信長の境地
翻って、これまでの主君弑逆の真因の追求は、現代人による今日の殺人事件捜査のように、本能寺の変の直前の政局のみを対象にした犯人の動機や目的にその重きが置かれ過ぎた嫌いがある。例えば、最近になって有力な主君弑逆の動機になったとされる四国説。しかし、私的な不満がある一族の事情はあっても、事実として光秀は、四国征伐に当たり長宗我部元親を説得して、信長に臣従することに翻意させている。例え四国征伐が実行されても、これまでの信長の仕置きの方法を考慮すれば、徹底抗戦を示すことのなかった元親一族を壊滅させる意志はなかったのではないか。主君と家臣の意見の相違による内輪もめが原点となって、本能寺という密室における短期的政局の火線に論議が集中しすぎた感はある。首謀者の直前の身内などの個人的都合による心理的変化などに動機を求めるよりも、その光秀脳に影響を与えた次の政治舞台の姿(信長の官位と天皇譲位に関する朝廷と信長のやり取り)と、その推移の同線に引っ張られていく人間光秀の心底に深く眠っていた『土岐氏再興の夢』との因果関係に焦点を充てるべきだったといえる。この刻々と揺れる情勢変化と、その中での光秀との交信、行動などに関する客観的な調査・考察が欠けていた面もあった。これらについては本編で記述するが、ここでは弑逆される直前の信長が珍しく朝廷の提案に対して、その選択に悩み躊躇してしまい、即断せずに回答を引き延ばしたことが、光秀の謀反の最後の決断に繋がっていったと推測している。
韓非子は説く。『十過』の中で「小さな利益にとらわれると、大きな利益をそこなう」。さらに、「強欲を押し通し、利益ばかり求めると、国を滅ぼし自分も殺されるもとになる」
最後の最後に、現実となってきた武士団のあるべき姿について、信長脳と光秀脳には大きなズレが生じてしまったのだ。
天皇を越える権力像
信長は、1577年(天正5年)、二条に自分の京屋敷を建設した。当初の二条屋敷は朝廷との折衝の拠点としていたが、二年後には誠仁親王が入り二条御所となった。親王は27歳で父の正親町天皇は、既に還暦を越える高齢であった。信長の狙いは、天皇の譲位と親王の即位にあったことは言うまでもない。対応に苦慮した朝廷は、その後、信長に左大臣の内意を探ったが受託する回答はなかった。次には、足利義昭の不在に絡み、信長から征夷大将軍就任と天皇の譲位を迫ったが、朝廷側は拒んでいる。当時、信長の元には義昭の息子の義尋(よしひろ)が人質として置いてあった。そこで信長は、再度、誠仁親王の即位を求めるともに、新たに義尋の将軍宣下を提起している。若い二人を抱える巨大な権力者として、自らを強く打ち出す戦略を整えた。しかし、またしても朝廷は、信長の権力がますます強力になると拒んだ。但し、明智光秀はこの時、本気でこの実現を期待していた。彼には、幕府による守護・土岐一族の再興が人生最大の願いであったからだ。義昭の鞆の浦への逃避で、足利幕府の復活への夢は遠のいてしまったが、その夢を消していた信長が、義昭の息子を征夷大将軍にしたい、と朝廷に提起したのである。光秀は鞆の浦に居る義昭にこの吉報を伝えた。勿論、秀吉も毛利の使僧の安国寺恵瓊からこの情報を聞き及んでいた。この信長の提案策を知った織田家の他の重臣らにとっても、十分に納得できるものであった。これまでの信長の現実主義的な身分尊重の思考からすれば、追放した将軍を引退させ、その若い息子を後継者として足利16代将軍に立てる、という施策はいかにもあり得ることと伝播された。
平氏の征夷大将軍
しかし、その光秀の期待した夢は幻の如く消え去った。1577年(天正5年)から始まった信長自身の官位、将軍後継及び譲位と新天皇即位の問題は、1582年(天正10年)に至っても解決はされずに先延ばしのままに推移していた。
この年、信濃から甲斐に入った織田信長は武田家を滅亡させた。凱旋の富士山見物の後、4月11日安土城に戻った。そして25日に朝廷は、祝いも兼ねた朝議に基づき、信長を太政大臣、関白、征夷大将軍のいずれかに任官させることを決定した。その朝廷の内実は、征夷大将軍にあったといえる。それは征夷大将軍の職が東国平定に由来していたこともあり、信長の関東平定の好機を捉えた結果の打開策でもあった。従って、備後の鞆の浦に逃避している足利義昭を見限り、信長という平氏の将軍の新たな伝統創出に大胆に踏み切ったものでもあった。しかし、信長にとって将軍の任官と天皇の譲位は、あくまでもセットであった。信長がまたしても首を縦に振らないので困った朝廷は、将軍任官後に譲位を検討すると、譲位を先に延ばしつつ征夷大将軍就任を求めていった。
これに対し信長は、甲斐の武田家を滅亡させたことにより、駿河・遠江の徳川家康も葬り、東の憂いを完全になくした後に、将軍職を受ける腹積もりであったかもしれない。しかし、家康という東の憂いを取り払った後であれば、征夷大将軍の大義でもある東国平定による征夷大将軍就任問題は、十分に論破して断ることができる。そうなれば、事実上天皇による将軍宣下はなくなり、天皇の権力は弱まる、あるいは事実上消滅するだろう。従って、勅書、宣旨、綸旨などの発給に止まることになる。よって、天下に号令できる者は、天皇や院政をも超えた強い神のような存在になれる、はずであった。
一方、この信長自身の将軍任官の報に、最も衝撃を受けたのは明智光秀であった。信長将軍では、土岐一族の再興は夢のまた夢であった。ましてや今回の信長は、平氏としての将軍就任である。将軍は代々源氏の棟梁が征夷大将軍を繋いできた。土岐氏も明智家も源氏の血筋である。自分が60歳を越える高齢にあり、その嫡男もまだ10代の若さである。細川藤高の息子のように家督を継いで、猛将として信長の信頼を得てもいない。すでに凱旋後の安土城において、徳川家康の暗殺を信長から命じられて苦悩していた光秀は、ここに至り、織田信長を討ち果たす決意を固めるのであった。
他方、信長を弑逆した光秀が秀吉のように天下取りに行き着かなかったのは、光秀自身が二度と巡り会わないと判断したクーデターの好機に囚われ、秘密裏に事を進めすぎたため、味方の連結を強化・増加するという政治的な行動時間の猶予が足りなかったことが挙げられる。そのため、反信長連盟の軍団作りや変後の政治体制の絵姿を伝えることも、臨時の政治体制すら築くこともできなかった。尤も、光秀はクーデター以前より、公家、西方公方、長宗我部、毛利などとも、秘密裏に交信を重ねていたことが最近になって歴史的な文献にも認められるようになってきた。決して、信長誅殺前後の政治・軍事の同盟者作りの有用性を軽視していたわけではないと言える。但し、事の重要性や意図する核心の部分については、韓非子の教えに基づき、情報漏れを防ぐために秘密主義を貫いただけのことであろう。しかし、クーデターの決行日については、当日まで家臣にさえ秘匿できていたものの、結果的には自分の与力的な家臣であり、最も頼りにもしていた我が出世の恩人である細川藤高に裏切られていたのだ。韓非子は『二柄』で説く。「人臣の情、必ずしもよくその君を愛するにあらざるなり、利を重んずるがための故なり」
一方、秀吉は光秀のクーデターを予知していた。それは子飼いの前野将衛門が歌学を通じて細川藤高と友情を結ぶほどの仲となっており、安土城に凱旋後の信長と光秀の行動については、藤高を通じて秀吉に逐一伝達されていた。安土城における信長による家康暗殺の企てを家康に急報した席には、藤高も同席していた。秀吉は変後に、信長の子息や光秀の与力までも味方にして、己の天下取りの野望を隠して、逆賊に仕立てた明智光秀を討ち果たしたのである。
第2章 天皇と室町幕府
室町時代の天皇
鎌倉時代の承久の変(1221年)以降、戦時、外交、裁判などの政治に関する権限は、朝廷(天皇と公家)の手から、完全に武家に移行してしまった。そのため、天皇は、改元、皇位継承、叙任などの儀典的な権威に止まり、代わって、武士の棟梁である幕府の征夷大将軍が政治権力の頂点に立つこととなった。但し、引き続き詔書、勅旨、綸旨、宣旨及び令旨などについては、将軍宣下の必要性と儀典などの観点から残されていた。つまり、引き続き征夷大将軍の任命権は天皇にあった。
天皇と幕府の関係
将軍家が天皇家をサポートし、その権威を保障するのが室町幕府になる。幕府は自身の経済的基盤が次第に揺らぎ、軍事力も衰退する中にあっても、何故、天皇制を維持したのであろうか。
その第一の理由は、天皇による征夷大将軍の官途(任命)を使ったライバル大名達との別格性を主張することにあった。これによって幕府は、諸国に散在する武士団たる豪族などについて、守護大名や守護代などの職制を通じ、全国の武士団を管理していた。
即ち、天皇から源氏の棟梁たる征夷大将軍に任じられ、天下を判断する権限を天皇から委任されている唯一別格の存在であることを知らしめることができる必要不可欠な仕組みであった。逆に言えば、天皇制を崩壊させてしまえば、幕府自身の存在意義も危うくなる。天皇と幕府は、両天秤のような関係にあった。他方、幕府と守護大名などの関係についても、同様にお互いに補完的な存在関係にあったと考えられる。
ただ、室町時代の後半には、天皇家と幕府の衰退が顕著になり、特に天皇家や公家の経済状態は幕府以上に苦しい台所事情にあった。両者は共に、荘園制度の崩壊によって荘園収入が大幅に減少した。ただ幕府は、京市中の商工業者に対して、『役銭』を課していた。さらに、中国との日明(にちみん)貿易による利益や守護に対する段銭、国役、出銭の臨時的な収入もあった。ところが、京市内が度重なる戦渦に陥る度に、商工業者などが京から離散することがあって、幕府の役銭の収入が急減し、その経済状態は、衰退へと加速していった。これによって、天皇家を支えるべき幕府からの援助も滞ったため、天皇家と公家の生活は、著しく困窮状態に陥っていた。公家の中には自分の荘園を守るために、現地に常住する者も出て、朝廷の機能は著しく後退していった。これも取りも直さず、地方豪族などの台頭によって、荘園制度が崩壊する影響が大きかったことを物語っている。
天皇と朝廷
朝廷制度が世界の中で存在したのは、我が国と中国だけであった。室町時代では、天皇が武力を発揮することはできなかった。代わって、前述のように、将軍宣下や諸書の発布といった儀典的な業務が主体となり、これらを天皇の下に実務的に遂行するのが『朝廷』になる。なお、朝廷に従事または間接的に補佐する人々を『公家』と呼んだ。また『禁裏』とは、天皇と朝廷の総称になる。
発給文書の種類
天皇などが発給する文書には、詔書、勅旨、綸旨、宣旨及び令旨などがある。詔書と勅旨は、弁官が発給する正式の文書。宣旨は、弁官が発給するが簡略化された行政文書。綸旨は、天皇自らの意志を伝える公文書で、蔵人が作成する。令旨は、皇太子、皇后、皇太后が朝廷を通じて発給する公文書。綸旨は、蔵人が天皇から直接の意を受けて、発給する命令書。この中で、手続きの簡便さと天皇自身の意志が直接的に伝達できる『綸旨』は、危急の際に発給されることが多かった。
1567年(永禄10年)11月。正親町天皇は、美濃の斎藤龍興を討って稲葉山に入った織田信長に『綸旨』を送っている。「美濃の掌握を祝し、古今無双の名将」と褒めたたえるとともに、3つの実行を命じている。①誠仁親王の元服と儀礼(御元服)、②御料所(旧荘園の領地)回復と年貢の上納、③御所の修理である。これは、天皇家からの救難の知らせでもあり、信長にとっては、足利義昭を奉じて上洛するための大義名分になっていた。やがて京の都に入った信長は、この3つの案件を迅速かつ確実に実現させて、天皇家から感謝されている。また周知のように、足利義昭の第15代征夷大将軍の天皇宣下についても信長は尽力するのであった。
室町幕府
室町時代の幕府は、天皇から征夷大将軍の官途を授与された足利氏が武士の棟梁として天下の頂点に立って仕置をしていた。その幕府は、京都に将軍直下の中央機関として、『侍所』、『政所』などを京都に設置し政務を担当した。一方、地方機関として兵馬などを司る『守護』や『守護代』などについて、当初は足利一門から十二ほどの大名を抜擢し、彼らに在京する義務を課すとともに、中央機関の管領や侍所頭人にも命じていた。
従って、当初の室町幕府の軍事力は、中央の幕府直轄の直属軍と守護大名などの軍勢によって混合構成されていた。
ただ、応仁の乱以降、全国的に下剋上の様相を呈し、名門守護は京を離れ自国に戻り、急速に台頭してきた豪族などと争う戦渦に巻き込まれ、次第にその基盤が弱体化の方向にあった。このように国勢が激変する中、幕府は京の治安と幕府財政を維持するため、新たに台頭してきた新興大名を含め、全国六十余りの大名を守護や守護代に任命し、彼等と従属的かつ補完的な協力関係を構築するのであった。その上で、将軍の上意や栄典を駆使して、彼等にお墨付けを与える見返りに、幕府の武力的保護や財政負担をさせていた。かつての栄光を失いつつも、征夷将軍の権威を以て、大名間や寺社間の争い、一揆などの紛争について、仲介、相談、解決の労をとり、双方の利害関係者と新たな協力関係を樹立することによって、政治力と権威を保っていたといえる。
荒れる京の町
しかし、次第に畿内では豪族の離合集散が激しくなり、治安が乱れ権威の象徴である室町将軍を軽視する風潮が広がっていった。これは幕府の直属軍が弱体化していたことに原因がある。戦時の戦闘要員になる足軽などの傭兵を雇入れる財力が幕府に乏しいことと、足軽などの傭兵の多くは、豪族や大名に高額の金子で雇われて、洛中や畿内では人材確保が困難になっていたことも挙げられる。そのことから、三好一党のように、京に乱入し武力で将軍を都から追いやるような反乱行為が度々起きていた。当初は金銭で傭兵を雇っていたが、次第に報酬代わりに、金銭や物品を奪略し放題という、窃盗を許す雇い主の慣行ができてしまった。民兵たる足軽らが野盗化してしまい、京の町は益々争乱の嵐が吹きまくっていた。
第3章 領国経済体制
戦国時代は、郷村における小領主の台頭から始まったといえる。室町時代の後半期にあっては、大名、国人、地侍、郷民(一向宗門徒)、農民が存在していた。その中で、特に国人と門徒が台頭し、大名を脅かす存在となってきた。即ち、荘園とその働き手である農民をめぐる支配権の争いである。室町時代の前半は、幕府、貴族(天皇家と公家)と守護大名が荘園を所有し、年貢という作物の収穫高によって税収を得ていた。ところが、遠隔地を端緒に、国人、地侍及び郷民による力づくによる荘園奪取が行われるようになってきた。そのため、税収が減り、幕府、貴族、守護大名の経済的基盤が揺らいでいった。
しかし、軍事的に力を付けて行った大名の中には、領国の安定のために、経済発展にも力を注ぐ者も出て来た。従って、結果的には戦国時代の領国の支配は、軍事と経済が一体化した方向に流れていくのであった。
荘園制度の崩壊
平安時代の荘園は、皇族(天皇家)、貴族及び寺社が所有していた。そして年貢の取り立てや管理は『荘官』と言われる管理人が行なって、荘園主に年貢を送達していた。しかし、鎌倉時代に入ると、地侍が台頭して荘園に介入するようになり、荘園制度が乱れ始める。さらに室町時代に入ると、幕府が『半済令』発布し、守護大名が荘園から年貢を取り立て、その半分を荘園主に送り、半分を守護大名がもらう制度に改変されていった。そして、中には、荘園の土地自体を両者で分けることも行われていた。そして、『守護』が年貢を徴収し、荘園主にその一部を送る方式になってしまった。中には次第に、年貢を送らない者も現れて、実質的に皇族(天皇家)、貴族及び寺社が所有していた荘園制度が崩壊していった。
年貢
こうして室町時代の後半期には、荘園は武力で得た旧荘園を領土化していく姿に変わった。当時の年貢は、検知による貫高によって確定した。その目安は、かつての荘園を防衛する軍役量を基礎的な数値として貫高が裏付けされていた。年貢は、田んぼでは一反当たり分銭で500文、畑は田んぼの1/3程度であった。検知権は守護大名には、与えられていなかったが、幕府によって公領(荘園)別に『公田(大田文)』として登録されていた。なお、新たに開発された田畑は、公田を上回るものも増え、それらは在地する国人や小領主らが所有することになって、彼らが台頭する要因にもなっていった。
段銭
ただ、検知権が守護大名には認められていないことから、守護大名は新たな収入源を求め、『段銭』の収入権を公的なものにすることで、将軍家から守護職を任じられる条件として望んだ。段銭は、今の租税の一つと考えられ、懸銭、棟別銭、城米銭などの諸役銭であった。
職人と商人の管理体制
番匠、鍛冶、瓦職人、車作、鎧細工、銀細工、箔打ち、鞍細工、鎧細工、薄打ち、矢細工、紙漉など職人(職夫)には、公用の労役が課せられていた。また、商人については、兵糧や武器の調達、年貢米や領内産品の販売、資金調達などを城下町で行う営業特権を認めることで、特権商人としての流通課税を徴収した。さらに、街道の整備、陸上傳馬、河川交通(船方)など城下町の整備も課した。しかし、こうした特権商人達は利益を重ねていき、次第に領国を跨ぐ大商人へと成長していくのであった。
鉱山の開発
直接的な財源確保として、鉱山開発も進められた。代表的な例としては、伊達家の陸奥の砂金、尼子家、大内家、毛利の三家では、大森銀山を巡る死闘があった。尼子家には多々良の鉄があり、武田家では、黒川金山、中山金山、芳山小沢金山があった。この他にも、駿河の富士金山、伊豆の金山などがあり、余剰分の金や銀を海外輸出する海外貿易も盛んな時代でもあった。
なお、鉱山開発には金山衆と呼ばれ、金子(かなこ)と、それを束ねる首領の鉱夫頭が必要であった。こうした金子は鉱山開発のみならず、土木技術者として築城、治水灌漑、山城の井戸掘り、攻城のための地下壕堀、井戸の水抜きの断水などに広く重用されてもいた。
第4章 船田合戦
光秀の生い立ち
明智光秀は1522年(永正19年)、美濃の武儀郡中洞村(現在の岐阜県山県市中洞地区にある白山神社近くの古屋敷)で生まれた。父は、土岐元頼(基頼を改名)、母は、当地の豪族・中洞源左衛門の娘・佐多である。つまり、光秀は父が敗走して逃れた隠遁の地で、現地の豪族の娘との間に生まれた実子である。但し、元頼は1496年(明応5年)城田寺城の合戦で敗れ切腹したとの説もある。しかし、守護の実弟でもあり、策士家の石丸利光に担がれただけのことでもあり、放免されたとする方が妥当だろう。
元頼は、室町幕府8代守護で美濃土岐氏第11代の土岐成瀬(しげより)の四男の末っ子。つまり、光秀は名門守護・土岐成瀬の孫にあたる。父の死後、光秀は、明智家支流の進士家の養子となるも、続いて土岐支族の中で格上の明智本家の養子になっている。
これらの生い立ちとから、本能寺の変の前に、愛宕神社で光秀が詠んだ発句の「時は今あめが下なる五月かな」は、『土岐氏は今、五月雨にたたかれているような苦境にある五月である』と推側でき、この苦境から今こそ脱したい、との願い事とも理解できる。即ち、今俄かにできた隙のある信長を討ち、幕府を再構築するとともに、新将軍の公権の下で土岐氏の守護再興を図るという土岐一族の大いなる願いでもあった。つまり、光秀は生まれながらにして、土岐氏の再生を背負っていた戦国時代の寵児でもあった。
父の遺言
美濃の内乱である『船田合戦(1495年(明応4年)』が一時的に収まったものの、再び『城田寺城合戦(1496年(明応5年)』が勃発した。土岐元頼は、父である守護の土岐成瀬の後継者を巡る戦いに、一方の旗頭として参戦した。しかし、元頼は、父の居城である城田城に立て籠るものの敗れ、中洞の地に遁走する。
そして、中洞で隠遁生活中に入り、やがて光秀が誕生した。城田寺城合戦から既に25年の歳月が流れていた。その後、元頼一家は、六角高額を頼り、近江の佐目の有力者である見津一族の保護を受けて、佐目(現在の滋賀県犬上郡多賀町佐目)に移住する。
佐目は、琵琶湖の東方にあり、京に通ずる中山道、東海道と伊勢街道に囲われた場所にあり、近江、美濃、伊勢の三国の接点で六角氏の支配下にあった。ただ、最後の再起を図る元頼にとっては、重要な拠点になるはずであった。
土地の者達は、「随分の家(位の高い人)なり」とし、美濃からの移住者であるとともに、野心家で自信家でもあると風聞を立てた。元頼は、美濃源氏の棟梁で守護家累代の『土岐氏』の誉れとその血筋を継ぐために、息子の光秀を文武両道に優れた武士に育てようと、守護としての素養などについて薫陶・教育する。読み書きに始まり、儒学の経書、兵法書、法術書(規律や法律によって人心を管理する術)などを学ばせた。
やがて、死の近いことを悟った元頼は、光秀に土岐氏の聖地である美濃に戻り、土岐氏の再興を図ることを遺言として残した。そのため、光秀を土岐氏支流筆頭の明智光綱の養子とすることを画策する。しかし、その交渉が纏まりかけた直後に病死してしまった。時は1532年(天文元年)、光秀10歳の頃のこと。父の土岐元頼は、光秀に美濃土岐氏の守護になることを託した。一方、母の佐多は、光秀をお腹に孕んでいた頃は、高貴な人の子を宿したことで熱心に願掛けを行ない、「天下に将たる男子か、秀麗なる女子を授けたまえ」と、武儀川の行徳岩の上で水垢離を行っていた。その願いが通じたのか、光秀は長身の美男子として誕生し成長する。その後の彼は、周知の通り優れた武将として戦国時代を生き抜き、城持ちになるとともに、三日天下ではあったが天下に将たる男子として、日本の最高峰の頂きにも昇りつめるのであった。ただ、父の遺言にあった土岐氏守護としての再興の願いは叶わなかった。
美濃の争乱
室町時代の中頃、美濃における主に守護の座を争った『正法寺の戦い』『船田合戦』『城田寺城の戦い』は明応年間に勃発している。ただ、それ以前にも美濃の内乱は度々勃発していた。特に、1456年(康正2年)、実力者の斎藤利永に守護である土岐持益が隠居させられ、擁立された光秀の祖父である土岐成瀬が守護に就任した後には内乱が続いた。それは長禄年間、文明年間、長享年間、明応年間にまで及んでいる。
応仁の乱が終結以後、美濃守護の土岐成瀬は幕府の『奉公衆』を任じられていた。
室町幕府を構成する部署の一つに奉公衆があるが、将軍の護衛やご料所の管理,戦時の軍役を担当する。幕府直属の部隊の他、有力守護大名なども将軍の命により、京に上り臨戦することがある。その奉公衆として幕政にも深く関わっていた土岐成瀬が幕府から招集を受けたのは、次期将軍の座を巡る争いが幕府内で生じたためであった。この収拾のために上京を要請された(実態は荘園の所有権をめぐる豪族や一向宗の争い)。苦労の末、足利義視を新将軍に奉じて、この争いを無事に治めて美濃国に戻った。
だが、美濃でも、明応年間に次期守護職の座を巡り、現役の守護職にある土岐成瀬の長男・成房と四男・元頼四男(末っ子)の骨肉の争いが始まっていた。これは、守護代をはじめとする美濃豪族や国人らが敵味方に分かれるとともに、尾張、近江、越前の国までも巻き込む大争乱に発展していく。この争乱のそもそも端緒となったのは、守護職にある土岐成瀬が、1493年(明応2年)に単独で上京し、次期美濃守護を四男・元瀬に継ぐ旨の内諾を幕府から得ていたことによる。それは美濃を留守にした時から、領内に暗雲が立ち込めていた。美濃国内では、この将軍の内諾に不満を持つ豪族らがあって、美濃の次期守護職の座を巡る争いに拍車がかかり表面化した。荘園の所有権問題とも重なって、美濃国内の混乱を肥大化させることとなってしまった。
正法寺の戦い
正法寺の戦いは、1494年(明応3年)に勃発した。これは後継者争いでもあったが、本質は内部抗争であった。<守護土岐成瀬+重臣・斎藤妙純>VS<守護代・斎藤利藤+小守護代・石丸利光>の戦いであった。これは守護の後継者争いに絡み、守護代の斎藤利藤と出世願望が強く策士でもある石丸利光が共謀して、守護成瀬の重臣である斎藤妙純の追い落としを狙ったものである。正法寺に両陣営が対峙して戦闘が行われたが、結果は、<守護土岐成瀬+重臣・斎藤妙純>の勝利であった。
船田合戦
船田合戦は、正法寺の戦いの翌年の1495年(明応4年)に開戦し、終結するのに一年以上もの歳月を要した。これは明らかに守護継嗣を巡る戦いであり、美濃国を二分した大規模な戦となった。
<嫡男・土岐正房+守護代・斎藤利国>VS<四男・土岐元瀬+小守護代・石丸利光>の戦いであった。村山氏、山田氏、長井氏などの国人は斎藤利国に側についた。
国枝氏、古田氏、馬場などの国人は石丸利光側についた。結果は、<
嫡男・土岐正房+守護代・斎藤利国>側が勝利した。連続して敗戦した船田城の石丸利光は、城を焼き払うと土岐元瀬を伴って近江に逃れた。この結果、土岐成瀬は城田寺城に隠居し、嫡男政房に家督と守護を譲り、家督を巡る争いは終結した。この戦いでは、双方で200名近くの戦死者を出した。
城田寺城の戦い
ところが、近江に逃れていた石丸利光が翌年の1496年(明応5年)4月に入ると、俄かに再起の動きをみせた。幕府に支援を請う一方で、近江の六角高瀬と伊勢の梅戸貞実の援護を受け、南近江に兵を結集させた。石丸軍は、土岐元頼を総大将に担ぎ、伊勢、尾張津島などに侵攻した。
この戦いは、<守護・土岐正房+守護代・斎藤利国+朝倉貞景+京極高清+織田広寛+浅井氏・三田村氏+長井秀弘・利安兄弟等>VS<四男・土岐元瀬+小守護代・石丸利光+六角高瀬+梅戸貞実等>の戦いであった。結果は、<守護・土岐正房+守護代・斎藤利国+朝倉貞景+京極高清+織田広寛+浅井氏・三田村氏+長井秀弘・利安兄弟等>側が勝利した。
美濃領内に進攻した石丸軍は斎藤軍を打ち破り破り、その勢いで引退していた土岐成瀬のいる城田寺城に入った。と、ここまでの素早い反逆の侵攻策は順調だったが、敵地にある城田城の籠城策は明らかな失策であった。守護・土岐正房は、朝倉偵景、京極高清、浅井氏、三田村氏などに支援を要請し、城田寺城を大軍で包囲した。石丸軍を救援すべく六角高瀬は美濃に向かったが、京極軍に負けて500人以上の死者を出した。梅戸貞実も城田寺城に向かうも、辿り着くことはできなかった。こうして策士の石丸利光は三度敗戦し、息子の利高とともに切腹して果てた。隠居していた両兄弟の父である成瀬は、加納城に移された。そして、反逆者となった一方の総大将に担がれた弟の元頼は、城田寺城に火が放された際に切腹したとも言われている。しかし、命過ながらの逃亡の果てに、美濃・武儀郡中洞村に逃れたものであった。
争乱の根源
正法寺の戦い、船田合戦、城田寺城の戦いは、表面的には守護職を巡る一族の争いでは、あったが、豪族らまでも巻き込んでいた観点からは、豪族・国人の分裂と抗争が問題の本質にある。上記の戦いで勝利した守護代の斎藤家にあっても、衰退の途にあったことは否めない。城田寺城の戦いで勝利した後、元頼と石丸に協力した六角氏を討ちに出る際に、郷民と一向宗門徒による蜂起にあって、部下の一千名にのぼる死亡とともに、斎藤利国と息子の利親も敗死している。この頃(1500年/明応9年)には、美濃の一向宗の寺は49寺にも増加するとともに、その門徒も肥大化しつつあった。従って、美濃国では国人と門徒が台頭し、不安定な政局が続いていたのである。結果的には、力と謀略で豪族、国人、門徒を押さえて行った斎藤道三が美濃の太守となった訳である。
四国の土岐氏
さて、土岐氏と言えば、美濃の地に連綿として続く守護の家柄の印象が強いが、その他にも領地を抱えていた形跡がある。鎌倉時代、源頼朝に仕えていた美濃源氏である土岐氏は、美濃国の守護になった。鎌倉幕府が滅亡後には一旦守護職を失うが、足利幕府の興隆に伴って、再び美濃国の守護職となった。その時の『土岐頼貞』が室町時代における美濃国初代の守護職と位置づけされている。その後は、斎藤道三によって追放された第11代守護頼芸まで、土岐氏は守護の座にあり続けた。その中で、時の将軍足利義政が守護の土岐成瀬に対して、美濃国と尾張国の所領を認めるとともに、四国の伊予国・荏原等の所領についても認めている。その後、四国の土岐氏の領地は、今治に土地替えさせられているが、四国の土岐氏一族は徳川の江戸時代まで四国に土着し、今治藩士として血脈を延ばしている。
翻って、本能寺の変における明智光秀謀反の原因の一つとされる四国説も、あながち当時の政局変化だけの理由ではないかもしれない。
第5章 進士家と明智家の養子
母の病
光秀が10歳の頃、実父である土岐元頼がこの近江・佐目の地で亡くなった。父の死後、これまで元頼一家の財政を支援してくれていた六角氏や地元の見津一族からの援助も滞るようになり、僅かに母の実家である中洞の豪族・中洞源左衛門からの援助だけが家計を支えていた。そのためか、次第に母・佐多は、心労と栄養不足から体を蝕まれ、床に臥する日が多くなってきた。
それでも光秀は父の遺言を胸に刻み、午前は近くの寺で学問を続けた。そして午後には、羽を伸ばして、佐目の街中を遊び歩き、子供らと剣術遊びなどに呆けていた。背が高く、知識が他の子供よりも豊富だったこともあって、光秀はガキ大将となっていた。時折、子分となった子供らに食べ物などを上納させた。その食べ物は、彼らの家から持ち出した物もあれば、盗みを働いた物も含まれていた。その代りに光秀は、剣術指南と称して、棒剣で剣術を指導した。一方、二枚目の美男子でもあって、いつも彼の周りには少女たちが侍っていた。彼女達も、何かと食べ物を持参しては憧れの貴公子・光秀に貢いでいた。それらの食べ物を手みやげに、意気揚々と家に戻り、滋養のためにと病気の母に手渡した。
母の病は労咳らしかった。肺を蝕まれ咳が度々出て、時折、高熱を出していた。
光秀は、月に一度ほど町医者を訪ね、労咳に効くという漢方薬を買っては母に与えていた。だが、あまり効果がなかったようだ。この医者は、懇切丁寧な治療をするとの評判だった。どんな薬代であっても一服5文しか受け取らず、貧しい者からは一文も取らず、極貧の病人には、「これは、格別に効く薬じゃ」と、逆に銭を薬紙に包んで渡してくれる人徳があった。
光秀は、この仁術を実行している名医に通い、母のために漢方の薬学について学んでいった。そのことで、光秀は薬の種類とそれに関わる病名なども学んだ。当時の病気には、卒中、中風、労咳、癪(しゃく)、霍乱(かくらん)、疝気、腎虚などあった。光秀はそれらの病に効く薬についても覚え、さらには傷病の手当の方法も会得するのだった。
旅医者を殺す
ある日、光秀は、街中で山伏姿の放浪超俗の『旅医者』に出会った。母の病気を心配する彼は、その旅医者に労咳の治療や薬について熱心に聞いてみた。身なりは汚い恰好をしていたが、その旅医者は、あれこれと教示をしてくれた。光秀はその話に納得して、母は今も床に臥せていると打ち明けた。すると旅医者は、「薬を煎じて母上に飲ませてあげよう」と言い、続けて「謝礼の銭は要らんが、旅の途中ゆえ、僅かな食べ物と水をこの笹筒に入れて欲しいのじゃ」と言った。光秀は、この申し出を喜んで承諾した。
光秀の家に着くと、旅医者は「しばらく準備に時を要するので、土間口に待っておれ」と言い残して、母が伏せている奥の寝所に消えて行った。半時ほどすぎても旅医者は、部屋から出てこなかった。そのうち、かすかだが母の苦しむ声が光秀の耳に入った。
すると突然、「けだもの!」と叫ぶ大きな声が耳に入った。光秀は、すぐさま母の寝所に飛び込んだ。寝所の母は、男の左手で口を塞がれ、右手で開かれた胸元の乳をさぐられ、毛むくじゃらの足で股間をこじ開けられ、男にのしかかれていた。それを見た光秀は、咄嗟に床の間に飛び込み、父の形見の長指物を握り掴むと、男の背に向けて一刀両断に切り下した。男は鮮血を吹いてもんどりうった。母の体から離れ、転げて畳の上に仰向けに倒れた。そこへトドメの一撃のため、すばやく両の手で柄を掴んで、長指物を男の腹に突き刺した。旅医者は、声もあげずに絶命した。光秀、生まれて初めての人切りの刃であった。
放蕩
この事件以来、早熟の光秀は、堰を切ったように放蕩生活を送る様になった。佐目の街中に出ては若い女と戯れた。女たちは、背が高くて美男の光秀に一言声をかけられると、魔術にかかったように魅入られていった。宮の境内の木陰で女を抱けば、母が居る自宅にも女を連れ込んで戯れた。その多くは、女性からの願望だった。その美貌に一目で魅かれてしまい、自ら体を開くのだった。
そして、光秀は口も達者で話術を得意にしていた。
「この夢・・・夢で終わらせたくないと存ずるが、そちはいかがか?」
「はい、同じ気持ちでございます。一生に、もう二度とないめぐり逢いでございます・・・」
「ならば、拙者と貴方は・・・」
「もう、めおと(夫婦)でございます」
「左様か・・・わしのほうも異存はない、末永く頼むぞ」
「はい、末永く同穴の契りを重ねてくださいまし・・・」
こうして若い娘たちは、光秀に抱かれて肉体の歓びの頂点に昇って行くのだった。
千草と同棲
戦国時代の武士の若者は、特段の事情がない限りおよそ13歳~15歳で成人と認められる。その儀式が『元服』である。ちなみに尾張の若殿の信長、幼名『吉法師』は13歳の時に元服し、三郎信長と名乗っている。
母の佐多は、光秀の明智家への養子入りを待ち望んでいた。元服時期の14歳をすぎた光秀の放蕩癖に心配しつつも、亡夫・元頼の遺言状と実父の中洞源左衛門の添え状を光秀に持たせて、明智本家への養子入りの願いを託した。そこで光秀は、単身、佐目から東美濃の明智本家を目指した。
明智家では、土岐元頼が生きていた頃には、ほぼ光秀の養子話が成立していたものの、元頼の病死後は自然解消されることを望んでいた。この頃の美濃は、斎藤道山が破竹の勢いで美濃全土を征服しつつあり、西美濃と東美濃の豪族らも道三に靡いていた。そのような中で、土岐守護の血を継ぐ光秀が、明智本家に養子入りすることは、ある意味では爆弾を抱えるようなものであった。ただ、その一方で、当主の光綱には子供がいなかった。妻のお牧の方も30歳を優に超えており、子種が宿るには難しい年頃になってきていた。
そんな中、明智光綱は訪れた光秀の烏帽子親になり、年頃になった光秀の元服の儀式を実施してくれた。そして、養子の受け入れに関する書状を光秀に託した。その内容は、光綱の義弟(妹の夫)が当主の『進士家』に、光秀を一旦そこの養子にし、美濃の状況を見て、改めて明智家の養子を検討するものだった。光綱は、光秀自身にもその事情をかみ砕いて、丁寧に説明するのだった。城田寺城の戦いの後の美濃では、再び、土岐守護の跡目争いや、守護代などの権力争いと豪族間の領地を巡る争いが続いていた。その間隙を縫って、土岐氏の重臣らを謀略によって、抹殺するなどした梟雄・斎藤道三が台頭する最中にあった。
そうした中で、明智家では、城田寺城の戦いで土岐一族の一方の旗頭であった元頼の長男である光秀を養子に迎えることには、慎重にならざるを得なかった。
そこで急遽、明智城当主の明智光綱は、実妹が嫁いでいる夫の信周が当主になっている美濃石津郡・多々良の『進士家』に光秀を養子入りさせることにした。
光秀自身は、食扶持が決まることを喜んだ。あとは、母がどう思うかであった。元服の儀式と養子話が一応纏まると、食事と酒をふるまわれた。そこの席には、光秀と同じ年頃の娘が付き添っていた。明智光綱の実弟である山岸光信の娘の『千草』である。千草を見た女好きの光秀の瞳がキラキラと輝いた。彼女は子のいなかった明智本家に今日の儀式などのため、西美濃から手伝いに来ていたのだ。
その夜は明智家に一泊することとなった。光秀は千草も泊りがけだと知り、宵に千草を誘い出した。夜露に濡れながら、彼女を口説いて抱いた。初体験の直後にも拘わらず、千草は、「この度の待望成就、何はともあれ、祝着至極にございます」と述べた。
光秀も「これもひとえに本家・光綱様や弟様方の進士家や山岸家の皆様のおかげでござる。礼を言う」と返した。
「礼などはご不要でございます。頂戴したいのは光秀様の永久(とわ)の情け、どうか私の命をお召しくださりませ・・・」
「そうよな、いつまでも寄り添うことができれば・・・」と言うと、再び千草を激しく抱くのであった。
この後、千草は光秀の子を宿った。そのこともあって、その後の光秀は、佐目と美濃の間を何度も往復した。美濃では、明智家、進士家、山岸家を精力的に訪ね歩いた。
やがて光秀の子(長女の碧子/荒木村次の妻~明智秀満の妻)を実家の山岸家で産んだ千草は、その子を連れて佐目の明智家に入り、子育てと光秀の母・佐多の看護に務めるのであった。
ただ彼女の実家である山岸家では、千草の子連れの嫁入りと佐目の光秀の母の病を考慮して、侍女と従者を千草に同道させている。
山岸家の千草が光秀の子を産んだことで、進士家への養子話が頓挫する可能性もあったが、山岸家の娘の千草は養女だったため、進士家でも山岸家でもそれほど大騒ぎをすることはなかった。ただ結果的には、光秀が進士家の養子入りすることを考慮して、千草は悲運にも光秀の正式の妻になることはできなかった。まだ結婚もしていないため、継室にもなれず、未婚の妻という位置づけにされてしまった。
進士家の養子
進士家は、幕府の奉公衆を務めるほどの家柄ではあるが、明智一族の支流になる。この頃の美濃は、『濃州錯乱』と呼ばれるほど不安定な状況が続き、長井一族が土岐守護や斎藤守護代を脅かす存在になりつつあった。
こうした情勢の中で光秀は、内縁の妻・千草と娘の碧子を佐目に残したまま、進士家に養子入りするのであった。母の佐多の看護については、千草と伴って来た山岸家の侍女と従者が面倒をみた。
進士家では、その居城である美濃・多羅城に入った。養父は進士信周、養母は名前不明も、明智家当主の明智光綱の妹であった。こうして光秀は、浪々の身から晴れて進士家の養子になる。ただ、土岐一族の支族である明智家の支流になる進士家に入った若干の不満もあった。まだ若さもあって、妻子のことと父の遺言も忘れたように、相変わらず素行不良(大言壮語と好色癖)が続いていた。進士家の侍女などに手を出すなど問題を度々起こしていた。
やがて進士家では、光秀の素行の悪さが手に負えず、妻の実兄である明智光綱の養子することを改めて決意する。表向きの理由は、光秀が土岐氏の血筋(守護土岐成瀬の孫)であり、進士家よりも格上の土岐直系支族の明智本家の養子となることが彼に最も相応しいとした。そして、子供のいなかった本家の義兄の明智光綱や、東美濃の実力者である前当主の光継を説き伏せるのであった。
明智本家の養子へ
体よく追い出された光秀は、運良く本筋の明智一族本家の養子となった。実父と自分も望んでいた明智本家の養子となって、晴れ晴れとした気持ちで明智城に移るのであった。しかしその際には、内縁の妻と子供を連れての明智家入りとなった。繰り返しになるが、内縁の妻は、養父となる光綱の弟である山岸光信の娘の『千草』である。明智家は、1342年(康和元年)に美濃源氏の血を引く土岐頼兼が明智と改名したことを祖とするので、流浪の身の光秀としては、素行の悪さが幸いし、子連れの養子縁組ではあったが、結果的に血筋に相応しく、父の遺言でもあった厚待遇を得ることとなった。
ただ、こうした何かと問題のある土岐守護の孫にあたる土岐光秀の進士家養子入り、山岸家の娘との実質婚姻問題、明智本家への養子入りなどの問題は、全て隠居していた明智前当主の明智光継が差配して決着を付けたものだった。
光秀が明智本家に養子入りし、その後に養父の光綱が急死した後も明智光継は生きて、本家(明智家)と分家(進士家、山岸家)などの一族全体の繁栄を考え、深慮遠謀のコントロールを行っていた。明智光継は東美濃の雄と言われ、斎藤道三の美濃支配が濃厚になると、娘の『小見の方』(光綱の妹)を道三の正妻に差し出すなど、かなりの政治力を持った実力者であった。
守護土岐氏の滅亡
当時の美濃は、一揆と国人の争いに乗じて実務的実権を握っていた守護代の斎藤氏も没落の憂き目にあい、さらに守護である土岐氏も身内同士の骨肉の争いを起こし、濃州の屋台骨は揺らいでいた。その間隙に暗躍し、実権を握りつつあったのが斎藤道三とその父である。先ず、土岐家の重臣の長井家を乗っ取り、長井新九郎規秀と名乗る。その後は、守護代の斎藤家も乗っ取り、斎藤利政と名乗る。守護争いにあった土岐頼芸を担ぎ守護職に就かせるも、やがて1541年(天文11年)には、頼芸を放逐して美濃の実質的な国主となった。その後は、旧勢力から反目されつつも、1548年(天文18年)に娘の濃姫を織田信長に嫁がせ、翌年には稲葉山城を大改築して、盤石な経営基盤を整えていった。そして1551年(天文21年)に、名目だけの守護が在城する大桑城を攻めて、守護土岐氏を滅亡させたのである。
他方、進士光秀から明智光秀となった光秀は、養父の明智光綱がほどなく三十代で病死し、東美濃の雄である明智本家の当主となっていた。ただ、光綱の弟の光安が城主となって、城代となった光秀を後見する状態が続いた。
そうした中でも、光秀の女好きは治らなかった。妻子が同居しているにもかかわらず、後家となった養母のお牧の方とも肉体関係を持つようになってしまう。養母といってもお牧の方は、まだ30代の熟女であった。お牧の方は、武田信豊の娘で、子供はいなかった。
ただ、光秀の実質的な妻である千草が二人目の子供を懐妊していたことも影響しているだろうが(その後、さらに千草は男子も生んでいる)。
養母のお牧の方
その夜、夕餉を済ませた光秀は、母屋からお牧の方の住む別棟へと向かった。夫の光綱が亡くなってから、今は後家となったお牧の方と侍女の二人が母屋から移り住んでいた。
お牧は、風呂を済ませて寝所で既に寝入っていた。遠くに五ツの鐘の音(午後8時)が聞こえた。まだ蠟燭の火が残り、薄明りの中で小太りのお牧の方が仰向けに寝ている。
「母上、起きて下され」と光秀が声を囁いた。
「その声は、光秀。また悪い虫が摂りついたのかい?」と言って、掛けぶとんを取り除き、敷布団の上に胡坐をかいて座った。
「あいや、そうではなく母上が湯上りと聞き、たまには親孝行と思い、御腰を揉んでさしあげようと参りました」
「まあ、そんな口から出まかせの嘘をついて、我を手籠めにするのかい」
「いいえ、嘘ではありませぬ」と、ぬけぬけと嘘をつく光秀。
「本当に?であれば体をほぐしてもらうかねえ」と、簡単にその言葉を信じる。
光秀は、お牧の肩から揉みだした。その手は一心不乱によくツボを心得ており、力も強い。少しずつその手は腰の方へと丹念に揉み下がっていく。
「ほんに光秀の上手なこと」とお牧は感心する。
揉まれるうちにお牧は、次第にうっとりとなって、体がとろけるような酔い心地に包まれてしまう。
「それでは母上、うつ伏せになって下さい」と、光秀がお牧の耳元で囁いた。
お牧は素直に敷布団の上にうつ伏せに寝そべり、重ねた手の甲を頬に乗せた。
すぐに光秀の手は、腰回りと尻を揉みたてた。次には足元に廻り、両脚と足の指、踵、足の裏を念入りにほぐした。お牧の肉感的な体は、まだまだ色気があり、女盛りの妖しさがあった。
光秀は言葉巧みに耳元に囁く。
「母上は、さぞお寂しいのでは・・・」
「連れ合いに先立たれたのだからねえ・・・」と、つい誘導に乗ってしまい、甘える言葉を言ってしまった。
それを合図にお牧は自ら、胸高に占めている寝巻の帯をすばやく緩めた。
光秀は、すでに夢心地の中にあるお牧の豊満な体を抱えて、仰向けに寝かせた。そして、すぐにその唇を奪った。二人は養母と息子の関係も忘れて、狂乱ののたうちを繰り返した。
その後も二人の関係は継続し、千草が長男を産んだ後まで続くのであった。
斎藤道三に出仕
光秀は1549年(天文18年)、27歳になって初めて道三に出仕する。道三が美濃を実質的に支配できていた頃である。光秀の胸中はさぞかし複雑であったことだろう。我が血族の守護・土岐家を滅ぼした宿敵の配下となった訳である。
一方、土岐家の家臣から道三の家臣となっていた西美濃の雄『稲葉一鉄(良通)』とも、稲葉城内で初めて出会っている。西美濃と東美濃の地盤の違いはあっても、同じ美濃の豪族同士。やがて本能寺の変後では、一鉄は、謀反人となった光秀の末娘を匿い、斎藤利三の娘として、そして稲葉一鉄の孫として育ててくれる大恩人になる。
第6章 明智家崩壊
道三の美濃支配
土岐頼芸(よりなり)は、守護・土岐政頼の弟。策士家の斎藤道三は、美濃国の乗っ取りの企みを隠し、相続争いに敗れて不満を抱く頼芸に近づき謀反を勧めた。1527年(大永7年)、道三は革手城に奇襲をかけ、武力で政頼を越前に追いやった。土岐頼芸は、なんなく美濃の守護職と革手城を手に入れることができた。
道三は続いて、1533年(天文2年)、重臣の長井長弘を殺し、長井家を乗っ取った。さらに1538年(天文7年)には、病死した守護代・斎藤利良のあとを自ら継いだ。その際には、主君の頼芸を大桑城に移し、自ら革手城に入っている。1542年(天文11年)の5月、ついに守護の土岐頼芸を大桑城に攻め立てて、尾張に追い払った。こうした数々の背徳行為にも、斎藤道山自身は、全く意に介していなかった。父とともに智謀と術数を重ねて20年超、ついに美濃国を完全支配したのだった。
但し、こうした道三の背徳行為に対する反発は小さくはなかった。多くの旧来の豪族は従ったものの、四囲の大名をはじめ、美濃内の国人、地侍、農民と門徒衆らは、反旗を翻す機会をじっと待っていた。このことが、やがて勃発する『長良川の戦い』に繋がるとともに、背徳の梟雄(きょうゆう)・斎藤道三が敗れる遠因にもなっていく。
帰蝶の初恋
一方、明智本家の当主となっていた光秀は、父の遺言や養父の死もどこ吹く風とばかり、三人の子供がいるにも関らず、相変わらずの放蕩生活を送っていた。彼自身の性格もあったが、当主ではあっても、実質的には城主となった後見人の叔父の明智光安が、その多くを仕切っていた。従って、光秀が美濃主君の土岐頼芸や斎藤道山に関わることが、少なかったのは事実。
そんな中、亡くなった養父の妹・小見の方(斎藤道山の正室)の娘である濃姫こと『帰蝶』と出会って、光秀と帰蝶の二人は恋仲になる。帰蝶の初恋でもある。といっても、光秀は実質的には妻子のある身であるから、隠れて忍び合う不倫関係になる。帰蝶は、1535年生まれであるから、光秀よりも13歳年下の十代の少女であった。
その帰蝶は一人馬に乗って、母の実家である明智家に度々遊びにやってくるお転婆娘でもあった。光秀とは、血の繋がりのない義理の従妹になる。二人は、それぞれ馬に乗って、連れだって野山を走り回った。そして、遠く山野に飛んでは、人気のない木々にうもれて愛し合った。
そんな逢引きのある日、帰蝶は光秀に甘えて、「今日は城には戻らず、明智家に泊まる」と言い出した。美濃の覇者の斎藤道三の娘が、何の前触れもなく、いきなり無断で明智家に宿泊し、慕う男と逢瀬することは問題が大きすぎた。さすがの女性問題に軽薄な光秀も困惑して、その申し出を否定するのだった。
「帰蝶様、よくよくお聞きください。貴方様はまもなく、先の守護様のご子息であられる土岐頼純様に嫁ぐ身なのです。光秀は死ぬまで貴方様を心よりお慕い致していきます。どうぞ我が儘を言って、困らせないでください」
すると、帰蝶は怒りと悲しみの顔を作り、「それでは、わらわにきついお仕置きをするのじゃ、二度と我が儘な申し出をしないように、わらわを懲らしめておくれ!」と、泣き叫ぶのであった。きりりと目を強めると、純心な少女の大きな瞳から涙が零れた。
「分かり申した。お望み通りのお仕置きを致しましょう」と光秀は静かに言う。
帰蝶はうつむき、こくりと首をたれた。
二人は手を繋ぎ雑木林の奥深くへと入り込んだ。午後の日盛りで木漏陽が明るい。大樹に背をもたれて裾を腰の上まで捲ると、少女は身をひるがえして前屈みの姿勢で大木にしがみ付いた。光秀は、その帰蝶の白桃を思わせる瑞々しい円い尻を、背後からぐっと抱え込んだ。少女の歓びの嗚咽が森にこだまするのであった。
薄幸の女
その後、帰蝶は父・道三の命により、土岐氏の家督争いで、越前に追いやられていた土岐政頼の息子である『土岐頼純』に嫁ぐことになる。越前に逃れた政頼が朝倉氏の後援を得て、度々美濃に侵攻してきていた。そのため、政頼との関係を少しでも穏便にするために、帰蝶を政頼の息子である頼純に嫁がせることにした。政略結婚である。しかし、その後、帰蝶の夫となった頼純は毒殺された。
しかし、その後も道三は、帰蝶を土岐氏一門の土岐頼香(よりたか)に嫁がせる。これも土岐一族との融和策の一環である。しかし、土岐頼香は帰蝶による毒殺を恐れるあまり、夜陰に紛れて失踪するのであった。それを知った道三は、頼香を探索して拿捕する。すぐさまその場で切腹させた。この時、頼香に逃亡を授けたのは、尾張の織田信秀(信長の父)だったため、美濃と尾張の緊張は一気に高まった。
そこで策士の道三は、信秀の息子で、『うつけ』と呼ばれていた織田信長(16歳)と帰蝶(15歳)との結婚を提案し、隣国尾張との融和のための婚姻を成立させた。しかし、信長に嫁ぎ妻となった帰蝶は、表向きは正妻として扱われていたものの、信長の愛は未亡人だった年増の生駒の『吉乃』に注がれていた。その吉乃に相次いで子供が生まれると、15歳で3度目の結婚をしていた帰蝶こと濃姫は、歴史の表舞台から幻のように消え去った。特に、安土城入り後からの消息は全くの不明となっている。
それでも最近の研究により、帰蝶の供養塔は、信長の総見院供養塔の隣で高く造られており、明らかに信長供養塔よりも後年に建てられていることが判明。
この根拠には諸説あるが、安土総見寺蔵の『養華院殿要津妙玄大姉 慶長17年信長公御台』と記載されていたことが判明している。同寺には、『養華』と刻まれた五輪供養塔があり、養華院とは、信長正妻の帰蝶であるとされている。そのことから、帰蝶は織田氏の菩提寺である大徳寺総見院に埋葬されている可能性が高いと言われている。また、1587年(天正15年)に織田信雄が纏めた『分別帳』では、『あつち殿』という記載がある。この書によれば、あつち殿は600貫文の知行を与えられているとしており、信長の本拠地の安土を冠にしていることで、信長の正妻のことと理解できるものだと分析されている。
従って、これらの論拠に基づけば、帰蝶は1612年(慶長17年)まで生きていたことになる。つまり、77歳まで生きていたのである。初恋の相手の明智光秀が夫の信長を誅してから、30年もの間、静かに生き延びていたことになる。
さて、ここからは推測になるが、本能寺の変後の帰蝶は、安土城に入っていた明智秀満の手によって、畿内周辺のいずこかに匿われたものと想像している。敢えて、その場所を言ってしまえば、美濃の稲葉一鉄に預けたと思っている。何故ならば、帰蝶には5人の姉妹があって、その内の二人が、稲葉貞道の正室と斎藤利三の継室になっているからである。
武将の継室
なお、不正確な面(戒名のみなど)や埋もれた女性もあるものの、織田信長の側室を羅列すると、①生駒・吉及②坂氏③養観院④お鍋の方⑤土方氏・雄久の娘⑥原田直正の妹⑦岩井丹波の娘⑧三条西実の娘⑨六男信秀の母⑩つまき殿(光秀の妹)。この他にも詳細不明の春誉妙大姉や滋御院などの名が残されている。
因みに、征夷大将軍となった徳川家康の側室は、①お勝(お梶の方)②阿茶局③お茶阿の方④お亀の方⑤お万の方⑥お奈津の方⑦お梅の方⑧お六の方⑨お仙の方。この他にも記録には残っていないが、斎藤利三の妻だった春日局などがいる。
一方、関白となった豊臣秀吉の側室は、①南殿②淀殿③南の局④松の丸殿(竜子)⑤加賀殿⑥甲斐姫(忍城主・成田氏長の娘)、⑦三の丸⑧三条殿⑨姫路殿⑩広沢の局⑪月桂院、⑫香の前⑬円融院などがいる。
因みに、姫路殿は、亡き宇喜多直家の後妻の『お福』であり、宇喜多秀家の生母である。それまでの秀吉の好みの女性とは異なり、毒婦と噂された肉体派の熟女であった。何がよかったのか、最も秀吉が激しく愛していた女性であったことは確か。愛するが故に、岡山の地から、当時の中国地方戦略の拠点であった姫路に幼い秀家とともに住まわせ、その後は、聚楽第で他の側室達と同居させている。彼女の息子の宇喜多秀家が秀吉政権の中で若くして出世していったのも、母のお福が秀吉に格別な寵愛を受けていたからである。
こうして振り返ると、超短期政権だった光秀であっても、側室・継室がいなかったとする
説は明らかなに無理があり、間違いである。なお、人柄の良い歌人であり、愛妻家でもあった細川藤高でさえ、若い継室を設けていたのも事実なのである。
煕子と結婚
さて、光秀と養母のお牧の方との肉体関係が続く中、お牧の方は、次第にその風聞が明智家内だけでなく、進士家や山岸家や、さらに自分の実家である若狭・武田信豊家までに広がるのを恐れ、俄かに光秀の正式の結婚相手を考えるようになった。その最終的な決心をさせたのが、道三の娘である帰蝶と光秀の不倫であった。
そして苦心の末、光秀の正妻となったのは、妻木範煕の娘の『煕子』である。まだ十代の初婚であった。しかし、煕子との間に子(三女で、藤高の息子と婚姻した細川ガラシャ)が生まれるのは、越前に士官していた頃であり、だいぶ先のことになる。煕子との結婚後は、光秀の放蕩癖は落ち着いていった。それは煕子の誠実で直向きな愛もあったが、実の母である『佐多』が佐目の地で亡くなったことも影響していたかもしれない。
道三に出仕
光秀が正式に道三に出仕したのは、1549年(天文18年)の27歳の頃である。即ち、道三が長良川の戦い戦死する7年ほど前のことになる。従って、道三が息子に家督を譲り引退するのが、1554年(天文23年)であるから、その5年ほど前のことでもあり、美濃の政局が最も安定していた時期になる。この光秀の出仕の判断は、道三の了解も必要ではあったが、光秀の後見人であり、明智城城主でもある叔父の明智光安による判断であった。明智光安は、東美濃の代表格として道三の信頼を得ていた。また、光秀も土岐氏の血筋であることは、表面に出すこともなく、あくまでも明智本家の当主として道三に仕えるのであった。
長良川の戦い
1556年(弘治2年)、斎藤道三は子の義龍に家督を譲って隠居していた。だが、他の兄弟との不仲(義龍が二人の弟を殺した)にある義龍と対立するに至り、戦力不利を承知で信長の援軍を頼りに長良川で激突した。しかし、その戦力予想をも下回る兵しか集まらなかった。西美濃の雄である稲葉一鉄など多くの豪族は、土岐氏の血を引き継いでいるとされる義龍側についた。これまで長い間、国人や門徒などの道三に対する不信が根強く続いていた証でもあった。織田信長の援軍も間に合わず、道三はあえなく敗死した。勿論の事、信長は本気で義龍と戦火を交わせるつもりはなかった。それほど信長は、義父の道三や本妻の帰蝶に対する思い入れが強くはなかったのである。光秀と叔父の光安は、道三側に付いたため明智城を攻められた。光安は、実弟の光久とともに自害し果てた。
光秀は、家族と光安の子の明智秀満を伴って、美濃出奔を余儀なくされるのであった(光秀34歳)。
光安が道三側に付いたのは、混乱の美濃にあって、明智家が長い間、安定的に推移できたことは、ひとえに斎藤道山あってのことだったからである。ましてや、光安にも妹に当たる小見の方が斎藤道山の正室となっている現状では、道三側に付くことが自明のことでもあった。また、正室・小見の方に対して、側室・深芳野は義龍の生母であり、極論すれば、正室と側室との戦いとも見てとれる。道三は、義龍に小見の方の子供を殺される前までは、道三と小見の方との間に生まれた男子を後継ぎにし、義龍は廃嫡するつもりだった。しかし、それを知った義龍が先手を打って弟二人を殺したのであった。
美濃出奔
1556年(弘治2年)、明智城を追われた34歳の光秀は、最初の室(未婚の母)である千草(養父の光綱の弟・山岸光信の娘=養女)とその子である二人の娘(長女、二女)と長男(後に山岸作之丞光重となる)、正妻の煕子(妻木広忠の娘)、養母のお牧の方、さらに明智秀満(養父の弟・明智光安の子)と従者・侍女を連れて、東美濃の明智の里を去るのであった。
一行は先ず、西美濃にある継室・千草の実家の山岸家に立ち寄る。そこで光秀は、千草とその三人の子供(娘二人と長男)と若き正妻の煕子、養母のお牧の方の家族一同と、従者などの一族郎党を山岸家に預ける。そして、光秀自身は士官の道を求め、単身華の都・京を目指すことになる。ここにも、光秀の冷徹で合理的に物事を思考する性格が出ている。
秀満は武者修行の旅
一方、義従弟の明智秀満は光秀の命により、ただ一人若輩(20歳)の身で流浪することとなった。彼は父・光安の仇を討つ覚悟で、武芸習得の道を求めて武者修行の旅に出る。
先ず、西美濃で馬術の大坪流の師範である叔父の三宅新左エ門を頼る。だが高齢のため、能登の熊木城主の斎藤好玄(新左エ門の馬術門下生)を訪ねるようにと説得される。そして、その後も一宿一飯の流浪の旅を繰り返すこととなる。近江の六角義賢の観音寺城で剣術を修行し、蒲生賢秀の日野城では、塚原卜伝の剣術と槍術を習得、美濃の鵠沼城では、まだ斎藤義龍政権下ではあったが、その重臣の大沢左衛門正秀の食客となって武芸に励んでいる。その後、1561年(永禄4年)、義龍が病死してその子の龍興が当主となっていた頃には、菩薩山城の竹中半兵衛重治を訪ね、兵法の「武経七書」を学んでいる。
こうして武芸一般を身に着けた明智秀満が、光秀から呼び出しを受けて再会するのは、明智城落城から8年の歳月がすぎ、光秀が越前朝倉家の食客から士官が正式に成就した直後のことである。
将軍朽木に隠遁
単身都に入った光秀は、名門土岐氏の一門であり、兵法書や経書も学び、一通りの兵法・武芸を取得していることを唱えて、室町幕府の役人筋に雇用される事を目論んでいた。だが、その思いは京に足を踏み入れた途端に儚く霧散するのであった。
京の町は荒れすさんで、かつての華の都の栄華の名残が全く見当たらない有様であった。応仁の乱以降、臨時雇いにあった足軽・雑兵らが野盗化し、火付け盗賊が続く治安の悪さの中、商人・町民は都から離散し、京の治安は荒み商業経済も疲弊していた。そのような中、幕府の軍事力や政治力も急速に衰えていた。かつての室町幕府には『奉公衆』を中心とした直属軍と近隣守護の在京軍による2000人規模の正規軍があり、畿内に重大事変があれば、出陣命令が将軍から発せられ、ともにその対処に当たったもの。さらに、洛中の日常的な治安については、直属の『侍所』の配下と侍所頭人(山名、一色、赤松、土岐、京極の名門大名)が交代制でその任に当たっていた。光秀の祖父である土岐成瀬も美濃での船田合戦の勃発直前には、乱れていた都の治安のために上京し、当時の騒乱を静めるとともに、新将軍体制を構築すると、美濃に意気揚々と帰還したもの。
その一方で、幕府の財政を支えていた直轄の荘園も簒奪されるようになり、献金や栄典料(官途、諱、称号の礼金)も急減する中で、幕府財政は急速に窮迫し、その台所事情は窮乏に喘いでいた。ともあれ、光秀は将軍家の門を叩き、土岐成瀬の孫であることを告げて、後に政所方の執事になる将軍の留守を預かる政所頭人の摂津晴門に面会することができた。驚くことに晴門によれば、時の将軍である足利義輝は、1553年(天文22年)から、阿波の豪族・三好長慶に都の支配権を奪われ、命かながらの逃亡の末に、朽木の山中に隠遁していると言う。
光秀は驚愕した。美濃からさほど遠くない武家棟梁の首都である都の中央にいた天下の将軍様が、管領の細川晴元の臣下であった三好長慶に都を奪われ、山中に追われて逃げ隠れしていたのだ。これで士官の道は閉ざされたと思った。だが、打算家で自信家の光秀は、これを好機と捉えて、頭をすぐに切り替えた。一転して朽木の山里に出向き、将軍義輝一行を助援することで、そこから士官への道を探ることに切り替えるのであった。
第7章 細川藤高の中間
この天文年間の過去にも、将軍家は管領の細川晴元に追われ、前将軍の足利義時と息子の義輝が数年間、朽木山中で隠遁生活を余儀なくされていたことがあった。
今回は、京から逃亡して隠遁生活を送っていたと言っても、父の義時の場合とは異なり、将軍足利義輝は元来の前向きな性格とまだ18歳の若さもあって、精力的に政務に励んでいた。そういったこともあって、この隠遁の地は『朽木御所』と呼ばれるほど幕臣も集まり、壮観な屋敷であった。この館は、代々、将軍家を大事にしてきた近江の朽木氏一族の領地内にあり、同一族が将軍家のために建てた臨時の御所ともいえた。
ともあれ、光秀は朽木の里にある将軍家の館を訪ねて面談を求めた。
すぐに現れたのは細川藤高である。初対面の光秀に対し、藤高はその士官希望を断るために、将軍家の現状を細かく、かつ丁寧に説明してくれた。光秀には実直な人柄にみえた。土岐一族の末裔であることに同情と敬意を表するも、今の将軍家の有様では、雇い入れる金子もなければ、戦力を整えて再起する将軍自身の方針もまだままならず、家来衆も、日々の生活を送るのが精一杯であることを伝えるのであった。とても士官の道を叶えることは、現状では難しいと言うのであった。
それでも、光秀は怯むことなく粘った。給金や肩書などは要らぬ、将軍様を京にお戻りいただくための一助になりたいと熱く語った。その粘り腰に負けた貴人の藤高は、それでは将軍家への士官の道は叶わぬが、自分の『中間』でよろしければ、共に義輝様をお助けしようと言ってくれた。こうして34歳の光秀は、押しの一手ではあったが、ほとんど無給の中間として、20歳の若き細川藤高の中間に雇われたのである。二人の友情の始まりでもあった。
中間は、当時の武士の日常生活の雑務を取り仕切る職業であり、下働きの従者とは若干意味合いが異なる。光秀の場合は、無給に近いながらも藤高に合力する『与力』でもあり、若しくは私的な『直臣』と言えるだろう。具体的には、夜襲などに対する見張り役と、攻められた場合には、藤高とともに将軍様を守るボディーガードとして臨機に雇用されたもの。勿論、光秀が弁舌爽やかに、己の剣術、槍術、砲術を喧伝した結果でもあった。
藤高は、戦よりも歌学を好むが、この後は光秀と数奇な運命の中を固い絆で結ばれていく。
細川藤高
この時点で光秀は、美濃守護の末裔で、豪族の明智城の当主であったとは言え、今の光秀は一介の浪人である。一方、現将軍が隠遁中とは言え、細川藤高は、室町幕府の筆頭家来の『御供衆』に次ぐ『お部屋衆』の現役にあり(位の順に→御供衆、お部屋衆、申次、外様詰衆、御小袖御番衆など)、日常的に最も将軍様の御傍にある人物であった。
その後、1558年、無事に将軍一行が京に戻ることができると、藤高は将軍家・家来筆頭の御供衆に昇進している。
そもそも細川藤高は、現・将軍足利義輝の腹違いの2歳年上の兄である。つまり、将軍の義輝の異母兄になる。母は、少納言清原宜方の娘で、宮中で出仕中に将軍義時の子を孕んだが、その後に義時が正式に義輝の母と結婚したため、生まれた藤高は将軍の家来筋の養子に出された。最初は、幕府お部屋衆の三淵家の次男になる。そして次には、三淵家の兄にあたる細川播磨守元常の養子になっている。
藤高は将軍の実子で長男でありながら、すぐに細川家よりも格下の三淵家の養子に出され、父の義晴が将軍職に就くと、何とか名門・和泉半国の守護である細川播磨守の細川家の養子になった。その後、義輝が将軍になると、同時にそば近く仕えることとなった。将軍となった腹違いの弟・義輝のお部屋衆として幕府に従事する。
藤高の母の里である清原家は、経書(儒学の経典)を天皇や公家に講義する家柄で、藤高も幼少の頃から学問や歌学などを学ぶ有職故実を知る教養人であった。
この出自のことも、本能寺の変で光秀に同心しなかったことに影響を与えている。
同心しなかった理由は三つ。一つは、藤高の中間から始まった光秀が戦時の指揮力と実行力を買われ、織田家家臣の筆頭に出世し、それも藤高は与力とはいえ、光秀の指揮下に置かれてしまったことの屈辱。二つ目は、ほとんど公家や将軍家の故事に無知識だった光秀に、有職故実を教えたのは藤高だった。しかし、それを横取りして要領よく出世の道具に使ったのが光秀であったことへの苛立ち。三つ目は、徐々に戦時よりも歌学に回帰する藤高は、学問素養のない光秀よりも、秀吉の子飼いの前野将右衛門に歌学の才を見出して、その誼(よしみ)を繋いで友情を結んでいたこと。これによって、光秀の信長誅殺の動きは、藤高から将右衛門を通じて、羽柴秀吉に流れていたことが挙げられる。
刺客と戦う
朽木の将軍館には、度々三好長慶による刺客が現れた。それは軍兵ではなく、夜盗的な野武士の一団であった。この時代にも、忍び者と呼ばれた『忍者』が存在していたが、当時、忍者による暗殺は、武士の振る舞いとして卑怯とみなされていた。従って、室町時代の後半期にあっても、忍者は、主に情報収集と伝達を主にしていた。
野武士集団は、昼間だけでなく夜襲も行う。実際に、光秀も刃を閃きさせて戦った。特に、足軽・雑兵のように、短い柄の槍である『持ち槍』を使用して、乱闘の中で命を懸けた戦いを行なっている。当時のグループ戦では、刀での切り合いよりも、槍での闘いが多かった。その中で、光秀は際立った活躍をし、藤高に感謝されるものの、将軍様に目通りを許されるほどの高い評価を得ることはなかった。
乳母を助ける
将軍は、京に妻子を置くことが危険であったため、正室と継室や幕臣らとともに、寵童、乳母、侍女なども朽木御所に連れて入っていた。
その中に、義輝の乳母であった『鏡局(かがみのつぼね)』と言われる女性がいた。鏡局は、赤子の義輝に乳を与えた乳母であったが、義輝の初恋の女にもなったことから、継室の一人となっていた。但し、出自が低いため、正式の継室にはなれず、乳母として将軍の傍近くに仕えていた。年齢はすでに四十歳に近いが、日頃から髪を『切り髪』に結い、紅をひく妖艶な熟女であった。切り髪とは、髪を肩のあたりで切り揃え、もとどりを束ねたものである。江戸時代には、武士の未亡人のポピュラーな髪形になっている。
その鏡局は、ある日の午後、あたたかな陽射しに誘われて、将軍の居館から遠く離れた瓦葺の茶屋(茶店ではない/外で茶を楽しみ、休憩する場所)に向かって歩いていた。たまたま、将軍居館の見張り番を務めていた光秀は、昼間とはいえ女性の一人歩きは危険と思い、警護のために距離をおいて後を追った。最近では、鏡局は義輝の寵愛もなく、比較的自由な行動をする傾向があった。光秀もこれまでに、何度か広い庭で鏡局を見かけることがあった。
やがて、ひなびた茶屋の中に身を入れて、広い庭を一人眺めていた。そこに突然、3人の野武士が飛び出して来た。すでに剣を抜刀している。光秀は、全速力で茶屋に突っ込んだ。先に茶屋に突っ込んだ光秀を、野武士と間違えて鏡局は悲鳴をあげた。
光秀は瞬時に、三人の賊を切り果たした。女は無傷であったが、光秀の見事な早業の賊退治に驚愕して体を硬直させていた。
光秀は、「陽の温かな日とはいえ、一人歩きは危のうございます。以後は慎まれるようにお願い致します」と声をかけ、鏡の局を連れ将軍の居館まで送り届けた。
その事件後から数日経つと、鏡局は非番の光秀を番小屋に訪ね来た。珍しいことに、下級武士に御礼の言葉をかけるために一人でやって来たのだ。
光秀を見ると、鏡局の色っぽい目がキラキラと輝いた。二人は阿吽の呼吸で、人影のない雑木林に消えていく。
「光秀、わらわの煩悩の犬を退治しておくれ・・・」とズバリと希望を言う。
「何を申されます、貴方様は将軍様のご寵愛を受けた尊いお方・・・」
「これ以上、わらわに恥をかかせるのではない。後生だから光秀よ、救っておくれ」と艶っぽく言い寄る。光秀もここしばらく女を絶っていた。
「分かり申した。それでは自然の心のままに従って・・・」
「自然の心のまま・・・野山の生き物のように・・・でございますか?」
その問いには答えず、光秀は鏡局の厚い唇を奪い、すばやく口吸いをする。
それだけで女は恍惚境へと誘われた。
背の高い美男子の光秀の腕に抱かれると、そのままお姫様抱っこされた。澄み渡る青い空の下で、黒い伊達巻きと襦袢の腰紐が解き落とされた。二人は久しぶりに、肉欲の愛を交歓した。
乳母と寵童
将軍義輝は、5年もの長い間、朽木に隠遁生活を送ったが、その乳母や寵童も幕臣らと共に将軍家に随伴していた。
将軍や守護大名などの武家では、後継ぎ候補の男子が元服の儀式を迎える前後、あるいは妻を娶る直前には性教育を行う。光秀のような早熟で流浪の若者は、市中で戯れる中で性体験はできる。しかし、城主の後継ぎ候補であれば、そういった機会は少ない。そのため、次世代の後継者作りのための性教育が必要不可欠であった。
その役目を果たすのが、『乳母』とか『典侍大』と呼ばれる女性の性教育係である。乳母は、生まれた後継ぎなどの乳飲み子を育てる役目もあったが、戦国時代にあっては、その多くは少年に添い寝をして、性教育を実践する役目を果たしている。その際には、妊娠する危険もあった。妊娠した場合には、男子の成長に伴って、いずれ側室として寵愛されることもあった。
一方戦場には、本妻は勿論のこと、側室・継室も戦場には連れて行くことができない。そこで、その代役を果たすのが、『寵童(ちょうどう)』と言われる少年達(およそ12歳~18歳)である。寵童は、主君などの身近な世話と男色御用を務める。勿論、平時であっても、彼らは城内に勤めていた。『稚児』とか『御小姓』などとも呼ばれる。複数人いれば『御小姓組』と呼ばれた。お小姓となれば、主君から特別に寵愛されることもあり、出世コースにもなっていた。家来衆の家では、息子がお小姓組に抜擢されることを誉としていた。現代では、一見卑しい仕事のように思われがちだが、主君が合戦や逆賊に襲われた場合には、その盾になる危険が多い仕事。つまり、男色のみならず、相当の学問の素養と剣術の腕前が必要なのである。有名な逸話では、織田信長の御小姓組の前田利家(若い時は犬千代)や森乱丸などの例がある。
帰京
さて、朽木における五年間(1553年~1558年)もの隠遁生活を送っていた将軍一行は、京に戻ることができた。敵対していた三好長慶との間に和解が成立したからである。
光秀は36歳になっていた。2年あまり、将軍家の用心棒を勤めあげた。
帰京後の光秀は、将軍の筆頭家来である御供衆幕臣の細川藤高家の非公式ではあるが、引き続き中間という家臣が続いている。
その藤高は、現将軍の腹違いの兄でもある。その御供衆となった細川藤高の中間であれば、流浪の身としては決して悪い話ではなかった。勿論、野心家の光秀は決して満足はしていない。ともあれ、光秀は細川藤高の中間となって、朽木の山里にあった将軍館の警護の役を無事に果たした。時には野武士の一団と剣を交えることもあり、その活躍ぶりは、塚原卜伝から剣術教授を受けた将軍義輝の耳にも届いていたはず。
一方、帰京した将軍義輝は、安定政権を保つために好敵手の三好家を厚遇した。1561年には、義輝の勧告に従い、長慶は一方で敵対していたかつての上司にあたる細川晴元とも和睦する。さらに、長慶の嫡子である義興を従四位下・ご相伴衆に昇任させるなど、天皇家とともに、幕府はかつての仇敵に対する和合策を実行していくのだった。
この頃には、越後から長尾景虎が5000の兵を率いて上洛してきている。景虎は、義輝に
吉光の太刀一腰(ひとふり)、馬一匹の代金として黄金30枚、蝋燭500本、綿300把、白銀1000両を献上している。義輝は、この献上にいたく感動し、「自今、関東管領たるべし」とし、諱(いみな)の一字を与えて『上杉輝虎』と名乗らせた。景虎も喜び、「三好は公方様への逆意に満ちております。ご下命があれば、すぐにも討伐いたします」と言い切った。
だが、義輝は軍事面でも闘将としての才があったが、政治力もなかなかのものがあり、代々の足利将軍の中でも優れた逸材であった。
そこで、「三好長慶は、官領であった細川晴元を敵としてきており、今は逆心するつもりがない。もし逆心が顕れたら、その時は頼みもしよう」と答えるのであった。
朝倉家家臣に推挙
光秀は特段の褒賞もなく、相変わらず藤高の中間のままであった。しかし、心優しく誠実な藤高は、いつまでも年上の明智光秀を中間のままにはできないと思案をしていた。
この時代の幕府と守護大名などの間には、公式の政所に大名との連絡・交渉を担う『申次衆』の制度があった。その一方で、非公式の『情報交換の場』も自然発生的に形成されていた。要するに、幕府と守護大名などとの裏情報の交換の場が存在した。具体的には、幕府側では、申次衆の下にある『政府頭人』『内談衆』『将軍女房』が、守護大名から派遣された情報収集役と、非公式に談合を重ねる慣行があった。このようにして幕府は、地方の守護の経済状態や戦力状態などを推し測り、一方で守護大名も、幕府の方針と人事などをいち早く知ることにより、ライバル大名との競争に備えていたのである。
細川藤高は、このネットワークを利用し、親心から中間・光秀の士官先を探索するのであった。やがて、このネットワークの情報から、越前の朝倉家が一向一揆の怪しげな気配から、武辺者を求めていることを知った。
藤高は早速、朝倉家の家臣になることを光秀に勧めた。光秀は幕臣になる夢を捨てていなかったが、どうやら幕府の動きを見ると、不安定な面を拭い捨てることができなかった。
藤高のやさしく温かい厚情に感謝して、その士官の道を選択する決心をしたのであった。
応仁の乱以降の戦乱
さて、ここで話は歴史を遡るが、応仁の乱以降の政局を簡単に振り返ってみる。
美濃国を斎藤道山が支配するに至った同じ時代、将軍が在する京の町を中心とした近隣では、将軍家を中心に激しい戦乱が繰り返されていた。歴史的には、応仁の乱以降は戦乱が収まったような印象があるが、実際には、かなり時を要した激しい戦闘が繰り返されていた。そして、その戦火はむしろ拡大していった感がある。よく天下とは、五畿内を意味すると言われている。五畿内とは、山城、大和、摂津、和泉、河内を指すが、私的には七畿内と呼びたいぐらいである。つまり、近江や丹波も同様に戦渦に巻き込まれていたといえるからである。この七畿内に共通していることは、朝廷、公家、将軍家、幕臣の荘園が多いこと。即ち、荘園を巡る争いの舞台でもあったのだ。さらに、当地での争いには、近隣国の守護などの協力、援助の繋がりが絡んでいた。その結果が『戦国時代』と呼ばれる所以になっている。光秀の祖父である守護・土岐成瀬が度々、その畿内が絡んだ戦渦を静めるために、京に出向いていたように、様々な戦乱が京を中心にして、あちらこちらで勃発していた。
その中心人物となったのが、管領の『細川晴元』、その重臣で家来筋の『三好長慶』、そして、『足利将軍家(義輝と父の12代将軍の義晴)』。さらに、それらを擁護・支援する勢力が加わった。これらの戦渦の詳細は省き、以下に簡単に羅列する。戦国時代における列強の戦いと同様に、かなりの苛烈な軍事的戦闘が見てとれる。
1539年は、細川晴元VS三好長慶。同年、三好長慶VS三好政長(晴元の指示)。1542年(太平寺の戦い)は、木沢長政/畠山政国VS遊佐長教/三好長慶/将軍義晴)。1543年は、細川氏綱VS三好長慶(晴元の指示)。1545年は、細川氏綱/細川高国/上野元全VS細川晴元/三好長慶
1546年は、畠山政国/遊佐長教/細川氏綱/将軍義晴VS細川晴元/三好長慶。この戦いで敗れた将軍義晴は、嫡子の義輝に将軍職を譲ることになった。
しかし、その後も1548年の榎の木城の戦い、1549年の江口城の戦いがあり、その多くの戦いで勝利した三好長慶が、主君の細川晴元を上回る戦力と実力を持つようになった。1550年、摂津城の戦いで勝利した三好長慶は、敗れた細川晴元、三好政勝、支援した六角氏も撤退させて摂津国を席巻した。これにて管領の細川政権は崩壊するとともに、足利義輝、義晴親子は近江の坂本城に逃れるのであった。これにより、事実上の三好長慶政権が京に誕生することとなった。
ただ、その後も近江の坂本と京を中心として、三好一族VS将軍家の度々の戦渦が起きていた。1550年の中尾城の戦いで負けた細川晴元と将軍義輝らは、近江坂本の陣営を離れ、さらに北面の堅田に逃れた。そして翌年の1551年には、長慶の暗殺未遂事件が2件も発生している。その内の一件は、将軍に近侍していた『進士賢光』が長慶を単独で襲っている。手傷を負わせたが、その場ですぐ捕まり切腹して果てた。
義輝京に戻る
こうした長慶暗殺事件などが相次いだため、三好長慶は和解の方針を打ち出した。先ず、①管領の細川晴元は、細川氏綱に家督を譲り出家する②三好長慶は、晴元の幼児の聡明丸を取り立てる③将軍足利義輝を上洛させること。これら条件を承諾した足利義輝は、ようやく京に戻ることになった。時は1552年(天文21年)の1月28日のことである。
長慶は、幕府の御供衆を与えられ、細川家の家臣から幕府の直臣となった。その結果、幕府は将軍義輝、管領は細川氏綱となったが、政治の実権は三好長慶が引き続き握っていた。
進士家の不運
光秀はその進士賢光の進士家に養子入りしていた。養父は、多羅城主の進士信周であった。進士家は、そもそも料理進士流を祖としており、将軍家の供御職を世襲としていた。また、後の三好一党による『将軍義輝弑逆事件』の当日に、三好側が差し出した訴状を取り次いだため、侵入を許したとして、その責任問題から進士賢光の息子の進士晴舎(はるいえ)が切腹させられている。また不幸なことに、その息子である進士藤延は、当日の戦闘の中で三好一党に討たれて死亡している。さらに酷いことに、義輝の側室であった進士晴捨の娘の『小侍従局』が惨殺されている。彼女は将軍義輝の子供を身籠っていたのだ。
なお、光秀と秀吉の山崎の合戦では、光秀軍の普代衆として進士家貞連が参戦し、死んでいる。その父は進士晴舎で、貞連はその次男である。なお、藤場村(詳細不詳)の進士家の家紋は、土岐桔梗だそうである。
またぞろ再戦
将軍が京に戻ったことで、政局は安定するはずであった。しかし、再び火種が燻っていた。
入京の翌年1553年(天文22年)、幕府の奉公衆が三好長慶の専横に耐え切れず、長慶排除に動き出した。又しても引退した細川晴元と相通じての挙兵であった。再び晴元と長慶の戦火の火ぶたが切られた。止む無く将軍義輝も東山霊山城に入り、その細川側に加わった。しかし、今回も晴元と幕臣側が敗退(東山霊山城の戦い)。とうとう義輝は朽木の里に逃れることになり、前記のように5年もの長い間の隠遁生活を送ることになる。
第8章 朝倉家寓居
美濃に立ち寄る
1558年(永禄元年)、美濃を出奔してから2年ほどが経過していた。光秀は、室町幕府の御供衆に昇進した細川藤高の副え状を携え、越前の朝倉家に向かう前に、先ず美濃を目指した。最初に、側室・千草の実家である山岸家に立ち戻った。
山岸家で光秀は、これまでの経緯と今後の見通しを説明するとともに、山岸家にこれまでの厚情に対する感謝を述べた。そして、側室の千草、その三人の子供(娘二人と長男)と従者などの一族郎党を、今しばらく山岸家に預け残すことをお願いした。越前・朝倉家への士官が成就したならば、必ず越前に迎えると約束をした。その折、千草との間に産まれた長男を山岸家の養子とすることも決めていた。息子は、光秀の血を繋ぐ山岸作之丞光重となった。光秀は、長居することもなく、正妻の煕子一人を伴って山岸家を再び出発するのであった。なお、養母のお牧の方は、実家の若狭・武田家に戻っていた。
次に向かったのは、正室・煕子の実家である妻木弘忠の妻木城。光秀が在京中も煕子は、時折、同じ美濃の地(土岐郡妻木)にある自分の実家に立ち寄っていた。妻木家も明智本家の支流にあたる家柄。ここでも光秀は、これまでの家族に関する厚情と支援について、礼を述べるとともに、今後の予定についても説明するのであった。
煕子は、越前の地に光秀と二人で旅立つため、家族との別れを惜しんだ。ここで、光秀は初めて、妻木家の跡取りなる煕子の兄の貞徳(斎藤家の家臣~織田家の馬廻りの家臣~徳川家の家臣)と妹の貞子(後に織田信長の継室になる『妻木の方』)らに会った。
妻木家では、娘と光秀の二人の旅路を安ずる中で、別れの酒宴をもうけてくれた。
光秀と煕子は、ふだんはあまり酒を飲まなかったが、この宴では感極まって酒に酔った。
二人は一泊することとなった。
煕子乱れる
その夜、光秀と煕子は久々に夫婦の契りを結んだ。高く昇った月が連子窓の明かり障子を白く染め、小さな風音も聞こえる。二人は少し酔いがまわって、トロンとした目で見つめ合っていた。静かな夜であった。
煕子は珍しく薄くおしろいを塗り、紅もひいていた。
(当時でも、女性は白い肌への憧れがあった。文献では、戦国時代を境にしておしろいの製法などが変わったとされ、濃い白い粉から薄い白に変化していったとされている。
(「古くは鉛などを原料としていたが、後に植物性や動物性になったとされている。」)
「久しぶりに貴方様に逢え、こうして二人だけの宵をすごすのは夢心地でございます」と煕子が小さな声で呟いた。
「生身のお前を長らく待たせ、申し訳なかった・・・」と、こうべを垂れた。
「確かに悶える日々でございました・・・」と言うと、そのまま横に倒れて、甘えるように彼の膝の中に崩れ込んだ。そして、囁くように言う。
「救って下さいまし、煕子を救って下さいまし」と涙ながらに言う。
唇を合わせると、女の全身に震えが走った。やがて煕子の黒い伊達巻と襦袢の腰紐が解き落された。女は全身を愛撫された。
「もう殺してくださいまし、殺して、殺してくださいまし」と泣き叫ぶ。
久しぶりの激しい合体に、二人の胸には熱いものがこみあげていた。
(光秀様、わらわの胸から煩悩の犬が尻尾を巻いて退散いたしました・・・)
朝倉義景
翌朝、二人は一路越前の国を目指した。
朝倉家への士官については、藤高に紹介されていた『黒坂備中守景久』を越前・丸岡郷長崎に訪ねる予定。そこは、朝倉義景の居館のある一乗谷からは遠く、北の加賀にかなり近い場所にある。時は1560年(永禄2年)。明智光秀36歳、越前の守護・朝倉義景は25歳であった。
朝倉義景は、正室、継室、側室を多く持ち、子供も7人以上いた。側室の中には乳母もいたと言われている。正室には、時の権力者の幕府管領の細川晴元の娘、継室には公家の近衛稙家の娘を得ており、幕府や公家と近しいことから、武士でありながら貴族的な生活を送っていた。従って、足利幕府とは友好的な関係を保っていた。1552年(天文21年)には、足利義輝より、将軍の「義」の字を与えられ、延景から義景に改名している。
黒坂家の食客
その義景の家臣である黒坂景久は、膝を叩いて光秀の来訪を喜んだ。早速、景久の居館の近くの弥念寺の門前にある民家が、煕子との住まいとしてあてがわれた。
朝倉家は下剋上で成り上がった家柄ではなかった。第8代将軍の足利義政の代に、斯波氏にとって代わり、越前の守護職に任じられ幕府の御相伴衆にもなっていた。長年の平和呆けのため、今の越前守護の朝倉義景には、進取の気骨がなく貴族的な生活を送っていた。そのため、京からの情報にはすぐに飛びつくが、軍事面には関心が薄かった。景久が光秀を軍師の一人して召し抱えるように進言しても、採用には生ぬるい返答をするばかりで、その話を遠ざける態度が続いた。
そのため、光秀は生活費の金子を求めて、弥念寺の教場で土地の子供たちに学問を教えた。景久も同情し、光秀の貧乏暮らしを助けるために、自分の邸に若衆を集め、光秀から槍術や砲術の教えを受けさせて、僅かな金子を光秀に施していた。ここでの貧しい浪人生活は、1562年(永禄5年)まで続くのであった。
一向一揆との戦いに奮戦
一向一揆は、1400年代の中頃から全国規模で散発していた。この永禄年間における加賀の一向一揆は、戦国時代でも大規模かつ断続的なもので、特に朝倉家と一向一揆の戦いでは、永禄年間だけでも3回も行われている。その後、織田信長も天下統一を目指す中で、大規模な一向一揆との戦いが繰り広げられている。その際には、一転して朝倉義景が一向一揆と手を結び、信長に挑んでいる。朝倉家が貴族的な生活から脱却し、軍事強化に目覚めていったのは、この一向一揆への切実な対応を契機としている。
1563年(永禄6年)。朝倉家家臣の食客の身で、実質的には浪人生活を送っていた明智光秀は、突然、一乗谷の鞍谷刑部輔(朝倉家の軍事顧問)に召し出された。加賀の一向一揆との一戦が避けられない状況にあって、さしもの朝倉義景も実践の戦地で指揮をとれる軍師を求めていた。この結果、光秀は、銭500貫で鉄砲と砲術の指南役も兼ねた鉄砲隊百人の組頭となって召し抱えられた。
これで正式に越前守護の朝倉義景の家臣となり、士官が初めて成就した。但し、無別条一僕の身上(身分)で、自身の部下はなしで従者一人、というよそ者扱いであった。つまり、鉄砲隊百人は直属の部下ではない。それでも住まいは、一乗谷からほど近い安波賀の西蓮寺に寄宿することになった。ようやく生活が落ち着いた頃、正室・煕子に最初の子供で三女になる珠(細川ガラシャ)が産まれた。この寺の隣には、細川ガラシャが産まれたとされる明智神社がある。
明智秀満を呼び出す
光秀は、才気があって気心の知れた直属の部下が必要になったことから、武者修行の途にあった義理の従弟である『明智秀満』に急遽連絡をとるのであった。朝倉家の士官が成就したので、越前に来て腹心の部下として、自分を支えて欲しい旨を伝えるのであった。
そして翌年、光秀と秀満は、8年ぶりに越前の地で再会するのであった。
こうして二人は、朝倉義景と加賀の一向一揆との戦さに参戦することになる。鉄砲隊の実践的な訓練や教育指導は明智秀満が行い、一方光秀は軍師として、初めて戦時総大将を務めることになった朝倉義景とその重臣らに、戦略案を提起するのだった。その多くの戦略は、寝込みを狙う夜襲や奇襲策であったため、戦の前後には、他の家臣の多くから不評の揶揄を受けた。
しかし、光秀の教示は合戦のみならず、日頃の平時における軍備が重要であることも伝えていた。兵糧の備蓄と運搬、傷病の手当方法と薬事知識など、そういった日頃の常備の必要性を教示するのであった。
この永禄6年の一向一揆との戦いは、光秀と秀満の活躍もあって、朝倉軍の大勝利となり2カ月ほどで決着をみた。ただ、この後も2回ほど大きな一向一揆との戦いが勃発する。ところが、その間の1565年(永禄8年)には、京において将軍・足利義輝が弑逆されるという大事件が起きてしまう。この青天の霹靂の大事件に驚く光秀と秀満は、藤高らの幕臣の動向と畿内大名の動静に関する情報収集に精力を傾けるのであった。
そもそも朝倉家の家臣といっても、戦時のための臨時的な雇用でもあり、光秀には幕府に対する忠誠心が強く、朝倉義景に対する忠誠心は薄かった。ただ、今後の身の振り方にあたって、銭500貫の扶持をしばらくは失いたくないので、今は越前に止まり畿内の情報収集とその分析を行うことを優先するのであった。勿論、主君である朝倉義景も現役将軍の弑逆に驚き、朝倉家の維持・安泰に対処するため、幕府の動向に関する情報収集に努めた。そして、洛中や畿内大名などの知識を有している光秀に、義景自身から義輝弑逆の経緯に関する情報収集の厳命を受けるのであった。このことによって、その後の一向一揆との戦いには、光秀は中心的な役割を果たさず、京や畿内の大名などの動向に関する情報収集に全力を傾けるのであった。
戦国時代の兵糧
全国的に戦渦が広まる戦国時代にあって、『兵糧(へいろう)』の問題は重要なテーマであった。これは戦時だけではなく、平時における準備でもある『備蓄』の問題とも絡み、この問題を重要し、有効活用した者が勝者になっていったと言っても過言ではない。
戦国時代の兵糧には、『自弁』『腰兵糧』『作薙(さくなぎ)』がある。自弁は、兵士自ら用意するもので、従者を伴えばそれも負担。腰兵糧は、城主などが支給するもの。作薙は、敵地の作物(米、麦)や食べ物を奪うもので、味方への食糧になるとともに、敵への兵糧攻めにも効果を発揮する。
その多くは、城主が支給する腰兵糧にあったが、城主の財政状態によって変化する。城主は、段銭などによって商人から食料、武器・弾薬、武具、馬の飼い葉などを買い入れる。ただ、財政状況によっては、家臣や同盟する大名から借り入れる場合もあった。こういった兵糧が確保できないために、和解や撤退を余儀なくされることも多々あった。
兵糧、武器、医療品などを搬送し、武器の調達、備蓄などを担当する部隊を『後端(こうたん)』と言う。そして、この担当者を『陣夫役』、責任者を『御陣奉行』と呼んだ。織田信長の尾張時代における弟の織田長益(源吾、後に織田有楽斎)や秀吉の茶坊主から出世した石田三成も、この後端の役割を担い得意にもしていた(戦さ働きが苦手でもあった)。
この後端の役割は、単に輸送・備蓄に止まらず、他国への流通統制の役割も果てしていた。
具体的な輸送手段には、陸路の傳馬、小荷駄、河川や海路の船舶があった。これらに伴い宿場町、船橋や港が発展し、商人が台頭するとともに鉱山の開発も活発に行われるようになった。なお、籠城の際には、米の備蓄が欠かせないが、米が『上戸(じょうご)』という酒に変わるため、その多くは米5日分を基本とし、食べ物が深刻な場合には、草木、木の実、根、松の皮なども食料にしていた。
軍師
大名には、軍師が存在する場合が多い。軍師は戦時における戦略を企画・立案し戦さを遂行する。『陣夫役』や『御陣奉行』もその指揮下に入ることが多い。武田信玄の山本勘助、秀吉の竹中半兵衛と黒田官兵衛は有能な軍師といえた。ただ、信長には軍師が存在せず、標的や基本戦略は信長が自ら決定し、各戦地における兵糧を含めた具体的な戦略については、光秀、秀吉、柴田などの各重臣に任せていたものと考えられる(競争による効果もあった)。従って、織田軍には、有能な軍師が複数存在していたとも言えよう。
他方、朝倉義景にはそもそも有能な軍師が存在していなかった。明智光秀は軍師の経験はなかったが、若き頃から兵法書、法術書などを学んでいた。得意の話術を駆使し、軍師のように自信ありげに、堂々と一揆との戦い方法について企画立案するとともに提起した。反対論もあった。激しい議論を重ねた結果、初めて戦時の大将、即ち総指揮者となった朝倉義景に光秀案が採用されたのである。義景が光秀の方針を採用したのは、①夜襲などの迅速で機動的な奇襲作戦であったこと②後端における中長期に及ぶ兵糧などに関する提案が理に叶ったものだったこと。これらは、これまで家臣の提案にはなかった。その斬新なアイディアに驚くのだった。まさに光秀は、朝倉家における臨時の軍師といえた。
その昔、武士であった平氏、源氏、足利氏も、頂点に立つと次第に貴族化していった。その中で武闘派の将軍・剣豪将軍と言われた足利義輝将軍でさえ、家臣にはいわゆる軍師がおらず、管領の細川晴元の差配に振り回された。将軍を尊び、たびたび義援を続けてきた朝倉家でも、徐々に貴族化の流れにあったのだ。
そうした中で、光秀と秀満の大活躍に目が覚めた朝倉義景は、軍略と兵糧の重要性に鑑みながら、その後の織田信長との戦いに臨んだ。軍略と用意周到な兵糧などを重視するとともに、かつての敵であった一向一揆の総本山である『本願寺』と手を結んだ。
必要ならば宿敵とも連携する政略を駆使して、果敢に魔王・信長に立ち向かうのであった。
第9章 将軍足利義輝の弑逆
永禄の変
1565年(永禄8年)。松永 久通(松永久秀の嫡男) 、三好義継(三好長慶の後継者)及び三好三人衆の軍は、京都二条の将軍御所を襲い、第13代将軍・足利義輝を弑逆した。義輝は、深手の傷を負って切腹して果てた。享年30歳であった。なお、義輝の弟には、当時29歳の奈良・興福寺の『一乗院・覚慶』と17歳の鹿苑寺(金閣寺)の『院主・周髙』がいた。
辞世の句は、「五月雨は 露か涙か 不如帰 わが名をあげよ 雲の上まで」
完成間近だった二条御所に、三好軍(三好一党と呼ばれている)の1万人超の軍勢が突如攻め込んだ。対する幕府は、朽木の隠遁から帰京して間もないこともあり、御所の建設を進めるなどしており、かつての兵員数にはない。兵を増強する時間も財力もなかった。足利幕府の全盛期でも幕府直轄軍は、2000騎と言われていたほどだから、この当時の幕臣は、御供衆、お部屋衆、申次、外様詰衆、御小袖衆、御番衆、奉行衆、御味の男、足軽衆、御膳番の全てを合わせても、50名前後の幕臣数ではなかったかと推測する。
御所に乱入した三好軍の幹部は、三好家の当主となっていた三好長慶の甥の三好義継、松永久秀の嫡男・松永久通と三好三人衆である。
まさに晴天の霹靂の三好一党による卑怯で酷い乱入戦であった。
幕府や将軍を敬愛する六角氏や朝倉氏などは、幕府と三好家との和解後の推移の中で、三好家も将軍の臣下となっている事実もあり、三好勢に対する警戒感が薄れていた。実際に、1563年(永禄6年)には毛利元就と大友宗麟の調停、翌年の1564年(永禄7年)には、上杉輝虎と北条氏政と武田晴信の調停などを義輝が行い、幕府の威信が戻りつつあった。
なお、第7章で記述したとおり、変の当日に三好側が差し出した訴状を取り次いだために、侵入を許したとして、責任問題から進士賢光の息子の進士晴舎(はるいえ)が切腹させられ、その息子の進士藤延は、当日の戦闘の中で三好一党に討たれて死亡。さらに義輝の側室であった進士晴捨の娘の『小侍従局』が惨殺されている。彼女は将軍義輝の子供を身籠っていた。
また、話は少し遡り1551年(天文20年)には、三好長慶の暗殺未遂事件が2件発生していた。その内の一件は、将軍に近侍していた『進士賢光』が長慶を単独で襲っている。手傷を負わせたが、その場ですぐ捕まり切腹している。このこともあって、三好家では殊の外、進士家に対する遺恨が根深くあったものと考えられる。このように、光秀が養子に入っていた美濃の進士家が特段の悲劇にみまわれていた。
変の要因
幕府と和解し休戦状態にあった三好家では、三好長慶が引退し、家督と本拠地の摂津・芥田川山城を息子の義興に譲っていた。長慶は自ら身を引くことで、将軍義輝と義興の新しい政治関係を築くことに注力していた。しかし、その新当主の義興が病死すると、続いて永禄の変の前年には、三好長慶自身も病死してしまう。屋台骨が揺らぐ三好家では、将軍親政体制の復活を進める将軍義輝の勢いが増大することを恐れていた。この危機を回避するため、家老の松永久秀らは、三好勢力の巻き返しと義輝の追い落としを密謀する。その結果、義輝の従兄弟にあたる『義栄』を傀儡の新将軍として擁立するとともに、現役将軍の義輝を実力行使で排除することを計画するのだった。
三好三人衆
将軍義輝の弑逆を中心的に実行したのは、三好三人衆と呼ばれる三好長逸(長老)、三好正康(元細川家の家臣)及び岩成友通(重臣)らの軍兵である。三好長慶の死後は、その甥である三好義継が三好家を継いだが、若年のため実際には、家老の松永久秀と、三好家の長老の三好長逸が連携して政務に当たっていた。ただ、この連立政権は、永禄の変後には内部分裂している。それは、松永久秀の権力増大を三好三人衆が危険視したからである。そのため、三好三人衆は、筒井順慶と大和の国人衆とともに、大和にいた松永久秀を攻め、丹波にあった松永久秀の弟の長頼を討っている。
こうしたことから、三好三人衆から逃避中の将軍義輝の弟の覚慶が還俗し、足利義秋と名乗り従五位下・左馬頭(次期将軍の官職)に任官した頃には、松永久秀は足利義秋を追討する企てには関与していない。
三好一族の強さとルーツ
三好長慶の一族は戦いに強いという印象がある。それは、①応仁の乱以降、将軍足利義輝や管領細川晴元などを相手に三好長慶が争った6戦以上の戦いでは、そのほとんどを長慶が勝利していること②義昭を奉じて信長が大軍を擁して上洛した際には、三好一党は大敗し、一旦四国に退避していたが、その後も執拗に義昭のいる本圀寺を攻め入り、あと一歩で将軍義昭を討つところまで追いつめていること③その翌年には、再び三好三人衆らは、再上陸し、野田、福島、近江で織田軍5万と戦い、これを破り撤退させていること④さらに三度目の上陸では、2万の三好軍が摂津と和泉を席巻したため、信長はたまらず朝廷工作により和睦していること⑤本太城合戦(備前)では、毛利氏を果敢に攻めていること⑥三好氏は、摂津に四度目の上陸をして、荒木村重、中川清秀、三好義継、松永久秀(信長を裏切った)らとともに、織田方の高槻城を包囲していること。
こうしてみると、単に合戦に強いだけではなく、執拗でがまん強い体質があるとともに、政治的工作や駆け引きも上手であることが見て取れる。それでなければ、戦国時代の遷都で、将軍に代わり一時であっても政権を掌握することはできない。
後の本能寺の変の直前に、織田信長が光秀の推す長宗我部よりも、秀吉の推す三好氏に肩入れをする理由の一端が判るような気がする。
戦国時代に5畿内だけの制圧を含み、一時でも天下に号令できたのは、足利将軍、三好長慶、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康である。長慶は、三好三人衆の悪逆非道なイメージが重なり、正当な評価をされてはいない。軍事と政治力に富んだ立派な武将の一人だったといえる。
さて、三好長慶のルーツである。三好家の祖は、鎌倉時代の清和源氏の小笠原氏とされている。阿波守護であった小笠原氏の末裔とも言われている。その後、阿波では細川氏庶流の阿波細川家が代々守護務めていたが、三好氏はその被官となって勢力を伸ばしている。やがて三好長慶の代になると、彼の戦さ上手を買われ管領・細川晴元の重臣に成り上がっていく。斎藤道山や北条早雲のような梟雄とは異なり、血筋の毛並みの良さも若干持ち合わせていた武将でもある。長慶はその後、管領・細川晴元と袂を分けて何度も戦ってはいるが、周知のようにほとんど勝利している。一方、細川晴元は一時期、12代将軍の義晴と息子の義輝を都から追放している。しかし、政権を奪って天下に号令する戦国武将というよりも、強いて言うならば管領職以上を望まない、官僚的な権力志向に留まった人物だったといえる。
難を逃れた藤高
永禄の変の当日、細川藤高はたまたま御所にいなかった。彼の運の強さでもある。周知の通り、藤高は足利将軍家に仕え、その後は光秀と信長に仕えた。さらにその後には、秀吉や家康にも使え、肥後54万石の大大名として、77歳の長い人生を終えている。
当時藤高は、義輝政権が軌道に乗りつつあり、暇を見つけては歌学の編纂を行っていた。変の当日、藤高は居城である城州・長岡にある『青龍寺城』に戻っていた。城と言っても、土塁で周りを囲っただけの屋敷風の城である。
当日の昼前、京からの早馬で異変を知らされた。
既に将軍義輝が多数の兵に切られ、切腹して果てたと、伝えられた。また、三好勢は御所を取り囲んで、逆襲に備えるとともに、逃亡者の行方を追っていることも伝えられた。戦闘の開始は午前8時頃で、今はすでに11時頃を回っていた。これまで義輝とともに幾度も合戦を経験している藤高は、僅かな供廻りで御所に向かっても、返り討ちに合うのは目に見えていた。藤高は覚悟した。この城と扶持(この地の3000貫)は、無くなったに等しい。従って、家来も城も捨てなければならない。まさに流浪の裸の身となった。
そこで先ず、妻の麝香(光寿院)と家族を自分の実家である清原家に送り届けるよう、従者に命じた。そしてその従者に、僅かな金子と藤高の小刀を授けるのであった。
一方、嫡男の熊千代・3歳(後の忠興~三斎)を京の一乗戻り橋の屋敷に住まわせ、手習い事などを学ばせていた。藤高はこの当時、青龍寺城とともに、一乗戻り橋の屋敷からも将軍御所に通っていたのである。京の屋敷には、熊千代の乳母、教育係の老女、侍女、下男なども暮らしている。藤高は急ぎ、馬首を京に向けて疾風するのであった。
藤高の京屋敷は、幸い三好一党には知られていなかった。ただ、それでも周辺には、三好勢の足軽・雑兵が、将軍の一族と思われる者を捕らえるための探索を行なっていた。すでに、京の町は夕暮れ時になっていた。藤高は下馬して、笠を深めにかぶりながら我が屋敷に歩き向かった。藤高の京屋敷は、塀も崩れ落ちている板葺きの朽ちた屋敷だった。それが幸いし、三好一党の探索を免れていたのかもしれない。
屋敷にすぐ入ると、熊千代の乳母とこの屋敷の管理を任せている老婆に命じた。
「熊千代を連れて、すぐに清原の里に行ってもらいたい」と言った。
すると老婆は、「今からですと、直に日も暮れて夕闇に包まれます。そうなれば、夜盗に襲われる危険もあります。ましてや、幼子を連れた夜の徒歩姿は、女子(おなご)であっても怪しまれます。明日になり日が昇れば、行商人、職人などが行き交うようになります。その雑踏に紛れて、街中を抜け出す方がよろしいのでは・・・」と言う。さすがに、経験豊かな老婆の的を得た提言であった。藤高は承知して、三好の兵に踏み込まれる危険もあったが、居直った気持ちで一泊する覚悟を決めた。
乳母桜
この老婆は『志乃』と言い、元は藤高の乳母であった。藤高は若い頃には、志乃を継室又は側室にしたいと考えていた。しかし、嫉妬深く心が繊細な妻の『麝香』に気兼ねして断念してしまった。志乃はその家柄も良く、和歌、茶道、連歌を楽しむ教養があり、今は嫡男・熊千代の教育係を務めてもらっている。老婆といっても、まだ50代の乳母桜。
熊千代も寝静まった頃。高く昇った月が連子窓の明かり障子を白く染めている。夜風がざわざわと音を立てていた。藤高は、突発的な将軍弑逆事件に緊張と興奮で眠れなかった。
「私は日頃から歌学集を読み書きして、宵っぱりだから、志乃は遠慮なく気兼ねせずにお休み・・・」と、藤高は志乃にやさしい言葉をかけた。
「近頃私は寝つきが悪く、夜っぴいて眠れぬことが多いのでございます」
「誰でも迷いや悩みはあるもの・・・して志乃は?」
「女子(おなご)にそんな白状を言わせまするのか・・・」
少し頬を赤くして目を潤ませていた。
そば近くに志乃を見直せば、きちんとした襟元にのぞく桜色の肌と、ふくよかな手首の艶々しさが匂うばかりの色気に満ちている。それは思いもかけず、初々しく愛らしい哀愁までも漂わせているではないか。藤高の脳裏に、若き頃の二人の愛欲の姿態が浮かんでいた。
「志乃!」と呼んで抱き寄せた。
「老いたとは言え、私も生身の女でございます。この世の今生のお別れになるやかも知れませぬ。どうか昔日の夢の日々の様に、藤高様の愛をこの志乃に下さりませ・・・」
まだまだ蕩ける様な柔らかさのある唇であった。志乃の白い珠のような肢体が生々しく蠢く。最後に、真白な顎を突き出した志乃は、半開きの唇から呻き声を発して、藤高の胸に倒れ込むのであった。
将軍の実弟・覚慶の逃避行
奈良の興福寺に居た将軍義輝の実弟・覚慶は、三好一党からその命を狙われた。幕臣の多くは逃げ出し離散したが、一部は御所に残り政務に止まった。一方、義輝にそば近く仕えた者達は、三好一党に与せず、次期将軍候補としての義輝の弟・覚慶を救出するために、奈良の興福寺に向かった。それは取りも直さず、正当な室町幕府の再興を目指すためであった。当初の救出と逃亡の供回りに参加したのは、細川藤高、一色藤長、杉原長盛、和田惟正(甲賀の豪族で幕府御供衆)、義俊(大覚寺の門跡で近衛尚通の子、覚慶の叔父にあたる)、仁木義政らの数人であった。
興福寺を脱出後の足取りと次期将軍への道のりの前半は、概ね次の通りである。
①奈良・興福寺を脱出②甲賀の和田惟正邸に潜む③矢島の里(琵琶湖の南端で江南の六角氏の領地/現在の滋賀県守山市)に止まり、入洛するための準備を行う。
矢島の里
矢島の里(矢島御所)では、覚慶を公方として京までの入洛を同道してくれる大名を絞ることと、その現実的な予備交渉も行われていた。上洛の道筋周辺には、江南の六角承偵、江北の浅井長政、若狭の武田義統が領地を得ているが、中原に旗を立てるほどの実力はなく、むしろ三好一党の過激な実戦行動に怯えて静観している状態にある。越前の朝倉義景は野心もなく、加賀の一向一揆の攻勢に神経が集中していて動きが鈍い。上杉輝虎も一向一揆と武田など周辺豪族との争いで動けない。その武田信玄も、周辺の敵の動きに集中していて動けない。尾張の織田信長と美濃の斎藤龍興は互いに戦っている最中にある。
北条、毛利、尼子も遠隔地にありすぎる。それでも覚慶は、御教書、御内書を全国の有力大名に送り、上洛の同道と支援を求めた。しかし、色好い返書はすぐには来なかった。
そんな状況の中、和田惟正が翌年の永禄9年6月に、織田信長との対面に成功し、条件付きだが入洛への信長同道の朗報を届けてくれた。急遽、藤高が覚慶の使者として、その将軍候補としての書状を持ち、尾張から東美濃の小牧山城に本拠地を替えていた織田信長に会うことになった。
幕府御供衆でもある和田惟正の上洛の戦略は、兵力のある織田氏と斎藤氏とともに、上洛の道筋にある六角氏、浅井氏を含んだ連合体として、入洛を果たすものであった。将軍義輝の弑逆については、畿中の多くの大名や豪族は、将軍家に同情的であったことの感触を得ていた。そうしたこともあって、旧幕臣(義輝以前の将軍家を含み)も三々五々30人ほどが矢島の里に集結し、矢島は臨時の御所のようになりつつあった。
なお、和田惟正の家は、甲賀武士53家の中にあって山南7家の家柄にある。和田家は、以前は六角氏の被官だったが、惟正の父の代に将軍義輝の幕臣となって以来、独立して甲賀に領地を持つようになっていた。
織田信長の上洛同道の条件
その信長は上洛の御供に当たり、二つの条件を示した。一つは、美濃の斎藤龍興との和睦、今一つは、京に上る通路にあたる六角氏と浅井氏が、ご入洛の邪魔立てをしないことだった。勿論、覚慶は了解し藤高に全ての交渉役を命じた。気を強くした覚慶は、還俗して髷を結い、名を覚慶から義秋(後に義昭)と改めた。さらに、将軍に就くための官位である従五位下左馬頭を禁裏から任じてもらった。
藤高は義秋の書状を持って、稲葉山の裾野にある井ノ口に向かい、斎藤家の重臣らと話し合いを行なった。難産だったが、何とか起請文を取り付けると、その足で木曽川を渡り、小牧山の織田信長を訪ねた。早速、信長は龍興との停戦と和睦を了承する。さらに、江州路にある浅井氏と六角氏の同意を確認するのだった。「ともどもご上洛するか、行く手を邪魔立てしない確約をお願いしたい」と念を押すのであった。この後、この浅井と六角の両者は、渋々承知するのであった。これを受けて信長は、「今年の夏ごろには出立する」との見通しを藤高に伝えるのだった。義秋は飛び上がって歓喜した。あとは、信長の実行の日を待つばかりとなっていた。
斎藤龍興と六角承偵の裏切り(信長の食言の真実)
1566年(永禄9年)。義秋一行は突然、矢島の里を夜逃げ同然に立ち退くこととなった。
それは織田信長が約束を実行しないばかりか、三好一党がこの矢島の里を急襲するという情報が伝わったからだ。織田信長が義昭との約束をすぐに履行できなかったのは、斎藤龍興と信長の和睦が裏で放棄されていたことが挙げられる。斎藤龍興は、三好一党から知恵を授けられ、既に甲斐の武田信玄とも誼みを通じていて、信長が義秋を担いで京に上っている隙に、両者で小牧山城を攻める密約を結んでいた。この情報を諜報者から知った信長は、上京を止まったのだ。その事情を知らない義秋一行は、信長の上京の約束は、『食言』(大ぼら)だったと罵った。
さらに、三好三人衆は、六角氏と浅井氏が義昭の上洛に協力する情報を得ると、坂本まで兵を押し出して六角氏に圧力をかけ、義秋から六角義賢を離反させたのだった。その勢いで、矢島の里にある義秋一行を襲う気配をみせていたのだ。
ただ、義秋らも慎重な配慮が足りなかった、こういった和睦成立の情報は、上洛の実行日まで機密にしておくべきだった。しかし、義秋自身も浮かれて舞い上がり、さらに家臣団も喜び、上洛予定であることを周辺地域に喧伝し、あまつさえ、その協力要請までもしてしまった。当然これらの動きと情報は、三好一党にもすぐに伝わることとなった。すぐさま、この上洛を阻止するための妨害の策略が立てられるとともに、義秋一行を力づくに急襲することが決定されたのだった。なお、松永久秀と三好三人衆は、この時点では仲違いを起こし、松永久秀は行動を共にしていなかった。久秀は、義昭一向に与する大名の潜在的な軍事力に対して、三好一党の兵力では、全く歯が立たないことを知っていた。
朝倉義景を頼る
細川藤高は落胆する義秋に対し、こうなれば、例え入洛に相当の時を要しようが、越前の朝倉家を頼るしかないと提案し、すぐさま自分の元家臣であった朝倉家にいる明智光秀に急ぎ甲賀忍者を送った。と同時に、すぐさま夜逃げ同然に矢島の里を逃れることにした。夜陰に紛れて船で湖水を渡り、とりあえず若狭の武田家に身を寄せることになった。若狭の武田大膳大夫義統は、義秋の妹婿であった。ただ、この武田家は領地も狭く、兵も少ないので長居することはできなかった。
こうした義秋一行の危機的な情報を得た明智光秀は、朝倉義景に報告するとともに、すぐに手勢を連れて、若狭に救援に出立したいと願い出た。すると思いもよらず、腰の重い義景は、笑みを浮かべながら即決するのであった。
「鉄砲隊を連れて参れ、三好一党から義秋様の御命をお守りいたせ。それに若狭の武田家は、弱小故に長居はできまい。すぐさま越前にお連れ申せ!」と即断の命令を下した。加えて、「ただし、お連れするのはこの一乗谷ではなく、敦賀の金ヶ崎城に致せ。城主の景紀には、儂からお迎えする準備を整えておくように命じておく」と言う。
金ヶ崎城に一時的にでも義秋一行を留め置く魂胆は、光秀には分かったが、それには触れず黙って指示に従った。
徹夜で将兵の臨戦体制を整え、兵糧と傷病薬などが準備された。翌日の日の出とともに、光秀は秀満を伴い、鉄砲隊を引き連れて一路若狭武田家の『御瀬山城』に向けて出立した。
若狭・武田家の城
御瀬山城内(滋賀県若狭市)は、緊張に包まれていた。藤高と光秀は、8年ぶりに再会した。藤高は迅速な光秀の行動に涙ながらに感謝するとともに、朝倉義景の即断にも驚きを隠せなかった。義景が義秋一行を受け入れる理由は、①成り上がり者の織田信長を頼り、失敗したことで気を良くしていた②一向一揆に悩んでいたことから、義秋が将軍となれば、その仲立ちによって、加賀一向一揆との和睦が可能になる期待があった③若狭武田家とは、応仁の乱の初戦で敵味方に分かれたものの、中途からは将軍の命により味方同士になった。その後、武田家に内乱が生ずると、朝倉家はその内乱を静めるなど、その後の両者は盟友の関係になっている。どちらかと言えば、朝倉家が武田家を保護する優位の立場にあった。そもそも若狭の地は、琵琶湖の西から越前方面に向かう交通の要衝でもあり、朝倉家にとって、戦時も平素であっても、物資流通の重要な場所なのであった。
田中城の戦い
光秀は、若狭武田家の御瀬山城から南の琵琶湖の西に位置する高島にある『田中城』に籠り、三好一党を迎え撃つことを提案する。田中城は、京から若狭を目指す道筋でもある。光秀軍が時を稼ぎ、三好一党と戦っている間に、義秋一行は無事に御瀬山城を出て、迅速に金ヶ崎城を目指すことで了解してもらった。そして、光秀は間者を数人放ち、義秋一行が田中城にまだ留まっていると、嘘の情報を喧伝させた。
藤高は、涙を流して光秀と別れるのだが、義秋の了承を得て、腕の立つ元幕臣の十数人を光秀に託した。こうして光秀率いる鉄砲隊と旧臣幕臣、さらに和田家の家臣を加えた軍団は、田中城の内外で三好一党と六角氏の一団と戦うのであった。ただ、これは義秋一行が金ヶ崎城に入るまでの時間稼ぎの籠城戦にすぎず、徹底抗戦が目的ではなかった。
この田中城は、時の将軍が度々隠遁生活を余儀なくされた朽木の里(足利氏に味方する朽木氏の領地)からも朽木街道で身近に繋ぐほどの距離で、光秀や藤高にとっても土地勘があった場所。城主は、佐々木氏一族(高島一族とも言う)の高島七頭(しちがしら)の一人である田中郷が城主となっており、隣国の朽木氏とともに、親・幕府色の強い領主の一人である。
一方、義秋と藤高などの一行は、無事9月8日に金ヶ崎城に辿り着いた。六角氏の義秋からの離反が発覚した8月29日から10日ほど後のことであった。明智光秀の機転による、電光石火の逃亡劇であった。なお、田中城での一戦が終えた甲賀・和田惟正とその家臣達は、越前には入らず、あくまでも信望を強く抱く、織田信長を頼り小牧山に走るのであった。
第10章 信長上洛
足利義秋と細川藤高など旧幕府の一行は、朝倉領内の敦賀・金ヶ崎城に辿り着いた。第13代足利将軍の義輝が三好一党に弑逆され、その弟である17歳の鹿苑寺(金閣寺)の『院主・周髙』も殺害されていた。
光秀・幕臣名簿で足軽大将
朝倉義景は越前・一乗谷に本拠を構えている。この金ヶ崎城は、一門の朝倉九郎左衛門景紀が城主となっている。到着後、すぐに藤高は、義秋の命により朝倉景紀に「朝倉家を頼りたい」旨を伝えた。景紀は迅速に、越前・一乗谷の朝倉義景にその旨を諮った。二つ返事で義景より「謹んでお迎えする」と即答を返して来た。
そのことから、義秋は、はやる気持ちを押さえられず、上洛して早く天下に号令するための準備とともに、朝倉義景との対面前には、形だけでも良いから幕臣組織を整えておくべきと考えていた。一方、藤高は、幕臣に対する禄や扶持を与えることもできず、あまつさえ活動する御所さえ確保できていない状態なので「今しばらくのご猶予を・・・」とたしなめた。しかし、義秋は子供の様に聞き入れなかった。
藤高はしかたなく、金ヶ崎城に入った旧幕臣と、京に戻れば駆けつけてくれそうな者を混成して、幕臣構成案を作成するのだった。
早速、その幕臣名簿の草案を義秋に提出すると「明智光秀の名が書かれていないぞ」と不満の顔を作った。藤高は「明智殿は正式の幕臣経験がありません。朽木では、私の中間となって、共に義輝様をお守りした武芸百般の武者ではありますが、今は朝倉家の鉄砲隊百人の組頭となって召し抱えられております」
「よう分かった。しかし、先の田中城における勇猛果敢な武者ぶりは、家臣の誰もが褒めたたえているぞ。儂は、これからも光秀を頼りにしたいのじゃ。越前・一乗谷で朝倉義景に会った際には、儂から光秀を譲り受ける承諾を得ることにする。今は幕臣の草案を作成するのじゃ、明智の名を認めよ」
義秋は、光秀が越前より神風の如く現れ、田中城での三好一党との勇猛果敢な戦いぶりに感激しているのだ。藤高や旧幕臣達にはない光秀の武者ぶりを頼もしく感じている。
藤高も同じ思いではあるが、これから朝倉家に大量の兵動員など、いろいろと頼ることが多い中で、いささかの波風も立てたくないのが本音であった。
「はっは~、そのように致します」と、藤高は仕方なく頭を垂れるのであった。
そこで藤高は、光秀を幕府奉公衆筆頭の細川家の直臣として『馬乗りの足軽身分(足軽大将)』として、幕臣名簿の草案に書き入れるのであった。
この草案の幕臣総数は48名で、31名が光秀などの新規採用又は旧臣の再雇用組であった。
内訳は、御供衆13名、お部屋衆15名、申次6人、足軽衆14名となっている。つまり、この名簿は、にわか作りの草案上の幕臣体制であった。今、金ヶ崎城にいる幕臣は30名程度なのである。
なお、この時の人選については『永禄6年の諸役役人附』に記載されている。だが、この草案作成時には、公式に幕府が存在していないことから、藤高が作成の日付を遡って将軍義輝が健在だった永禄6年の日付に書き換えていたものと推測できる。
いずれにしても、この時点では、明智光秀の心が幕府にあっても、身分は朝倉義景の臨時的な家臣である。光秀が事実上の幕臣となるのは、足利義昭(義秋から改名している)が朝倉家に見切りをつけ、織田信長を頼る頃からである。その後は、現実的に細川藤高直臣の足軽大将として、上洛のための任務を遂行することになる。
後日、藤高は光秀と会ってこの幕臣採用の話をした。
光秀は、にこやかに笑みを作って「そもそも足軽衆は、扶持の必要がなく金で雇われる身分。今は朝倉家より金子で雇われている臨時の雇用故、公方様が上洛を果たせられた際には、幕臣となって金子を頂戴できる馬乗りの足軽大将は願ってもないこと。大変、身に余る有難いお話しです」と言った。
藤高は、すぐに光秀の真意を理解した。言葉にこそ出さなかったが、その心は「今の義秋様の名ばかりの幕府では、金も扶持も家臣に与えることはできない。その紙に書かれた幕臣名簿に名を連ねられることは、大変光栄で有難くお受け致します。ただ、今はまだ朝倉家から銭500貫で鉄砲隊百人の組頭に召し抱えられており、今の時点での幕臣への転身については、今しばらく義秋様の胸の内に納めておいていただきたいのです」と理解した。藤高は光秀の心が、既に朝倉家から幕府側にあるものと確信するのであった。
一乗谷に入る
こうした義秋の上洛をはやる気持ちとは裏腹に、やはり朝倉義景の行動は緩慢であった。
義秋は子供の様に、何度も書状を義景に送った。返書は「すぐにも一乗谷にお迎えしたいのですが、この地は何分にも雪深く、ことのほか寒くございます。今冬は敦賀で越年され、来春の雪解け後の春に、一乗谷にお移りいただくことが寛容かと存じ上げます」と、義秋一行の越前入りを先延ばしするのであった。
ただ、朝倉義景にも理由はあった。義景の有力家臣の堀江影忠が、加賀の一向一揆と通じているとの情報が伝えられていたのである。
このため、義景は家臣の魚住影固らに堀江影忠の討伐を命じた。こうした加賀・一向一揆衆とのいざこざは、相変わらず頻発し、朝倉家を悩ませていたことは事実であった。
こうして義秋一行は、敦賀の金ヶ崎城に一年ほど滞在することを余儀なくされた。
さて、話は少しばかり前後するが、この頃の京では新たに政局が動いていた。
京で実権を握っている三好一党と阿波国の篠原長房に担がれた足利義維の子の義栄(よしひで)が、義秋と同様に『従五位下左馬頭』に任じられたのである。そして、何度か将軍宣下を申請しても天皇家に却下されていたが、ついに2月、第14代足利将軍に任じられてしまった。足利義維は、義輝や義秋の異母弟と言われている。その子供の義栄に、義秋は先を越されてしまったのだ。
さすがに、これ以上は足利義秋一行の一乗谷入りを延ばせないと判断した朝倉義景は、1567年(永禄10年)の10月、越前・一乗谷に招き入れるのであった。当面は、一乗谷の安養寺に旅装を解いでもらった。
義秋の奮闘努力
一乗谷に腰を据えた義秋一行だったが、相変わらず朝倉義景の動きは緩慢であった。ただ、義秋に対する対応は丁寧で手厚いものであった。
一乗谷の町は、南北に長い地形にあって、南の上城戸と北の下城戸に城戸口が設けられている。朝倉義景は、義秋一行のために、その上城戸に屋形(住まい)と御所(政務)を建てていた。義秋は義景に感謝しつつも、何とか上洛の供をしてもらうため、涙苦しいまでの努力を重ねた。1568年(永禄11年)には、義景の歓心を買うために、義景の母親を天皇家に働きかけ『従二位』に栄典させている。しかし、それでも義景は無関心を装い動かない。
この年の4月に、義秋は遅い元服を行い、名を『義昭』と改名した。その宴席などでも義景と会うたびに、言葉巧みに上洛を促すのだが、相変わらず義景は腰が重く、上洛の話をのらりくらりと、はぐらせるのであった。
それでも時折、義景は酒の勢いで自慢話をする。
「我が兵の動員力は、23,700ある。上洛の道筋にある浅井は8000、和邇(わに)、堅田、朽木、高島らの豪族は総数で580、僚友の若狭の武田は3000、これらを全て合わせれば、35,000を上回る。儂が動けばご上洛の道は必ず開けます。・・・ただ、加賀の一向一揆が上洛の留守に攻め込んでくる可能性があって・・・申し訳ないのですが、すぐにはご上洛の御供ができない事情もありますのじゃ・・・」と、最後は泣き言で話を終えるのであった。
確かに一向宗一揆は難敵であった。
後に織田信長も長い間苦しんだように、負けても死を恐れない強さとしたたかさがあった。特に、越前には加賀の一向宗一揆だけでなく、能登や越中にも一向宗一揆があって、それらは本願寺の下で全てが連携している。確かに朝倉義景の言葉は世迷い事ではなかった。
そこで義昭は「であれば、我々がその一向一揆の問題に尽力を致す」と、果敢に動くことを言い切った。
翌日、藤高を呼び出した義昭は、昨夜の義景との約束の模様を話し「ご苦労だが摂津・石山に本拠を置く本願寺の宗主である顕如殿を訪ねて、朝倉氏との和睦について相談してきてもらいたい。和睦を飲んでもらえるのであれば、その和睦の証として義景の娘を顕如の息子の教如に嫁がせる」と命じた。
細川藤高にとって、一世一代の大きな交渉役でもあった。
結果は、なんなく和睦が成立した。加賀の一向一揆側も、光秀の活躍で苦戦させられており、双方ともに戦の潮時を長らく待っていたといえる。
この結果、朝倉義景はついに重い腰を上げて、義昭を奉じて上洛することを決心した。出陣の予定は、この1568年(永禄11年)の6月18日に決定した。
朝倉義景上洛を断念
ところが、朝倉義景に突然の不幸が起きてしまった。上洛出立予定の二週間ほど前の事、義景一子の幼き阿若丸(くまわかる)が急死したのである。義景は、ただちに上洛の予定を中止した。死因は、病死あるいは毒殺とも囁かれたが、はっきりした死因は特定されていない。朝倉家の家風からすれば、内部の者による毒殺は考えられなかったので、足利義昭一行と、よそ者から配下になった明智光秀や秀満に疑いがかかった。さすがに、前向きで元気者の足利義昭も打ち萎れて、頭の中が混乱してしまった。義昭は、藤高と明智光秀を呼んで、今後の対策を相談するのであった。
藤高と光秀の考えは既に一致していた。それは「かくなる上は、織田信長殿を頼みまいらす他に道はありませぬ」と言上するのだった。義昭一行の流浪の旅が回り回って、再び織田信長を頼ることに戻った。そして、明智光秀は急ぎ美濃にいる和田惟正を訪ね、信長の真意を尋ねてみた。惟正は信長に相談することもなく「ご用命があれば、いつでも御供つかまる御心境にあられる」と言い切る。すぐに、光秀は一乗谷の御所に戻り、義昭と藤高に報告するのであった。
義昭は「こうなれば、織田信長を頼るしか道はないのか」と渋々承諾した。
その後、光秀は藤高とともに、再び和田惟正を訪ねて「義昭様が、織田信長殿のことを足利家再興の守護神としておられます。よろしくお取り計らいのほどお願い申し上げます」と取り計らいを依頼した。和田惟正は「承知つかまった」と胸を張るのだった。
七月に入り、足利義昭は正式に、朝倉義景にこれまでの御礼と別れの挨拶を行った。
「有難く御所まで建立され、長きにわたるご温情に厚く御礼申し上げる。世話になったことは一生忘れることはない。今後とも、そなたを見捨てることはない」と述べた。
朝倉義景は、早くに上洛を果たせなかった自分を後悔した。しかし、一方で織田信長に公方様を横取りされたことに、怒り心頭で腹腸(はらわた)が煮えくり返っていた。
再び信長を頼る
再び信長を頼ることになっても、義昭は信長をまだ心の芯から信じていなかった。やはり、先の信長の後ろ盾による上洛が頓挫した事に、彼の食言ではなかったのか、という疑念が未だに残っている。それとともに、その後の苦しかった逃避生活の苦しみが怨念として残ってもいた。その一方で、田中城で我が身の危急存亡の事態を救い、越前の後援までも取り付けてくれた光秀には恩義があった。また、奈良・興福寺から我が身を救い出し、甲賀や矢島の里まで匿ってくれた和田惟正も、今は信長の実質的な家臣として到来し、信長は再び上洛の御供を賜る気持ちがあると伝えくれ、仲介の労を成し得てくれた。
義昭は、藤高、光秀、惟正の情熱に感謝しつつ、渋々だがほかの選択肢も残っていないことから、再び織田信長を頼ることとした。正式に藤高を使者として、稲葉山の織田信長の元に送った。
朝倉義景との別れは釈然としない気持ちがあった。それでも義昭は、これまでの厚情に対する御内書を与えて、7月13日に一乗谷を出立するのであった。
この時点で、明智光秀は実質的に朝倉家臣の地位を失った。そのため、光秀一家と秀満も越前を後にして、一旦、西美濃の継室・千草の実家の山岸家に立ち戻るのであった。そして再び妻子を預けた。二人は、無禄の状態にはなったが、それでも実質的には幕臣として、義昭一行の供廻りに従事していくことを伝え、踵を返して稲葉山城下に向かうのであった。
入洛の行軍
越前を出た義昭一行は、先ず越前から北近江の浅井氏の小谷城を目指した。7月18日、義昭一行は、信長が妹のお市を浅井長政に嫁がせて、同盟を果たしていた浅井氏の小谷城に寄宿し歓待を受けた。
続いて美濃に向かい、1568年(永禄11年) 7月25日に、稲葉山城下の立政寺で義昭と信長は対談する。ここで信長の将軍候補の義昭を供奉して京に上ることが確定した。織田信長は、銅銭千貫、太刀、鎧、武具、馬とその他の品々を献上した。そして、義昭に従ってきた幕臣らにも、ひとかたならぬ歓待を行なった。
その後すぐに、上洛のための軍議を開き、戦略方針が決まると戦闘の準備に追われた。
先ず、織田信長の勧告にも聞く耳を持たなかった六角氏を攻めることになった。一方、三好一党と六角承偵は、信長と戦う姿勢を強めていった。
かくて、4万もの将兵に膨れ上がっていた信長の大軍は、近畿周辺の情勢に精通している和田惟正を先頭にして、京に向けて行軍することとなった。
9月7日には、直属の柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛、木下秀吉が近江を目指して終結した。さらに、徳川の松平信一、美濃三人衆の稲葉一鉄、氏家木全、安藤守就も駆けつける。近江には浅井長政が待機し、北伊勢には滝川一益がいる。光秀と藤高は、先頭の和田隊に続いて行軍した。最初に、堅城と言われていた箕作城が呆気なく一夜で落城すると、観音寺城にいた六角親子は逃げ出した。この報を聞いた三好一党は、京から一目散に逃げ出していた。京の町は、呆気なくもぬけの殻になった。織田信長一世一代の怒涛の進撃であった。
9月23日、藤高と光秀は、織田軍とともに京に入った。その3日後の26日に義昭と信長が共に入京を果たした。義昭は、奈良から脱出して逃亡生活を送ること3年余りが経過していた。なお、三好一党と仲違いしていた松永久秀は、その頃には奈良に逃避していた。
さらに、第14代将軍となっていた足利義栄は、義昭入京の寸前に芥川城で病死(毒殺との説もあり)していた。
ちなみに、この入洛時における武将の年齢を比較すると、義昭は32歳、信長は35歳であった。藤高は35歳、光秀は46歳、秀吉32歳、家康26歳で、古参の臣と言われた佐久間信盛は40歳、柴田勝家は46歳、滝川一益は43歳、この後に活躍する公家の近衛前久は37歳であった。
甘すぎる恩賞の心底
信長は、此度の入洛の恩賞を与えることとなった。先ずは、信長と義昭の間を取り持ち、京への行軍の先頭に立った和田惟正に摂津の芥川城を与えた。このことから、京童は織田信長と和田惟正を両大将と囃した。驚いたことに、松永久秀には大和一国を切り次第で与えるとした。池田勝正と伊丹忠親は領地安堵、細川藤高には青龍寺城を回復させた。
だが、明智光秀には何の恩賞もなかった。信長の目には、光秀は幕臣藤高の部下であり、元は朝倉義景の鉄砲頭であったぐらいの印象でしかなかった。光秀は内心不満であった。実践の働きでは、自分は和田惟正よりもはるかに上回る実力があると思っている。やがて将軍となる足利義昭の窮地を救い、機転を働かせて田中城で戦闘し、越前に逃避させたのも光秀の功績があってのことだと自負していた。ただ此度の進軍では、和田軍と行動を共にしたが、合戦働きはなかった。しかし、それは和田惟正も同じこと。今回の上洛における主戦者は織田家の武将団。西美濃衆から織田方に降りた美濃三人衆の稲葉一鉄、氏家卜全、安藤守すら、本来は先頭隊を任ぜられるべきところだったが、脇役にすぎなかった。
確かに和田惟正は、近江から京に至る道筋の事情に精通していることから先導役を務め、さらに義昭と信長の橋渡し役も果たしていた。これが信長から評価されたもの。確かな事実として、藤高や光秀らの幕臣は先導役ではなかった。これを知った義昭と藤高は、名簿上から実質的な幕府の家臣に光秀を取り立てた(禄ではなく金子)。将軍に、直に目通しを許される足軽組の馬乗りの組頭に正式に就任するのであった。戦時には、現実に先頭に立って戦う実践部隊の長である。
将軍宣下
入洛後の混迷が落ち着くと、細川藤高は織田信長からの許しを受け、所領の青龍城を実力行使で勝ち取るとともに、京の一乗戻り橋の屋敷も回復することができた。
しかし、織田信長は、その後も手を休めることなく、今後の憂いをなくすために畿内隣国を平定する戦闘を続けていた。勿論の事、二度と将軍が京から追い出されないための布石であった。畿内をほぼ平定して京に戻った織田信長は、安堵して清水寺に入った。義昭は、細川昭元の屋敷に入った。10月22日、足利義昭は内裏に参内して、晴れて征夷大将軍に任命された。そして24日には、信長は将軍となった義昭に挨拶をすると、翌日には帰国の途に着くのであった。第15代将軍となった義昭は信長に感状を与えるのであった。
「この度貴殿が国々の賊徒らを短期間のうちに、ことごとく成敗したことは、貴殿の武勇が天下第一のものであることを示したものである。将軍家が再興できたのも、貴殿のお蔭である。ますます国家が安泰するよう、ひとえにお頼みするほかはない。なお、委細は細川藤高と和田惟正から改めてお伝えする」とする内容であった。
そして、織田信長は岐阜へと戻るのであった。
義昭は信長に強く感謝の意を示すために、藤高と惟正に大納言の久我通興を加えて、岐阜に向かわせて、副将軍か管領に就くことを打診させた。
信長は即答する。
「副将軍や管領など、それがしには荷が重すぎる。御免候」と返答するのだった。
信長は、すでに和田惟正に摂津の芥川城を与え、松永久秀には大和一国を与えている。さらに、池田勝正、伊丹忠親、三好義継、畠山高政には、所領を安堵させている。
京に戻った藤高は、光秀と密談して信長の真意を探った。光秀はすぐに「次の一手の布石にあると思います。これは信長様のご本意ではなく、油断を誘う腹つもりなのです」と即答する。続けて「いずれ彼らの中から、裏切る者が出るので、その余地を残しておくためなのです」と意見を述べた。
韓非子は言う「愛の政治はあり得ぬ」と。
賞は確実に与え、人には欲しがらせるに越したことはない。
君主が功績のあった者には必ず賞を与え、犯罪者には手心を加えずに罰を与えれば、能力のある者もない者も、必ず全力を尽くすであろう」。光秀は此度の温情的にみえる措置は、この次にもし歯向かう者があれば、厳しく対応するとの暗示が隠れていると、藤高に説明するのだった。藤高は、であれば公方様も我々も浮かれることなく、織田殿の真意を常に知る様に努力せねばならぬと悟った。
本圀寺の戦い(六条の合戦)
年が変わった1569年(永禄12年)の1月。将軍義昭は本圀寺(御所)に居を移していた。そこへ、薬師寺九郎を総大将とする三好三人衆、斎藤龍興、長井道利及び浪人どもが現れ、御所の門前の家々を焼き払うとともに御所を包囲した。
御所側の守備は、明智光秀、細川藤賢、織田左近、野村越中、赤座長兼、赤座助六、津田左馬丞、渡辺勝左衛門、坂井与右衛門、森弥五八、内藤備中、山県盛信、宇野弥七及び明智秀満などであった。火の手が上がる中で、合戦の火花も散らされた。双方ともに相当の死者、負傷者を出すが、光秀らは御所への乱入を果敢に防いでいた。
そこへ、急報を聞いた三好義継、細川藤高、池田勝正、池田清貧斎、伊丹親興、荒木村重らが、賊軍の後方に迫ってきた。それを知った賊軍は、桂川辺りでその援軍と対峙して、再び激しい合戦が繰り広げられた。その結果、賊の三好一党らは敗走していった。
この急報を岐阜で知らされた織田信長は、岐阜から三日の所要のところを二日で雪の中を疾風し、京に駆けつけたのである。
その後、信長の命により、畿内の大名達に、二条に新たな将軍御所を改築させた。この後には、内裏の朽ちた建物も改築させている。さらに、4月には二条御所と呼ばれる堅牢な将軍の城が信長によって新築された。
一方、本圀寺の戦いで賊の侵入を防ぐとともに、将軍の命を守ったとして、大きな武功を上げた明智光秀の評価は大いに高まっていた。明智光秀に二度も我が命を救われた将軍足利義昭は、光秀を幕府の『奉公衆』に昇格させるのであった。
光秀二股の臣
信長は、しばらく経ってから明智光秀の奮戦の模様を知った。すると、京から光秀を岐阜に呼びつけるのであった。
実はこの前に、信長は将軍義昭に断りもなく、北伊勢の名門・北畠家を攻めていた。そのことで義昭は憤慨して、この理由を問いただすために、和田惟正と細川藤高を交互に岐阜に走らせていた。信長の弁明と心底を探るように指示を出していたのだが、信長は無視を決め込んでいた。
そうしたタイミングの中で、光秀が岐阜に到着すると、驚くことに信長の呼び出しは本圀寺における恩賞の話しではなかった。いきなり先着していた藤高の接待役を仰せつかったのだ。びっくり仰天する光秀。自分の主人を信長の命によって接待する、という前代未聞の光景となった。
やがて信長がその宴席を退くと、藤高と光秀は話し合った。その結果、信長の真意をさらに探るべく光秀がしばらく岐阜に滞在することになった。従って、藤高は成果も得られず京に戻って行くのだった。光秀は信長の家臣になったように岐阜城に長く留まった。
織田信長はこの間に、忍び者に光秀の氏素性を探索させていた。
土岐氏の直結の血筋であることまでは知られることはなかったが、①美濃では斎藤道三に出仕し、明智家の当主ではあったが城主ではなかったこと②信長の正室の帰蝶は光秀の義従妹に当たること③斎藤義龍との長良川の戦いでは、道三側に付いて明智家が滅び、放浪の末に朝倉家の鉄砲隊の頭となって、加賀の一向一揆勢と戦闘しこれを破っていること④覚慶こと足利義秋の逃亡の旅路では、越前・一乗谷から田中城に疾風の如く駆けつけ、三好一党から今は将軍となっている足利義昭を救出して、朝倉義景の元に保護させていること、が判明するのであった。
信長の嫌う幕府の役人とは違う、武将としての才がある明智光秀を発見したのである。織田信長は一時的な褒賞を与えるのではなく、いずれ家臣として採用することを腹に収めていた。周知の通り、後に光秀は信長の家臣になるが、今しばらくは幕臣として義昭と信長の連絡・調整役を果たしていく。
この後、信長が光秀を重用したのは、朝倉義景の家臣でもあったことから、越前の事情にも精通するとともに、若狭や近江などの地縁もあることで、その後の朝倉攻めや浅井攻めに役経つと考えたからである。少し前後するが、光秀は幕府の奉公衆になったことから、京の行政官に抜擢している。細川藤高の元で経験した幕府内の執務や朝廷との対応などから、京都奉行の任務が十分にこなせる資質があった。これまでの信長家臣にはない才知を光秀は秘めていると、信長は評価していたといえる。
なお、戦国時代以降の忍び者は、大まかには以下の通り。大名と専属契約するタイプが多かったが、複数契約することもあったようだ。
伊達家→黒脛巾組、北条家→風魔党、上杉家→軒猿、武田家→甲州透波、真田家→真田忍者、織田家→響談(甲賀)、尼子家→鉢屋衆、毛利家→座頭衆、世鬼一族、徳川家→伊賀
将軍と信長の亀裂
1570年(永禄13年)、岐阜城で年賀の儀式が執り行われていた。あれから光秀は岐阜に留まり続け、すっかり信長の手足の様になっていた。将軍も藤高も、信長には逆らうことはできない。その宴の中で藤高と光秀の二人は中座した。
光秀は、懐から信長の書を取り出し、藤高に見せるのであった。「例の一件だな」と藤高は思った。だが、それは違った。書には『条々』とあり、5項目が並べられていた。新たな信長の申し入れだった。
それは、①諸国へ御内書をもって申し出される子細これあらば、信長に仰せ聞かせられ、書状を添え申すべき事②御下知の儀、皆もって御棄却あり、そのうえ御思案なされ、相定められるべき事③公儀に対し奉り、忠節の輩(ともがら)に御恩賞、御褒美を加えられたく候といえども、領中などこれなきに於いては、信長分領の内をもっても、上意次第に申しつくべきの事」④天下の儀、何様にも信長に任せ置かかるの上は、誰々に寄らず、上意を得るに及ばず、分別次第に成敗をなすべきの事⑤天下のご静謐の条、禁中の儀、毎度御油断あるべからずの事、であった。
藤高は、他の事は一歩引いても④は理解することができなかった。これでは将軍の権威を消失させるものであるとともに、将軍は信長の傀儡であると言っているようなものだった。彼はその場で唸ってしまった。
しかし、光秀は冷静であった。天下に号令できるのは、武力が伴っていなければいけない、と考えていた。天下を動かすのは、御内書などの紙ではなく、武力を背景としなければならない。これまでの室町幕府は、自身の武力がないために、守護大名などの合力に頼ってきた。であれば、天下に号令する幕政は、思惑の異なる守護大名などに左右され、安定政権と和平の世は実現できない。従って、最も武威のある者が天下の儀をなすべきと考えていた。
ここに至り、将軍足利義昭と、実質的に尾張、美濃、三河、近江、伊勢などを支配する大大名となった織田信長とは、決別の兆しをみせるのであった。
信長の最愛の女
さて、話はずっと遡って、織田信長が生涯で最も愛したとされる生駒家の『吉乃(きつの)』に触れてみる。
織田信長が足利義昭を奉じて上洛した頃には、吉乃はすでにこの世になく、小牧山城で病死していた。彼女は、幼い頃から美少女であったらしく、彼女の実家の近隣に住んでいた前野将右衛門(秀吉の重臣)は、少年の頃から彼女を見初め、その美しさに胸をときめきさせていたようだ。
筆者の想像では、吉乃は痩せ型で色白の面長の美人。年の頃には、すでにその瞳には男を魅了する輝きがあって、歩く姿は、艶めかしい腰つきで、そのしとやかさと柔らかな体全体を僅かに揺らす。そして、楚々(そそ)とした奥ゆかしさも醸し出し、公家の貴女のような気品も持ち合わせている。それでいて、魅惑的な窈窕(ようちょう) と呼ばれる上品な色気をたっぷりと際立てさせてもいた。
年下が好き
吉乃は、年齢層に関係なく男にモテた。但し、彼女の好みは年下の男にあったようだ。当時、生駒家は、東美濃にほど近い尾張領内の小折村にあった。生駒家は武家であるとともに、戦のない時には灰や油などの商いを営む商家でもあったらしい。プレイボーイの光秀が明智家に養子入りしていた頃には、吉乃と会っていた可能性もあるが、彼女は年上の男性には関心がなかったようだ。
ちなみに、織田信長は1534年生まれ、明智秀満は1536年生まれに対し、明智光秀は1522年生まれ、前野将右衛門は1528年生まれで、その同郷で幼馴染の蜂須賀小六正勝は1526年生まれである。ここに挙げた男性陣は、吉乃を傍近く見聞きしているのは間違いない。そして吉乃は、この内の若い男二人と婚姻しているのだ。即ち、初婚は明智秀満で、再婚の相手が織田信長になる。荒唐無稽の話と笑い又は驚く方も多いと思うが、実は事実の可能性が高い。
初婚の相手は明智秀満
生駒家の家譜では、吉乃の本当の名前は『久菴』とされており、戦死したとされる夫の名は、実は『土田弥平次』とは書かれておらず、『初何某弥平次ニ嫁ス』としか書かれていないのである。この人物こそが『明智秀満』だとする説。
たまさか秀満が、以前は『弥平次』と同名の『明智弥平次秀満』を名乗っていたからが、その根拠ではない。そもそも秀満は元々『三宅弥平次』と名乗っており、光秀の娘の長女と再婚して光秀の娘婿になってから、初めて明智秀満と名乗っていることは事実。また、彼の父の光安も明智性を名乗ってはいたが、その祖は三宅一族とされている。当小説でも美濃出奔後の秀満の武者修行の旅の冒頭で「先ず、西美濃で馬術の大坪流の師範である『叔父の三宅新左エ門』を頼る。だが高齢のため、能登の熊木城主の斎藤好玄(新左エ門の馬術門下生)を訪ねるようにと説得される」と執筆している。
さらに、明智光秀が織田家の重臣になると、秀満の合戦での猛将ぶりに感激した信長が、光秀に「明智秀満を儂の直臣にしたい」せがむように申し入れをしていた。光秀は、秀満に打診したが「兄上以外の家来になるつもりは全くないので、御断りのほどをお願い申し上げます」と言われてしまった。秀満は、吉乃の前夫であったことの秘密が表沙汰になるリスクを回避したのである。
勿論、その事情を光秀は重々承知していたので、光秀は明智軍の士気が下がり、統率が取れなくなることを理由にして、信長を怒らせないように丁重に信長の引き抜き話を断るのだった。但し、その代案として、妻・煕子の実の妹(お妻木の方)を信長の側室として差し出すのであった。
このように、吉乃の戦死したとされる亡夫が『土田』何某という言葉は、生駒家の家譜では使用されていない事実とその秘匿が隠されていた。さらに同家譜では、織田家に繋がる息子の信忠や、娘の徳姫の夫である岡崎三郎信康などの名前は、具体的に記載されており、亡夫だけが『初何某弥平次ニ嫁ス』と具体的ではないのだ。その理由は、この人物が明智秀満であったために(美濃と尾張は戦時にあった)、あえてその姓を伏せて異例の措置を講じたのではないかと推量できる。果たして真実なのであろうか。
今も脈々と続く現在の生駒家では、この説について完全否定をしていないこともあり、この新説はかなりの信憑性がありそうに考えられる。ただ、先祖代々の秘密の口伝を披露することはないのであろう。
この新説に立てば、明智光秀らが長良川の戦いで敗れて美濃を出奔したのは、1556年(弘治2年)であるから、それまでは秀満と吉乃は夫婦であり、明智両家が崩壊したため、離婚したのではないかと推測できる。
なお、『前野家文書(武功夜話拾遺)』では、吉乃死亡時の1566年(永禄9年/38歳)には、徳姫は5歳であったと記述されている。つまり、吉乃は秀満と離婚してから、10年ほどの間に信長の子供を3人産んでいることになる。同文書では吉乃が小牧山城に入ったのは、病死する1年ほど前としていることから、それまでは生駒家で、吉乃が信長の子供達を育てていたことになる。
従って、それまでの吉乃は非公式の愛人だった。入城後に、御台御殿に座敷を与えられるようになって、初めて正式の継室となっている。
吉乃は1528年生まれであり、信長は1534年生まれ、秀満は1536年生まれであるから、二人は吉乃よりも年下になる。吉乃は美貌の女性と言われたが、年下の若い男には特にモテて、かつ自分の好みでもあったようだ。
前野家文書(武功夜話)
一方、前野家文書の前野将右衛門も前述のように、この二人よりも早い時期に生駒家の吉乃に一目惚れしていた。彼は、尾張と美濃の間にある木曽川領域の『川並衆』と言われている野武士。背が高く体も逞しいが、若い頃から無学で口下手な男だったため、近所に住む吉乃を見かけても声もかけられず、片思いに終わっていたらしい。生駒屋敷は、前野家から歩いてもそう遠くない小折村の富豪の武家。生駒家は武士の家だが、戦のない時は灰や油などの商いもやっており、その運搬などを前野家が請け負っていたのは事実のようだ。
なお、前野将右衛門は合戦で武勇を振るう猛者の武士だが、細川藤高と懇意になると、彼に習い歌学などに目覚め、歌集や武家文書の編纂もこなせるような教養人に成長していく。藤高の著作物には、古今若衆、古今和歌集聞集、百人一首抄、九州道の記、東国陣道の記などがある。1586年(天正14年)には、藤高の孫娘と将右衛門の嫡男が結婚し、二人は姻戚関係を結ぶほどの蜜月の関係になっている。
第11章 信長家臣の出世頭
悪しき御所
明智光秀は、本圀寺の戦い(六条の合戦/1569年・永禄12年1月)で大きな武功を上げた。明智光秀に二度も我が命を救われた将軍足利義昭は、光秀を幕府の『奉公衆』に昇格させた。その結果、それまでの細川藤高の直臣から将軍義昭の直臣となった。
これまでの『足軽大将』は、馬乗りで将軍様に直にお目通りできる将軍直属の御馬廻りという厚待遇であったが、そもそも足軽は禄で雇用されるのではなく、金子(きんす)で雇われる雇用形態。従って、奉公衆に昇進すると新たに禄を与える必要がある。幕府は光秀に『下久世荘』を給付した。ただ、後になってこの地を巡る訴訟トラブルが発生した。
当時の幕府内には、トラブルなどの訴訟について、その案件の種類によって担当が二つに分けられていた。一つは『御前沙汰』。所領の安堵や横領人の排除などを担当する。今一つは『政所沙汰』。商業・経済などの軽微な訴訟案件を担当する。
訴訟の最終結審については、将軍、側近衆、内談衆、奉行人の15名ほどが合議する仕組み。但し、将軍は除かれる場合が多いとされている。そこで出された結論は『幕府奉行人奉書』となって発給されることになる。当時の幕府政所の責任者は、政所頭人の摂津晴門であった。
摂津晴門
晴門は、朽木で隠遁していた前将軍の足利義輝が京に戻ると、すぐに『政所頭人』に抜擢されている。つまり、三好長慶との和睦後の幕政の政務を担当していた。ただ、三好三人衆などに将軍義輝が弑逆された時、晴門自身は難を逃れたものの、嫡男の糸千代丸(13歳)が惨殺されてしまった。その後、京で実権を握っていた三好一党と阿波国の篠原長房に担がれた足利義維の子である義栄(よしひで)が『従五位下左馬頭』に任じられ、やがて第14代足利将軍に任じられてしまった。そこで、摂津晴門は京を逃れ、越前・朝倉家の一乗谷の御所にいた義昭の元に走ったのである。やがて、義昭が入洛し征夷大将軍に任じられると、その下で晴門は、再び政所頭人に任じられていた。
さて問題は、明智光秀が得た所領の『下久世荘』の給付問題である。この訴訟が悪意による作為的なものであったか、否かは歴史的に解明されていない。ただ、後述する将軍義昭の命によって、細川藤高が二度も蟄居させられた問題と考え合わせれば、よそ者の光秀に対する嫉みの諫言がなかったとは言い難い。
信長のいたわり
この下久世荘の給付問題のトラブルを知った織田信長は、将軍義昭に突き付けた『条々』の5箇条の書(第10章で記述)の中で、このトラブルに関する解決方法を示唆していた。
それは第3条にあって「公儀に対し奉り、忠節の輩(ともがら)に御恩賞、御褒美を加えられたく候といえども、領中などこれなきに於いては、信長分領の内をもっても、上意次第に申しつくべきの事」。要するに、将軍が恩賞などを与える場合に、与える領地が足りない場合には、信長の領地内から与えよとしている。
おそらく、光秀が将軍から与えられた『下久世荘』の地がトラブルになっていることを知った信長が、光秀のために一肌脱いだ親心といえる。この信長の真意のほどを疑って、あまり深く考える必要はない。信長と光秀の精神像は似た者同士であり、お互いにそのことをよく知っている。素直に、本圀寺の戦いにおける光秀の活躍に対する信長からの恩賞又は恩返しと考えるべきだろう。
なお、こうした問題が幕府内にあることから、信長は、その後1571年の元亀2年に幕府内の人事にも介入している。
摂津晴門を解任させるとともに、新たに伊勢貞興を政所頭人に就任させている。それも貞興が若年であることを理由にして、柴田勝家、蜂谷頼隆、森可成、坂井政尚、佐久間信盛らを政所における奉行人として送り込むのであった。
こうしたこともあって、光秀は公(おおやけ)の幕臣ではあったが、信長の命によって働く場面が多くなり、いわゆる二股の臣の状態になっていった。それが次第に、織田信長の家臣へと、その行動と心が移り変わるのであった。
その一方で、将軍義昭は織田信長から突き付けられた『条々』の5箇条の書を取り次ぎ、上申した光秀と藤高を敬遠するようになっていく。そして、先ず明智光秀が一足先に幕臣を辞め、織田信長の家臣になっていった。また、光秀と似た立場にあったのが和田惟正。彼は義昭の入洛後、信長から摂津の芥川城を与えられるとともに、引き続き幕府の奉公衆(外様)も勤めていたが、その後まもなく、あっけなく戦死してしまった。
信長の家臣
明智光秀が正式に織田信長の家臣になったのは、1571年(元亀2年)8月18日と考えられる。
当時は辞令があった訳ではないので、俸禄を得ることが一つの雇用契約の締結と考えることができる。この8月に、幕府軍は摂津において松永久秀や三好三人衆らと合戦をしている。この戦いで幕府軍は敗退し、和田惟正が討ち死にしてしまった。惟正と同役の奉公衆である光秀は、この摂津の合戦には参加していなかった。参加していれば、光秀も討ち死にしていた可能性もある。人間の運命の分かれ道でもある。
光秀は信長の命により、9月12日の比叡山焼き討ちの戦さに出向いていた。要するに幕臣の身でありながら、幕府主体の戦には参戦せずに、信長が主戦する戦に参加していたのである。ただ単に戦さだけに参戦するならば、応援や助太刀もあり得る。しかし、光秀は、この比叡山焼き討ちの戦さでは、大きな功をあげて信長から近江志賀郡を与えられたのである。これは明らかに雇用契約の成立である。
一方、細川藤高が将軍義昭を見限って、織田信長に仕えるのは、光秀より1年半ほど後の元亀4年3月の頃。将軍義昭の異母兄に当たり、足利将軍家一筋に忠臣してきた藤高と、光秀のように出世欲があって、ドライに物事を割り切れる人間の差が出ていたのだろう。つまるところ、二人の将軍家に対する忠誠心の差が出ていたものといえる。
藤高・1度目の蟄居
幕臣の中に『上野中務少輔清信』と言う者がいた。義昭が甲賀の和田家に逃れていると、京から駆けつけ、その後は矢島の里、若狭、敦賀、越前・一乗谷、美濃・岐阜と、共に流浪の旅を続けた股肱の臣であった。ただ、入洛後、京童が和田惟正と細川藤高を『公方様の両大将』と囃し立てし、惟正は芥川城を与えられ、藤高は青龍寺城を回復されて将軍義昭の筆頭家臣になったことを嫉んでいた。
その清信が御所造営の奉行の大役を仰せつかった。本来であれば、幕臣筆頭の藤高が仰せつかるべき役柄であった。その普請中に、藤高の家臣と清信の家臣とのトラブルがあった。それを清信が義昭にご注進したのである。藤高の家臣に非はなかったが、藤高と家臣の米田求政は、義昭から有無を言わせずに1回目の蟄居を命じられた。
清信は入京後、義昭に自分の娘を側室として差し出していた。そして、義昭には門跡時代から可愛がっていた堀孫八郎という寵童がいた。そこで、上野清信には子供がいなかったので、これ幸いとその孫八郎を自分の養子として迎え入れていた。この頃では、清信は将軍義昭の一番のお気に入りの佞臣になっていた。
さらに、もう一人藤高を嫉む大物幕臣がいた。三淵大和守藤英である。藤高が細川家の養子になる前、最初に養子に出された三淵家の当主であり義兄にあたる。弟分に当たる藤高が幕臣筆頭になり、青龍寺城を回復していたことを嫉んでいた。
藤英は「藤高は光秀とともに、信長の意を汲んで公方様をないがしろにしている」と息巻き、あまつさえ「藤高討つべし」と激高する有様だった(後に、光秀の坂本城にて信長の命により、切腹させられている)。
こうした幕府内の軋轢は、織田信長が将軍義昭に突き付けた『条々』の5箇条の書を藤高と光秀が取り次いだことを契機として、その後は日増しに高まっていた。さらに1572年(元亀3年)9月。信長が義昭に対して『17条の意見書』を送り、その失政を責めると、幕府内では「信長とともに藤高も討つべし」の声が異口同音に渦巻くのであった。
藤高・2度目の蟄居
そのような幕府内の不協和音が続く同年12月。徳川家康が遠江・三方ヶ原で武田信玄と戦い、完膚なきまでに敗戦したことが伝わってきた。早速、義昭は藤高を呼び出して意見を求めた。藤高は、両雄の合戦上の戦力分析などを申し上げずに『幕府の存亡』に基軸を置いて、忌憚のない意見を述べた。
「仮に武田信玄公が信長公よりも軍事力が勝っており、上洛を果たしたとしても、それは信長公が信玄公に替わっただけのこと。政権を握った大名たる武士の行動に変わりがありません。寛容なのは、足利幕府が連綿として続くためには、こうした大名の台頭に対して対決姿勢で臨むのではなく、強い協力関係の絆を結ぶことです。信長公が公方様に対して意見を申し上げる一面には、幕府を支えようとする心根が心底にあります。私は今こそ、公方様が信長公との仲を修復されて、幕府の体制を盤石にすることが重要だと思います」と本心から具申した。
それを聞いた義昭は、顔面を蒼白にして怒鳴った。
「何っ!この期に及んでまでも信長に助力しろと言うのか!!」
「いかにも。天下に向けて信長公に助力すると宣言し、義昭様が自ら出馬されれば、戦渦はほどなく治まり、五畿内を超えて足利幕府の御旗が中原に、はばたくことになります」
「ええい!ならん、絶対にならん。何が信長と和解だ。血迷ったか藤高!」と大声を上げた。
藤高は冷静に「血迷っておられるのは公方様です。思い出していただきたく存じます。最初に公方様と同道して上洛を果たすと申し上げたのは信長公です。そして実際に、その約束を果せられたのも信長公です。確かに、信長公は天下統一を武力で果たされようとしています。自我も強く貪欲な方と思いますが、公方様には、是非ともその信長の力を上手に御して、幕政の政(まつり)ごとに精進していただきたいのです。信長公の天下取りは、すぐそこまで来ているのです。信長公の天下の掌握は、時間の問題なのです。それは義昭様が将軍として、天下に君臨することでもあるのです」と言い切った。
「何を笑止なことを申すのだ。信長は、信玄に三方ヶ原で完膚なきまでに負けておるのだ!」
「しかし、たった一度の勝敗で全てを判断されては危険です。信玄は中原に旗を立てて天下を治める器量はありません。かたや信長公は、確かに短慮で苛烈な面はありますが、深慮遠謀を持ち合わせておられます。部下の諸将から集まる膨大な情報を自分自身で分析なされて、迅速に指示を出されております。とても凡人の及ぶところではありませぬ。従って、天下を治めるのは信長公だと申しております」
「ええい!さしでがましいことばかり言う奴だ!もう許さんぞ、蟄居だ!!蟄居せい!」と怒鳴った。2回目の蟄居は、将軍義昭と藤高の信長に対する見解の相違による軋轢であった。
友情
その後しばらくして、明智光秀が蟄居中の細川藤高を青龍寺城に訊ねてきた。信長の下で働き、多忙の中を来てくれた。藤高の幕府内での立場を心配しての来訪だった。勿論、信長からの指示でもあった。心を病んでいた藤高から声を発した。
「お味方せよとのご指示ですか?」
すでに藤高の胸中は決まっていた。それでも、こうして直に遠い所まで自ら足を運んでくれる光秀の気持ちが嬉しかった。
「さよう・・・」と答えると、淡々と話しを続ける。
「藤高殿が岐阜に足を運ばれて、未だ去就定まらぬ五畿内の者たちの情報を、信長様直にお話しくだされ。お生まれになって以来、長い将軍家とのお付き合い。それも二代にもわたるご忠臣。特に藤高殿は、三代前の将軍様のお子で、義輝様、義昭様の異母兄であられる。さぞかし幕府を裏切る苦しさと無念さがおありと察します。いささかの年の甲で申し上げれば、公方様から見ると、信長様も某も裏切り者でござる。しかし、藤高殿のご家族、ご親族、ご家来衆が無事に生き延びられ、幸せになることができれば、裏切り者でけっこうではござらぬか」と言い切る。
藤高は、見事に相手の心中を読み取り、巧みに誘導する光秀の言葉に返す言葉がなかった。まさに、藤高は我が家族や家来衆のことと、幕府や将軍家を秤(てんびん)にかけて悩んでいたのである。もう吹っ切れていた。
藤高は魔術にかかったように、自然に口が開いていた。
「信長公にお仕え申す。何なりとご用命を仰せつけ下され」と、こうべを垂れた。
「では早速に、信長様の御命令をお伝え申す。所領を安堵するなどと約束し、敵方を味方にする、あるいは去就を決めかねている者を味方にするようお働き下され。そして、状況報告を信長様直に、かつ逐一書状でお知らせするようにとのことです」
すでに、藤高が幕臣を退き、信長の家臣になることを予知していた如く、電光石火の命令であった。それでも藤高は、織田信長と明智光秀に心から感謝するとともに、光秀との友情をさらに深めるのであった。
この後、将軍義昭は、1573年(元亀3年)2月に信長打倒を掲げ、近江の石山・今堅田に陣を築き挙兵した。ただ、すぐに京都御所を攻められて、負けを認めて和解する。しかし、翌年7月には再び反旗を翻し、挙兵するも再び降伏してついに追放されている。
この義昭の挙兵の動きとその支援者などについては、細川藤高から信長に逐一情報として文書で伝えられていた。この働きにより、藤高は信長から山城国・長岡の知行(主に徴税権と支配権)を許された。名実共に、織田信長家臣の武将となったのである。なお、この知行地の長岡を名字として『長岡藤高』と改名するのであった。
光秀の才知
明智光秀は、数多くの武将の中でも、歴史上は文武両道の教養人と評価されている。ただ、藤高は、彼が教養人であることについては疑問を持っていた。守護職土岐氏の末裔であり、名門明智家の当主であったことから、それなりの教養は身に着けていたと感じる。但し、藤高からすると、俄か知識の面が多く、吸収力は早いがその場しのぎの感が強い。武芸百般と言うが、前将軍の義輝、藤高、明智秀満のように、剣術を剣術指南役の塚原卜伝などに学んだ経験がない。但し、実践には滅法強く、特に、馬術、鉄砲、槍術の実力と知識は異常に高かった。1581年(天正9年)の京における『馬揃え』のパレードでは、見事にその奉行役を明智秀満とともに存分にこなしている。
茶道については、多少の知識をすでに持っていたが、和歌、連歌、猿楽、鷹狩などの知識は乏しく、むしろ藤高が光秀に請われて丁寧に伝授している。しかし、その飲み込みは早く、応用力も高い。但し、底が浅いのである。要するに要領がよく、飲み込みも早く実践に強い。そして残念ながら、少し底が浅いのであった。
例えば『連歌総目録』によると、1568年(永禄11年)11月15日。藤高、光秀、連歌師の紹巴らが、親王や公家とともに連歌を詠んだという記録が残っている。本圀寺の戦いで光秀が武功を上げる2カ月ほど前のことである。従って、光秀は幕臣にはなっているが、まだ無名の足軽大将の身分である。公家と同席できたのも、ひとえに藤高の口添えがあったからだと推測できる。公家などと同席するためには、事前にある程度の連歌に精通している必要があった。
光秀にそもそも連歌の素養があったわけではなく、藤高が事前に、光秀に連歌を教授していた可能性が高い。従って、その後の幕府や禁裏との調整における作法などについても、藤高から直に教授されていたと考えられる。
一方、藤高も武芸や剣術などについては、一通りの武芸百般を修めている。剣術は塚原卜伝に習い、弓は吉田雪荷から習っている。ただ実践の場数が足りない。さらに、和歌、茶道、連歌、蹴鞠などの文芸も修め、古今伝授の伝承者でもある。囲碁、和料理、猿楽にも精通している。要するに、官僚出身の武士であり、藤高は高尚な文化人であるとともに教養人なのである。しかし、戦国の世ではこれが災いとなることもある。
丹波征討を命じられた時から、藤高は光秀の『与力』になることを強いられている。部下や家臣ではないのだが、光秀付の与力とは、軍事行動に伴う指揮は全て光秀が行い、その指揮に従うのが与力である。つまり、藤高は光秀の指揮下に置かれた。信長は藤高の戦時における指揮能力が高くないと判断したのである。
信長は、陰日向のある者、骨惜しみする者を嫌う。そして、常に報告を求める。さらに、何をしているのか、どういう問題に直面しているのか、問題にはどう対応すればいいのかの報告を義務付けている。
藤高は、光秀にあって自分にないものを考察してみた。信長に仕えて、立身出世するために全身全霊を傾ける光秀に比べ、我が身に足りない部分が確かにあることがよく分かった。光秀は信長脳と同じく、物事を全て合理的に思考し実践している。残虐な延暦寺焼き討ちも、家臣の中で主体的にその任務を果たしていた。
それでも藤高は、自分なりに信長仕えた以上、最善を尽くして可能性を求めなければならないと覚悟を決めている。ただ、人間としてこれからも陰日向なく、そして骨惜しみせずに働き、常に報告することを心がけようと誓うのであった。
だが、元来から藤高は、人間的にやさしすぎるである。
時代はずっと後の世のことになるが、かつて自分が担いだ将軍義昭が鞆の浦に隠遁し、その後は秀吉の夜伽衆として召し出されたものの、最後にはその葬儀も行う者もなく、一人淋しくこの世から密やかに亡くなっていた。葬儀を行う者が誰もいなかったため、見かねた藤高(当時は細川幽斎玄旨)が義昭を弔っている。
比叡山焼き討ちの真実
1571年(元亀2年)9月12日。織田信長は、比叡山・延暦寺を焼き打ちにする。この契機となったのは、前年の越前・朝倉義景と北近江の浅井長政による坂本方面への侵攻にあった。周知の通り、坂本は京の町のほど近い北東の位置にある。信長としては、何としても両軍の京への進軍を喰い止めなければならなかった。
そこで、延暦寺に対して「信長に協力すれば、信長の領国内にある延暦寺領を返還する」とし、さらに「一方のみに味方はできないならば、我が軍の行動を妨害しないでもらいたい」と伝えた。ただ最後に「もしもこの2箇条に違背したならば、根本中堂・日吉大社をはじめとして、一山ことごとく焼き払う」と忠告していた。しかし、延暦寺側はその忠告を無視して、浅井・朝倉側に加担した。
信長は忠告通りの焼き払いを断念して、一旦兵を引き上げて去っていた。しかし、当然の如く、信長は与えた忠告を忘れてはいなかった。翌年になって、その比叡山焼き討ちを言葉どおりに実行した。
山下の老若男女は右往左往して逃げ回った。そのほとんどは八王寺山へ登り逃げた。しかし、そこで憎、寵童、上人、女、子供などが首を切られた。
今回の焼き討ちに当たり、信長は「山門憎の腐敗と邪悪を正す」ことを大義名分に掲げて戦っていた。確かに出家者の飲酒、肉食、金銭欲、女犯は行われていたが、それは延暦寺だけではなかった。従って、延暦寺がターゲットとなったのは、浅井・朝倉勢と結びつきが強かったことが直因である。宗門には、守護大名にも優るとも劣らない財力、兵力があり、その上横並びの人脈も強かった。天下統一を目指す信長にとって、避けては通れない戦いのひとつであった。この焼き討ちでの死者数は、諸説あるが2000人以上と数えられている。
この焼き討ちの主戦の実行部隊は、明智光秀と木下藤吉郎秀吉であった。特に、光秀にとっては、信長の家臣となって初めて主役を演ずる大きな機会でもあった。人道に劣る殺人であっても、眼をつぶってでも蛮勇を振るったのではないだろうか。他の尾張時代からの旧臣たちは、軍議において及び腰ながら、主君信長に焼き討ちを諫めた。当然、信長は完全否定する。旧臣らも命令に従うしかなかった。但し、実際の焼き討ち現場では、彼らは躊躇しながら働いていた。
織田長益の証言
他方、一説によれば、織田長益(信長の実弟で後の織田有楽斎)の証言によると(本能寺の変の後の話)「明智光秀は、落人のうち僧兵及び悪僧と思しきは捕らえ、訊問の上首を討て。僧体や女や子供は、旅人の扱いをして見逃せと内命している。京に身よりがある僧は、御用船に匿い、湖上を経て大津宿まで送り届けよ、としていた」と述懐している。
実際に、長益もこの延暦寺の焼き討ちには、合戦の物資を運搬する後方の兵站担当として参画している。彼は温和な性格で、信長から「長益は弓矢の男にあらず兵站が似合う」と蔑まれていた。やがて茶道の名人となる織田長益は、細川藤高同様に江戸時代まで生き、藤高と同じ77歳で天寿を全うしている。
この長益の述懐は事実であろう。信長脳と光秀脳は、物事を合理的に思考し行動をすることでは、同じタイプの人間だといえる。
ただ光秀には、人に対する愛情を少なからず持ち合わせている。その証拠に、領地を与えられた後の彼の評価は、農民などの領民をいたわる治世を行って『あけっつ様』と呼ばれて、多くの人々から慕われ尊敬されている。
翻って、もしもこの時期に、細川藤高が光秀と同タイミングで信長の家臣となっていて、この延暦寺の焼き討ち命令を受けていたならば、彼はどうしたのであろうか。想像するに、彼は格下げになってでも、兵站部隊への転出を希望したと考える。しかし、果たして苛烈な信長がそれを許したであろうか。人間の運命と命は、紙一重だとつくづく考えさせられる。
近江・坂本の重要性(一路一帯の構想)
信長が浅井・朝倉勢と対決する上で、近江・坂本は遷都に近く、越前や北近江方面からの侵略ルートにあるため、戦略上、重要な場所であった。その場所にあるのが延暦寺で、その延暦寺は中立姿勢ではなく、浅井・朝倉方に一味同心していた。
しかし、織田信長にとって近江・坂本は、軍事上の重要な拠点であるばかりではなく、商品流通のルートであり、商業・経済の発展のためには必要不可欠な場所であった。信長が密かに深慮遠謀していた経済構想のひとつなのである。
信長は若い頃に上京し、当時の足利将軍に拝謁した後に、堺の街並みを見学に立ち寄っている。貿易港があって、商人が多く集まって活況を呈している様子を目の当たりに見聞していた。それ以後、信長の胸の中に秘められていたのが、琵琶湖を中心とした一路一帯の経済構想であった。
即ち、一路一帯の経済構想とは、日本海側の若狭、小浜、敦賀と伊勢湾を結ぶ海運・街道ルートの確立。その重要な中継地点に当たるのが、琵琶湖の近江・坂本だった。そこには、敵勢力に加担する延暦寺の存在が障壁となっていた。日本海と伊勢湾を結ぶ一帯の産物の流通のみならず、双方を貿易港として商業発展させる、という経済政策の構想があった。
勿論、そこには、関所の撤廃と楽市楽座を作り『楽市街道』を連ねるプランがあった。
そのため、先ず伊勢の北畠家を攻めた。そして次に、若狭の武藤氏を攻めた。しかし、裏で朝倉氏が武藤氏を後援していたことが判明したため、いよいよ朝倉義景討伐へと動いたのである。
従って、信長の一路一帯の経済政策の障害となっていたのが、浅井・朝倉勢と延暦寺だったのである。このことを証明するように、信長は近江・坂本を明智光秀に与えるととともに、坂本城の築城を命じた。それは、水軍と産業の要となるような城造りと城下町にすることであった。この城は、軍船も琵琶湖から横づけできるような水城でもあった。この坂本城が完成すると、光秀は城主となり織田政権の中で初めての城持ちの家臣となった。
つまり、新参者の光秀が僅か二年ばかりで、一躍、織田家・家臣の筆頭になり、出世頭に踊り出た訳である。
以上のような経済発展の構想が以前からあって、この延暦寺焼き討ちの前の1569年(永禄12年)には、信長は将軍義昭に無断で、伊勢の北畠具教を攻め滅ぼしている。これは信長と義昭との亀裂の始まりでもあった。将軍義昭が何故伊勢を攻めたのか、としつこく詰問したが、信長はだんまりを決め込んでいた。信長は『韓非子』の教えに学び、自分の脳にある考えや構想は、絶対に秘密にするのであった。
信長の野望は天下統一
信長の日本国の統一は全国制覇ではなく、流浪する義昭を都に入洛させるための、いわゆる五畿内を制覇することが目的だったする説がある。おそらくその説は誤りであろう。当初より信長が抱く夢は全国制覇にあり、義昭を将軍に就かせた後には、日本全国を制覇して、経済体制も統一した国家を目指していたといえる。
五畿内とは、大和、山城、和泉、河内、摂津のことを指す。その後、摂津の荒木村重などに裏切られることはあったが、信長は先ず、五畿内を平らげて義昭を遷都において将軍に座した。将軍の復活には、五畿内の制覇で十分だったのである。このことが目標であれば、その後の合戦は、治安維持の取り締まり以外は必要性がない。確かに、信長憎しと次から次に敵が出現するが、愛憎だけで合戦は簡単にできないのが常識。その後、全国制覇を目指す信長が能動的に領土拡大を目指し、それに対して抵抗する勢力があったということ。その全国制覇、経済体制を含めた統一国家への第一歩が、伊勢攻めであり、若狭と越前の戦いだったといえる。
縁組
将軍義昭を槙島城より追い払い、浅井・朝倉の両軍を殲滅させた信長は、久しぶりに家臣を集めて落ち着いた正月を迎えていた。式次第などが終えると、御小姓から光秀と藤高が別室に呼ばれた。二人が部屋に入ると、信長は和らいだ表情で口を開いた。
「ご苦労、本日は二人に縁組をしてもらおうと思っておる」と言った。
続けて「光秀の三女を長岡与一郎に添わせたいが、どうであろうか」(この頃には藤高は長岡と名乗っていた)
唐突な申し出に驚いた二人ではあったが、根が正直な藤高は「恐れながら、お勧めは大変ありがたいのですが、我が息子は気性が荒く、まだまだしくじりも多いので、殿のお顔をつぶす懸念がございます」と正直に答えるのであった。
すると、信長は間髪入れず「気性など些細なことはどうでもよい。
光秀の娘の玉は、絶世の美女だと聞く、与一郎も異存はあるまい。とにかくも、これは余の命だと思ってくれ」と言った。そう信長から言われては、素直に応ずるしかない。
「ははっ、仰せのとおりに」二人は頭を垂れ、手をついて退室する信長を見送った。
光秀は一言も意見を言わなかったが、事前にこの話を知っていたようだった。
信長はかねてより、光秀と藤高の親密な関係を十分知った上で、幹部家臣団の結束を促したものといえる。この後も信長の命により、光秀の二女を織田七兵衛に、次男を筒井順慶の跡継ぎにすることが決まった。これは、新参者の光秀には、旧来からの家臣が少ないため、信長が光秀家臣団の組織体制を大きく構成し、その結束を強くするために講じた深慮遠謀の縁組でもあった。
この後、宿にしている寺に戻った二人は、顔を見合わせて笑った。そして異口同音に言う。
「まさか貴殿と縁戚になろうとは・・・」
「それも殿のお声がかりとは、思いもよらぬことでござった」
二人はこれまで以上に打ち解けた間柄になっていた。
二人の尼僧
さて、話は少し戻って延暦寺焼き討ちの直後のこと。あの時、光秀は「女や子供は、旅人の扱いをして見逃せと内命し、京に身よりがある僧は、御用船に匿い湖上を経て大津宿まで送り届けよ」としていた。その中に二人の尼僧がいた。京の尼寺の院主と若い尼僧だと言うが、尼寺にすぐ戻ると延暦寺の手が廻るので、京の尼寺にはすぐには帰ることができない、と泣き叫んでいた。困った部下の問い合わせに、光秀は瞬時に判断を下した。一時的な避難先として、止む無く藤高の京屋敷を訪ねるように指示した。
後日、中間を藤高の京屋敷に走らせて、その後の状況を探らせていた。二人の尼僧は、藤高の事後承諾を得て、しばらくの間は藤高の屋敷に匿われているとのことだった。
光秀は、延暦寺の戦後処理を済ませると、坂本城の築城にかかっていたが、その多忙の中を藤高の京屋敷へと馬を飛ばすのであった。無論のこと、藤高に尼僧の二人を匿って貰った御礼がその目的であった。
夕刻前には、京の一乗戻り橋の藤高屋敷に到着した。藤高も屋敷に居たので、すぐさま、尼僧の匿いについて御礼を申し上げた。藤高はにこやかに笑って、お二人とも元気でおすごしのようだと言ってくれた。その晩、久しぶりに二人は酒を飲んだ。それほど酒には強くない二人は、すぐ夕食に入った。その席には、二人の尼僧も同席させて食事を共にした。
二人の尼僧は、京の波渓山・智元寺(比丘尼寺)の院主とその弟子であった。剃髪して得度し、出家をして尼僧になっている。院主様は、ほっそり顔の色白であったが、細い目尻が吊り上がった厳しそうな顔をした六十がらみの老尼であった。
一方、若い尼僧は、清んだ目が大きく、小作りの丸顔でまるで御所人形のような可愛らしさがある。二人とも墨染め衣の襟をきちんとした清楚な出で立ちである。
質素な夕餉が終わると、二人の尼僧は同時に「この度は御礼の申し上げようもございません。ナンマンダブ、ナンマンダブ、ナンマンダブ・・・」と手を合わせる。それが終えると院主様が「おかげさまでございます。この親切とご恩は一生お忘れすることはいたしません。また今夕もこのように、手厚いご供養を頂戴させてくださいました。藤高様や光秀様に、どうか御仏のおめぐみを・・・ナンマンダブ、ナンマンダブ・・・」と涙ぐむばかりの感謝を示して拝むのであった。
やがて、藤高が歌学の編纂のために自分の部屋へ戻り、院主様も疲れたようで土間を挟んだ隣の部屋へ移り、静かに眠りの床につくのであった。
二人きりになると光秀が口火を切って若い尼僧と話をすすめた。
「厳しい尼様の生活では、俗世が恋しくなられたこともおありでしょうな?」
「はい、それは生身でございますから、悩みましたことも・・・ただ、それも昔の事になりまして、只今は欣求浄土を一筋に願うばかりでございます」
今宵は月が高く上り、静かな夜にざわざわと風音が聞こえてくる。
「して、仏門にはいつ頃からで・・・」
「はい、14年前の9歳の春の頃でございました。母が重い病にかかり、お薬師様に診ていただきまして、その御礼のために尼になりました」
「それは、それは。よく思い切り髪をおろされたものだ」光秀がそういい終わらないうちに尼僧は目に涙を浮かべて泣き出した。
「すまぬ、つらい想い出を・・・許せ」と言って、光秀は尼僧に近づきやさしく抱き寄せた。すると、尼僧は頬を押し付けながら、そのまま横倒れになって、光秀の膝の中に崩れ込むのであった。
「救って下さいまし、救って下さいまし」と小さな声で喘ぐ。女を仰向けにさせた。すると、喘ぎながら目を閉じている女の口が僅かに開いて、二人は唇を重ねた。その瞬間、二人の体には小さな電撃の震えが走った。口が離れると今度は「殺してくださいまし、殺して!」と女が叫んだ。
・・・その後、二人の体が離れると尼僧は「うれしゅうて・・・本当にありがとうございます。命を助けていただいた上に、このように女の歓びの涙が出てまいります」
その時であった。二人の背後で異様な物音がした。(さては賊が侵入したか!)
瞬時に刀を取り光秀は身を構えた。
すると、隣の襖越しに「堕地獄!外道の者たちよ、破門じゃ!!」と院主の怒鳴る声が響いた。
驚いた若い尼僧は、急ぎその声の主が居る隣の部屋に飛び込んで行った。入れ替わりに、瘦せ細った院主様が、光秀のそばに近づき仁王立ちになっている。隣の部屋では若い尼僧が泣き崩れていた。
院主様は、夜叉の顔を作り「この恥知らずが!外道もの達は地獄へ落ちるがよい!」と叱責する。光秀は居直るとともに、落ち着いて言う。
「追えども去らぬ煩悩を退治いたしました。またとない供養を致したまででござる」と抜け抜けと言い訳をする。
すると「許さぬぞ」と言って、院主様が今にも光秀に飛び掛からん勢いで近づいて来る。その時に院主様の裾が乱れて大きく割れてしまった。
それを瞬時に見た光秀は「院主様が濡れていた訳をお答えていただこうか・・・」と言った。
「うう、う・・・」
先程の威丈高が消えて、黙ったまま突っ立てていた。女好きの光秀は、老体を抱き支えて横に寝かせた。
「ご院主様の煩悩を退治いたしましょう」と耳元に囁いた。
「まあ、そのような。こ、これ、恥知らずの光秀殿・・・」
すぐに女のばたつきが消えた。齢62歳のご院主様は、細い顎を突き出して薄い唇から呻き声を発し続けた。
「ナム、ナム、怨敵、怨敵退散、退散・・・ナム、ナムダブツうっ・・・」
その内静かになった。
「いかがでござった。怨敵退治は無事に終わり申したか?」
「まあ、私としたことが・・・極楽浄土にございました。妙慶よ、許しておくれ・・・」
妙慶とは若い尼僧の名前であった。
第12章 武田家滅亡
荒木村重の台頭
荒木村重ほど異彩を放った武将はいない。梟雄と言われた北条早雲や斎藤道三ほどの毒々しい野望を抱いていた訳でもなく、武田信玄や上杉謙信のような軍神と呼ばれるような合戦のカリスマ性もない。
ただ、本人は異常なほどの矜持に溢れ、自信家でプライドが高い人物。その生活は華美で、正室、継室、侍女に至るまで絶世の美女を多く集め、いつも華麗な着物を着せていた。茶人でもあったが、茶器だけでなく高価な花器、磁器なども収集している。しかし、その一方で確かな戦略をもって、五機内のひとつである『摂津』においてめきめきと頭角を表していた。この村重を織田信長の陣営側に誘い入れたのは、長岡藤高こと細川藤高である。
村重は、摂津守護の池田家の家臣である土豪の荒木義村の嫡男として、1535年に摂津・池田に生まれている。荒木村重は、織田信長や長岡藤高よりも一つ年下になる同世代の人間。池田勝正に仕え、前当主の池田長正の娘を娶り、池田一族におさまっていた。
その後、三好三人衆の誘いに乗って主君を寝返り、池田勝正を追放して池田家を乗っ取っている。その後は、さらにその三好一族を裏切って、藤高の誘いに乗って織田信長に仕えている。
1573年(天正元年)には茨木城主となり、信長の下で足利義昭を攻めて武功をあげている。その時、義昭方に味方していた池田家は、義昭が敗北すると織田信長に下り、村重の家臣になり下がってしまった(元の主君が配下になった)。その翌年には、伊丹氏の伊丹城を落として伊丹城主となり、摂津一国を信長から任された。村重は伊丹城を『有岡城』と改称し、その後も、越前・一向一揆の石山合戦や紀州征伐など、信長の命により各地を転戦している。
荒木村重が信長の家臣となった時期は、長岡藤高とほぼ同時期である。藤高と並んで公方の大将と呼ばれていた幕府・奉行衆でもあった和田惟正を敗死させたのは、この荒木村重である。藤高は、信長の命令を伝えに来た光秀の言葉どおりに、近畿内における調略役を果たし、荒木村重に、織田軍に味方するように誘いをかけた。村重はすぐに返書をよこし「信長公に無二の忠節を励む所存でござる。よしなにお伝えくだされ」と信長に就くことを決心する。これにより、藤高と村重の二人は洛外の逢坂山に出向き、やがてやって来る織田信長を迎えて臣従の挨拶を行った。
「近う」珍しく信長は笑顔で口を開いた。
「村重にはこれを」と言うと、大ぶりの刀を手にして村重に授けた。
「ははっ」と言って、村重は太刀を押しいただく。小姓が言葉を添えた。
「大ごうの御腰物で、越中の刀鍛冶・郷義弘が鍛えた業物であります」
その言葉が終わると、すぐに信長が再び口を開いた。
「兵部にはこれを」と言って、脇差を手にして藤高に授けた。
「有難く頂戴つかまります」藤高も押しいただいた。名のある貞宗の脇差であった。
これを見ても、織田信長が大いに荒木村重に期待していたことがよく分かる。
まだ戦さぶりは直接目の当たりにしてはいないが、すでに自軍の将であった和田惟正を討ち死にさせた張本人であることはよく知っていた。戦死した惟正以上に、村重には武将としての才があるとみていたのだ。これで織田家臣の中で、光秀、藤高に次ぐ外様の武将が誕生したことに、信長は大いに満足していた。
だが、だいぶ先の事にはなるが、荒木村重が大胆な裏切り行為に出るとは、信長は勿論の事、光秀も藤高も全く想像することができなかった。それほど村重は平素より掴み所のない豹変者で、自尊心の強い自己中心的な自信家であった。特に、茶道の茶器や美女に対する美意識が過剰で、松永久秀のような挙動が不審で掴みどころのない鵺(ぬえ)のような男でもあった。信長の命によって、自分の長女を村重の嫡男に嫁がせていた光秀は、後に大きな苦しみを味わうことになる(村重謀反で詳説)。
室町幕府の消滅
その後再び、足利将軍の義昭は、武田信玄頼りで打倒信長の兵を挙げている。既に、信長は、信州の駒場で信玄が病死していることを知っている。ただ、義昭はその事実を知らないままに、槙島城に立てこもり3000人の兵を集めていた。総勢二万人を優に超える兵を動員してきた信長に、無謀な戦さを臨むのであった。織田家臣となっていた藤高は600の兵、村重は3000の兵を連れて来ている。主戦部隊の織田軍は、明智光秀、柴田勝家、佐久間信盛、秀吉らの主将であった。
槙島城は宇治川支流の中州にあり、背後には巨椋池があった。三方を河と池に囲まれた要害の地でもあった。しかし、戦闘員の差はあまりにも大きく、将軍方はすでに戦意が消滅していた。義昭はあっけなく、2歳の子供を人質に出して降伏した。
信長は義昭の命を奪うこともなく、秀吉に護衛させて義昭側にある三好義継の河内・若江城まで落とさせた。その後、義昭は堺へと下って行った。
その堺では、毛利方の安国寺恵瓊と信長方の朝山日乗が義昭の落ち着き先について話し合いを行っていた。立会人は羽柴秀吉である。義昭は、帰洛又は毛利への預かりを希望した。信長は帰洛を絶対許さない。そして、その頼りの毛利は信長と争うつもりがないので、預かりを拒んでいた。
「一体余はどうすればよいのじゃ!」と義昭は一人怒っていた。
すると、秀吉が「お好きな所へ落ちられるのがよい。但し、若江城の三好義継殿は避けられたほうがよろしいかと」と冷たく言い放った。
「何故だめなのだ」と尋ねた。薄笑いを浮かべて秀吉が静かに答える。
「日を置かずに、信長様が義継の若江城を攻め落とします・・・」と言った。
義昭は仕方なく、紀州の由良へ落ちることになった。
秀吉の話のとおり、この会談の直後に、若江城は攻められ三好義継は自害させられた。
三好義継は、一時、信長側に付いて本圀寺の戦いでは、将軍義昭の救出に向かったのだが、その後は、松永久秀とともに再び信長に背いていた。
このことによって、室町幕府は消滅した。義昭は、その後、備後・鞆の浦に寄寓し、僅かな供廻りはいたが、実質的には幕府の機能を果たしてはいなかった。1573年(天正元年)のことである。
1573年(天正元年)までの信長の戦い
足利義昭と同道して上洛を果たし、第15代将軍に就かせた後の1570年(元亀元年)から、織田信長の全国制覇への足掛かりとなる前半部分に当たる1573年(天正元年)までの合戦を要約(箇条書き)して振り返ってみる。
・1570年4月、越前の朝倉義景討伐に出陣し、手筒山城を攻撃する。北近江の浅井長政が信長を裏切り、義景と結んで信長の進軍を挟み撃ちにする戦いを挑む。信長は急遽、秀吉と光秀をしんがりにして撤兵する。
・6月、六角義賢は信長の狙撃事件を起こした後に、南近江に侵攻する。同月、信長は小谷城を攻撃し、一旦引き上げるも、姉川で浅井と朝倉の連合軍と戦う(姉川の合戦)。
・8月、摂津へ出陣し三好三人衆らを攻撃する。
・9月、石山本願寺の顕如が挙兵する。坂本で再び、浅井と朝倉の連合軍と戦う(滋賀の合戦)。
・11月、六角義賢と和睦する。12月、浅井と朝倉と和睦する。
・1571年5月、秀吉軍は箕浦で浅井長政と戦う。織田軍は伊勢長島の一向一揆と戦うも敗退。
・9月、志村城と金ヶ崎城を攻撃する。同月、比叡山延暦寺を焼き討ちする。
・1572年3月、北近江へ出陣し与語・木本を焼き討ちにする。
・4月、三好義継と松永久秀が謀反。
・9月、将軍義昭に17条の意見書を送り諫める。
・12月、徳川家康は遠江で武田信玄に敗れる(三方ヶ原の戦い)。
・1573年2月、将軍義昭が近江の今堅田に陣を置き、信長に反攻する。信長が京都御所を焼くと、義昭は和睦する。7月、再び義昭は反旗を翻し、槙島城で戦うも、降伏してついに追放される。ここで室町幕府は滅亡した。織田信長は幕府が消滅した遷都に、村井貞勝を京都所司代に任命し、都の治安を担当させた。
以上のように、元亀年間の織田信長の天下統一への道のりは、決して平たんなものではなかった。勝利もあるが、裏切りによる敗退もあった。まさに一進一退の攻防が続いていた。
ただ、信長は意地を張らず、柔軟に危険と判断した場合には、すぐさまに、和解に持ち込んで難を逃れていた。勿論のこと、敵方も相応に戦場でも領土にあっても疲弊が進んでおり、そういった打開策には難なく応じているのであった。
さて翻って、冷静に信長の足跡を紐解くと、一つだけ大きな疑問が湧いて来る。
信長は何故に、将軍義昭を辛抱強く生き長らえさせていたか、という疑問である。信長の性格からすれば、利用価値が薄れた段階で、とうに義昭を弑逆してもよかったのではと考えられる。既に、将軍義昭の利用価値がなかった槙島城の落城後も追放に留めている。この疑問と問題点は、やがて起こる『本能寺の変』に繋がるものなのか、否か、難しい判断になってくる。
1580年までの信長の戦い(天正元年~8年)
1573年以降の信長の戦いも、反逆・反攻と和解の繰り返しであり、一進一退の激しい攻防が行われていた。ただ、安土城を築城させ、嫡男・信忠に家督を譲るなどとともに、徐々に政権の確かな安定のために、天皇家や公家の『朝廷』に接近する。さらに、織田家の旧臣の排除を行うなど、家臣団の改革も始まっていた。
・1573年7月、近江に出陣し高島を攻撃する。
・8月、越前・一乗谷に侵攻、朝倉義景を破り、越前を平定する。続いて北近江の小谷城を攻めて、浅井長政を死滅させる。功のあった羽柴秀吉に北近江を与える。
・11月、三好義継を討伐する。12月、松永久秀を多聞城に攻め、降伏させる。
・1574年1月、朝倉義景と浅井長政の首を肴にして酒宴を行う。
・2月、美濃の明智城が武田勝頼に攻められて落城する。4月、石山本願寺が挙兵する。
・6月、遠江の高天神城が武田勝頼に攻められて落城する。
・9月、伊勢長島の一向一揆に出陣し平定。12月以降、織田領内に幹道を作らせる。
・1575年4月、摂津・河内の三好三人衆と石山本願寺を攻める。
・5月、三河の有海原に現れた武田勝頼を破る(長篠の合戦)。6月、信忠が武田の岩村城を攻撃する。
・9月、加賀・越前の一向一揆を平定し、越前の8郡を柴田勝家に与える。
・10月、石山・本願寺と和睦する。
・11月、信長は権大納言兼右大将に任じられるとともに、家督を信忠に譲る。
・1576年1月、安土城を築城し、2月に入居する。
・4月、安土城に天守閣を作るとともに、京都の二条邸の普請を開始する。
・同月、石山本願寺が再び挙兵する。
・7月、毛利水軍と木津川で戦う。11月、信長は内大臣に昇進する。
・1577年2月、雑賀の一向一揆の征伐に向かうが、3月に和睦する。
・8月、又しても松永久秀が謀反するが、信忠が信貴城を攻める。10月、信忠は三位中大将に任じられる。11月、信長は右大臣に昇進する。
・12月、秀吉は播磨・但馬を平定する。
・1578年1月、家臣の妻子を安土に移住させる(城の下に武家屋敷作る)。
・2月、播磨の別所長治が謀反、秀吉は現地へ急行。4月、明智光秀も丹波に急行。同時に、信忠、信雄、信孝、信包らは大阪に出陣する。5月、信長の諸将を播磨に出陣させる。
・10月、荒木村重が摂津で謀反。11月、九鬼嘉隆が木津沖で毛利水軍を破る。11月、摂津へ出陣するも、12月には安土城に帰還する。
・1579年3月、再び摂津へ出陣する。
・5月に完成した安土城の天守閣に住まいを移す。
・6月、明智光秀は丹波の波多野秀治を八上城に攻める。8月、光秀は丹波を平定する。
・9月、荒木村重は家臣と妻子を置き去りにして、伊丹城を脱出する。
・10月、光秀は丹後を平定する。同月、同盟を結んだ徳川家康と北条氏政は、駿河で武田勝頼と対決する。
・11月、二条の新邸を皇室へ献上する。
・12月、荒木村重の妻子らを成敗する。
・1580年1月、羽柴秀吉は播磨の別所長治の三木城を攻略する。
・3月、石山本願寺と和睦する。4月、顕如石山本願寺から退去する。
・4月、羽柴秀吉は播磨・但馬を平定する。
・8月、明智光秀に丹波を、細川藤高に丹後を与える。同月、佐久間信盛親子と林秀貞らを追放する。
荒木村重の謀反
1578年(天正6年)10月、荒木村重が摂津で謀反を起こした。これまで信長は敵味方を問わず、何度も裏切られ謀反を起こされてきた。しかしこの村重の謀反ほど、その要因を合理的な理由で説明することができない。真に不思議な出来事が起こっていた。
そもそも信長は村重に対して、光秀と同じように外様の家来として、高く評価し期待をしてきた。従って、信長はその命によって、光秀の長女を村重の嫡男に嫁がせ、外様家臣の団結を強めていた。この村重の謀反によって光秀は、公私ともに大きな苦しみを味わうことになる。播磨政略を進める秀吉と丹波・丹後を攻略する光秀と藤高にとっても、毛利と荒木に挟まれる苦しい戦いを強いられる大きな障壁となってしまった。
その張本人の村重は、ここまで信長の重用の期待に十分応えるような働きをしてきており、信長もその結果に満足していた。例えば、越前の一向一揆との高屋城の戦い、堪能時の戦い及び紀州征伐などでは、村重は武功を挙げ『従五位下摂津の守』にも任じられているほどだった。
これらのことから、村重の謀反の報に、最も驚愕したのは信長自身であった(信長公記やフロイス日本史に記述)。信長はその命によって、光秀の長女を村重の嫡男に嫁がせ、さらに三女を藤高の嫡男に嫁がせて、外様家臣の団結を強めていた。その思いが裏切られ、家臣団の強化構想が瓦解したのである。
最大で最悪の処刑
謀反発覚後に出てきた謀反の理由は7項目以上も挙げられている。しかし、どれも決定的な謀反理由にはならないものばかり。この後に光秀が起こす『本能寺の変』の要因のように、確固たる要因が認められない謎めいたものがある。
おそらく信長は、冷静に謀反の理由をその信長脳で探ったが、答えが分からなかったのであろう。期待の大きい相手に裏切られた思いと、不可解な犯行に重ねられた1年間にも及ぶ籠城による徹底抗戦に、これまでで最高のサイコパス(自分の性格の極消さのために生ずる病室)を発揮してしまう。
即ち、有岡城にいる女房衆122人と村重一族と重臣の家族36人が処刑された。さらに、村重を匿った高野山の憎100人あまりも処刑されている。合戦では、もっと多くの人々が戦死し、弑逆され惨殺されてもきたが、戦国時代における『処刑』としては、最大で最悪のケースとなった。
明智光秀の長女は、謀反発覚直後に離縁されて、光秀の元に返されてきた(その後、明智秀満と再婚)。ただ、光秀の娘が嫁ぐ時に一緒に荒木家に入った侍女は、そこで村重の家臣に見初められて結婚して荒木家に留まっていた。そのために処刑されてしまった。
その侍女は、光秀の元側室でもあった女性で、光秀は他人事では片付けられない二重の無念さがあった。その事実を藤高は、光秀・三女であるガラシャの夫である嫡男の与一郎(後の細川忠興)から生々しく聞かされた。
荒木村重の不可解な裏切りに怒り狂った信長は、女房衆などを尼崎の七松に集めた。そして、磔、鉄砲で撃ち殺し、あるいは四軒の家に閉じ込めて火を放ち焼き殺した。
たまたま与一郎は奉行として、この刺殺、銃殺、焚殺の刑に立ち会っていた。その時、刑場に引かれていた一人の女が与一郎に泣いて縋ってきた。女は与一郎のことも知っているガラシャの元・乳母でもあった。細川家でも何度か顔をあわせており、与一郎もその顔を覚えていた。
「お助け下され、与一郎様お頼みます!」と泣き叫んでいた。与一郎は気性が荒い豪の者と呼ばれていた武将だが「その時ばかりは、辛うございました」と、父の藤高に吐露している。
この酷い処刑の発端となった無責任なお騒がせ男は、部下や妻女らを捨てて有岡城を脱出している。
その後も各地を転々と逃げ回り、最後には毛利氏に亡命し、尾道に長らく隠遁していた。本能寺の変後、天下人になった秀吉に茶人として復帰することを許された。ただ、そこでも秀吉の悪口を陰で言うなど、舌先三寸の屁理屈の悪癖は治らず、自主的に出家して52歳で堺に没している。
もう一つ信長のサイコパスの例を挙げる。光秀は妻の煕子の妹を信長の側室に供していた。出身地から『お妻木の方』と呼ばれ、織田家の公式のお使い役にも活躍していた女性である。だが、1581年(天正9年)の4月。信長は、安土城を出て、御小姓衆とともに竹生島に参詣に出ていた。これは遠路のことで、城中の者達は、今夜は長浜あたりに宿泊するであろう、と皆が考えていた。だが、信長は馬を飛ばしてその日に帰城した。女房衆らは二の丸へと出かけた者、あるいは桑実寺へ薬師参りに行った者もいた。怒った信長は、桑実寺の長老と女房衆らを惨殺するのであった。実はこの中に、明智光秀の義妹、妻の煕子の実妹であるお妻木の方も含まれていた。光秀の胸中に、信長に対する憎悪の炎が灯ったことは否定できない。
丹波と丹後を賜る
荒木村重の突然の裏切りもあって、よけいな艱難辛苦を味わいされた光秀と藤高は、1579年(天正7年)に、丹波と丹後をようやく平定することができた。信長から丹波と丹後の平定を命じられた1574年(天正2年)から5年あまりの年月が去っていた。この間にも本願寺などとの戦いにも召集され、一喜一憂があったものの、ようやく命令を達することができた。この長い年月を要したことから、信長に安土城に呼び出された時は叱咤も覚悟していたが、意外にも信長は二人に大きな賛辞を贈った。
開口一番「よくやった。見事であるぞ光秀!」二人は安堵した。
「約束どおり、光秀に丹波を、藤高に丹後をくだそう」信長は機嫌がよかった。
光秀と藤高は両手をついて深々と頭を垂れた。
「有難き仕合せに存じます」
ここに、光秀を長とする外様軍団は、丹波、丹後、大和、山城、近江を領して、信長家臣で最大規模を有することになった。旧領の近江10万石と併せて61万石となり、信長家臣団の中で最大規模の太守となった。本能寺の変が起きる3年ほど前のことである。なお藤高は、丹後を統治するに当たり、山城にあった青龍寺城を織田家に献上するのであった。
但し、この後、光秀軍団は秀吉軍団に追い越されてしまう。即ち、秀吉が別所長治の居城三木城を攻略し、播磨と但馬を平定した。すると、信長は、秀吉に播州51万石、但馬13万5000石を与えた。これにより、旧領近江の長浜の12万2000石を加えると、76万7000石となり、光秀を抜いて信長家臣団筆頭の太守になったのである。
さらに、1581年(天正9年)12月、信長は秀吉に感状を与えている。
「このたび、因幡の国・鳥取の堅固な城と大敵に対し、一身の覚悟をもって戦い、一国を平定したことは、武勇の誉れ前代未聞である」と褒めるのであった。褒美として茶の湯道具12種の名物を賜っている。
そして翌年には、信長は家臣団の人事改革を行い、佐久間信盛・信栄親子と林秀貞らの旧臣を排除し、信孝、信雄、信孝の息子たちと、近習の者たちを重責のポストに就かせた。そば近くに仕えていた長谷川秀一、野々村正則成、溝口定勝などに知行を過分に与えるのであった。
見えてきた天下統一への礎
長い間の難敵であった本願寺を駆逐して、今では琵琶湖の湖畔に安土城を築城し、家臣らの家族をその下方にある屋敷に住まわせている。すでに、信長は1575年(天正3年)11月に家督を信忠に譲っていた。周辺を見れば、猛将とされていた甲斐の武田信玄が1573年4月(天正元年)に病死し、越後の上杉謙信も1578年(天正6年)3月に病死していた。
天下統一へ向けた織田信長は、いよいよ西国の中国・四国と甲斐などの東国の制定に向かっていた。それに伴う布石の一つが、織田軍団の家臣団の改革でもあった。
室町幕府の滅亡を完遂させた信長は、いよいよ次の標的である権門体制の頂点にある天皇家と公家の『禁裏』に近づき、それらを積極的に取り込む貪欲な姿勢を示すのであった。
先ずは二条の新邸を皇室へ献上し、京都で馬揃えを行なって天皇の観覧を供するなど、大いなる接近を開始するのであった。
武田家滅亡(1582年3月)
天下髄一の強さと言われていた武田軍団は脆かった。信玄の息子婿の木曾義昌は、木曾口の防衛の主命を受けていたが、織田軍団の侵攻の報にすぐさま織田信忠に忠誠を誓った。また、武田家・家臣筆頭の穴山梅雪も領土を接する徳川家康にただちに内応した。このことによって、瞬く間に、武田軍の将兵らは当主の武田勝頼を見捨てて逃亡するのであった。ただ、一人奮戦したのは、勝頼の義弟の仁科盛信だけだった。彼は高遠城で籠城して孤軍奮闘した。それにより、織田方からも真の武将と称えられた。
脆かった武田家
信玄公が亡くなって勝頼があとを引き継いだ頃には、甲斐の武田家はすでに分裂の危機に瀕していた。そもそも勝頼がかつての敵方であった諏訪氏の血を継ぐ者であることから、信玄公の後を継いだ時点で、すでに甲斐では内部分裂を生じていた。
その後、勝頼は美濃の明智城や三河・足助を攻撃するなど、信玄時代を超える領土拡大を実現したものの、長続きはしなかった。長篠の合戦で敗れると、家臣団の分裂は一層深刻になり、その不信は領土全般に広がっていた。
信長が信濃と甲斐の侵攻を決定した頃の勝頼政権の屋台骨は、御一門衆筆頭で駿河国・江尻城主の穴山梅雪(信君)、武田信豊、武田信廉、仁科盛信(勝頼の異母弟)が幹部となり、譜代衆では、長坂光堅、跡部大欣助、春日虎綱、小山田昌成、原昌栄、山県昌満、真田昌幸など、信玄公時代からの猛将も若干は残っていた。但し、信玄公のように統率できる者がいなかった。とすれば、勝頼政権はガラスの城の上に立っていた当主といえた。
特に、御一門衆筆頭の穴山梅雪の裏切りの報が全土に伝わり、信長や家康の侵攻の通路にあって障壁となるべき江尻城が頼りにならないと知ると、雪崩を起こして離散と裏切りが蔓延していった。さらに追い討ちをかけるように、一方の砦であった木曾の木曾義昌が織田方に寝返った報が伝わると、ほぼ全ての武田軍勢は離散してしまった。
従って、穴山梅雪、木曾義昌、小山田信茂らの裏切りに、武田家は滅亡したと言っても過言ではない。高遠城主の武田信玄の五男である仁科盛信は、武田家一族の中で最も勇猛に織田軍と戦い憤死した武者。落城の前々日の夜、盛信は、信長の長男である織田信忠と、かつて許嫁の仲にあった妹の松姫に、我が子の勝五郎、源兵衛、小栗を託し、警護に剛の者数名と侍女を付け、武田の本城となっていた新府城に逃がした。さらに、落城の寸前、側室の「とき姫」には、同朋衆の若武者・甘利八の助一人を付け、とき姫の実家である父親の武田信廉の元へ戻した。信玄の影武者でもあった弟の信廉が織田軍と戦わずして大島城から逃げ出したのを嫌い、その娘のとき姫には手練れの武士を付けず、専ら家事と雑務の同朋衆の若者一人だけを帰路の道案内につけた。冷たくみえるような意地の仕打ちでもあった。
とき姫を無事武田信廉の元へ送った八の助は、以前、武田家当主勝頼の勘気を被り、小山田信茂に幽閉されている兄の甘利左衛門尉甚五郎に会うために岩殿城を目指す。岩殿城では兄の左衛門尉は、大熊新左衛門とともに入牢されていた。既に、武田家を裏切り、織田軍に命乞いをする予定であった小山田信茂は、勝頼の直臣であった甘利と大熊を手土産にし、織田方に突き出す算段をしていたのだ。
勝頼切腹
一方、織田軍の追撃を逃れようと新府城から岩殿城の入城を目指していた武田勝頼一行は、小山田信茂の裏切りの画策によって『天目山』に留め置かれていた。
甘利八の助は、兄の左衛門尉と大熊新左衛門が自害して果てたことを知り、兄の仇となった小山田信茂を討つ決意をして、天目山の勝頼の陣に急ぎ駆けつけ、小山田の裏切りと兄たちの死を伝えた。
勝頼は、継室の北条氏政の妹である『桂姫』を小田原へ戻るよう説得するも、桂姫がこれを拒み、共に上州(北条の支城八王子城)へ逃れないならば、ここで勝頼とともに死ぬ覚悟が強いことを知る。そして、桂姫の辞世の句と髪を北条家に届ける手配をする。
北条家から桂姫に従ってきた御寮人衆筆頭の石黒辰之進にその命を与えるとともに、甘利八の助に、辰之進を補佐して小田原まで行くことを命じた。
八の助は、兄の仇を討つ決意だったが、当主勝頼の厳命に従い、辰之進とともに小田原城の北条本家を目指した。八の助は小田原で大役を終えると、北条家の推挙もあり、武田家遺臣を秘密裏に家臣として採用しつつあった徳川家康の軍に組み込まれた。
具体的には、高遠城から無事脱出させた「とき姫」の妹である飛鳥姫が徳川家臣下の大久保忠教(後の大久保彦左衛門)の側室となっていた縁で、大久保家の飛鳥姫付けの同朋衆の一人に加えられた。
3月11日の天目山。勝頼は紅糸威しの胴丸に陣羽織をまとっていた。片や嫡男の信勝は鎧を着て太刀を下げていた。供の者は40人ほどがまだ残っていた。その後、彼等は残らず討ち死にしている。
「父上と母上(勝頼の継室)とともに、冥土に立つことができるのは喜びであります」と16歳の信勝が最後の言葉を残した。その直後、親子二人はともに割腹して果てた。
勝頼の辞世の句は『おぼろなる 月もほのかに 雲かすみ 晴れて行くへの 西の山のは』
さて、一足先の話になるが、徳川家康は穴山梅雪(領土安堵)とともに、安土城の織田信長に駿河一国を与えられた御礼のため、重臣の多くを引き連れて安土城に向かうことになった。重臣の他にも警護団と家康の側室も同道していたため、雑務を担う同朋衆も一行に加えられ、八の助もその一人に組み入れられていた。この頃、八の助は、仇の小山田信茂が親族とともに織田信忠に誅され、甲斐の民衆が織田信忠を称賛していたことを知った。さらに、武田滅亡の最大の裏切者が穴山梅雪であったことも知った。すると、領国を安堵された梅雪に対して、憎しみの怨念が沸々と高まってきた。安土城へ向かう道中、八の助は、密かに梅雪暗殺の機会を窺っていた。
翻って、甲斐と信濃を領土とした武田家が脆くも瓦解していったのは、裏切りや離散と決めつけたが、信玄公時代からの城郭を持たず、堀一重の御館のみであったことも敗因に挙げられる。
徳川方の攻勢を予期していた勝頼は、新府城を慌てて築城したが、その負担の大きさから反って家臣らから反発をされていた。
広大な信濃・甲斐には、武田一族と被官する豪族ら各自の『堀一重の御館』が全土に広がっており、それが強固な国の防備体制と言われていた。かねがね課せられていた従率に従って、戦にはせ参じていたのである。しかし、今回は、その分散して防備する館主が裏切ったのであるから、いとも簡単に、領土の多くがあっという間に瓦解した。つまり、いざ鎌倉へというような、いさか古風な戦時体制のままの信濃・甲斐の領国支配体制であった。
3月13日、信長は信州浪合で甲州征伐の終結を宣言した。翌日には、武田勝頼と嫡男信勝の首実験を行なった。翌日、裏切者の小山田茂信は善光寺で、老婆、妻子とともに処刑された。
29日には、武田攻めの論功賞が発表された。徳川家康には駿河一国、穴山梅雪には甲斐の八代と巨摩の両郡と江尻領が安堵された。木曾義昌には木曽谷の安堵と、安曇と筑摩の両郡が与えられた。織田軍団では、川尻秀隆に穴山領を除く甲斐一国、森長可には信濃四郡、毛利長秀に伊那、滝川一益に上野国一国と信濃二郡がそれぞれ与えられた。
恵林寺成敗
『信長公記(太田牛一著)』に恵林寺焦熱地獄の模様が詳細に記されている(以下はその要約だが、太田牛一は武田家征伐に従軍していた)。
3月14日。この度、恵林寺が六角次郎(六角義賢の子息)を隠していたことが発覚。恵林寺を成敗することになった。織田信忠の命により、成敗する奉行として織田元秀、長谷川与次などが奉行として任命された。奉行らは、僧衆を残さず山門の二階に集め火を放った。その中で、快川紹喜長老は少しも騒がず、座ったまま動かなかった。他の老若、稚児、若衆らは、飛び上がり跳ね、抱き合って泣き叫んでいた。地獄、畜生道、餓鬼道の苦しみに悲鳴をあげている様は、目も当てられなかった。名の知れた名僧が多く、中でも快川紹喜長老は、宮中から忝くも円常国師号を賜っていた。4月3日に恵林寺は藻屑と解した。
快川紹喜国師は美濃出身の憎で、当時から当地の多くの武士たちが、僧を訪ねて学んでいる。明智光秀、秀満、斎藤龍興らも師から多くのことを学んでいた。さらに、光秀とともに信長に同道してきた公家の近衛前久も、京都の妙心寺において、僧が居た頃から年齢は離れていたが、宮中と寺院を結ぶ旧知の仲であった。前久は馬を飛ばして、快川国師の説得に向かった。
開口一番「信長公に従い、甲斐に同道して参った・・・」続けて説得を試みた。
しかし「寺には世俗の力が及ばぬが、古来よりの伝統ではありませぬかな」と固辞する。
快川国師は前久の助言を察してはいたが「我らは三界不変の法輪の身、寺と運命をともにするだけじゃ」と腹を括っている。前久は無念の涙が零れるのであった。光秀も秀満も快川紹喜国師の焼死を心の中で弔った。
家康の布石
信長と信忠が成敗する目的とは言え、信濃・甲斐の要人らに対して、ほしいままに虐殺を繰り返していた。しかし、徳川家康は密かに、武田一党や国人衆らを努めて匿っている。
後の事になるが、本能寺の変の直後の堺において、すばやく忍びの者を使い、遠江・二俣の依田信蕃のもとに走らせ「匿っていた旧武田家臣を使って、先ず信濃を占領せよ」と伝達している。その後、滝川一益、森長可、毛利秀頼らが国人に攻められ、それぞれの元来の本領地に逃げ帰っている。家康は、彼ら旧武田家臣の元の所領を安堵するとともに、それらの多くを自分の領国に従えさせている。いずれにしても、家康が変後のワン・チャンスをものにして、領土を拡大できたのは、彼の人徳でもあるが在地性の高い旧・武田家家臣の特徴をよく知っていたからである。
その一方で、今回の遠征では、見えてきた全国制覇への手応えもあって、当初より物見遊山の遠征になっていた織田信長は、嫡男の信忠の判断に任せていた部分も多くあって、いつもの十分な用意周到の準備と戦略構想が欠けていた隙があった。信長脳の中には、この段階では『朝廷対策』が最大の課題であったのだ。
富士遊覧
武田家を成敗した信長は、甲斐から東海道を経由して安土城へと帰還することとなる。いわゆる『富士遊覧』である。信長は今回の遠征では、2月に太政大臣に任官していた公家の近衛前久と宣教師・ヴァリニャーノから譲り受けていた黒人も同道させていた。明智光秀も同道するように命じられたが、軍勢は少数でよいと言われていた。藤高は息子の忠興に出陣させ、藤高自身は領地警護に専念するように命じられていた。
その帰路の旅程はおよそ次のとおり。
4/10甲府を出立し、右左口に到着。→4/11女坂を登り山中に入る。続いて柏坂の奥深い山中に入る。いずれも新たな間道が整備されるとともに、所々に茶屋や休息所が建てられていた。この日、本栖に到着。→4/12真冬のような寒さの中に、富士山の裾野が広がって見える。氷穴や白糸の滝も見学する。浅間神社に到着。→4/13田子の浦をとおり、富士川を越える。神原の浜辺を通り、三保の松原、羽衣の松を見学する。江尻の城に到着。→4/14駿河の府中を経て安倍川を越えた。田中の城に到着。4/15瀬戸川を越え、島田の町で刀工を訪ねた後、大井川を越えた。さらに、日坂を越えて懸川に到着。4/16→鎌田ガ原、三カ野坂を越えて天竜川を渡った。
ここの川では、歴史上初めて家康が『船橋』を架けて、膨大な費用を要したと言われている。その後浜松に到着。4/17→今切の渡しを御座船で渡る。浜の橋の名所に寄り、汐見に入る。豊橋の吉田に到着。4/18→吉田川を越え、本坂・長沢の山地の街道を通り、山中の宝蔵寺に立ち寄る。正田の町から大比良川を越えて、地鯉鮒に到着。4/19→清州に到着。4/20→岐阜に到着。4/21呂久の渡しで、稲葉一鉄が御座船を用意して歓待する。垂井、今洲、佐和山、山崎でそれぞれ歓待される。安土城に到着。
以上のように、この富士遊覧では信長は東海道を選び、家康の領土となった駿河と遠江を通過することとなった。家康は、信長の行路に万全の配備をした。山中では、兵が担いだ鉄砲が木々に当たらぬように切り開いた。街道を拡張し石を取り除くとともに、行進の砂埃が立たぬようにと水を撒くなどの道路整備を行なった。道の左右には隙間なく警護の兵を配置していた。宿泊地では、陣屋を堅固に建て、粗相のないように食事を提供した。山地に入れば、休息所と厠が建ててあり、茶や酒肴の接待も行われた。朽ちかけた橋があれば、新しく建設していた。信長も毎夜の酒肴などの接待に満足し、信長は秘蔵にしていた吉光の脇差、一文字作の長刀、黒ブチの馬を家康に贈った。
日本栖の宿所でも信長は家康の歓待を受けたが、喜んでいたばかりではなかった。
徳川方の座には、家康と穴山梅雪が並んで座り、その後に酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政らの猛将が続いていた。信長はそれらの面々に驚愕した。どの家来も面魂も威厳を持っている。そして、如何にも家康に心から心服している様子が伝わってくる。
(信忠では、家康やこの者達に太刀打ちすることはできない・・・)と直感的に悟った。余が死すれば、織田家は徳川家の軍門に下ってしまうのではないかと、不安に襲われるのであった。
いよいよこの後は、戦国時代最大のクライ・マックスである『安土城の陰謀』から『本能寺の変』へと、歴史的に大きな激流が待ち構えている。
織田信長が抱いた徳川家康に対する恐怖心は、どんな展開を引き起こすのであろうか。これまで信長のサイコパスに苦悩してきた高齢の光秀はどう対処するのであろうか。
そして、後に、天下統一を果たす羽柴秀吉に組みする光秀の与力である細川藤高とその盟友となった前野将右衛門のとった行動は?そして、古来より続く権門体制を維持しようとする天皇家と公家の第一人者である近衛前久が率いる朝廷は、如何に信長を御することができるのであろうか。
第13章 朝廷との確執と信長の密謀
辛抱強い信長
信長の性格は短慮で苛烈であり、さらにサイコパスであることも事実。しかし意外なことに、信長は『辛抱』強く、時間をかけ用意周到で緻密な戦略を基本としている。勝てる見込みがつくまでは、軽々には戦さを仕掛けない。例えば、本願寺・一向宗などとの戦いでは、和睦と休戦を何度も繰り返している(敵もかなり執拗ではあったが)。
それは朝廷工作でも同じこと。『信長公記』に記録されているだけでも、対朝廷絡みでは水面下の個別交渉や官位などを除いても、内裏の修理、公家領の徳政令の発布、東宮の蹴鞠会、内裏の築地の修理、二条の新邸を皇室へ献上、京都馬備え(天皇、公家衆、妃方、女官ら多数が出席)などがある。朝廷に対して誠意を示すとともに、その囲い込みを進める意図が見え隠れしている。
朝廷工作
1577年(天正5年)。信長は、二条に自分の京屋敷を建設した。当初の二条屋敷は朝廷との折衝の拠点としていたが、二年後には東宮である誠仁親王が入り、二条御所となっている。
親王は27歳で父の正親町天皇は、既に還暦を越える高齢であった。信長の狙いが、天皇の譲位と親王の即位にあったことは言うまでもない。
対応に苦慮していた朝廷は、その後信長に左大臣の内意を探ったが、受託する回答はなかった。しばらくの間、信長はわざと返答を長引かせたうえで、足利義昭の不在(鞆の浦に隠遁)に絡み、信長の方から『征夷大将軍の就任』と『天皇の譲位』を迫っている。
しかし、朝廷側はその申し出を拒んでいる。朝廷としては、何としても天皇の譲位だけは、絶対に避ける不退転の決意があった。
当時、信長の元には、義昭の息子の義尋(よしひろ)が人質として置いてあった。そこで信長は、『誠仁親王の即位』を求めるともに、新たに『義尋の将軍』宣下を提起した。
若い二人を抱える巨大な権力者として、自らを強く打ち出す新戦略を打ち出している。
しかし、またしても朝廷は、信長の権力がますます強力になると強く拒んだ。
こうした信長と朝廷とのやり取りを俯瞰(ふかん)していた明智光秀は、本気でこの実現を期待していた。信長が推する新しい若い天皇と、若い足利将軍・義尋の誕生が成就すれば、父の土岐元頼の遺言であった守護・土岐一族の再興の道が開けるものと考えてしまった。この政権が誕生することによって、土岐氏又は明智氏が守護大名になれる日が来るかもしれないと、淡い期待が胸をよぎるであった。
それは絵に描いた餅のような夢にすぎなかった。しかし、齢60歳の高齢の身になってくると、現実を小さく見立てて願望だけが強くなってくる。それは取りも直さず、光秀の人生最大で最後の願いでもあった。
足利義昭の鞆の浦への逃避で、足利幕府の復活への夢は遠のいてしまった。しかし、その夢を消し去った織田信長自身が、義昭の息子を征夷大将軍にしたい、と朝廷に提起したのである。光秀は、鞆の浦に居る義昭にこの朗報を伝えた。
一方、羽柴秀吉も毛利の使僧の安国寺恵瓊からこの情報を聞き込んでいた。この信長の提案を知った織田家の他の重臣も、十分に現実性を帯びており、納得できるものとして受け止めていた。これまでの信長の超現実的な身分尊重の思考からすれば、追放した将軍を引退させ、その若い息子を後継者として足利16代将軍に立てるという施策は、いかにもあり得ることと広く伝播された。
だが藤高だけは、冷静にこの交渉の推移を見ていた。信長自身は若い天皇の上に立って、上皇のような立場で院政を行う腹積もりが見えてくる。しかしその一方で、家督を譲った信孝の処遇や立場が宙に浮くことも知っていた。従って、藤高はいずれどこかのタイミングで、信忠が将軍になる可能性が高いと読んでいた。それは取りも直さず、織田家の安定政権への確立に繋がる。
天皇を越える権力像か、平氏の征夷大将軍か
光秀が期待した夢は幻の如く消え去った。そして、1577年(天正5年)から始まった信長自身の官位、将軍後継及び天皇の譲位と新天皇の即位問題は、1582年(天正10年)に至っても未だ解決されず、先延ばしのままに推移していた。
さて繰り返しになるが、この年に信濃から甲斐に入った織田信長は武田家を滅亡させた。凱旋の富士遊覧の後、4月11日には安土城に戻っていた。
そして、その月の25日。朝廷は、信長の戦勝祝いも兼ねた朝議に基づき、信長を『太政大臣』『関白』『征夷大将軍』のいずれかに任官させることを決定した。いわゆる三職の推任。
朝廷のこの判断の内実は『征夷大将軍』にあった。それは、征夷大将軍の職が東国平定に由来したものであり、信長の関東平定の好機を捉えた打開策でもあった。従って、朝廷は備後・鞆の浦に逃避している足利義昭を見限り、改めて信長を平氏の将軍に据えるという、新たな伝統の創出に大胆にも踏み切ったものであった。
しかし、信長にとって将軍の任官と天皇の譲位は、あくまでもセットであった。信長は、またしても首を縦に振らない。困った朝廷は、将軍任官後に譲位を検討すると、譲位を先に延ばしつつ、征夷大将軍の就任を求めていた。
これに対して信長は、信濃・甲斐の武田家を滅亡させたことにより、かえって脅威となった三河・遠江・駿河の太守となった徳川家康を葬り、東の憂いを完全になくした上で嫡男・信忠を広大な東国の領主にさせてから、先ず信長自身が将軍職を受ける腹積もりであった。
但し、これもいささか矛盾を孕んでいた。
家康という東の憂いを取り払った後であれば、征夷大将軍の大義でもある東国平定による征夷大将軍就任問題は、逆に論破して断る理由にすることもできる。そうなれば、事実上、天皇による信長の東征・成果に対する将軍宣下の理屈は通らない。従って、現・天皇の権力は総体的に弱まる。つまり、天皇の譲位と新天皇の即位が可能になるとともに、いずれ信忠の将軍宣下への道も開けることになる。
それらが実現すれば、信長自身が天皇の上に立って、事実上の院政又は神のような国主の存在になれるはず、と深読みをしていた。従って、古来より続いてきた天皇を頂点とする『権門体制』が事実上瓦解することになる。いずれ、天皇と公家の朝廷は、勅書、宣旨、綸旨などの発給に止まり、形式的な存在になってゆく。そのことで、天下に号令できる者は、天皇や上皇をも超えた、気高い神のような信長だけになる。
他方、この信長の将軍任官の報に、最も衝撃を受けたのは光秀であった。信長将軍では、土岐一族の再興は夢のまた夢になる。ましてや今回の信長は、平氏としての将軍就任である。将軍は代々源氏の棟梁が征夷大将軍を繋いできた。土岐氏も明智家も源氏の血筋である。自分が60歳の高齢にあり、その嫡男もまだ10代の若さである。細川藤高の息子のように家督を継いで、猛将として信長の信頼も得てもいない。光秀の夢は崩れ去ってゆくのであった。
以上のような信長の朝廷工作が進行する中で、光秀に信長から新たな命令が下った。信濃・甲斐の凱旋後、安土における家康・梅雪一行の接待役を仰せつかった。
家康の脅威
信長は、武田家を殲滅させる戦いの中で、内々で金山の獲得を優先させつつも、それを隠し通していた徳川家康の行動に不審を抱いていた。また、安土城に凱旋する富士遊覧の中、家康領土を通過する際の信長に対する贅を尽くしすぎた歓待と、その腹の下に隠れていた慇懃な態度や言動に不快感と恐怖感を覚えていた。
さらに、質素を本分としながらも整然とした城の防御体制や水路や陸路の整備状況を目の当たりにした。家康の領国経営は、完璧な独立国を築いているように見えた。信長は、光秀や秀吉にはない家康の鵺(ぬえ)のような不気味さを初めて知った。
信忠をはじめとする我が子息達は、この鵺のような男にやがて襲われるのではないかと不安が募ってくる。家康は、喜怒哀楽をその表情に見せない。我が息子の命を奪った相手にもその心中を隠し通して、忍耐強く心を押しつぶしている。
信長は、家康の恐ろしくも不気味な底力を目の当たりにしていた。万が一、家康が反旗を翻した場合、甲斐と信濃を任せた腹心の部下達では太刀打ちができそうもない。ましてや三河・遠江・駿河は、家督を譲ったばかりの25歳の嫡男・信忠の隣国にあるではないか、とさらにその不安を高まらせるのであった。
この時、信長の脳裏には『韓非子』の書がよぎった。韓非子が説く「君主は名(言葉)と形(実績)とを照合すべき、成果の評価は、最初の言葉と一致しなければ臣下に罰を加えるべし。
安土城に戻った信長は、早速「先の家康の歓待ぶりに感服した故、礼を返したい」と、家康に穴山梅雪を連れて安土城に来るように伝えた。
これが、信長の家康謀殺の罠だとも知らずに、家康は梅雪を同道させて安土城に向かった。勿論、用心深い家康は信長の勘気に触れない気配りをしつつ、遊覧の体を装って重臣の多くと40人あまりの警護団を目立てることなく連れて安土城に出向いた。無論、20人の諜者を陰に日向に配置して、二重の警戒を怠らなかった。
東征後の情勢
東征後の信長の敵国は、九州を除けば、越後の上杉景勝、中国の毛利輝元、四国の長宗我部元親となっていた。上杉については、柴田勝家、森長可、真田昌幸が対応し、毛利に対しては、羽柴秀吉と大友宗麟が対応、長宗我部には、信長の子の神戸信孝、丹羽長秀、三好康長、信長の甥で光秀の娘婿になる織田信澄(のぶずみ)をあたらせた(以前は光秀が担当していた)。副将格として信澄を組み入れたのは、光秀の重臣・斉藤利三が長宗我部元親とは縁戚であり、光秀や利三を通じて和睦の道を残す算段のためであった。この和睦策の背景には、秀吉が一方の四国の雄で長宗我部と対立している三好家との間に、甥の秀次の養子縁組が既に成立していることから、家臣双璧の光秀と秀吉の衝突を避ける和合の策でもあった。(これらの配慮を見る限り、光秀謀反の四国説は浮上しないと思われる)
以上のことから、この時点での信長の平定の優先順位は、長宗我部、毛利、上杉の順であった。長宗我部については、光秀と斉藤利三が交渉して一時は盟約を締結していたのだが、毛利侵攻には三好の協力が必要とする秀吉と三好の懇願で、盟約を破棄してしまった。ただ、戦闘に入ってもおらず、政治力で平定し易いと信長は考えていた。
そのため、息子の信忠(家督を相続し、尾張、美濃の領主)、北畠信雄(伊賀、伊勢)に続き、信孝にも領土(讃岐)を早く与えたかったといえる。
これらが実現すれば、毛利攻めについても南の四国からの水軍の攻撃ができるようになり、陸路の西側の大友宗麟、東側からの秀吉と、三方から毛利への挟撃体制が整う。これも成功すれば、次には毛利を先頭にして九州征伐に入ることができる展望があった。
近衛前久の決心
さて、前述で残る上杉については、現状の勢力でも十分戦えるのだが、後々の九州征伐も併せ考えると、嫡子・信忠政権の将来を軌道に乗せる必要もあり、信忠が将軍宣下を受け、賊軍征伐の勅許を天皇から賜った上で、上杉や九州を成敗することが最も有効性が高かった。しかし、自分が生きている間に、織田政権を盤石なものにするならば、天皇の勅許などを意のままに得ることが、その最短の道でもあった。ましてやそれは、朝廷への圧力によって手の届くところにもある。従って、先ず正親町(おおぎまち)天皇に譲位を迫り、信長が烏帽子親となって二条御所に住まわせるなどして懐柔している正親町天皇の第一皇子の誠仁(さねひと)親王に早く即位してもらうことが必要不可欠であった。
ただ、それでは現・天皇の権能が削がれるとともに、朝廷そのものが瓦解する危険もあったため、公家らの抵抗は根強く残っている。
しかし、再三譲位を迫る信長に対し朝廷では、信長が武田征伐で武士の棟梁として軍事力と政治力の揺るぎなき基盤を築き、ほぼ抵抗勢力もその掌中に収めつつあったため『将軍』『太政大臣』『関白』の三職いずれかを推任するとともに、天皇の譲位も実行しなければならないという窮地に追い込まれてもいた。
それでも信長は、これらについても返答をせず、安土まで来た勅使を追い返していた。
そのため、朝廷としての最後の落としどころは、源氏でない者の将軍職推任は前例がないものの、信長に将軍職を推任して将軍宣下を受けさせた後に、正親町天皇の譲位を行うことで腹を括っていた。
これに対して信長は、この朝廷の最終決断を予測しており、この件で再度打診があれば、信忠の将軍宣下であるならば、高齢の正親町天皇の譲位については先延ばししてもよい、と伝える腹つもりでいた。おそらく高齢の天皇の譲位については、いずれ時間が解決するものと読んでいた。
このような緊迫した中で、朝廷の形骸化を恐れる関白・近衛前久だけは、今こそ信長を誅さなければ、古来より続いてきた日の本の秩序の中心にある『天皇制度』が崩壊する危機感を抱いていた。この結論に達したのは、武田征伐で起きた恵林寺の焼き討ち後のことであった。
信長の遠征に同道していた前久は、正親町天皇の内意を受けて「恵林寺と快川紹喜和尚の処遇については、格段のご配慮を賜りたい」と信長に懇願していた。
だが、信長は天皇の意を無視して、恵林寺もろとも快川和尚を焼き討ちにした。
この信長の残虐な行為に憤怒したのは前久ばかりではなかった。
このような信長の虐殺行為を数多(あまた)見て来ていた光秀も、ここに来て憤怒の思いを一気に炎上させていた。
何故ならば、光秀の美濃時代、快川和尚は美濃出身の美濃・臨済宗神護山・崇福寺の住職であった。光秀は当時、和尚から仏の道のみならず、人間の機微など多くの教えを受けていた恩人であった。繰り返しになるが、快川和尚は、臨済宗大本山である妙心寺の43世を務めたこともある人物。その後、武田信玄に請われ、甲斐に転じて信玄の仏道の師となり、正親町天皇から国師の称号を受けていた尊い高僧であった。
本能寺の変への連弾
徳川家康一行が安土城を訪れてから、本能寺の変が勃発するまでのおよその流れは次のようなもの。
5/15→徳川家康と穴山梅雪らの一行が安土に到着(宿舎は「大宝坊」)。5/15、5/16→信長は一行を接待(安土) 。5/17→小姓による家康毒殺の未遂事件が発生、光秀は譴責(けんせき)を受けるとともに、新たに家康誅殺の命令を受け坂本城に帰城(しかし、その夜に家康を大宝寺に訊ねて、食事の粗相を詫びるとともに、身の安全についての注意喚起を促している)。『信長公記』には、坂本城に帰還したと明記されているが、しばらく京の自分の屋敷(御所に近い場所で幕府奉行衆時代から使用している百人以上が宿泊できる自邸)に留まっていたと考えられる。光秀は当時、京屋敷、坂本城、亀山城を住まいとして、仕事などの都合によって使い分けをしており、先ずは5/17の晩から御所の近隣にある自分の屋敷にしばらく留まっていたもの。5/19→安土山の惣見寺において幸若大夫の舞いを披露。5/20→丹波猿楽・梅若大夫の能を披露(両日の列席者;近衛前久、信長、家康、穴山梅雪、楠長韻長雲、松井有閑、武井夕庵、土間席にお小姓衆、お馬廻衆、お年寄衆(家康家臣団)、丹羽長秀、堀秀政、長谷川秀一、菅屋長頼に接待の用意を命ずる(大阪・堺での接待役)、夕餉は江雲寺御殿で行い、夜に安土城に戻る。5/21→家康一行が上洛(京見物/長谷川秀一が同行)・織田信澄と丹羽長秀は大阪での接待準備で大阪に行く。家康の京・宿舎は、本能寺の斜め前にある茶屋四郎次郎の屋敷。6/2までには堺から戻り、京・本能寺で行われる朝茶会に出席する予定であった。5/22→水尾の里(前久の別荘)で、近衛前久、吉田兼好、明智光秀、細川藤高が密談する。5/23→光秀と斎藤利三が家康の京の宿舎(茶屋四郎次郎の屋敷)を訪ね、信長誅殺の決行を密告する(日時と場所は秘匿する)。5/26→光秀は坂本城を出立し、丹波亀山城に向かう。5/27→光秀は愛宕山に一泊する。5/28→光秀は西坊で連歌の会を開く、亀山城へ帰城。5/29→信長が上洛し本能寺に宿泊。6/1→夜半・光秀は亀山城を出発。6/2→早朝、本能寺において織田信長を弑逆し自刃させるとともに、嫡男信孝も御所に追い込んで自刃させる。
接待役の解任と安土城の密謀
1582年(天正10年5月15日)。徳川家康と穴山梅雪一行は安土に到着した。宿舎は『大宝坊』とし、接待役は光秀が命じられた。家康らへの食事や酒宴の接待は17日まで行われ、19日には、安土山の惣見寺において能と舞が行われた。
桟敷には、家康一行の他、近衛前久などの公家衆、土間には信長の小姓衆、馬廻り衆、年寄衆、家康一行の下級家臣が居並んだ。その翌20日には『江雲寺・御殿』において、家康と梅雪の他、家康の重臣や老臣も招き、信長自身が膳を並べてともに食事をした。その後には、帷子(かたびら)を全員に贈って歓待している。
その一方で、接待役を仰せつかった光秀は、17日に突如接待役を解任され、安土城から坂本城に帰城した(信長公記では、太田牛一が帰城したと書いているが、これは単に信長の命令があった、ということだけで事実確認をしているものではない)。
この表向きの理由は、備中・高松城を水攻めしている羽柴秀吉から信長に援軍の要請の文が届き、急遽、光秀がその援軍を命じられ備中へ向かうことになったこと。
しかし、接待役を解任された真の理由は、実のところ家康謀殺の罠が秘められていた。
この朝(17日)、光秀配下の毒見役が大宝坊の厨房で毒死している。早朝に届けられた魚を塩焼きに調理し、毒見役が毒見を試みたところ急に悶絶して急死した。薬師の見立てでは、腐敗による中毒ではなく、毒を盛られた魚を食したことが死因だと光秀に説明した。
厨房に出入りできるのは、光秀配下の調理人や女中と、信長に命じられて調理内容を確認に来るお小姓衆ぐらいである。
光秀は、咄嗟に3年前の公家衆らが連続的に毒殺された事件を思い出した。
1579年(天正7年)5月のことであった。二条晴良、烏丸光康、三条西実枝、山科言継らの公家衆と嵯峨・天竜寺の策彦周良の要人たちが、相次いで毒殺された事件が起きていた。
しかし、京都奉行の村井貞勝は、何の詮議もせずに事件を闇に葬っていた。信長の朝廷対策が推進される中で起きた、毒殺による不可解な連続殺人事件であった。
当時、信長は東宮を二条の新邸に移すことを朝廷に提言していたが、それを反対していたのが上記の暗殺された公家の面々であった。近衛前久を筆頭に、五摂家の鷹司信房、近衛信基、九条兼孝、一条内基、二条昭実らは、この暗殺事件に怯えて東宮が新御所に入ることを渋々承諾している。
光秀は機転をきかし、直ちに魚貝類をすべて廃棄し、葉物と根菜類だけで香の物と煮物を調理させ、みそ焼きと味噌汁を付けただけで、家康らの朝食を再度整えるのであった。
この後、この変更された料理での提供を知った信長は「田舎料理で家康公を饗応し、余に大恥をかかせた」と、烈火のごとく怒り光秀を叱責するのであった。
その日の午後、光秀は安土城天主の2階にある取次の間に信長から呼び出しを受けた。
懲罰の沙汰かと覚悟していた光秀であったが、小姓の森乱丸から発せられた命令の口上は、意外にも秀吉への援軍で備中へ行けとの命であった。
「有難き幸せ」と、いつものように頭を垂れて御礼を述べた。すると、信長は乱丸を席から外させ、用心棒として身近においている黒人の弥吉の三人だけの空間を作った。
命令を下すと、いつもは直ちに座を離れる信長が、素早く光秀の傍らに身を寄り添ってきた。耳打ちをするのは、初めてのことであった。
その密命に驚愕した光秀ではあったが、動揺を隠しつつも気を取り直して「光秀しかと承りました」と、緊張と動揺に震える体を必死に抑えながら、その頭を垂れるのであった。
信長が家康を暗殺する深い意味が光秀にはすぐ理解できた。それは、自分の死後に自分の子が殺される危険を未然に防ぎ、子の代までもの責任を果たすことであった。
信長の密命は「6月2日に本能寺で朝茶会を開き、茶人や連歌師などの文人とともに家康らも招くので、そこで家康を誅殺せよ」であった。
家康の重臣らも警護で別室にて控えているが、光秀配下の剛の者たちを事前に茶会席に最も近い隠し部屋に待機させ「機を計り家康を殺戮し、生き証人とならないように茶人たちも皆殺しにせよ」というものだった。さらに、光秀配下の別働隊の軍団が家康重臣たちを捕縛し「抵抗する者はその場で殺せと」の密命であった。捕縛する理由は、家康誅殺後に行う三河、遠江、駿河を征服する戦さに役立てる算段であった。
信長は「余は安土城をこの29日に立ち、小姓衆などの近習のみを連れて本能寺に入る。茶会用の名器三十点ばかりを持参してな。翌日の1日には、大名物茶入れの『楢柴肩衝(ならしばかたつき)』を所有している博多の豪商・島井宗室とその義弟の神谷宗湛と会い『朝・茶会』を行う。それらの様子を家康の家臣や諜者らが知れば、安心し油断をするであろう」と語った。
そして、家康の死については、茶席において家康が少人数で油断している信長の暗殺を図ったので、警護で控えていた信長家臣が家康とその家臣を誅した、とする理由が用意されていた。さらに、亀山城で備中行軍の準備をしている光秀の主戦軍団が、この急報を受けて京都に入り治安を図るとともに、細川藤高、中川清秀、池田恒興の行軍を待って、信忠を総大将にして三河、遠江、駿河に侵攻する。東からは、滝川一益、森長可、河尻秀隆らが挟撃すれば、家康や重臣がいない三河、遠江、駿河は早々に陥落する、との計画が続いていた。
光秀はこの夜、密やかに家康が宿泊する大宝坊を訪問した。接待役を突如解任された挨拶と思い家康は、光秀に同情と労いの言葉をかけてくれた。光秀は既に期するところがあって、家康本人を本能寺で誅する新たな密命があったことをこの場では言わなかった。それは、まだ家康を無事に領国に返す手立てなどを用意していなかったからでもある。しかし、今朝の毒見役の死に関する疑問は打ち明けた。
そして、この先は用心を怠らないようにと、家康に注意喚起を促して別れるのであった。信長に対する初めての面従腹背の心であった。徳川家康暗殺の密命を信長から受けていた光秀は、ここに至り血も涙もないサイコパスの織田信長を討ち果たす決意を固めていた。
信長が家康を暗殺する深い意味が光秀にはすぐ理解できた。それは、自分の死後に自分の子が殺される危険を未然に防ぐ、子の代までもの責任を果たすこと。だが、我が身にも置き換えれば、光秀も信長と同じ心境ではあった。自分はずっと信長より年上の老臣であり、嫡男はまだまだ十代と若い。信長に我が子が殺されるリスクは十分考えられる。その危険を未然に防ぐには、殺される前に殺すことでしかなかった。
これまで、自分もいつか邪魔になれば、信長に容赦なく抹殺されるという恐怖心に襲われたことは何度もあった。特に、荒木村重の謀反以来、信長の容赦ない冷徹で理不尽極まりないサイコパスのやり様は止まることがなかったのである。
この光秀の主君弑逆の真因については、本能寺の変の2年ほど前に遡った頃からの政局の変化や織田家・家臣団の世代交代の状況も大きく影響している。それらが光秀自身の高齢化と若き後継者問題による将来不安に繋がっていた。光秀一族郎党の今の繁栄がどこまで続くものなのかと、疑心暗鬼となったことは確か。光秀の将来には、残されている生の時間的猶予があまりなかったことが、本能寺の変の急流を大きく呼び込んだと考えられる。
参考までに、本能寺の変時の年齢を羅列すると、明智光秀60歳、織田信長48歳、豊臣秀吉45歳、徳川家康39歳、細川藤高48歳、近衛前久51歳、柴田勝家60歳、前野将右衛門54歳となる。光秀は、最も高齢の60歳になっているが、宣教師フロイスは67歳であった記述している。高齢の光秀と書く度に、フロイスの説が最も正しいかも知れないと考えさせられる。
水尾の密談
愛宕山(924メートル)の麓から続く水尾(現・京都市右京区嵯峨水尾)は山あいの地であり、貴族や大商人の別邸が散在する長閑な里山であった。亀山からもそう遠くない場所にあるが、京の本能寺からも5里ほども離れていない。ここに、公家筆頭の近衛前久の鄙びた別邸があり、密談を知られたくない場合に前久は利用していた。
5月22日。前久は、吉田兼見(吉田神社の神官で、前久の意を受けて信長との調整役を果たしていた)、明智光秀及び細川藤孝(長岡藤高)を招いていた。
本題は、ズバリ織田信長を暗殺すること。
前久は、将軍義輝や将軍義昭とは従兄弟に当たることから、藤高とも義・従兄弟の関係にある(藤高は二人の将軍の異母兄)。なお、兼見も藤高の従兄弟に当たっており、この中では兼見と藤高は最も親しく付き合っていた。特に幕臣を辞めた後の藤高は、京の屋敷を失っていたこともあり、丹後から入洛する度に、兼見の屋敷を宿泊することが多くなっていた。
余談になるが、前久の祖父は、現役の時に『公武一体化』を意図して、娘の慶寿を12代将軍の義晴に嫁がせていた。その間に生まれたのが三好三人衆に弑逆された13代将軍の義輝。しかも前久の妹が義輝に嫁いでいたので、前久と義輝は、従兄弟であるとともに義兄弟でもあった。後に前久と義輝の二人は、全国の守護大名に正親町天皇の『即位の礼』を挙行するので、大名らに上洛せよと呼びかけている。これに応じて、長尾景虎、織田信長、斎藤義龍が上洛している。こうしたこともあって、信長と前久は、その後蜜月の緊密な仲に進展していった。
今の前久は、五摂家筆頭として朝廷の中心人物。朝廷はもとより、寺社、旧幕府などにも人脈がある。しかも個人としても、書は近衛流、歌道は『古今伝授』の奥儀を受け継ぐほどであり、また武士のように馬術や鷹狩にも精通しており、藤高以上に諸芸に通じているとともに、高い教養を身に着けている高貴な人物。
さて光秀は、これまで前久から信長を誅罰する協力を頼まれ続けてきた。信長に信頼されてきた配下最大級の家臣であることで、信長の期待を裏切れないと、これまでも前久の企ての誘いに関しては一味同心することを拒んできた。
その度に前久は、光秀に土岐氏再興の夢を語り、幕府の再興を大義名分にして光秀と藤高の賛同を擽(くすぐ)るのであった。実際に、前久は打倒信長と足利幕府再興を誓う諸将署名の連判状を持っている。そのため義昭を上洛させてもよいとも言う。
光秀も藤高もその足利幕府を裏切り、織田信長の元に走った。しかし、今は信長の苛烈すぎるサイコパスに極限の不安状態に陥っていた。特に、荒木村重、別所長治、波多野兄弟と続く、裏切り者に対する仕打ちは酷いものがあった。光秀と藤高の親族や知人も少なからず犠牲になった。特に高齢の光秀は、このままでは我が身も一族郎党もいずれ滅亡する危機が、そぐそこに迫っていると感じる。それが今、家康暗殺の命令を受けたことで、逆に信長を暗殺する心境に変わっていた。
しかし、まだその暗殺命令の闇を知らいない光秀以外の者たちは、朝廷が信長の執拗な圧力によって6月2日以降の吉日に、正親町天皇の譲位の儀が行われる予定であるという現実に追い込まれていた。皆、朝廷の窮地に焦りの表情を隠せない。
それに加えて彼等には共通して、先の甲斐での恵林寺における快川紹喜和尚の焼き討ち事件に対する憤怒の気持ちが日々高まっていた。
朝廷の中で最も計略の才に長ける前久から、真実の禁裏の総意と聞かされ、情理も含まれて懇願されても、光秀は内心の決意は決まっているものの、ここでは信長を誅する具体的な方法について議論することを避けた。既に決意している暗殺実行の機密を保つ意味もあり、例え仲間うちだとしても、表向きの賛意だけを示す程度に頷くことしかできなかった。
光秀は、彼ら3人には朝廷や幕府絡みに関する知略や才知はあっても、生身の人間を誅するような血生臭く、現実的に殺人行為を実行することには長けていないと考えている。だからこそ、信長を弑逆する具体的な方策を示して相談することはできない。
それでも前久は、さらに泣き落としするように続けた。
先月の信長の命によって焼き殺された恵林寺の快川国師の一件について「帝は、お袖をひとしきり濡らして涙を流されて<朕も死ぬ・・・>と呟かれた」と吐露する。
しかし、その言葉を聴いた藤高は、積極的に一味同心すると断言することもなく、また反対することも否定することもなく、ただ俯いて頷くばかりであった。前久は、藤高と光秀は厚い友情で結ばれており、特に、藤高の同心には何の疑いも持っていない。そもそも吉田兼見も光秀とも親交が深かったので、皆が一味同心で繋がっていると自信を持っていた。
最後に前久は、無事に信長の暗殺が成就した暁には、源氏の血筋である光秀を将軍に推任すると口約束をされるに至り、光秀の心内は大きく謀反へと強く傾いていた。これによって、光秀は決行の具体策から新政権構想までをじっくりと練ることに心を移していた。
この光秀の不退転の一大決心は、信長が家康を暗殺する理由と全く同じことだった。自分の死後に自分の子が殺される危険を未然に防ぐ、子の代までもの責任を果たすことであった。
この時点における前久が主導する具体的な信長暗殺方法と日時などは未定である。ここまでは漠然としたもので、一味同心する仲間を募る連判状作りの最終段階といえた。ただ、前久の頭脳には公家の発想らしく、信長を天皇譲位と将軍推任で参内させ、機会を得て毒殺又は刺殺するという甘い計画だけがあった。従って、光秀を除く他の三人は一味同心していたものの、信長暗殺の現実的な日時や暗殺方法については、まだ決まってはいない白紙の状態であった。
だが、その一方で、光秀の前久への一味同心の報は、密やかに藤孝を通じて前野将右衛門に伝えられるとともに、甲賀者を介して羽柴秀吉にも伝えられていた。秀吉は、引き続き安土と京都の動性を、細かにかつ素早く諜報するように指示を返した。
さらに直感力の強い秀吉は、将右衛門に本能寺の金掘りの出口をすぐに塞ぐよう指示をした。
将右衛門は、ただちに配下の金掘り職人を南蛮寺の井戸端に派遣し、闇にまみれて出口を固く埋めさせた。これで信長は万が一の危急で、本能寺から避難してきても脱出はできない。念のため、明かり用の油も横堀の通路のあちこちに捨て置いた。この後の秀吉の関心の的は、いつ信長暗殺が実行されかの一点に絞られ、変事に備えて軍師・官兵衛と弟の秀長に、毛利との和睦案の検討をさせるとともに、情況によっては京都に上洛する可能性があるので、軍を陸路と海路に分けて行軍する兵站の準備も併せて指示するのであった。
光秀謀反の理由、サイコパスを誅する
明智光秀が、主君であり日本国の時の政権の覇者である織田信長を誅殺した理由は、二つ。一つは(1)信長のサイコパスから連続的に発生していた非人道的な虐殺を止めさせることの正義感。もう一つは(2)これまで光秀の親族・縁者が同様に信長のサイコパスの犠牲にもなっており、信長を亡き者にしなければ、遠くない時期に我が身を含めた親族・縁者が、いずれ信長の刃に誅される可能性が高いと判断したこと。これについては、自分自身が60歳を越える高齢であるとともに、嫡男がまだ十代と若かったことで、その刃にかかるリスクの確率が高いと考えたこと。そして、謀反の決断と実行するエネルギーを最後に着火させて導線に繋いだのが、信長の命による『家康の暗殺』計画であった。それも光秀自身の手で実行するという超現実的な闇の中に置かれてしまい、命令と苦悩との矛盾が葛藤する中で、ついに我慢の限界に達したのである。
信長のサイコパスがより顕著になったのは、裏切りが波状的に広がった摂津、播磨、丹波、丹後などの西国侵攻の基礎固めの時期であった。即ち、1578年(天正6年)から始まった謀反の連続線に対する虐殺の措置である。それは、別所長治、荒木村重、波多野三兄弟(秀治、秀尚、秀香)などによる謀反・裏切りの行為に対する懲罰ではあった。
別所長治は播磨であったので、羽柴秀吉の担当だったので省くが、荒木村重の謀反では、秀吉も軍師・黒田官兵衛が投獄されてしまい、それを裏切りと勘違いした信長が官兵衛の息子を死刑に処することを命令した(だが秀吉は実行しなかった)。一方、光秀は、長女の倫子が村重の謀反発覚の直後に、離縁されて光秀の元に返されてきた。しかし、娘が嫁ぐ時に一緒に荒木家に入っていた侍女は、村重の家臣に見初められて結婚し荒木家に留まっていた。そのために処刑されてしまった。その侍女は光秀の元側室でもあり、光秀は他人事では片付けられない二重の無念さがあった。
さらに、光秀は妻の煕子の妹を信長の側室に供していた。出身地から『お妻木の方』と呼ばれ、織田家の公式のお使い役にも活躍していた女性。しかし、1581年(天正9年)の4月。信長は、安土城を出て御小姓衆とともに竹生島に参詣に出ていたが、信長は馬を飛ばしてその日に帰城した。
女房衆らは二の丸へと出かけた者、あるいは桑実寺へ薬師参りに行った者もいた。怒った信長は、桑実寺の長老と女房衆らを惨殺するのであった。この中には、義妹にあたる妻の煕子の実妹のお妻木の方も含まれていた。この時の光秀の胸中に、信長に対する憎悪の炎が灯っていたのは間違いない。
一方、『総見記』などの軍記ものだけに書かれているとの理由だけで、創作だと一般的に言われていることから、これまで敢えて取り上げてこなかったが、光秀の義母である『お牧の方』が犠牲になった事件もある。その事件の直因も、信長のサイコパスによるものだった。それは光秀が攻略する丹波・八上城の波多野兄弟による裏切り事件。光秀の調略によって降伏してきた波多野秀治、秀尚、秀香の兄弟三人が信長方に味方するとして、安土城の信長を訪れたが、信長は兄弟三人を処刑にしてしまった。この結果、光秀が兄弟の命を保証するために、八上城に預けていた光秀の義母である『お牧の方』が磔に処された。
お牧の方の死亡時期や死因については『信長公記』にも書かれていないことから歴史家も精査・追跡をしていない、あるいは調査を実施しても資料などの不足で不明のままにしている。それであったとしても、証拠・証明の書き物がなかったから創作と短絡的に決めつけるのは歴史捜査では危険なこと。従って、現代の常識で推し測るのではなく、戦国時代の武士社会のコモノセンスに従って推量することも重要。現に豊臣秀吉は、母と妹を人質として、徳川家康の元に差し出しているではないか。戦国時代の歴史的事実の探究では、戦国時代の慣習と常識で推し測るべきである。
さらに『お妻木の方』については『信長公記』に登場し、死亡年は信長の竹生島参詣後の惨殺事件の年と同じであったことが確認できる。ただ、死因については全く触れられていない。どちらの場合も織田家にとって、その死因が不都合だったので書かれていないと考えている。従って、光秀の二人の親戚縁者は、ともに信長のサイコパスの犠牲になったといえる。
謀反決意の最後の一押し
しかし、以上のような複数の要因が重なり合っていたものの、最後に光秀のクーデターの実行を強力に後押ししたのは、やはり『信長に命じられた徳川家康の暗殺命令』だった。つまり、本能寺で7月2日に開催される予定の朝・茶会における徳川家康謀殺の罠である。
信長は若くして領主になった時に、弟信秀を騙し討ちにしたように、家康を本能寺で葬ることを策謀し、密かに信頼している光秀だけにその実行を命じた(秀吉の援軍を命じたのはカモフラージュ)。つまり、信長が無防備状態にあることで家康を安心させ、安土詣や堺の遊覧、さらに本能寺の朝・茶会ができるように策したもの。そのため、信長自身も僅かな供廻りで本能寺に出向いて、家康を安心させて欺いたものである。
秀吉の野望
1579年(天正7年)。羽柴秀吉は人生の大きな転換期を迎えていた。秀吉にとっと戦時における敵国に対する調略は最も得意する戦略であった。それは二人の軍師である竹中半兵衛と黒田官兵衛の知略によるところが大きかった。
特に半兵衛からは、殺戮で勝利を目指さず、知略で勝つことを学び、秀吉自身も人として共感するとともに、それを常に心掛けてきた。だが、秀吉の人生の師でもあった半兵衛は、この年の6月に病死してしまった。そして、秀吉に遺言ともいえる二つの願いを託した。
それは『全方位体制の諜報活動』」と、非道や吝嗇を繰り返す『織田信長の返り忠』の機会を逃さず実行することであった。
秀吉は当時、遺言の後者については漠然としており、すぐには具体的な思いには至ってはいなかった。ただ、徐々に心底では半兵衛と似たような思いが燻り、精神的にどこかで思い悩んでいる自分を発見するのであった。
信長による比叡山焼き討ち、勢州・長島の一向一揆の虐殺、越前一向衆の皆殺しなどと続く大量殺戮には、楽天家の秀吉もさすがにその動揺を隠せなかった。
さらに、1577年(天正5年)の松永久秀の謀反、翌年の別所長治や荒木村重の謀反、それに伴う官兵衛裏切りの冤罪と官兵衛の嫡男・長寿丸の磔の命令などが起こり、それらは秀吉の主戦場の播州の近くで頻発していた。 特に、自分の一方の片腕である軍師・官兵衛が裏切者とされた一件では、自分の立場の危うさに気付くのであった。
しかし、それらの事件は乗り切れる自信もどこかにあった。ただ、どうにも根本的に解決ができそうもない主従関係と家来衆の上下関係などの構造的な問題もあった。
それは、信長への恐怖感ととともに、柴田勝家などの家臣団との軋轢であった。つまり、秀吉は初めて、織田軍団から心が離れかけていた。
具体的には、1577年(天正5年)の勝家との仲違いによる北陸戦線での無断離脱問題。
これに伴う信長の叱責と懲罰事件があった。続いて、翌年の上月城の攻防を巡り、秀吉が要請した際の援軍との間に起きた不和のトラブルもあった。
特に後者は、信長に援軍増強を求めたものの、秀吉を嫉む柴田勝家と老・家老の佐久間や林の画策により、援軍に来た柴田軍などが動かないために、味方に付いた尼子一族を見殺しにしてしまった。さらに、信長が秀吉に代わり播磨に送った嫡男・信忠が神吉城を攻略して、これを見事なほどに成果を上げたため、秀吉はこれまでにない敗北感と屈辱を味わっていた。
それまでは立身出世のため、信長の命令にはどんな危険も厭わず従ってきた。だが、多くの殺戮を繰り返す信長への嫌悪感に続き、その苛烈な懲罰に我が身の危険を感ずる恐怖感を覚えるようになってきたのも事実。そこへ味方の嫉みによって、自己の考え方や行動が制約される圧迫感や窮迫感が、心理的な矛盾の襞を大きくしていた。1579年(天正7年)の段階では、光秀よりも秀吉の方が、信長誅殺への心底は大きく燻っていたともいえる。
従って、半兵衛の最後の二つの願いは、悩める秀吉が新たな飛躍の機会を模索していた心中を察したような苛烈な遺言であった。
その後の秀吉の軍事行動は、基本的に荒木村重の伊丹城から救出されて復帰した黒田官兵衛に、内政は弟の秀長に任せた。そして秀吉自身は、信長、家康、柴田、明智の味方勢力と朝廷の動性を探る全方位の諜報活動に全力を傾けるのであった。
秀吉はこの諜報の任には、木曾川の川並衆として尾張時代から心を許す蜂須賀小六と前野将右衛門に分担して当たらせるとともに、配下の甲賀者の組織を拡充させた。また京・堺の商人や公家には、自らわたりをつけて情報の収集に努めるのであった。
なお、当時の武将は規模の違いはあったが、諜者を雇い情報の収集に努めていた。上杉は軒猿、伊達の黒脛巾(くろはばき)組、北条の風魔、島津の山潜り、尼子の鉢屋などの忍びの者を活用していた。ただ、信長だけはその任を部下に任せ、直接忍びの者を使うことはなかった。忍びの者や部下にも自分の考えや行動を悟られないようにする『韓非子』の書にある法術に習っていた。従って、信長は、軍事や調略に関する諜報活動については、当初、甲賀出身の和田惟政や法華宗の僧侶である堯照(ぎょうしょう)上人に任せていたが、後には、明智光秀に諜者の束ねる任を与えている。但し、部下や味方に関する諜報は、小姓衆や尾張時代の小姓衆から直臣になった近習の面々に直接指示を与えていた。
藤高に近づく秀吉
そのような中で、秀吉は、細川藤孝が複雑な闇を抱える人物であることを知る。
藤孝は、前将軍の足利義輝とは異母兄にあって、後の将軍義昭とも異母兄の縁戚になる高貴の血筋もある。吉田神社の神官であり、神祇大副(しんぎのたいふ)である吉田兼見とは従兄弟にもなる。室町幕府では、奉公衆筆頭で将軍のそば近くあって、幕府を支える重要な幕臣であった。その後信長の家臣となったが、命により光秀の与力となってその指揮下に置かれた。文官にすぎないと信長に評価された藤高は、遊軍扱いの与力として光秀の風下に立たされていた。その後の藤孝は、光秀よりも有職故実の知識に優れていると自負し、光秀に有職故実の知識を教えたのは自分であり、その師がその風下に立たされることは、教養高い文官ゆえに、より深い嫉妬と憎悪の闇がその心底に横たわり続けていた。
二人は友情で結ばれてはいたが、藤高の心底には光秀に対する嫉妬心と怨念が宿っていた。
一方、秀吉はそのような藤孝の心の闇を知ると、公家の実力者である近衛前久にも近しく、公家や朝廷の情報に詳しい藤孝に急接近した。さらに、朝廷、公家、京都所司代など、信長の朝廷に対する動性も探り続けていた。
他方、そのような中で家康が、秀吉同様に積極的に諜報活動を行っていることも知る。
この頃家康は、武田家が調略のために長年採用していた武田の諜者である『三つ者』や『黒鍬者』を雇い入れ、積極的な諜報活動を行っていた。服部半蔵らの伊賀者を雇い入れるのはこの先のこと。江戸幕府の成立時には、徳川家の諜者は、伊賀者、甲賀者、黒鍬者で構成されている。家康の諜報活動を知った秀吉は、家康も自分と同じような心理状態にあるのではと考えていた。
こうした諜報活動が活発化する中で、秀吉の足として藤孝に接近していた前野将右衛門は、いつしか藤孝の温厚な性格と高い教養に惚れ込むようになり、藤孝に学び和歌,連歌、茶の湯を楽しむようになっていった。そして、齢を重ねると武官から文官へと変貌していく。
その後、天下人となった秀吉とは、かつての信頼関係にはなかったが、藤孝との仲は一層親密さを増した。将右衛門の『嫡男・影定』と藤孝の嫡男・細川忠興の娘の『御長(おちょう』が結婚し、二人の絆はさらに強められていく。
本能寺の抜け穴
秀吉が面従腹背の鬼となって、人生の転機に走り出していた秀吉は、突然信長に呼び出され、官兵衛から譲ってもらい居城としていた姫路城から安土城に入った。要件が告げられないことが多い信長の呼び出しだが、それでも大半は察しがついた秀吉だった。しかし、今回は何も思い当たる節がなく、面談の直前には緊張と恐怖感に体が珍しく震えた。しかし、信長からの敵地の平定を督促する叱咤の伝令はあったものの、現地事情をまめに報告することで特段の叱責には至らなかった。そして、冷や汗を拭いて胸を撫でおろすのであった。
信長は入洛した場合には、その目的などにより様々な場所に宿泊を重ねている。
二条屋敷は12回、妙覚寺は20回、本能寺は4回、その他・10カ所で14回となっている。
本能寺は、1581年(天正9年)に、盛土をして外構を高くする防備のための増築工事を行っている。信長がこの小寺を手に入れたのは、1579年5月(天正7年)のこと。当時の法華宗と浄土宗の安土争論の結果によるものだった。争論に負けた法華宗の寺の中から、信長は最も小規模の本能寺を選択し手に入れている。妙覚寺や妙顕寺から宿先を初めて本能寺に移すと発表した往時には、京の雀は織田家の宗家である法華宗を追い出してまで、妙覚寺よりもひと回りも狭い本能寺に居を変えたのは、何故なのかと首を傾げて囁い合っていた。
その頃の秀吉は、信長との接触をできるだけ避け、一定の距離を置くように努め、攻略には意識的に時間をかけている。その裏では、様々な情報収集のための諜報活動を行う一方で、配下の組織を拡充し新たな味方の増強を図っていた。
幸い、中国方面の武士の間では、信長の恐怖政治に対する反発が強かったため、秀吉の快活な性格と柔軟な対応策には、人心を十分に把握できるだけの魅力があり、武士に止まらず民衆にも評判が良くて人気も高かった。
話は戻って、1581年(天正9年)の信長から突然の呼び出しの命令。それは、意外なことに土木工事の仕事であった。本能寺に信長が宿泊する場合に、万が一の際の逃げ道となる『抜け穴』を作るよう秀吉に命じた。それは、絶対的な秘密厳守を要するもの。
秀吉は因幡の鳥取城を攻略中ではあったが、ただちに信頼ができる土木工事に精通している前野将右衛門に普請奉行の役を命じた。将右衛門は、中国戦線の毛利攻めでは、敵の城壁の下へと横穴を掘り、真上の敵の砦を爆薬で崩壊させるという新たな技術を持っていた。穴掘り、封鎖、崩壊は手慣れたものであった。秀吉はそのような命令に安堵しつつ、帰路では信長の弱みを掴んだことで、心底で面従腹背の鬼の顔でほくそ笑むのであった。
信長の命令は、本能寺に横穴を掘らせ、全長150間ほど離れたキリスト教徒の『南蛮寺』と繋がる抜け穴工事の特命であった。本能寺における緊急時の避難場所や脱出通路となるものであり、信長は工事と横穴の存在を秘密にするため、工事終了後には請け負う金堀人足を全員殺せと厳命していた。この工事は翌年の2月に完成している。
完成後の視察に立ち会ったのは、信長と小姓衆の森乱丸と黒人の弥吉であった。従って、本能寺の金堀の秘密を知る者は、秀吉と秀吉から工事を請負した普請奉行の前野将右衛門らの計5名のみであった。視察の際、信長は一人笑み浮かべてふと独り言を漏らした。
(本能寺は小さくて、南蛮寺に近いのがいいのじゃ・・・)
秀吉が最も愛した女
1581年(天正9年)6月。秀吉は、因幡の鳥取城を攻めるために姫路城を出発した。前年に引き続き、今回の行軍とその攻略も緩慢な動きに終始し、専ら京都を対象にした諜報活動に専念していた。信長の督促にも、まめに苦戦の戦況を報告していた。しかし、その裏では頻繁に姫路と京都、姫路と岡山城を精力的に往復していた。
岡山城では、秀吉の調略によって毛利から織田方に寝返り、この年に病死した宇喜多直家の継室であった『福』との密会を愉しんでいた。福は、美作国・高田城主の三浦貞勝の妻であったが、宇喜多直家に夫の貞勝が滅ぼされると直家の継室になった。直家の正室に子がなかったため、直家が死去すると福の子供の三浦秀家が宇喜多家の跡取りとなった。
秀家が幼少であったため、宇喜多家の実権は母親の福が握っていた。ただ彼女は、宇喜多家の旧臣から疎まれ、旧臣とのいざこざが絶えず悪女との評判が高かった。幼く跡取りとなった宇喜多秀家のために、福は秀吉の権力を頼りとした。
福は、美浦家当時から中国一の美人といわれる妖艶な女。この年36歳の姥桜ではあったが、美しい顔立ちと溢れんばかりの豊満な肉体は、まさに熟女の香しき色気に満ちていた。
息子のために、秀吉歓待のための無聊(ぶりょう)を務めた福に、秀吉は一目で惚れてしまった。女好きの秀吉は、これまで京都で身を売っていた貧乏公家の若い娘に狂奔していたが、これまで経験したことのない熟女の秘技にのめり込んでいった。秀吉は天下人になった後も、この福を側室の一人として聚楽第に迎えている。
茶屋四郎次郎の屋敷で家康に密告
明智光秀の京屋敷は、東宮が1579年(天正7年)に移り入っていた新御所からそう遠くない京・二条にあった。この自邸は、幕府奉行衆時代からの屋敷で、100名以上が収容できる規模がある。
このことから『本能寺の変』の舞台となった①二条の新御所②織田信忠がいた妙覚寺(京・室町通り二条下ル)③織田信長が宿泊していた本能寺(四条西洞院)④徳川家康が宿泊していた茶屋四郎次郎の自邸(本能寺からすぐの斜め前)⑤光秀の京の自邸、はその全てがおよそ3km四方の範囲内にある。なお、信忠の手勢500人は妙覚寺の近くに分宿していた。
本能寺の変の直後、茶屋四郎次郎は早馬で自邸を出発し、堺にいる家康に急報を届けている。家康は堺で今井宗久、津田宗久、松井有閑などから茶の接待を受けた後、京の本能寺に戻る予定であった。
さて、本能寺の変の一週間ほど前の5月23日の夜。光秀と斎藤利三は頭巾を被り、闇の中を家康が宿泊している茶屋四郎次郎の私邸を訪れた。目的は、信長の命令による家康暗殺と、その信長に謀反し彼を誅殺する覚悟を伝えること。
家康側は、家康、石川数正、酒井忠次が同席。双方が緊迫する空気の中で、光秀が織田信長を弑逆する旨を、緊張気味にかつ気迫を示しつつ伝える。家康家臣は動揺を示す。しかし、家康は何も語らず、冷静に光秀の口上を黙って聞き入っていた。
光秀は、決行の日時、場所及びその方法については黙して語らなかった。徳川側も誰一人として、実行の詳細について尋ねることは控えた。しかし、彼等の表情には、反発することも同意することも示さず、また疑問の余地を残すような表情は表すこともなかった。唯々、冷静を装って、光秀の言葉を真摯に聞き入っていた。おそらく徳川家としては、信長と近いうちに一戦を交える時が到来すると、既にその覚悟ができていたようである。
最後に光秀が家康に残した言葉は「私は徳川殿とともに、天下万民のために正しい法を世に広めることを致したい」であった。立ち去る間際に、斎藤利三は信長誅殺決行後の家康一行の逃避ルート(伊賀越え)について口添えをした。これが光秀と家康の今生の別れとなった。その頃、明智秀満は、丹波・亀山城において戦さの準備に追われていたのである。
第14章 本能寺の変
信長は光秀を最も信用
信長は光秀を最も信用していた。一例にすぎないが、1579年(天正7年)に明智光秀が播磨の黒井城を平定した際に、織田信長は「粉骨砕身の活躍による名誉は、比類ないものである」として、黒井城を与えるとともに感状も与えている。さらに、光秀が丹波と丹後を平定した際にも、丹波を光秀に、丹後を藤高に与えている。その折にも「明智が永年、丹波に在陣し、尽力して度々の成果をあげたことは、比類なき功である」と褒めたたえるとともに、感状を与えている。だが、こうしたことは、決して光秀ばかりを贔屓にしてのことではない。功の程度による軽重の違いはあっても、功があれば、信長は何かしらの賞を家臣に授けている。
信長的には『韓非子』の教えにある『二瓶』に基づき、淡々と家臣の功績に応じて賞と罰を与えてきただけのこと。従って、家臣の中では、光秀と秀吉の功績が大きかったことから、結果として二人の恩賞が家臣の中で飛び抜けていたもの。つまり、戦時における軍略と兵站の総合的な指揮官として、二人は家臣の中で格段に能力が高かったのである。
ただ、光秀の場合は秀吉に比べて、細川藤高の支えもあって朝廷、幕府、寺社などとの交渉能力と仕来りの儀典職にも精通していた。さらに、築城や城下町の整備などの治政にも長けており、家臣の中では総合力ナンバー・ワンだったことは間違いがない。
その居城は坂本城と亀山城だが、その他にも黒井城、周山城、金山城、宇佐山城、福知山城、田中城、淀城、勝竜寺城、筒井城と城持ちでは家臣最大であった。勿論の事、それらの諸城には直臣や与力が在城している。例えば、黒井城は斎藤利三が城代、福知山城は明智秀満が城代、勝竜寺城は与力の細川藤高、筒井城は与力の筒井順慶に与えられている。
こうした中で信長は、光秀の娘(二女)を信長の甥である織田 津田信澄(かつて自らだまし討ちにした実弟の子)に、そして藤高の嫡男・忠興にも光秀の三女・ガラシャを嫁がせている。これらは先述したように、信長・外様家臣団の横断的な戦力強化と団結を狙ったもの。このように、信長は家臣の中で、最も光秀を信用し信頼もしてきた。
その証(あかし)となる最も表徴的なイベントがあった。それは、信長を弑逆する『本能寺の変』の一年ほど前のこと。1581年(天正9年)2月28日に京都で行われた『馬揃え』である。
馬揃えのイベント・プロデューサー
光秀が最も華やかに輝いたのは、光秀が総責任者(イベント・プロデューサー)となって『馬揃え』における『惣奉行役』を信長から仰せつかったことである。
これは、畿内と近隣諸国の大名らを多数集めて、天皇家(公家、妃方、女官を含む)に御覧いただく馬上行進の一大イベント。織田軍団の諸将、織田家一門、公家衆(近衛前久など)、旧幕臣衆、お馬廻り衆、お小姓衆、お弓衆(100人)が各々装いを工夫して馬上行進を行うもの(馬に寄り添う役は中間衆が担当)。
その馬備えのメンバーは豪勢で、織田軍団の勢いをリアルに表徴している。
馬場入り順に、①丹羽長秀と摂津州衆、西岡衆②蜂屋頼隆と河内衆、和泉衆、根来衆、佐野衆③明智光秀と大和衆、上山衆(かみやま)④村井貞成と根来衆、上山衆(うえやま)、⑤織田信忠と美濃衆、尾張衆⑥織田信雄と伊勢衆⑦織田信包、織田信澄、織田長益、織田長利の他、織田家一門衆⑦近衛前久と公家衆⑧細川昭元と旧幕臣衆で、これにお馬廻り衆、お小姓衆、お弓衆が続いた。
上京の内裏の東側に南北八町の馬場を築き、内裏の外側に仮の御殿である『清涼殿』を作った。そして、天皇の出御を賜わり、公家などの殿上人も華やかな衣装で列席している。
「彼等は興じて大変喜んでいた」と『信長公記』に綴られている。
信長の威厳を、最大限にPRするための輝かしいイベントを光秀に全任している。
これだけを見ても、信長がいかに光秀を信頼し、重用していたことがよく分かる。
織田軍団の方面別メンバー構成
『本能寺の変』の直前における織田軍団の方面別・軍団構成は次のようになっていた。
北国方面軍は、柴田勝家(佐々成正、前田利家と与力衆)。近畿方面軍は、明智光秀(細川藤高、筒井順慶らの与力衆と摂津衆などの友軍)。関東方面軍は、滝川一益(上野衆らの与力衆)。四国方面軍は、神戸信孝(三好康長らの与力衆)。中国方面は、羽柴秀吉(宇喜多秀家らの与力衆)
勝家らは越中で上杉軍と対峙しており、簡単には動きがとれない。一益らは遠く上州・厩橋にあって、その兵は主に信州や上州で新たに傭兵した者が多く、決して一枚岩の状態にはない。そのため、簡単には領国を離れることができない。神戸信孝は、信長から15,000の兵を預けられ、四国の長宗我部を征討するために、丹羽長秀の5000の兵とともに渡海の準備中にある。秀吉は、毛利征伐で備中・高松に30,000の兵を擁している。
だが、毛利全軍が結集すれば50,000の大軍になるため、のらりくらりと和議の道を探っている状態にあり、勝手には身動きが取れないはずであった。
一方、織田家の一門衆では、嫡男・信忠は、美濃・岐阜城主であるが、信長の命により京の妙覚寺を宿にして、堺と京を往来していた。次男の信雄は、伊勢松ヶ島城にいた。甥の織田信澄は近江大溝城主であるが、城代として大阪城に居残っている。実弟の織田信包は、伊勢の安濃津城にいる。もう一人の実弟の織田長益(有楽斎)は、前田玄以とともに信忠の補佐役兼留守役として妙覚寺にいる。五男の羽柴秀勝は、秀吉の養子として近江・長浜城に在城。さらに、近習衆では、堀秀政が備中・高松に在陣。矢部家定は四国征伐の準備中。長谷川秀一は、家康を和泉・堺に案内中。菅谷長頼、福富秀勝、森成利らは信長の上洛の御供をする。なお、周知の通り、信長の同盟者であった徳川家康は、信濃・甲斐攻めの功績により遠江と駿河を与えられ、信長の『同盟者』から、その『家臣』へと変わっていた。その家康は、信長の命により安土城で饗応を受け、京を経て堺見物に向かい、その後の本能寺での茶会に招待を受けていた。
これらの織田軍団の編成と置かれていた情勢を勘案すれば、京に万が一の異変があった場合には、先ず、京都所司代である村井貞勝の直轄軍1,000騎が駆けつける。続いて、近畿方面軍団の明智光秀とその支配下にある細川藤高、筒井順慶らの与力衆などに加え、中国攻めで待機している後援組の高山右近などが終結すれば、総勢35,000騎を超える大軍団が大波となって、京に押し寄せることになる。
しかし、その近畿方面軍団の統率者である光秀軍が謀反を実行する。本能寺の信長の供廻り衆は僅か30人程度。妙覚寺に居る信忠には、500人ほどの将兵がその近くに分宿しているだけ。光秀が謀反を実行した場合には、勝敗の行方は火を見るよりも明らかなことであった。
本能寺・茶会後の信長の戦略
さて、本能寺における茶会後の信長軍団の大きな目標は、三本柱で構成されていた。
(1)は、肥大化しすぎた徳川家康を6月2日に本能寺で暗殺する。そして6月3日以降には、嫡男・信忠を総大将にして光秀軍とともに、主君と重臣の居なくなった三河、遠江、駿河の家康領に進軍し侵略すること。
(2)は、既定路線通りに四国征伐を行うこと。即ち、6月4日に伊勢・神戸城主である三男の神戸信孝を総大将として、丹羽長秀らとともに大阪から四国へと渡海する。
(3)は、中国攻め総大将の羽柴秀吉から応援要請のあった毛利征伐に信長自身が向かうこと。
これについては、安土城に温存している留守部隊が信長の出馬命令によって、京に到着次第、信長の護衛軍団も兼ねて、信長とともに中国に向けて出立する。これに伴い、安土城と岐阜城には、信忠と光秀の軍団の一部を在城させる。
信長は、小姓を通じて安土城の留守部隊に次のように命じている
「・・・直に中国へ御発向なさるべきの間、①御陣用意して、御一左右次第、罷り立つべき旨御触れにて、この度は御供これなし・・・②去るほどに不慮の題目出来して・・・」
最初の①の部分は「留守の間に出陣の用意をして待機するように」と言う命令である。しかし、三河・遠江・駿河への出陣なのか、中国征伐への出陣命令なのかは文面上では明らかになっていない。ただ、留守部隊には蒲生氏郷などの直臣が多いことから、信長に付き従って、中国征伐への出陣ではないかと考えられる。
この場合、信長が自ら毛利攻めに出陣するリスクも当然考えられる。
だが、むしろ秀吉の支援要請の意図は、大きな手柄を秀吉自身が得ることではなく、信長に花を持たせる意図があったといえる。その理由は、既に瀬戸内海を支配する村上水軍を率いる村上武吉・元吉親子が降伏し、秀吉に忠節を誓っていること。さらに、四国の三好勢も既に味方に付けていることもあり、毛利征伐は手の届くような時間の問題にあったからといえる。
②の部分は、これは家康暗殺のことだと思われる。つまり、家康一行に安心させるために「此度は御供これなし」に繋がっており「不慮の出来事が生じたから、今回は御供なし」になったと、理解することができる。
但し、ここで言う不慮のこととは、これから起こり得る家康の暗殺に関することなのか、又は信長が持参する逸品の名物茶器の披露に関することなのか、は判然としていない。
しかし『去るほどに不慮の題目出来して・・・』と表現するからには、余程の重要な案件であることに間違いはない。
敢えて、もう一つの可能性を探れば、朝廷からの『三職推任』の件が残っている。
朝廷では、6月2日以降の吉日にその儀式を執り行いたい、としていた。
しかし、四国攻め、中国攻め、家康暗殺が控える重要なタイミングが続く中で、征夷大将軍の戴冠式を受ける気持ちの余裕も、日程の余裕も信長にはないはず。従って、これを「不慮の題目出来して・・・」と表現することには大いに疑問がある。
6月4日には、中国征伐に向けて出立しなければならない。
その前に、朝廷における儀典的な儀式と御礼などのハード・スケジュールをこなすのは、さすがのスーパー・パワーの持ち主である信長でも難しいのではなかろうか。
茶人は情報屋
茶会の在り様は、時代とともに変化している。
戦国時代にあっては、武士が戦時の精神的な疲労を癒す目的や茶器などの名器を所有する武家としてのステータスの一面があった。
そして、最も重要なことは、茶会が『情報交換の場』であったこと。
大名によって差異はあるが、信長は家臣に対して、茶会を勝手に催すことを禁じていた(許し茶湯)。専門書によれば、戦国時代の茶会は『御茶之湯』と呼んでいたそうだ。
信長から茶の湯を許されていた家臣は、順番に①織田信忠②明智光秀③佐久間信栄④羽柴秀吉⑤野間長前⑥村井貞勝となっている。
その一方で、信長は、茶器などの茶の道具を褒美として家臣に与えている。但し、前述のように茶道具を下賜されても、必ずしも茶会の主催を許されるものではなかった。
従って、家臣としては、褒美の一面とステータスとしての二面があった。
光秀も八角の釜、平釜、築柴などを下賜されている。
だが、藤高は許し茶湯されることもなく、茶道具も下賜されていない。
さぞかし無念であったことだろう。光秀とは友情で結ばれている一方で、自分は教養人で文化人だと自負しているにもかかわらず、ステータスとしての茶の湯を許されず、茶道具も下賜されていないことに、嫉妬心が芽生えないはずがない。
但し、茶人の津田宗久の記録『天王寺屋他会記』によると、1581年(天正9年)4月10日に、福知山城(城代・明智秀満)において茶会が行われ、細川藤高も出席している。
参加者は、光秀、秀満、光慶(光秀の嫡男)、藤高、津田宗久、山上宗二、里村招巴らである。これを見る限り、公式的な茶会の主催は許されてはいないが、身内のことであれば許される、と解釈することもできる。若しくは、招待客で招かれることは構わないのかもしれない。
なお、信長が生存していた頃の戦国時代の著名な茶人は、島井宗室、津田宗及、今井宗久、神谷宗湛、長谷川宗仁、塩屋宗悦、山上宗二、千宗易(利休)、島井宗叱、楠木長庵などがいる。これらの茶人の多くは、堺や博多などの貿易商人でもある。
従って、どの茶人・商人も全国の大名らと何らかの関わり合いを持っている。
本来は商人が本業であるから、武器弾薬などの戦時用品から米などの食糧に至るまでの多くの物品売買と金子の貸し出しまでを行っている。従って、全国の大名らと一蓮托生で繋がっている。
当然の事ながら、売買に伴う情報を得ており、そういった他の大名の情報を欲しがる大名も出てくる。このようにして、彼等は茶人であるとともに、政商としての二つの顔を持っていた。
このことから、戦国時代の茶会、御茶之湯は、大名、幕府、朝廷、商人などにとって、幅広い情報交換の場であり、かつ社交の場でもあった。情報欲しさに御茶之湯に参画すれば、一方で自分の抱える情報も流出するリスクも少なくない。だが、大名らはライバルの情報欲しさに茶人を招いて茶会、御茶之湯を開いていた。こうしたことで、茶人の元には、ますます多くの情報が集まり、その度に政商たる茶人は肥大化していったのである。
本能寺の茶会
『本能寺の変』の前後に本能寺で行われる予定の茶会は二つ設営されていた。双方とも信長が主催し設営していたもの。
一つは①6月1日の朝・茶会。博多の豪商で茶人でもある島井宗室とその義弟である神谷宗湛の二人が招かれていた。信長の目的は、趣味で狂奔していた名茶器収集の一環で島井宗室が所有する『樽紫肩衝(ならしばかたつき)』を手に入れること。
信長は三大名器のうちの『初花肩衝』と『新田肩衝』をすでに手に入れており『樽紫肩衝』を手に入れれば、三大名茶器を全て所有することができる。
しかし、政商でもある島井宗室はただでは進呈しない。信長が四国、中国、九州を征服した暁には、それらの地域における商業利権との交換を要求したものと考えられる。
信長の入洛の当初の予定日は、5月28日であったと言われている。しかし、29日に大雨の中を38点のいずれも逸品の茶器を運んで本能寺に駆けつけたのは、島井宗室らのスケジュールに合わせたものと解釈できる。
そして、この突然の変更に驚いたのが公家衆であった。この日に約束のなかった山科言経など公家衆40人ほどが、朝・茶会後の午後に自主的に本能寺に駆け寄っている。
彼等は茶会そのものには招かれてはいない。信長は止む無く持参していた38点の名物茶器などの逸品を彼らに披露している。
おそらく公家衆の来訪の目的は、三職推任の件で信長が上洛したものと考えて、挨拶と祝いの品々を持参してきたものと考えられる。しかし、それらの進物品は全て返却されたと記録されている。これを見る限りでは、この時点の信長脳には、三職推任やその戴冠式などの件については、優先度が低くかったとみて良い。
その一方で、彼らのとの雑談の中で信長は「此度の西国の手づかいは、4日に出陣申すべく候。手立て、雑作あるまじきこと・・・」と中国征伐については、楽観視しているとともに、大いに自信を持っていることを吐露している。これは秀吉が戦況を判断して、主君・信長に花を持たせる意図から、信長自身の西征を促していたことの裏付けになる。
なお、この日、徳川家康は信長家臣の長谷川秀一の監視の中で、穴山梅雪とともに堺の津田宗久宅で行われていた茶会に参加している。茶会の後には、懐石料理が振る舞まわれるなど豪華なもので、家康は長閑(のどか)な時間をすごしていた。
家康はいたく感激し、御礼に、宗久の息子に糟毛(かすけ)色の馬を贈呈している。
一方、29日の話。亀山城で出陣の支度をしていた光秀に、信長の御供で京にいる森乱丸からの伝達文の早馬があった。その内容は「中国侵攻の出陣の用意ができたか、信長様が陣容などを検分したいので、連絡するように」とのことであった。
光秀は、既に13,000人の陣容が整っている子細を認め、すぐに返書を本能寺の森乱丸のもとに送った。そして、光秀はカモフラージュのため、弓や鉄砲玉の入った長持ちなど100個の荷駄を運ぶための兵站部隊を、中国方面に向けて出発させたのである。
この乱丸からの督促は、信長らしくないものであった。中国への遠征であれば、多くの合戦を経験し最も信頼を寄せている光秀に、出陣の準備を確認する必要性はない。さすがの信長も、家康の暗殺を前にして光秀が躊躇しているのではないか、と猜疑心に襲われていたのであろう。
かたや、もう一つの②本能寺における朝・茶会は、翌日の2日に設営されていた。
これは周知の通り、徳川家康らを招いての茶会である。即ち、家康を暗殺するために仕掛けられた茶会。光秀は、1日と2日の茶会における『詳細情報』を事前に得ている。
それは光秀と旧知の仲でもあった『島井宗室』からの情報によるもの。
光秀と島井宗室は、この年の1月25日に坂本城で茶会を行っている。
その席には、津田宗久も招かれており、光秀が自らの点前で茶が点てられたと、記録されている。光秀は、信長の密命によるこの仕組まれた2日の茶会の開催そのものは当然知ってはいたが、確実に家康を招いての茶会が実施されることと、その詳細についても事前に情報を得ることができていたのである。なお、島井宗室と神谷宗湛の二人は、1日の茶会の後は共に本能寺に宿泊していた。だが、翌朝の本能寺の変では運よく難を逃れている。これは、偶然の運の良さのこととは思えない。
家康暗殺の大芝居
かくて織田信長は、1582年(天正10年)5月29日に大雨の中を、安土城を出発して京の本能寺に向かった。
信長は本能寺で茶会を開く。そこに家康を招くに当たり、家康とその重臣や警護団を安心させるために、織田信益、蒲生賢秀、木村高重、山岡景佐など信長本隊には、先陣の用意をして安土城で待機するように指示するとともに、命令次第で出陣せよと命じている。
そして、小姓衆、馬回り衆などの近習三十人余りだけを連れて上洛したものである。
その一方で、別の上洛の触れも出している。そこには、明智光秀、筒井順慶、細川藤孝、徳川家康宛てに「6月2日に本能寺に出頭せよ」との命令が含まれていた。
明智光秀、筒井順慶、細川藤孝は茶会に招かれたのではない。出陣の用意をして出向けとのお達しである。中国征伐に向かえ、と言っておきながらの矛盾した命令でもある。
光秀は家康暗殺指令を受けているが、他の二人は光秀の与力ではあるが、そのことを知らない。ただ、藤高は、光秀が信長を弑逆することをほぼ確信している。
結果的に、いち早く本能寺に向かったのは光秀軍だけであった。藤高と順慶は、何故に本能寺に来なかったのか。それは、光秀が信長を弑逆することを知っていたからではないのか。若しくは「本能寺には行くな」と誰かに止められていたのであろうか。その謎を解く鍵は、山崎の合戦後に、羽柴秀吉から両人が受けていた恩賞にありそうだ。
近畿地域における最大の軍団であった光秀を中国出陣と偽り、家康饗応役を解任してまで坂本城に帰還させていたにも関わらず、その一方では、このような矛盾する命令も発出していた。これらのことは、洛中にある家康を安心させた上で、家康を暗殺するための大芝居であるとともに、暗殺後には、直ちに家康領に討ち入る計画そのものであった。
即ち、信長自身は軍団を擁せず、裸の状態で本能寺に居るので、家康にも安心して茶会に参れという演出である。
しかし、この自作・自演の演出が、我が身を滅ぼし墓穴を掘ることになってしまう。
それも家臣の中で最も信頼し、最大の恩賞も与えてきた優秀なる家臣が、まさか我が身に刃を向けて逆臣するとは露ほどにも思っていない。
2日の未明に『信長は明智が自分を包囲している次第を知らされると、何でも噂によると、口に指をあてて「余は、余自ら死を招いたな」と言ったということである』。
これを書き残したのは、イスパニア商人のオビラ・ヒロンである(『日本王国記』)。
これこそが、光秀に家康暗殺の逆手をとられたことで「余は、余自ら死を招いた」として「是非に及ばず」の言葉に繋がっていったもの。
愛宕百韻と祈願
時は少し遡って、5月27日。
明智光秀は愛宕山・山頂の『愛宕神社』で祈願を行っている。勿論の事、織田信長を暗殺する祈願であり、これを数回にわたり行っている。
そして翌28日には『勝軍地蔵』での戦勝祈願に続き『威徳院・西坊』において連歌の会を設営している。その夜は、そのまま威徳院に宿泊している。
『愛宕百韻』と呼ばれている光秀の連歌の発句である「ときは今天(あめ)が下たる五月かな」は、あまりにも有名。ただ、この愛宕百韻の解釈には様々な指摘がなされている。
本来であれば、光秀による発句のみにとらわれず、あくまでも連歌であることから、百韻全体から滲出する意味を分析する必要がある。しかし、いずれにしてもこの百韻の中で、光秀が信長討ちの意志を表明したことは確かなこと。
この愛宕百韻には、嫡男・明智光慶(13歳)、里村紹巴、威徳院行祐、東行澄に加え、里村心前、里村昌叱、宥源猪、苗代兼如が参加している。
発句は光秀の「ときは今 あめが下しる 五月かな」に始まり、脇は行祐の「水上まさる 庭の夏山」続く第三句は、里村紹巴の「花落つる 池の流を せきとめて」と続く。
発句は、我が祖である「土岐」をいい「雨が下しる」は「天下」をかけ、父の遺言でもある我が祖の守護・土岐氏の再興を願うとともに、その実現のために織田信長の暗殺を祈願したもの、と一般的には解釈されている。
但し、光秀が若い頃から継続して、その土岐再興の大志を抱いていたかは疑問の余地がある。若き頃の光秀は、父の遺言も忘れた様に放蕩生活を送り、進士家や明智家に養子入りした後でも、女にうつつを抜かすような乱れた生活を送っている。青春の日々の中で、常に、胸中に土岐氏再興を抱いていたという訳ではない。
ほぼ天下を手中に治めている織田信長を討てば、我が身が天下を治めることによって、守護・土岐氏の再興が叶うものと、信長打倒のスローガンに掲げたことでは理解できる。
しかし後述するように、百韻は複数人による句のリレーにある。
冒頭の発句に光秀が立ったことは、光秀の『今の』境地を語るあたり、先ずは季語に語呂合わせをして「時は今・・・」と発句し、同席者に土岐氏の『土岐』と、今現在の『時』を捩(もじ)ったのは間違いのないところ。ただ、その事と土岐氏再興を現実的かつ真剣に考えていたのかは、別の問題であって議論を要するところ。
前述のとおり、この『愛宕百韻』については解釈をめぐり議論が百中している。古典文学者ではないので、テクニカルな論評をすることはできない。ただ、少なくとも当該『百韻』の全てについては、網羅的に分析された上で議論がなされてはいない。
この連歌全体を分析せずに、上記の冒頭の一部分(光秀発句のみ)を巡る解釈ばかりが先行してしまったきらいがある。百韻の全体像を網羅した上での分析が少なかったのは残念なこと。
前久の企図による愛宕百韻
この愛宕百韻は、光秀が自主的に施行したものと一般的には理解されている。
しかし、一説によれば公家の近衛前久が連歌師・里村紹巴に、連歌の開催を依頼したとされている。そこには、参加する光秀に謀反の意志があることを確かめる意図が隠されていた。それは、百韻にわたる長い連歌の中で、それらを詠う参加者の心が、そこかしこに滲み出ることを知っていて企図されたものと考えられる。
つまり、連歌は五七五の発句に七七の脇句をつけて、さらに第三の脇句を付けてゆくもの。前句とは関連するものの、前句を受けた者は自分の新たな思いで別世界を作り上げていく。まさに、その別世界にこそ、歌う人物の心根が吐露されており、そのことが歌に滲出して表われるもの。この連歌全体を読み解いた前久は、光秀が確実に謀反を実行する、と確信できたはず。なお、古典文学者の多くは、この連歌のストーリーが『平家物語』の平家打倒の覚悟(信長は平氏、光秀は源氏の流れ)を表したものと同じ心根にあった、と読み解きしている。
その一方で、ある返句で光秀は「深く尋ぬる山ホトトギス」と返している。
これは「迷いを振り切ろうと、ホトトギスの鳴く道を愛宕山まで訪ねて来た」と、告白を返しているものと読める。また、長句では「旅なるをけふはあすはの神も知れ」と詠み、続いて「朝霞み薄きがうへに重なりて」と詠んでいる。これは、年老いて髪も薄くなった我が頭(こうべの中)を迷いの朝霧が覆っていると、亀山城の情景と老境の自分の心境を合わせて詠んでいるといえる。つまり、光秀は老境にあって自分の先行きに不安を抱いていた。
妻の死を憐れむ光秀
最後に、あまり知られていないが、坂本城で病に倒れて死亡していた妻『煕子(ひろこ)』に対する光秀の哀愁の『短歌』も残されている。
それは「おもいなれたる妻もへだつる」である。
光秀の妻・煕子は、実妹の『お妻木の方』が前年の4月に信長によって成敗されて以来、そのショックによって心の病にかかっていた。現代の病名で言えば『重いノイローゼ』。
このため、煕子は、毎日のように床に伏していることが続いていた。それを知った細川藤高や吉田兼見からは、お見舞いの文と品物が寄せられていた、と記録に残されている。
愛妻の病死も、サイコパス信長への怨念に繋がっていったことは否定できない。
光秀謀反の情報
この6月28日の愛宕百韻の内容は、すぐさま連歌師の里村紹巴から関白・左大臣の近衛前久に伝えられるとともに、吉田兼見、細川藤高、前野将右衛門、羽柴秀吉へと伝えられていく。
そして、前久は光秀の信長弑逆の実行を確信するとともに、信長と家康が共にいる6月2日の本能寺における朝・茶会が、その実行舞台になると確信するのであった。
この情報の伝達により、秀吉も光秀謀反の実行日と場所をほぼ特定することができた。
一日あれば、十分に備中・高松の秀吉陣幕にはこの情報が届く。つまり、秀吉は本能寺の変後に光秀の謀反を知った訳ではなく、その実行日の以前に、既に確証的な情報を得ていたのである。
従って、秀吉は備中・高松の陣で、偶然に信長弑逆の文を持った者を捕らえたという通説は事実ではない。この通説では、6月3日の夜半に、光秀から小早川隆景に宛てた密書を抱えた者が、偶然にも秀吉の陣中に紛れ込み、捕らえられ秀吉が『本能寺の変』を知ったということになっている。しかし、山崎の合戦に勝利した秀吉の藤高親子に対する感状や、その後の厚待遇ぶりをみれば、細川藤高、前野将右衛門、羽柴秀吉は、変の前から一味同心にあったことが頷ける。
その藤高は、山崎の合戦で秀吉に味方して光秀と戦闘したこともなく、表面的には中立の姿勢を貫いただけのこと。それにも拘わらず、秀吉は藤高に特段の謝意を示すとともに、その功について現実的に報いている。それを証明する文書が残っている。
以下は7月11日に、秀吉が藤高親子に発給した起請文の内容。
「此度の信長御不慮について、比類なき御覚悟を持ち頼もしく存じ候条、別して入魂申し上ぐるは、表裏公事を抜きんずるなく、御身上見放し申すまじき事。①存じ寄りの儀、心底残らず御為よき様に異見申すべき事。②自然、中意の族これあれば、互いに直談を以て相済ますベき事、右条々もし偽りこれあるにおいては、梵天、帝釈、四大天王、総じて日本国中大小神祇、殊に愛宕、白山、氏神、御罰深重被りべきものなり、よって起請文件の如し。羽柴筑前守秀吉。長岡兵部大輔殿」
これは①藤高が本能寺の変前及び変後において光秀の動向を逐一秀吉に報告していたこと。②変後は剃髪して信長の喪に服し、中立の立場を執ったことで、結果的に秀吉側に事実上味方することになったこと。③光秀の他の与力らに対して「我が身は中立するが、御貴殿衆は筑前守様に与力され、御身の安堵を図られよ」と説得していたことに関する謝意を表した感状。
こうした体制側に寄り添う身の処し方によって、その後の藤高は、豊臣秀吉、徳川家康の知遇を受けて、長きにわたる末代まで一族・郎党を繋いでいったものである。
一方、前久は、この変事の万が一の責任リスクを回避するために、関白の職を辞任する覚悟を決め、証拠となり得る信長打倒の連判状の破棄をすぐに行っている。
連判状には、細川、斯波、畠山、一色、京極、赤松などの幕府時代の旧大名らが連なっていた。今では不遇の元大名達であった。
本能寺の変後、明智光秀は一旦坂本城に戻っているが、翌日の6月9日に吉田兼見の屋敷において、近衛前久、一条内基、吉田兼見と会合を行っている。
この時に、一条内基が新たな『関白左大臣』になることが内定された。
前久や兼見は、散々、光秀に信長の弑逆を煽っていたが、いざそれが実行されると、その後の我が身の安全を優先する行動に豹変していたのである。
秀吉の行動と準備
信長が安土を出発し、わずかな供回りだけで上洛して本能寺に入ったことは、たちまち近衛前久など公家衆、京都所司代、光秀、家康、嫡男信忠、藤孝、そして藤孝から前野将右衛門を通じて備中・高松の秀吉にも伝えられていった。
秀吉は、1日にはこれらの情報を知ることになる。既に、光秀の愛宕山での参籠、勝軍地蔵への戦勝祈願や連歌師たちとの連歌の歌会にも大きな疑問を抱き、本来であれば西征すべき光秀の動きがあまりにも緩慢であり、毛利攻めの援軍としての中国入りはないものと疑っていた。そのため、毛利との和睦交渉を独断かつ水面下で敢行し、上洛への準備はほぼでき上っていた。本能寺で家康が討たれるのか、信長が討たれるかの確定的な判断はできてはいなかったが、藤孝の情報を分析する限りでは、信長と信忠親子が討たれる可能性の方が高い、と判断していたといえる。
それであれば、みすみす光秀に将軍になる機会を与えるよりも、信長の仇討の弔い合戦で、光秀を討って勝利することが、自分が天下の座を手中に収める近道だと決意を固めていた。そのことから、先発隊を陸路で京都に向けて出発させ、自分は和睦交渉の詰めに入っていた。そして、信長が討たれたとの訃報が翌日の2日の夜半に飛び込んできた。
即時、最終準備を整わせて、4日には毛利との和睦の儀式を終わらせると、ただちに、残りの部隊と兵器・武具を積み上げて、海路で姫路を目指し出発したのであった。
本能寺の変の動機
光秀が信長を弑逆した動機は諸説あり、それらのどれもが重なった複合的な動機と考えている。一般的に言われている『怨恨説』『野望説』『四国説』『黒幕説』『土岐氏再興説』が今でも議論されている。しかし、最後の直接的な動機に繋がったものは、信長の『サイコパスに対する怨恨』だったと結論付けたい。
そのサイコパスについても、病室的なものではなく、信長の基本行動の書である『韓非子』の基本骨格を成す『二瓶(にへい)』における『二つの柄(え)にある刑と徳』に学んだことによるものである。それも、いささか徳(賞)よりも刑、即ち刑罰に重きを置きすぎた故に、最後の最後になって、双璧の部下の一人である光秀に謀反され、弑逆されることに至ったと考えている。
韓非は、二瓶、つまり刑罰と賞について「君主が二つの柄を自分の手で握っていれば、臣下を『刑罰』で脅し、『賞(徳)』であやつり、思いのままにすることができる」と結んでいる。織田信長は、生涯この教えを一時も忘れることなく実践し続けてきた。しかし、最後になって、その韓非子の教えが破綻してしまった。やはり、行き過ぎがあったのだろう。
但し、この行き過ぎることの問題点にも韓非子は説いている。
失敗例として、ある君主が『賞(徳)』だけを使い、もう一つの『刑罰』は臣下に使わせた。こういった国が衰亡を免れた例はないと説く。つまり、この二つの柄を君主たる信長は使い続けるしかなかった。ただ、世の中に完璧はない。必ず小さくても矛盾は生ずる。その歪みが光秀の謀反、信長弑逆に結びついていったものと考えている。
藤高・裏切りの闇
少し早いが『本能寺の変』とその後の『山崎の合戦』に至るまでの細川藤高の行動と心の闇に触れてみる。
周知の通り、光秀と藤高はその上下関係が変化しているものの、共に艱難辛苦を経る中で厚い友情を育んできた。だが、光秀が信長の家臣筆頭に躍進するに連れ、藤高の心底には暗い闇が宿る様になっていった。しかし、光秀はその藤高の心の闇を知ることができなかった。そこに、藤高が二つの歴史的なイベントである『本能寺の変』と『山崎の合戦』における最大のキーマンになっていく素地があった。
本能寺の変の前には、藤高は光秀による信長弑逆の謀反の動きを、前野将右衛門を通じて備前・高松城攻めの陣に居る羽柴秀吉に伝えている。そして、変の直後には、予想される秀吉と光秀の対決に関して、藤高は光秀との友情を裏切り、保身のための決心を公にする。具体的には、光秀を結果的に裏切る旨の手紙を前野将右衛門に送っていたのである。
その内容は「本日、6月2日の未明に光秀逆心。上様と中将様をご生害、驚きに候。念のためにお知らせいたし候。我ら父子は光秀に一味同心せず、某は、髻(もどり)を払って上様の霊を弔うつもりであります。筑前殿にその旨をよしなにお伝えいただきたく存じます」と書き送ったのである。
同時に、嫡男の忠興には「その方は、鳥取の陣(鳥取城攻撃)などで秀吉殿のご家来衆と顔馴染みにもなり、覚えもめでたい。我が兵の半数ほどを率いて秀吉殿の軍と合流し、残りの兵は長岡の領地の守りを固めよ」と命じている。これはもう中立ではなく、むしろ秀吉側に廻っていたといえる。
そして、将右衛門からの返書は「殿は必ず毛利と和睦され、早々に兵を引き上げて上洛される。その時には、機を失わず出陣され、共に戦いましょうぞ」と認めてあった。
さらに続いて、7日には追加の書状が届く。
「(毛利との)和睦が成立し、羽柴勢は続々と姫路に返しています。殿は海路をとられ6日には姫路に戻られる。後続の部隊を待って、9日には姫路を出立される予定です」とあった。そして、その後の6月13日に山崎の合戦が始まっている。
翻って、光秀は信長の天才ぶりを見抜いて、藤高よりも早く信長家臣になった。一方、藤高は信長への家臣では光秀に遅れをとり、光秀の指揮下に置かれその与力に甘んじている。しかし、長らく屈辱が続く中で、偶然にも秀吉の異才ぶりを間近に見て(藤高の領地と秀吉が攻める鳥取城が近く、藤高は命令もあって協力する)、そのことを存分に知ることになった。その時以来、藤高は「秀吉は将来、必ずや光秀や信長を凌駕するのではないか」と確信していくのだった。
藤高が秀吉の異才を知ったのは、秀吉による鳥取城攻めにおける兵粮作戦の時。
即ち、1581年(天正9年)のことで、本能寺の変の一年ほど前の頃である。
藤高が領する丹後と鳥取城は近いため、信長からの指示があって「鳥取城を攻略する秀吉を支援せよ」と言われていた。
鳥取城は難攻不落の城。秀吉は人を殺さずに知略で城攻めすることを軍師・竹中半兵衛重治から学んでいる。秀吉は城側が籠城したため、ただちに兵粮攻めに着手する。これが成功すれば、味方の軍兵を失わず、勝てば敵方の軍兵が投降して、味方の勢力が増強される期待が持てるもの。
秀吉の異才に驚愕する藤高
この年の6月。秀吉は2万の軍勢を率いて備前・美作へと進撃を開始した。
吉川経家が立て籠る鳥取城は、四方とも人里から離れた険しい山城であった。城と西側の丹後半島の海岸との間には、大きな『袋川』が流れている。この川には橋がなく、2カ所に中継の出城があった。秀吉はその出城と本城の行き来を遮断するとともに、本城と出城をそれぞれ完全包囲する。そして、じっくりと兵粮が尽きるのを待った。
やがて、時は流れ収穫の秋になる。収穫期には、秀吉も鳥取城側も年貢米を徴収する。それでも、農民の手元には僅かながらも米は残る。そこで秀吉は、農民の手元に残った米を高値で買い漁ったのである。疑われることのないように、商人を使って米を買い取らせていく。すると、米の値上がりを知った籠城側も、城の蔵米(城米)を売りに出す始末になってゆく。
但州にも商人はいたが、藤高の丹後・宮津には中規模の廻船商人が揃っていた。そこで、将右衛門が藤高を訪ねてきて協力を求めた。藤高は二つ返事で承諾した。
毛利水軍が海から秀吉軍を挟み撃ちにして攻めてくる可能性もあることから、番頭(ばんがしら)の松井衆と有吉衆の1500人、数隻の大船及び60余りの警護の船を鳥取の秀吉軍に送り込んだ。加えて、丹後・但馬から船で頻繁に兵糧も運び込んだ。
これらにより、この戦いが終了するまで何年でも在陣できるように、周到な準備を行う秀吉の戦い方を目の当たりにしたのである。
これらの助力については、家老の松井康之に担当させるとともに、もう一人の家老である次男の細川興元には、信長と光秀との連絡・調整を担当させた。
特に家老の松井康之は、兵糧を鳥取城に運び入れるために沖に現れた毛利水軍と海上戦を行い、みごとにこれを撃退している。この功により康之は、戦いの勝利後に秀吉から褒美の太刀を拝している。それもあってのことか、康之は秀吉の異才ぶりに感激して「秀吉殿は天下を取れる大将の器にあります」と絶賛する。藤高も康之と同じ心中にあった。
ただ、この鳥取城攻めには5カ月の月日を要した。そのため3カ月を経過する頃、信長は攻めの途上にあると承知をしていたものの、秀吉ののらりくらりとした攻め方に苛立ち、安土での馬揃えが終了すると、8月13日に信長が自ら出陣して合戦を行っている。それには、光秀、藤高父子3人、池田恒興、高山右近、中川清秀、安倍二右衛門、塩川吉大夫らの光秀指揮下の近畿軍団の総勢が付き従っていた。
信長は、秀吉の知略による戦さも認めてはいたが、あまりにも長い時間をかけることには、否定的だったのである。そこで、秀吉に気合を入れさせるために、ライバル軍団の揃い踏みを実施したもの。光秀と藤高には、大船に兵糧を積ませて印旛の鳥取川に停泊させた。
毛利勢の水軍の攻めに待機させるためであった。
10月に入って、鳥取城内ではついに餓死者が出始めていた。そして10月25日。これ以上の餓死者を出さないために、吉川経家、森下道与及び奈佐日本介の三人は「切腹して首を差し出すので、城内の者を助け出していただきたい」と申し出をするに至った。
この秀吉の戦さぶりを初めて身近に見た藤高は、信長や光秀にはない知略と人間性に富んだ戦略を思いのままにやり遂げる、秀吉の異才ぶりに感動を覚えるのであった。
これまで秀吉を提灯持ちの小者とみて、小馬鹿にしてきた自分が恥ずかしくなった。
こうして藤高は、秀吉の異才ぶりを身近に見て、秀吉と将右衛門にますます接近する。
いずれ秀吉は、信長を超えるものと信じ、その思いを胸深くに刻み込むのであった。
なお、秀吉はこの戦いに5カ月の月日を費やしたが、この鳥取城攻めの功により、信長から感状と茶器一式を賜っている(感状と茶器だけでは物足りない気もするが)。
以上のことから、秀吉は将右衛門を通じて、藤高の手元にある光秀の行動の情報を入手していく。しかし、それは情報目的だけではなかった。
『人たらし』と言われる秀吉である。天下を横取りした後にも、家康の現役家老である『石川数正』をスカウトしたように、優秀な家臣を引き抜くことを常に執心している。
従って、いずれ儀典職に精通している藤高を秀吉側へスカウトする意図も十分に隠されていた。
本能寺の変
6月1日。朝・茶会が終わり、その後に行われた公家衆との名物自慢の歓談も終了した。
その後、信長と信忠は酒を酌み交わし、久しぶりの親子水いらずのひと時をすごした。
これが今生の別れになるとも知らずに・・・。信忠が妙覚寺に帰った後に、信長は囲碁対局を観戦して、その後に床に就いている。
一方、6月1日の午後6時頃、光秀軍13,000人は亀山城を出立した。
出発に際し、重臣の家族を人質として坂本城に集めるとともに、重臣には起請文も書かせている。ただ、重臣以外の家来たちは、まさか信長討ちとは露ほどにも思っていない。行軍が京に向かっていることで、敵は本能寺に来る予定の徳川家康と思い込んでいた。
光秀配下の本城惣右衛門の覚書に「攻撃対象が誰なのか、弑逆が実行されるまで判らなかった」と書いている。
同様にフロイスの著『日本史』でも同じようなことが書かれている。
「兵士たちは、この戦さが何のためなのかと訝り始め、信長の命令によって家康を誅するのだろう」と囁き合っている。
これらの話からは、当時すでに信長が家康を成敗する空気が流れていたことを物語っている。
京に向かう明智軍団は『老の山』を登り、山崎から摂津を経て京を目指した。
2日の早朝を迎えた頃には、桂川あたりに到着している。京に入ると、斎藤利三が率いる先発隊3000人は、ただちに本能寺を包囲する。
光秀本人は、100名は収容できるという自分の京屋敷を本陣として全般の指揮を執る。
一方、明智秀満の部隊は、本能寺から1kmほど離れている妙覚寺に至る筋道に兵士を配置し、逃げ出す者、通報に走る者などの織田勢の逃亡と集団化の防止に備えた。
光秀は、本能寺が陥ると同時に、妙覚寺にいる織田信忠らに攻め込む、二段構えの戦術を執っていた。前日、家康一行に同行し大阪にいた信忠は、堺に行くのを止めて家康一行と別れた。そして、本能寺において夜遅くまで信長と酒を飲んで歓談し、深夜になって自分の陣営がある妙覚寺に戻っている。
ともあれ、光秀軍総勢13,000人以上の多勢に対して、信長の元には、本能寺で先に在寺していた御小姓衆と御供衆などを合わせても70人弱、妙覚寺の信忠には、その近くに分宿している500人ほどの直臣と御供衆がいる。信長・信忠側の戦力は格段の劣勢状態にある。
その上、あり得ない突然の奇襲である。そのため、織田方は狼狽して右往左往する有様で、本格的な合戦の体にはなかった。従って、光秀軍は僅かの死者と負傷者であったことに対して、織田方の守備兵のほとんど全ての者が死亡している。
ただ、有力どころで生き残ったのは、妙覚寺で信忠に付き添っていた、かつて信長に兵站の者と馬鹿にされてきた実弟の『織田長益(有楽斎)』と『前田玄以』ら数人だけであった。
信忠に、岐阜に逃れて再起を図る様に進言した京都所司代の村井貞勝親子も1,000騎を連れて妙覚寺に入って戦ったが、その後に戦いの場を移した御所で討ち死にしている。
妙覚寺が落ちる寸前に信忠は御所に入って防戦した。しかし、劣勢を挽回することはできず、悪戦苦闘の末に切腹して果てた。
その信忠は死の直前に、叔父の織田長益に遺言を託している。
それは「岐阜城には織田家の正当な後継ぎである儂の嫡男の三法師がいる。三法師を密かに叔父貴の養子として育て、織田家を繋いで欲しい・・・」とするものであった。
なお、信忠が御所に移る際、御所にいた誠仁親王、若宮和仁親王及び女衆らを朝廷に移動させるために、連歌師の里村紹巴が籠を用意して待機させていた。この所業は、本能寺の変が起こり得ることを、事前に予知していたからこそ成し得たものと考えられる。
周知の通り、柴田勝家は越中で上杉景勝と交戦、丹羽長秀は四国討伐に向かっており、滝川一益は関東で北条勢と対峙、羽柴秀吉は備中・高松で毛利と対戦中であった。
同盟者から織田家臣になった徳川家康は、信長の命により京・堺を遊山中にある。
従って、万が一の危急の際に頼るべきは、近畿方面部隊で近くにいた光秀軍しかいない。その光秀軍が、こともあろうか信長と信孝を突然に急襲したのである。
天皇を超える存在になろうとする織田信長を葬るには、最初で最後のビック・チャンスであった。
黒人彌助(やすけ)と抜け穴
1581年(天正9年)2月。巡察師のヴァリニャーノは、アフリカ生まれの奴隷であった黒人を連れて信長に謁見している。年の頃は26,27歳と見え、身長は6尺2分(180Ccm)あり、牛のように大きい筋肉逞しい男であった。信長はこの黒人を一目で気に入り『彌助』と名付けて供廻りに加えている。
本能寺の変の早朝。
騒乱に気付いた信長は、乱丸に「これは謀反なのか、誰の企てか」と問うた。
乱丸は「明智の手の者と思われます」と答えた。
信長は「余は自ら死を招いたかもしれん。是非に及ばず」と述べ、再確認する必要性はない、とはっきり伝えた。
明智勢があっという間に、四方からなだれを打って本能寺内に攻め込んできた。
御番衆や御小姓衆は果敢に応戦した。しかし、瞬く間に女衆を除くほとんど全ての者が討ち死にした。信長は、綸子(りんず)の部屋着のまま、弓を射るためのなめし皮を手に巻き、弓や短めの槍を使って自ら奮戦していた。しかし、状況は悪化するばかりで、すぐさま侍女たちに逃げるように促した。やがて信長は、負傷したためか観念の言葉を吐いた。
「お乱!一足先に参るぞ!!」と大声で乱丸に言い残した。
傷を負い覚悟を決めた信長は、用心棒の黒人・彌助を伴って殿中の奥へと走り込んで行った。既に、火の粉が舞い煙も流れ込んでいる。信長は彌助に抱きかかえられて、秘密の『抜け穴』へと向かう。すでに、本能寺の外では勝どきの雄叫びが響いている。
二人は必死に炎と煙の中を逃げ、万が一の場合の避難路である抜け穴の入り口に辿り着いた。
避難通路に潜り込んだ信長と彌助は、その先にある出口を求めて、暗闇の中を壁に手を当てがいながら奥へ奥へと突き進んだ。
しかし、やがて横穴は壁に突き当たってしまい、進むことができなくなってしまった。
「これはどうしたことか、誰の仕業か!?」と信長は驚きの声をあげた。
脳裏に浮かんだのは、からからと笑う秀吉の猿顔だった。
そして、急ぎ反転して入口に戻ろうとしたが、本能寺のほとんどが焼け落ちているのか、きな臭さとともに、黒煙が勢いよくこの横穴の中にも流れ込んできた。
次第に炎も襲ってくる希薄の空気の中で、信長はその死を覚悟した。
そして、信長を必死に抱き支えている彌助に、最後の命令を伝えるのであった。
「彌助よ、よく聞くのだ(彌助は片事ながら日本語を理解し話せる)。この横堀には油が置かれており、いずれ炎に包まれ空気もなくなる。余はここで腹を切る。否、その前に焼き死ぬかもしれん。よいか、彌助はここを何とか脱出し、信忠がいる妙覚寺に走れ。そして信忠に、生きて岐阜城に戻れと伝えよ」
いつもの命令のように、はっきりとした口調で命じた。
彌助は黙って頷く。
そして、抱きかかえていた信長の体を床に静かに降ろして寝かせるのであった。
すると、弱い声で信長は最後の言葉を発した。
「もう一度言う。信忠に生きて岐阜城に戻れと伝えよ・・・」
「畏まりました信長様」と彌助は頭を下げた。
彌助はすぐさま、一目散にもと来た通路の入り口に激走した。
抜け穴を飛び出すと、光秀軍が殺到している喧騒の中を脱兎のごとく走り、燃えさかる炎の本能寺から首尾よく脱することができた。
本能寺を抜け出しても、明智の兵が雲霞(うんか)の如く溢れている。その中を、大剣を振り回しながら、妙覚寺に向かって一目散に走り続けるのであった。
そして、息を殺しながら必死の思いで、何とか妙覚寺に辿りつくことができた。
しかし、そこは既に戦さ場ではなかった。信忠勢は誰一人としていなかった。
信忠も従者の姿もなかった。信忠勢は、二条御所に移動し最後の一戦を行う覚悟だった。
それでも彌助は、襲ってくる明智軍と刃を交えて奮戦する。だが、さすがの猛者も疲れ果てヨロヨロと弱い動きをみせる。光秀軍の戦士は、恐る恐る彌助に向けて声を張り上げる。
「恐れることはないぞ、その大刀を差し出せ!」と怒鳴った。
さしもの怪力の大男・彌助も多勢に無勢で、終に捕縛されてしまった。
捕縛後、日を置いて光秀は、彌助を解放し南蛮寺に保護させている。
断末魔の夢想
その一方、炎と煙の中で苦しむ信長は、死の断末魔の中で夢想していた。
(・・・光秀よ、何故、儂の心の内が判らんのか。懲罰は韓非子の教えに従ってきたまでのこと。それも成功してきたではないか。何故に、朝廷や将軍の恨みごとに耳を貸すのだ。儂は、天下泰平の世を目指して来た。光秀もそれに賛成し、儂に従って共に戦ってくれたではないか。儂は、おめおめと秀吉ごときのカラクリに誅されてしまった。よいか・・・儂の意志を継ぎ、光秀の天下の後には、我が嫡男の信忠に天下の権を授けよ・・・)
信長は窒息寸前に、最後の力を振り絞り切腹して果てた。しかし、その肉と骨は高熱に焼き崩れ霧散した。
さて、本能寺の変後に信長の亡骸(なきがら)を探索したのは、明智光秀ばかりではなかった。やがて、山崎の合戦で光秀を破り、天下を横取りした豊臣秀吉も四方八方に探索して、信長の亡骸を執拗に探し求めていた。しかし、誰も、どうしても信長の亡骸を発見することはできなかった。
上記で「信長の遺体の肉と骨は高熱に焼き崩れ霧散した」と書いたが、これは現代における科学捜査による推察。果たして、本能寺の木造建築物による延焼が現代における高熱に当たるものなのか、現代の科学捜査による見識にもまだまだ疑問の余地が残る。
そこで、残る可能性としては、織田家の京における菩提寺である『阿弥陀寺』の清玉上人による埋葬がある。変時の遺体捜索の責任者である明智秀満の黙認の下、夜半に南蛮寺側から抜け穴に通じる壁を突き破り、信長の遺体を密かに運び出した、と推測することも可能である。
変の当日の南蛮寺には、巡察師などの幹部らが安土城に出向いていて、留守役の下端の宣教師しか在寺していなかった。そのことも亡骸の探索と移動には幸いしたのと考えられる。
その後の清玉上人は、秀吉や将右衛門の信長遺骸に関する執拗な探索にも妥協することもなく、信長の遺骸を運び葬っていた場所の秘密を、死を以てしても守り通したと伝えられている。
南蛮寺の地下蔵と抜け穴
信長が秀吉に命じて、本能寺側からの抜け穴である『避難通路』の工事が行われていた頃、南蛮寺(イエズス会)には二人の巡察師がいた。一人はナポリ生まれの『ヴァリアーノ』と、もう一人はポルトガル生まれの『カブラル』。
ヴァリアーノは、信長とことのほか親しくしていた。そして、変の年の1月に日本の少年欧州使節団を引率し帰国している。これを踏まえると、南蛮寺側の工事にはこのヴァリアーノが関与していた可能性が高い。ただ、これはあくまでも南蛮寺内の工事のことであって、抜け穴の存在や本能寺から繋がっていた非難通路であることについては、ヴァリアーノ自身は知らない可能性もある。
そして、本能寺の変の当日。一方のカブラル巡察師と宣教師の数人の幹部は安土城にいた。いずれ明智軍が安土城にも攻め寄せて来る、と知らされていた。そこで、すぐに脱出を考えたものの、彼等が最も安全なのは南蛮寺だと悟り、南蛮寺に避難することを決意している。京の町筋には明智軍が溢れているが、外国人であれば通行を許されると判断して、翌日に南蛮寺に戻ることを決めていた。
さて、南蛮寺には、本能寺の変の以前からすでに『地下蔵』が設置されていた。
1579年(天正7年)に大坂に大地震があって、京の町も相当の被害を受けていた。
そのため、南蛮寺も食料不足や燃料不足などの被害に遭遇している。
そこで信長に願い出て、地下に貯蔵のための『蔵』を建ててもらっている。それは、当時としては立派な造りであった。湿気を防ぐ工夫や地下には井戸も掘られていた。
そして蔵には、米、味噌、肉の塩漬けなどが蔵置されていた。また、周囲を木炭で囲ったことによって、湿気を予防して1年ほどは食糧の保存が可能なため、飢えに耐えることができた。さらに、米蔵の奥にある壁は、二重の作りになっていて、人一人が通れる隙間があった。その先には、三畳ほどの小部屋があり、棚に提灯、蝋燭、火打ち石など置かれていたという。
以上のように、織田信長は本能寺における万が一の危急に備え、本能寺から南蛮寺に通ずる非難通路の抜け穴を作っていた。しかし、その秘密を知る羽柴秀吉に逃げ道を塞がれてしまい、我が身を危急の際に救ってくれはずの『秘密のカラクリ』に自ら嵌まってしまった。まさに、これも「余は自ら死を招いたかもしれん。是非に及ばず」と、死の墓穴に追い込まれてしまったのだ。
家康の逃避行と梅雪暗殺
その頃、徳川家康は、信長の命により安土を立って、京都、大阪、堺の遊覧にあった。
6月2日。
案内役であった三河出身の京都の商人・茶屋四郎次郎が家康の遊覧が終了したことを、信長に報告するため本能寺に向かった。そして、そこで本能寺の変を知る。
すぐに、家康の身の危険を案じて堺へと馬で引き返し、家康一行にこの変事を伝えた。
この茶屋四郎次郎のすばやい機転によって、家康は本能寺に行くことなく、この変に直接的に巻き込まれずに済んだ。そして領国への帰路については、京都を回避するとともに、光秀と斎藤利三に教えられていた『伊賀越え』を敢行するのであった。
脱兎のごとく近畿を脱出するために、金子以外の諸荷物を捨てて身軽になって道中を邁進する。逃避の中で家康は、領国に戻り次第、甲斐、信濃の全土を攻略する決意を固めていた。穴山梅雪を先導役に立てて侵攻する手立てもあったが、梅雪の領地にある数箇所の金山は魅力的であった。
家康はすぐに、道中の警護と案内役を自主的に買って出てきた忍びの者達に、梅雪一行の暗殺を命じた。忍びの者らが梅雪を殺害するため、はるか後ろにいる梅雪一行に向かった。
すると、既に梅雪が道端に倒れているのを忍びの者が発見する。そして、その死体のそばには、放心して刃を鞘に戻すのも忘れ、呆然と立ち尽くす若侍を見届けた。
梅雪が殺されたことで、どうやら近習の者たちは霧散し逃げ出したようだ。
その経緯(いきさつ)を聴いた家康は、一人で梅雪を討った甲斐の旧臣である若侍・八の助の勇気を褒めて、引き続きの同道を許した。この刺殺事件というよりも『甘利八の助』の仇討ちについては秘匿され「梅雪一行は、落ち武者狩りの野武士に襲撃され殲滅した」と結末されている。
家康は4日に岡崎に辿り着いている。
家康は落ち着きを取り戻すと、光秀が我が身を救ってくれたことに涙した。信長による我が身の暗殺を事前に密告してくれた光秀に、深い恩義を感じるとともに、その慈悲の心に報いるためにも、光秀軍に加勢することを強く決意する。
現在の政局を俯瞰すれば、光秀を援護するためには、当面は信濃と甲斐を簒奪して東国における信長の影響力を弱めることが先決だと判断した。そして信濃と甲斐攻めに専念するのであった。
なお、随分と先の話しにはなるが、江戸幕府が開設された後、前述の若者・八の助は甘利八右衛門と名乗り、江戸・駿河台に屋敷を構えて『佐渡奉行組頭並』に昇進している。その後は『信濃代官』となって、幕府領四万石余りを管掌している。
天正・壬午(じんご)の乱
三河に帰着した家康は休むこともなく、前述のように甲斐・信濃の織田軍を切り崩していった。これによって、家康は甲斐と信濃半国をその手に治める。
この戦いには、先ず、武田家滅亡後に匿い潜伏させていた甲斐旧臣の折井次昌、依田信蕃(のぶしげ)及び米倉忠次らに、甲斐に戻って、かつての同輩に味方になるよう呼び込む役を命じている。そして、伊賀越えの帰着道中で暗殺された穴山梅雪の領地に、急ぎ新たな城を築くように命じている。さらに、6月18日には、川尻秀隆を甲斐で戦死させ、旧武田領を乗取った織田軍を崩壊させている。
この家康の迅速な行動は、信長が誅殺されて不安定な政局における単なる領地の乱取りであったのか、はたまた光秀の信長討ちを受けた意識的な共同作戦の一つであったかは、歴史捜査上では不明のことになっている。しかし、家康家臣の『家忠日記』には、6月10日に「酒井左衛門尉より6月12日に出陣と言ってきた」と書かれており、西陣の予定があったことが示めされている。続いて、その翌日の11日には「しばらく延期」の報も入っている。これは、秀吉軍が異例の速さで京に迫ってきている情報が得られたことによるものといえる。
その後の山崎の合戦で、光秀軍が秀吉軍に簡単に敗退しなければ、家康は光秀の西陣に向かって秀吉と戦い、勝利し若しくは和解することによって、光秀と家康、あるいは秀吉を加えた連合政権が樹立していた可能性も十分に考えられる。その場合でも、足利義昭の征夷大将軍への復活はなく、天皇を頂点とした『権門体制』が復活した可能性があったと考える。いずれにしても、あまりにも光秀軍の敗北が早かったために、家康は光秀を支援・援護するための西陣に向かうことを断念したものである。
なお、伊賀越えに同道していた者の中に『菅沼藤蔵』という家臣がいた。
彼の前名は明智で、菅沼家の養子になって菅沼を名乗っていた。彼は姉川の戦い、小牧・長久手の戦いなどで活躍した武勇の人物。
家康は1593年(文禄2年)に、菅沼藤蔵に土岐の姓名に復し『土岐山城守』と名乗ることを命じている(寛永諸家系図伝)。さらに、家康は家臣の水野勝成に光秀の愛槍を与える際に「光秀殿にあやかれよ」と述べたと伝えられている。
他方、家康は光秀の重臣であった亡き『斎藤利三』の娘・福を孫の竹千代(後の第3代将軍徳川家光)の乳母に採用し重用している。1604年(慶長9年)のことで、福の夫である稲葉正成と離婚させてまで、乳母として採用することは異例なこと。
勿論のこと、家康は光秀だけでなく、利三にも恩義を感じているかも知れないが、彼とは直接的な繋がりや縁が浅いので大いに疑問が生ずる。
従って、福(後の春日局)は明智光秀の娘であり、赤子の家光の父親も、第2代将軍の徳川秀忠ではなく徳川家康そのものだと推測している。
このことについては、当小説の『あとがき』で触れるとともに、次作品予定の『光秀の娘・春日局(仮題)』で執筆させていただく予定。
肝要なことは、徳川家康は明智光秀を大恩人として、心から祀っていることである。
第15章 炎の坂本城
華麗な水軍の城
坂本城は、5畿内(山城、大和、摂津、和泉、河内)の要に当たる坂本の地にある豪壮・華麗な明智光秀の主城。その周辺には、朝廷 (天皇と公家)、将軍家、寺社などの荘園が多く散在しており、権門体制時代の名残りがある伝統的で政治的にも重要な場所である。
1571年(元亀元年)9月に行われた比叡山・延暦寺の焼き討ち後、宇佐山城の城代であった明智光秀に、織田信長は滋賀郡の支配を命じるとともに、坂本城の築城を命じている。
築城の目的は以下の4点にあった。
①比叡山・延暦寺の監視
②琵琶湖の制海権の支配
③軍略上の重要な拠点とする
④商品流通ルートの要とする
信長が浅井・朝倉勢と対決する中で、近江・坂本は遷都に近く、越前や北近江方面からの侵略ルートに当たる。その場所の近くにあるのが比叡山・延暦寺であった。その延暦寺は中立姿勢ではなく、浅井・朝倉方に一味同心していた。京の都への玄関口にあたる近江・坂本は、織田信長や足利義昭政権にとって重要な軍事上の拠点であった。
そして、信長にとっては軍事拠点であるばかりでなく、商業・経済の発展のためには必要不可欠な要の場所でもあった。日本海側の若狭、小浜、敦賀と伊勢湾を結ぶ、海運と街道のルート確立という経済構想の一つでもある。そのルート上で、最も重要な中継地点に当たるのが、琵琶湖と接する近江の坂本だった。
そのため、先ず伊勢の北畠家を攻め、次には若狭の武藤氏を攻めた。そして、比叡山・延暦寺を焼き討ちにして、浅井・朝倉勢の討伐へと続く。それらの戦いで勝利することで、一路一帯の経済構想が実現する。同時に、信長の居城である安土城を四方で固め(坂本城、長浜城、佐和山城、大溝城、海津城)、その連携網による完璧な防御体制を構築するものでもあった。
信長は、光秀に坂本城の城主を命じるが、それは、水軍と産業の要となるような城造りとともに、坂本の地を商業発展の城下町にすることであった。この坂本城が完成すると、光秀は織田政権の中で初めての城持ちの家臣となった。新参者の光秀が僅か2年ばかりで、一躍、織田家・家臣の筆頭になり出世頭に踊り出たのであった。
近江の平定
坂本城は、軍船も琵琶湖から横づけできるような水城である。城が完成すると、先ず琵琶湖の水軍を握っていた猪飼甚介をリーダーとする『堅田衆』(堅田水軍)を味方に引き入れている。湖北にある浅井勢との戦いでは、実際に『囲い船』を使って戦闘を行っている。1572年(元亀3年)~1573年(天正元年)には、木戸城と田中城を落城させ、また湖面より囲い船を駆使して、湖北の浅井勢を襲撃して大きな打撃を与えている。
その後も、石山砦と今堅田砦も攻め、湖南もほぼ手中に収めている。このように、坂本城は、近江国とその周辺における反信長に対する重要な軍事施設として、近江国一帯を平定する大きな実績を残している。
フロイスが見た坂本城
ルイス・フロイスは「坂本城は水城であり、安土城に次ぐ第二の豪華さを持った名城である」と述べている(『日本史』)。彼は坂本城を外から眺めるとともに、内覧も行って次のような感想を述べている。
「中心には天守閣という塔があり、我々の国の塔よりも気品があって、壮大な建築物である。この塔は7重層からなり、内外ともに建築の妙味を尽くして造営されている。外部は、各階層に青、赤、金色と色分けがなされている。朱塗りの窓が配され、壁は白壁になっている。それは絶妙な美しさを醸し出している。内部には、色彩豊かに描かれた肖像が壁面を覆いつくしている」。
これらから推側すると、大天主・小天主で構成される高層の天主を中心に、城と内堀で囲まれた主郭があり、その西側に中堀で囲まれた曲輪、さらにそれを取り巻くように、外堀で囲まれた曲輪があったものと考えられる。
茶会も開催
1578年(天正6年)1月。光秀の茶の湯の師匠でもある堺の津田宗及が坂本城に招かれ、茶の湯の会が『天守』で開かれている。その後に「御座船を城の内より乗り候て、安土へ参る」、続いて「城内には琵琶湖の水が引き入れられており、そこから直接船に乗り込み、そのまま安土城に向かった」と記されている。さらに「天守は壮大さに溢れ、城郭の建物が湖水にまで接した『水城』であった」と驚いている(『天王寺屋会記』)。さらに、吉田兼見が1582年1月(天正10年)に坂本城を訪れた際には『小天守』において茶の湯が行われている。
なお、現代の発掘調査により、本丸部分で発掘された遺構に、多数の中国製の礎石などが発見されている。その規模や配列からは、邸宅と迎賓館のような社交場を兼ねていた可能性が高く、軍事的な要塞目的とともに、坂本城は、社交的な情報交換の場所でもあったと考えられる。壺、碗、鉢、擂鉢(すりばち)、瓦、天目茶碗など、中国から輸入されたと思われる青磁、青白磁、白磁などの大量の遺物も発掘されている。さらに、金属製品として、銭貨、鏡、刀装具、鋲なども出土している。これらは、室町時代の後期から安土桃山時代のものとされ、贅を尽くした城内の造作がうかがえる遺構物である。
迎賓館
こうした迎賓館のような社交場を作り、光秀が情報交換や相互の意志疎通を目的とした意図は、室町幕府にあった『申次衆』の制度に学んだ経験があったからのこと。
当時、幕府と守護大名などの間には、公式に政所と大名との間で連絡・交渉を担う一方で、非公式の『情報交換の場』も自然発生的に形成されていた。
具体的には、幕府側では申次衆の下にある『政府頭人』『内談衆』『将軍女房』が、守護大名から派遣された情報収集役と、非公式に談合を重ねる慣行があった。こうして室町幕府は、地方守護の経済状態や戦力状態などを推し測り、一方で守護大名も、幕府の方針と人事・官位などの情報をいち早く知ることにより、ライバル大名との競争に備えていた。
このような情報交換の場を、光秀が坂本城の築城を機会に導入したもの。宿敵の大名を直接的に招き入れることはできないが、茶人を通じて情報を収集する目的で、こうした社交の場を意図していたものといえる。
変後の光秀の動き
さて、明智光秀の『本能寺の変』から『山崎合戦』に至るまでの行動を日付順に追ってみる。
6月2日:
本能寺の変(信長弑逆の実行)
;安土城に向かうが、山岡氏に瀬田橋を破壊されて入城することができない。
;その3日後に、坂本城に入り、諸方に協力要請の書状を送る。
;美濃の城主・西尾光教に大垣城を攻めるように指令する。
6月3日:
近江平定のための軍兵を送る(混乱収拾目的と兵の獲得)。
6月4日:
近江を平定する。
;筒井順慶が光秀に同心する。
;長宗我部元親の使者が鷺森本願寺に到着する。
*(羽柴秀吉は、毛利と講和を締結/高松城主の清水宗治が切腹)
*(徳川家康は、三河・岡崎城に帰還)
6月5日:
瀬田橋が修築され、光秀は安土城に入る。
;京極高次と阿閉貞征に命じ、近江・長浜城を攻撃する。
先ず重臣・ 斎藤利三を入れる。
*(大阪城で、津田信澄が織田信孝と丹羽長秀らに殺害される)
*(秀吉は、中川清秀に「信長様は無事」と偽情報を伝える)
*(秀吉は、近江・長浜との連絡網(山陰ルート)を作り交信する)
* (秀吉は姫路城に到着)
6月6日:
小早川隆景が備中・幸山城などの国境地域を防備する。
6月7日:
夕刻、光秀は安土城で勅使・吉田兼見を迎える。
6月8日:
光秀は坂本城に帰還。
光秀に味方した美濃三人衆の安藤守就は、
同じく美濃三人衆の稲葉 一鉄(良通)に敗れ討ち死にする。
*(藤高は、秀吉家臣の杉若無心と連絡を行う)
6月9日:
光秀は正親町天皇と誠仁親王に銀子を各500枚献上する。
大徳寺にも 100枚献上。吉田兼見に500枚を贈る。
兼見屋敷で夕食後、下鳥羽に 出陣する。
その夜、藤高に書状を送る。
*(秀吉は、未明に姫路を出発し正午に明石到着、高山右近から光秀の 動静を聞く)
義昭は上洛するため、毛利勢の吉川元春と小早川隆景に命令書を出すものの、却下される。
6月10日:
光秀は、筒井順慶の出陣を促すために洞ヶ峠に滞陣する。
(秀吉は中川清秀に返書し、11日頃には西宮に到着することを伝える)
6月11日:
光秀は、下鳥羽に帰陣して山城・淀城を修復させる。
光秀は、筒井順慶の説得に藤田伝五を派遣するも、拒否される。
*(秀吉は尼崎に到着し、剃髪する)
6月12日:
光秀と結ぶため、本願寺の顕如と教如の親子の和解が成立し、使者 が派遣される。
光秀は、雑賀衆の土橋重治に出陣を要請する。
*(秀吉は、丹羽長秀、池田恒興らと作戦会議を行う)
6月13日:
天王山近辺で前哨戦が始まる。
*(秀吉と織田信孝が対面)
山崎の合戦が始まり、光秀は山城・勝龍寺城に退却する。
光秀は、坂本城に帰城するため、その道中の小栗栖付近で農民に襲 われ、深手を負った。その後、割腹して死亡。
*その後、秀吉は6月14日に近江に向かい、
『三井寺』に到着し宿泊する。
*翌日の15日に安土城・天守が焼失する。
続いて坂本城が落城する。
*翌日の16日に秀吉と信孝は安土城に入る。
*その後、秀吉は長浜城に帰城する。
安土城・天守の延焼
明智秀満が坂本城に戻るときに、安土城退去の間際に天主や本丸を放火したとされている(『秀吉事記』『太閤記』)。しかし、秀満は14日に安土城を退去し、15日に坂本城の炎の中で、明智一族・郎党とともに死亡しており、明確なアリバイがある。従って、放火の犯人では断じてない。
一方、ルイス・フロイスの書簡によると、安土城は織田信雄が焼いたと述べている。しかし、これも動機の点で真犯人ではない。確かに、秀満の去った後に、信雄と蒲生氏郷らが安土城に入ったのは事実(『兼見卿記』)。しかし、信長の直臣で留守居役でもあった蒲生氏郷らがそば近くいる中にあって、信雄の意志で放火することは現実的には困難である。そして、最も重要な事は、安土城の延焼は『15日』のことで、且つ、あくまでも『天守』のみの延焼であったこと。これは、城全体を燃やすことが目的でないことを物語っている。この点を歴史調査では見逃してはならない。なお、安土城全体が全焼したと誤解する向きもあるが、秀吉は清須会議の後に、信長の孫の三法師を安土城に居城させている。
財宝の行方
織田信長は、財宝(金融資産)を天守に蔵置していた。そして、変当時の財宝の管理者は、蒲生氏郷親子である。真犯人は、蔵置されていた財宝のことを闇に葬るために、天守のみを焼き払ったのである。つまり、明智光秀と秀満が安土城に入った時には、すでに蔵置されていた財宝の多くは、どこかへ移し出されていたとみるべきである。
ここに安土城・天守延焼の謎を解き明かす鍵がある。よって、真犯人は信雄でも秀満、光秀でもない。ましてや、徳川家康が忍び者を使って、火付けさせたなどとする説もあり得ないといえる。
疑問その1;
何故、秀吉は居城の長浜に戻らず、先ず『三井寺』に向かい宿泊したのであろうか。三井寺は坂本城により近く、かつ長浜城に遠い場所にある。それに城郭もない非武装の寺である(臨時的な陣幕を張る程度は可能)。山崎の合戦で勝利した秀吉ではあるが、その直後では、琵琶湖周辺にはまだ敵兵が居残っている可能性がある。そういったリスクを承知の上で(実際に城兵は居残っていた)、坂本城近くの三井寺に足を運んで、宿泊までしている。それほどの優先度が高い重要な案件があったものと考えられる。
疑問その2;
何故、安土城の天守のみの放火であったのか。戦時中であれば、城を丸ごと焼いてしまうのが通常。天守にあるべき財宝の有無にその秘密がある。天守に信長の財宝が蔵置されていたことは、織田軍団の重臣や直臣らも十分知っていたこと。
特に、留守居役であった蒲生氏郷親子は、財宝の管理を任され、その行方を最も知っているはずの人物。蒲生氏郷は、近江国・蒲生郡の日野城主・蒲生賢秀の嫡子で、信長の許に質子として出され(寵童)、岐阜城で元服している。その後には、信長の娘の冬姫と結婚している。言わば、信長の秘蔵子の一人である。本能寺の変前には、父の蒲生賢秀とともに留守居役を務めていた。変の直後には、信長の側室、姫君、女衆らを近江の日野城まで避難させている。当然のこと、天守の財宝についても投げ出して逃げる訳にいかない。どうしたのであろうか。大量の財宝をポケットに入れて、軽便に逃げ出す訳にもいかない。相応の荷駄で運ぶ労力と時間が必要であったはず。
疑問その3;
何故、甲賀忍者を祖とする山岡景隆は弟の景佐とともに、信長を誅して安土城に入ろうとする光秀の誘いを拒むとともに、入城するための瀬田橋を破壊してまで、明智軍の進軍路を妨害したのであろうか。その後は、山中に身を潜めていたが、秀吉が現れると光秀軍の行動を逐一報告している。但し、清須会議の後は柴田勝家側についたため、賤ケ岳の戦いで敗れ、所領を没収されて甲賀に隠遁している。瀬田橋で光秀と戦闘すれば負けるのは火を見るよりも明らかなことである。戦闘をせずに、橋だけを破壊しただけの抵抗に、歴史的には大きな謎になっている。だが、単に光秀の安土城入城を遅らせる理由や必然性があったために、瀬田橋を破壊したならば、そこには隠れた意図があったはず。ただ、光秀も甘かった。問答無用に突破するか、爆破後でも直ちに、船などで迂回して安土城に入るべきだった。その上で信長の財宝の全てを奪い、来るべき大戦に備えて軍兵を鼓舞する報奨金などに充てるべきであった。ただ、山岡家は室町幕府の奉公衆を務めた家柄でもあり、光秀とは旧知の間柄(光秀や藤高が義昭を捨てた後も、義昭に従っていた旧幕臣の一人であった)でもあったことが、光秀の一瞬の判断を誤らせたのだろう。
疑問その4;
何故、蒲生氏郷は、秀吉の天下になって92万石という大身になっているのか。信長時代は日野4万石にすぎなかった氏郷は、丹羽長秀の140万石、秀吉実弟の秀長の100万石に次ぐ大出世をしているのである。確かに、本能寺の変後は、秀吉に味方して柴田勝家、滝川一益などと戦ってはいるが、いずれも羽柴秀長の組下に置かれての戦いであり、特別に大きな軍功などは挙げていない。それにも関わらず、蒲生氏郷の破格の出世は、歴史家も頭を傾げるほどの大きな謎になっている。その後、40歳の若さで病死しているが、毒殺であったという説も根強く残っている。
天守の財宝の謎解き
もう一度、山崎の合戦後の秀吉の行動をチエックしてみる。
羽柴秀吉は6月14日に近江に向かい、三井寺に到着し宿泊している。
翌日の15日に安土城・天守が焼失し、続いて坂本城が炎の中で落城している。翌日の16日に、秀吉と織田信孝は安土城に入っている。その後に、秀吉は長浜城に帰城し、久しぶりに家族と対面している。
前述の秀吉の行動と先述の疑問の1~4を総合的に勘案して判断すると、自ずとその解答が透けて見えてくる。
①蒲生氏郷は、本能寺の変と信長の死を知らされると、ただちに、信長の側室、姫君、女衆らを近江の日野城に避難させた。その一方で、天守に眠る信長の財宝を敵方である光秀に渡すことなく秘密裏に隠すことを父と相談して実行する。ただ、その財宝は荷駄一台に積める量ではない。それも一日で運搬できるものでもない。ましてや、昼間は人の目もあって、あくまでも運搬は、極秘で闇に隠れて運ばなければいけなかった。
そこで、山岡兄弟の出番である。山岡家の祖は甲賀忍者で、光秀が織田家臣になるまでは忍者を束ねていた。その後、光秀が忍者を束ねることになり、山岡兄弟は光秀の与力でもなかったが、家臣の中では距離感のない関係にあった(前述のとおりお互いに旧幕臣)。さらに、山岡兄弟の妹は、光秀の嫡男・光慶の許嫁(いいなづけ)でもあった。
光秀が安土城に攻め上って来ることは必須のこと。だが、蒲生氏郷は山岡兄弟に、光秀の足止めと橋の破壊を命ずるのであった。
②山岡兄弟は留守居役である蒲生親子の指示に従った。予想どおり6月2日の夕刻、信長を弑逆した光秀軍が安土城口にやって来た。
ひと悶着の後に、山岡兄弟は瀬田橋を破壊し、光秀の入城を阻止するのであった。光秀は橋の修理と道の補整に3日間を要した。そのため、6月5日になって、ようやく安土城に入れるのであった。その間に、蒲生親子は荷駄に財宝を積み上げて、夜間に、舟に積み替えて琵琶湖を渡ったのである。
三井寺に隠された財宝
③財宝が積まれた荷駄が向かった場所は、坂本城にほど近い、大津の天台寺門宗・総本山の『三井寺(長等山園城寺)』である。こうして天守にあった財宝の多くは、三井寺に向けて極秘の内に運び込まれたのである(一部はカモフラージュのために残されていた)。
秀吉は6月14日に近江に向かい、三井寺に到着し宿泊している。勿論、蒲生氏郷が同道している。周知の通り、秀吉は髪をおろして信長の弔い戦の宣言をして、山崎の合戦に勝利していた。氏郷は秘密情報を吐露し、財宝を秀吉の目に晒したのである。信長の後継者は、秀吉と見ての一大決心でもあった。
天守火付けの実行犯
15日に安土城・天守のみが付け火で焼失する。勿論のこと、秀吉の命によって蒲生氏郷が火付けの実行犯である。消えた財宝を隠すためである。光秀も天守に入り財宝を目にしているが、残された財宝はごく一部の銀ばかりであった。それを天皇や公家衆などに分け与えている。翌日の16日に秀吉と信孝は安土城に入ったが、天守のみが焼けており、信孝は財宝の一部さえも見ることはできなかった。信長の財宝は、全て明智光秀が奪い去ったと皆が思い、それを知った短慮な信雄が天守を焼いてしまったと、喧伝されたものであろう。
戦国時代の金と銀
戦国時代の中でも、室町時代と安土桃山時代では、貨幣の流通実態は大きく変わっている。
極論すれば、前者は銀本位制、後者は金と銀の合同の本位制に変化している。
一般的には、金本位制は江戸時代に移行してからと言われている。しかし、それは慶長小判や大判登場のイメージがあるため。大量の武器・弾薬、戦闘用具、輸送手段、食糧、傭兵などに関わる費用は、明銭、永楽銭、悪銭がその決済手段ではなく、『銀』や『金』によって決済されている。つまり、農民や庶民の生活上の貨幣流通の話しと、戦国大名における決済手段としての貨幣流通は大きく異なっている。従って、安土城の天守に蔵置されていた財宝は、そのほとんどが金と銀であり、光秀はそのごく一部の銀を手にしたにすぎない。
商業利益による金融資産の増大
信長の金融・経済政策は、5畿内を中心にしたものであったが、その後、秀吉に引き継がれ全国規模で展開されていった。信長は、武田家や毛利氏などのように、金や銀の鉱山をほとんど所有してはいない。商業・経済の発展による『金融収入』を目指していたもの。
入洛後、将軍義昭から「副将軍か管領を与えるがどうか・・・」と尋ねられたが、これを断り、「河内・堺」と「近江・大津と草津」の直轄地を求めている。いずれも交通の要所で、特に、堺は海外貿易の拠点である。そこから入る『冥加金』などの商業利益による金融資産の増大を企図していた。
秀吉の隠し財テク
当時は、銀山・金山の鉱山開発を進め、領国経営の安定や拡大を目指す武将が多い中で、信長は鉱山開発に頼ることなく、商業・経済の発展による膨大な収入によって、領国経営の安定や拡大を求めた進取気鋭の異才があった。これによる大きな富によって、兵農を分離し、巨大な専用軍隊を所有することで領土の拡大を図っていった。
但し、信長も全く鉱山開発を軽視している訳でもなく、占領した地域の鉱山については、逐一部下に報告を求めている。鳥取の生野銀山の報告も受けていたが、その担当者である秀吉は過小報告をしていたと伝えられている。秀吉は、遠方にある中国地方で戦況の合間に、信長に隠して密かに財テクを行なっていたのである。
金の活用と金融政策
信長は、恩賞や茶道具や工芸品などの購入にも金を使い支払っている。さらに、帰順した武将にも、兵糧代として金を与えている記録もある。逆に、安土宗論で負けた日蓮宗には、金200枚の献上を課している(罰金)。
金融政策では、①コメを使った物々交換の禁止②選銭令の発令(悪銭との交換比率を設定)③金、銀、銅の交換比率の設定(金10両に対し銅銭15貫文/銀10両に対し銅銭2貫文、これによって金は銀の7.5倍になる)④糸、薬、箪笥、茶碗などの一定量を超える取引には金や銀を使う事、さらに、輸入品の取引には金又は銀を使い、それがない場合には上質の銅貨を使う事などを定めている。なお、当時の日本は、金と銀との相対比率(比価)は7.5倍であり、欧州の16倍よりも低かった。これは、金の量が銀よりも相対的に多かったことを意味している。
中国大返しの大嘘
羽柴秀吉が行なった『中国大返し』は、伝説的な戦記物語としてもてはやされてきた。しかし、さすがに近年では、歴史捜査が播度(ばんたび)行なわれるごとに、その化けの皮が剥がれてきた。先ずは、その中国路の走破行程を見てみる。
①6/3→深夜に毛利と和議成立
②6/4→高松城主・清水宗治自刃
③6/5→大雨で高松在陣
④6/6→高松発~沼着(約20km)
⑤6/7→沼発~姫路着(約80km)*雨
⑥6/8→姫路在陣
⑦6/9→姫路発~兵庫着(約40km) *雨
⑧6/10→兵庫発~尼崎着(約40km)
⑨6/11→尼崎発~摂津・富田着(約27km)
⑩6/12→中川清秀、高山右近、池田恒興が着陣
⑪6/13→織田信孝、丹羽長秀が合流→富田発~山崎着(約12km午後4時頃 開戦) *雨
以上の通り、走破距離は総計で『約219km』に及んでいる。
一番大きな疑問点は、6月7日の80kmの走破である。それも17,000人の大軍(しんがりを務める宇喜多秀家軍を除く)である。科学技術の進んだ現代の常識では、到底考えられない困難な旅程である。夜間でも走行したらしいが、当然街路灯もなく、道幅も狭く舗装もされていない道路状態にある。
ただ一つ、現実的にあり得る話は、毛利の追撃を避けていち早く高松を離れるために、高松から新辛村までは全軍が疾走するとともに、そこから新旧の街道を二手に分かれて走行していること。一つは、和気経由で三石から船坂を越える。今一つは、岡山、沼、片上を経て船坂を越えること。これは大軍による渋滞を避ける方法で合理性が認められる事実と受け止めたい。
しかし、人知を超えて神がかり的な走行はその翌日の逸話である。
それは大雨の中で、吉井川を渡川する過酷な条件下での80kmを走破すること。その後も、1日休んで40kmを走り、翌日も再び40kmを走る。そして11日には、27kmを走行する。
中国大返しは海路を利用
軽々に比較することはできないが、現代の若者が行う『箱根駅伝』では、襷で繋ぐと言えども、山道、坂道も走る壮絶なレースである。過酷な練習を重ねた若者でも、今年優勝した青山大学院の往復『約218km』の走破タイムは、10区間で10時間43分台である。
残念ながら、秀吉軍の正味の走破タイムは測られていないが、箱根駅伝とほぼ同距離を17,000人超の武士団が裸や薄着ではなく、相応の軽装の戦闘準備だとしても、雨の日もある中で、6日間で『約219km』をリレーではなく、兵の個々が一人で完走して走り抜くことは、とうてい困難であり、非現実的な話しである。秀吉の重臣の一人である蜂須賀小六正勝の話しとして「秀吉本軍は、片上から海路で赤穂に出た」と伝えられている。
謀反計画を事前に察知
当小説の第14章の『本能寺の変』の『秀吉の行動と準備』で下記の様に認めている。
・・・信長が安土を出発し、わずかな供回りだけで上洛して本能寺に入ったことは、近衛前久など公家衆、京都所司代、光秀、家康、嫡男信忠などに知らせられるとともに、藤孝から前野将右衛門を通じて、備中・高松の秀吉にも伝えられていった。従って、秀吉は6月1日には、これらの情報を知ることになる。既に、光秀の愛宕山での参籠、勝軍地蔵への戦勝祈願や連歌師たちとの連歌の歌会に大きな疑問を抱き、本来であれば西征すべき光秀の動きがあまりにも緩慢であり、毛利攻めの援軍としての中国入りはないものと疑っていた。そのため、毛利との和睦交渉を独断かつ水面下で敢行し、上洛への準備はほぼできあがっていた。
・・・そのことから、先発隊を陸路で京都に向けて出発させ、自分は和睦交渉の詰めに入っていた。そして、信長が討たれたとの訃報が翌日の2日の夜半に飛び込んできた。即時、最終準備を整わせて、4日には毛利との和睦の儀式を終わらせると、ただちに、残りの部隊と兵器・武具を積み上げて、海路で姫路を目指し出発したのであった・・・。
やはり、中国大返しの謎のポイントは、①海路を利用した点と②藤高による光秀の信長弑逆情報の伝達にある。
蜂須賀小六正勝は「片上から海路で『赤穂』に出た」と言ったと伝えられているが、他の説では『飾麿港(湛保港)』、現在の姫路港に出たのではないか、とも言われている。秀吉の中国征討の拠点である『姫路城』と『飾麿港』とは、河川で繋がっており、ここであれば十分に、中国大返しの謎が科学的かつ合理的に説明できる。
山崎の合戦(一般的には「山崎の戦い」)
山城国・山崎付近は、京と西国を結ぶ狭隘(きょうあい)の地にある。
「天下分かれ目の天王山」と言われるほどで、その天王山を制したのは果たしてどちらの陣営だったのか。山崎の合戦は雨の中で行われている。
なお、両軍の戦力比較は次のようになっている。
<光秀軍:合計→24,000>
・本隊→17,000(直属軍の他+尾張衆(水野守隆など)+山城衆(狛綱吉など)+大和衆(井戸良弘など)+若狭衆(武田元明、武藤友益、内藤重政、白井民部少輔、寺井源左衛門、香川右衛門大夫山県秀正など)
・近江衆(阿閉貞征、阿閉貞大、後藤高治、多賀常法則、九徳左近兵衛尉、小 川祐忠、池田景雄、山崎秀家など)→3,000
・津田与三郎隊(織田信澄の重臣など)→2,000
・旧幕府軍(伊勢貞興、猪飼昇貞、御牧景重、御牧景則、諏訪飛騨守な
ど)→2,000
*(秀満隊→3,000は安土城で守備中、京極高次は長浜城で守備)
<秀吉軍:合計→39,500>
・羽柴秀吉本軍→30,000
・池田恒興隊(伊丹城主)→5,000
・高山右近隊(高槻城主)→2,000
・中川清秀隊(茨木城主)→2,500
呆気なく秀吉側の勝利
その兵力差は、15,500で秀吉軍が有利であることは明白。ただ、決して圧倒的とも言えない差であり、秘策が功を奏せば、勝つことも可能な戦力差といえる。しかし、合戦時間は僅か2時間足らずで、秀吉軍が呆気なく勝利した。信長家臣団の双璧にあった一方の重臣が、大軍を率いて無傷のままに帰還したのである。これは、誰にも予想できなかった神がかり的で、奇跡的なことに見えた。そのため、去就に悩んでいた摂津などの大名衆が、次々に秀吉軍に味方した(誇大宣伝や偽情報の流布も効果的であった)。
光秀や秀吉などの織田軍全体は、いわゆる合戦(野戦)には弱いと言われてきた。姉川の合戦などでは、何度も苦戦を強いられている。武田信玄などの古くからの武将のように、野戦に強い軍団ではない。従って、大差の軍勢で勝つか、用意周到に様々な戦略・攻略方法を駆使して勝利してきている。従って、そのような攻略テクニックが行使できない野戦にあって、その両者が戦った場合には、数に優る方が勝つことは自明のことといえた。
光秀側の敗因
光秀の山崎の合戦における敗因は3つ。
①秀吉の全軍が神業の如く中国の陣から早々に戻ってきたこと。その本軍は光秀の本軍を上回る数で、予期せぬ帰陣に光秀側は、すでに精神面で動揺をきたしていたこと。
②本来は、光秀の近畿軍団の一角を形成する摂津衆が秀吉側についたこと。光秀の与力と言っても、そこは信長の家臣でもあるから、変後すぐに摂津方面にも軍を進めて、彼等を改めて組織下に組み入れるべきであった。
③光秀は、北国の柴田勝家の帰洛を防ぐために、近江の治安を維持するとともに、近江衆に対する味方説得に時間を取られてしまったこと。この近江路の封鎖は、勝家の上洛を防ぐことには成功したが、西国に居る秀吉を軽視することにも繋がっていた。
これらから③によって②の摂津衆を味方にする時間的猶予がなかった。取りも直さず、これも①の秀吉の中国大返しの効果で、時間的猶予がなかったことの影響が出ていたもの。
摂津衆の活躍
こうした中で、特筆できる活躍をしたのが秀吉側では、本来は光秀の近畿軍団に属するべき与力や友軍であった池田恒興隊、高山右近隊、中川清秀隊の摂津衆などである。
畿内にあって、幾度も局地戦を経験し勝ち残ってきた軍団でもある。
特に、高山右近にとって、この山崎の地は庭も同然で、いわゆる地の利を得ていた。右近は、秀吉軍が山崎に到着する前日の12日の夜に、この天王山をすでに押さえている。勝負の要となる『天王山』をいち早く確保することができていた。これが呆気ない短時間での勝利に結びついた、と言っても過言ではない。光秀の近畿軍団の与力であった摂津衆をコントロールできなかったことが、光秀が山崎の合戦で負けた主因であった。
旧幕臣の奮戦
一方、光秀軍は下鳥羽から南下して御坊塚に布陣していた。このような局地的野戦に強いはずの近江衆ではあったが、そのほとんどが光秀の近江平定後に従った者達で、恩義や身内意識も薄い輩で、この合戦後に秀吉から処罰されるどころか、豊臣の大名になった者も出るぐらいの有様であった(池田秀雄、小川祐忠)。但し、後に秀吉軍から義死・忠死と賞賛されたのが『旧幕府軍』であった。
その奮戦ぶりは特筆に値するようで、そのほとんど全てが討ち死にしているが、幕府再興を旗印に掲げて全身全霊で戦ったものである。
なお、信長誅殺の首謀者として、明智光秀と斎藤利三の首は、秀吉の命によって京都の粟田口に晒された。その前の首実験では、藤高の嫡男・細川忠興が秀吉の命によって検死役に指名されている。光秀の遺骨は、病死した正室・煕子と共に菩提寺『西教寺』に眠るが、三女の細川ガラシャにも分骨され、京都・宮津市喜多にある『盛林寺』にも眠っている。
賞罰
他方、他の明智勢については、秀吉は比較的寛大な処置を行なっている。これは後々の天下取りのための一策であって、その後の秀吉政権の礎にも繋がっていく。
但し、『阿閉親子』と『武田元明』は、その命を奪われている。
秀吉の与力でもあった阿閉親子は、本能寺の変直後に一番乗りで、元の自分の城であった『長浜城』を奪い返していた。そのため、秀吉の母や妻などは、命過ながら伊吹山の山中に逃げ込んでいる。片や武田元明は、彼の正室である五畿内一の美女と言われている京極殿(竜子、後の秀吉側室になる松の丸殿) を奪うために、その命を奪われたものである。
その反面、京極殿と姉弟である京極高次は、光秀側に付いていたが命は助けられている。まさに、秀吉の女好きの性的偏狂の一面が表れた戦後処理でもあった。
失意の光秀
知将・明智光秀が行うべき、毛利や長宗我部、上杉などの大名を味方にするための、朝廷、足利義昭及び本願寺との政治的工作が遅れたことも影響した、との指摘がある。
しかし、このことは、山崎の合戦とは直接的には繋がらず、次期政権への土台作りの話しであって、同じテーブルで議論されるべきではない。この問題については、後述する光秀の次期政権構想で綴ることにする。いずれにしても結論的には、秀吉の中国大返しが全てである。これを演出したのは細川藤高の裏切りであり、主演は羽柴秀吉で、助演したのが光秀の与力であった摂津衆になる。藤高の裏切りに、光秀は大きな衝撃を受けてまさかの失意を味わったのである。
天下人になる秀吉
以上の結果、本能寺の変後に『山崎の合戦』で光秀に勝利した秀吉は、変による混乱を収拾するとともに、その後は巧みな人海戦術によって天下人となっていく。
その後の全国展開の戦争にも、堂々と勝利して全国統一を成し遂げる。
それは、古来より続く歴史の中で構築されてきた中世の『荘園制度』や『領主制度』に幕を閉じさせるとともに、『検知』と『領地』については、朱印状による統制的なものとして、これまでにない新たな公儀の制度を確立していったのである。
よく言われることだが、羽柴秀吉は、主君であった織田信長の政権構想を模倣しただけのことと、卑下される向きもある。しかし、結果が全てであるのが世の常。果たして、光秀には、秀吉のような未来の政権構想があったのであろうか。
仮に、光秀の政権構想はあったとしても、おそらくそれは、旧来と変わらない中世の制度であり、天皇と幕府があって、荘園という領地に基づく国の統治にあったと思われる。果たして、その真実はどうであったのか。死人に口なしである。ただ、明智光秀は古来からの武士らしい武士であって、片や信長や秀吉は、武士らしくない新しいタイプの武士であった相違がある。
光秀辞世の句
山崎の合戦は、13日の夕刻から開戦の火ぶたが切られたが、僅か2時間ほどで体制が決した。光秀は敗戦を覚悟して勝竜寺に籠り、その後、闇に紛れて溝尾庄兵衛以下の少数の部下を連れて坂本城に向かった。その帰路の桃山北から小栗栖の中間で、自衛体制にあった農民の襲撃を受けて深手の傷を負った。光秀が自刃したので、庄兵衛が介錯をして死亡した。その首は、藪中の土に埋められたと言われている(その後の探索で発見される)。
『明智軍記』による光秀の辞世の句は「逆順無二ノ門 大道ハ心源ニ徹ス 年ノ夢 覚メ来リテ一元ニ帰ス」
・・・逆らうか、従うかに二門はない。人として悟るべき広い道はその心の源に発するもの。私の生涯の夢は、覚めてみれば順も逆もない。一つに帰着するのである・・・
この句からは、本能寺の変に及んだ頃の光秀の心は、正義とか、人としての道にあったと理解したい。
秀満・坂本城に戻る
1582年6月14日(天正10年)。安土城にいた明智秀満は、京都・山崎の合戦における主君・明智光秀の死と光秀軍の敗走の報を受けた。急ぎ大鹿毛の愛馬に跨り安土城を抜け出した。目指すは、対岸にある光秀・主城の坂本城。打出浜から唐崎までの琵琶湖を人馬ともに泳ぎ渡った(約800m)。
坂本城は、琵琶湖から水を引き入れており、船でも安土城との間を往来することができる。常に、安土城との緊密な連絡が取れるように整えられている。坂本城は安土城と京都の中間点にあり、織田政権にとって政治的にも重要な拠点となっていた。
この坂本城は、比叡山焼き討ち後の1571年 (元亀2年)に、光秀の軍功が認められ近江志賀郡の知行を与えられるとともに、織田家中で初めての城持ちとなることが認められた光秀自慢の居城。その規模は安土城に次ぐもので、豪壮華麗な城であり、堺の納屋衆の津田宗久、太政大臣の近衛前久や吉田兼見などの有力者を招いての茶会が度々開かれていた。
敗戦の場合の密命
本能寺の変の直前、信長を弑逆する企ての実行にあたり、光秀は秀満一人を呼び、密かに厳命を与えていた。それは「此度の企てが失敗し、万が一、自分が討ち死にの際には、重臣から集めた人質たちを各地に逃がし、無事に落ち延びさせよ」であった。
さらに「土岐明智」を再興させるために「我が女(側室、愛妾)と男子は遠方に、女子は畿内に隠れさせ、明智一族の血を絶やさぬよう苦心せよ」と厳命していた。
秀満は光秀の従兄弟の関係にあり、光秀とともに土岐一族の末裔にもなる人間。また、その妻は、荒木村重の嫡男・村次に嫁いでいた光秀の長女でもある。村重の信長への裏切りによって明智家に出戻りした後は、二人が旧知の仲でもあった秀満に再嫁していた。従って、秀満は光秀の娘婿でもある。光秀とは最も縁(えにし)の濃い重臣であり、光秀も彼には全幅の信頼を置いていた。
人質も解放する
光秀の死などを知った秀満が、坂本城に戻って成すべきことはただ一つ。光秀の子供と側室、我妻(光秀の長女)及び重臣の妻子を無事に落ち延びさせることだけ。
光秀は、主君・織田信長を弑逆する戦さに当たり、重臣の斎藤利三、明智治右衛、溝尾勝兵衛、藤田伝五郎、秀満の各妻子を人質として坂本城に集めさせていた。
その一方で、光秀軍が弑逆の失敗や敗走の憂き目にあった場合には、光秀や重臣らが生きていれば、必ず坂本城に戻り体制を立て直して再戦に備える、あるいは、最後の決戦の舞台とするとの事前の打ち合わせが行われていた。従って、斎藤利三をはじめとする重臣らも命があれば、必ず坂本城に結集すると秀満は信じていた。だが、生き残っていた重臣は我が身のみである。そこで秀満は、人質としての重臣らの母子も生き延びさせるために、従者に金子を与えて逃亡先を各々指定するのであった。
秀満の辞世の句
秀満が入城して一刻ほどすると、城兵が続々と城を捨てて出ていった。秀満から別れの言葉を賜った上に、路銀の小金をもらって霧散するのであった。
すると、直に秀吉軍の坂本城攻めの総大将である堀秀政が、城を完全包囲してきた。秀満は、しばらく形だけの防戦を行ったが、すぐに天主に籠ってしまった。
そしてしばらくすると、秀満は、国行の刀・吉光の脇指・虚堂の墨蹟などの名物が無くなる事を恐れ、これらを荷造りした上で、その目録を添えて堀家の家老・堀直政へ送り届けた。この時、直政は目録の通りに受け取ったことを確認し、その返事もしている。
だが、光秀が秘蔵する著名な『郷義弘の脇指』が目録に認められないので「これはどうしたことか」と質問をした。すると、秀満は「この脇差は光秀秘蔵のものであるから、死出の山で光秀に渡すため、私が自ら腰に差すものにしたい」と丁重に断っている(死するという演技とも考えられる)。 さらに、秀満は総大将の堀秀政に、金百枚を渡して「明智家の菩提寺である『西教寺』の永代供養にしていただきたい」とお願いをしている。その際には、辞世の句とともに、茶道具、墨跡などの財宝目録も渡している。
その後、秀満は天守に再び戻ると火を放った。そして、明智一族と重臣らの女衆、子供を含めた一族郎党とともに自害して果てた、とされている(誰も死体を確認していない)。
従って、坂本城は矢玉一つの応酬もなく、あっけなく落城したものである。
明智秀満の辞世の句は、光秀同様に『五言率の詩(1句5言の漢詩)』であった。
「一戦国中生 未知風月情 朝出師望魁 夕地策運営 依凡臥竜術 横鉾千里行 幾英名如夢 終節帰清明」
・・・ひとたび戦国に生まれ、未だ風月の情けを知らず、明日に出兵して先陣を望み、夕べに兵の運営を策す。机に寄りて臥竜の術を想い、槍を小脇に抱えて千里を行く、いくばくかの名声夢の如し、人生の終節、清明に帰る・・・
この「机に寄りて臥竜の術を想い」は「才能を発揮する機会を得ずに伏せている竜」、若しくは「天に昇らず時を伏せて待つ術(すべ)」かもしれないと、想像するに十分な深みのある詩である。
秀満は、長らく身を伏して江戸時代まで待って、やがて、天台宗・天海僧正として徳川家の代々の将軍である家康、秀忠、家光に仕え、108歳まで生きたと言われている。当小説では、明智光安(光秀の養父の弟)の子としたが、若い頃は『三宅弥平次』 (明智家一族に三宅称を名乗る家があった)と名乗り、さらに、信長の側室の生駒・吉乃と結婚していた頃には、『土田弥平次』と名乗っていた可能性がある。光秀以上にミステリアスな逸材である。
その後の坂本城は、秀吉に命じられた丹羽長秀が城を再建し城主となった。さらに『賤ケ岳の戦い』の軍事上の基地として使用され、その後には杉原家次、そして浅野長政が城主となっている。1586年(天正14年)、秀吉の命を受けた長政が、大津城を築城して居城を移したことによって廃城となり、石垣等の資材は大津城築城のために使用されたことから、現在では遺構がほとんど残っていない。
明智左馬助(秀満)の湖水渡りの逸話
琵琶湖の湖上を馬で越えたという『明智左馬助の湖水渡り』の逸話が残されている。
光秀の敗死を知った秀満は、坂本に引き揚げようとしたが、大津で堀秀政の兵に遭遇した。そのため、秀満は名馬に騎乗して湖水渡りをしたと言われている。狩野永徳が墨絵で雲竜を描いた羽織を着用し、鞭を駒にあてて琵琶湖を渡ったという。騎馬で湖水を渡ったという逸話の初出は『川角太閤記』であり、その真偽のほどは不明である。
しかし、当時から馬術は武士の鍛錬の一つであり、その中に『水馬(みずうま)訓練』が定着していたのは事実である。河川や海浜を騎馬で渡る乗御法の訓練で『武装水馬』と『裸水馬』の2種類があったという。江戸時代に入ると、各藩校のカリキュラムには、馬術の中に水練の項目が入っている(会津藩校・日新館など)。
当小説の『第6章の明智家崩壊』でも記述したように、秀満は武者修行の旅に出て、先ず西美濃で馬術の大坪流の師範である叔父の三宅新左エ門を頼っている。だが高齢のため、能登の熊木城主の斎藤好玄(新左エ門の馬術門下生)を訪ねるようにと説得されており、その過程で兵法の「武経七書」も学んでおり、馬術に対して正面から取り組んでいるのは間違いがない。また、光秀が信長の臣下になった直後には、戦場における秀満の騎馬武者ぶりに感動した信長は、すぐに秀満を直臣に欲しいと光秀にせがんでいるほどである。このようなことから、明智秀満が琵琶湖を愛馬の大鹿毛に跨り、打出浜より唐崎まで人馬で琵琶湖を泳ぎ渡ったという逸話は真実だと信じられる。
『武家事紀』の逸話
さらに、坂本城を敵に囲まれて滅亡が迫る中、知古の武士とのやり取りが逸話として残されている。
坂本城に一番乗りしようとした武士に『入江長兵衛』という者がいた。秀満は長兵衛と知己があり「入江殿とお見受けする。この城も我が命も今日限り。末期の一言として貴殿に聞いてもらいたい」と声をかけた。
長兵衛は「何事であろう」と尋ねると「今、貴殿を鉄砲で撃つのは容易だが、勇士の志に免じてそれはやめよう。我は若年の時より、戦場に臨むごとに攻めれば一番乗り、退却の時には殿(しんがり)を心とし、武名を揚げることを励みとしてきた。つまるところ、我が身を犠牲にして、子孫の後々の繁栄を思っての事だった。その結果はどうであろう。天命窮まったのが今日の我である。生涯、数知れぬ危機を潜り抜け、困難に耐えて、結局はかくの如くである」と述べた。
そして「入江殿も我が身を見るがよい。貴殿もまた我の如くになるであろう。
武士を辞め、安穏とした一生を送られよ」と述べた(『武家事紀』)。
秀満は今日の我が身は明日の貴殿の身だと、一番乗りの功名を挙げても武士とは空しいもの、と言いたかったのであろう。そして秀満は、話を聞いてくれた餞別として黄金の入った革袋を投げ与えた。秀満の死後、長兵衛は武士を辞め、黄金を元手に商人となって財を成したと伝わっている。これは少し出来過ぎの逸話かも知れないが、これも秀満の一族郎党の死をカモフラージュするための演技とみるのは、いささか行き過ぎであろうか。
掘秀政の報告
掘秀政は、ただちに三井寺に居る羽柴秀吉に坂本城・落城の報告を詳細に行なっている。
それは、織田信長の遺体に関する事柄が、死を覚悟した明智秀満から吐露されたからでもあった。坂本城の落城の様子と、秀満とのやり取りをきめ細かく報告している。
そして、主君であった信長の亡骸の件について秀正が口を開くと、見る見るうちに秀吉の顔色が蒼くなっていった。
「・・・秀満殿のお言葉では、御屋形様のご遺骸は、秀満殿自身が阿弥蛇寺の清玉上人様にお下げ渡しされた、とのお言葉でした・・・」
「何だと!」つい大声をあげてしまった。
(やはり、そうなのか。それでは阿弥蛇寺とその周辺を野捜しせねばならぬ・・・秀満は本能寺の横穴の秘密を知ってしまったのか、しかし死んでくれてよかったわい・・・)
なお、掘秀政は信長の直臣であったが、当時は秀吉の中国征討に付き従っていた。従って、その後の山崎の合戦でも秀吉方の先鋒の一人として戦い、摂津衆に負けず劣らずの武功を挙げている。元々は信長の美男の寵童で、かつ、側近衆でありながらも武勇の誉れの高い新進気鋭の武士であった。この後も、清須会議後に三法師の『後見役』の実務を務めている。残念ながら、後の小田原の陣中において病死している(享年38歳)。
蒲生氏郷や掘秀正のように、秀吉の闇の秘密に触れた若武者は、どういう訳か早死にしている。
信長遺骸の執拗な探索
秀吉は堀秀政を引き下げさせると、すぐに前野将右衛門を呼んで阿弥蛇寺の探索を命じるのであった。その阿弥蛇寺は、四方八町の広大な巨刹で、本能寺の30倍ほどの敷地を有する織田家の菩提寺であった。南面は、薬草園の他に無縁墓地と診療所があり、北面は墓地や焼場などになっている。
この後、秀吉は信長の亡骸を探すために、阿弥蛇寺全体を何回も強制執行して信長の遺骸を探索している。しかし、亡骸は依然見つからず、清玉上人も反抗して一切協力をせず、遺骸の場所を頑として教えないで拒否を続けるのであった。
その後、清玉上人の後釜に、2世・園居以、3世貞順、4世園誉、5世貞安を秀吉は送ったが、亡骸を知る清玉上人は死するまで口を割ることはなかった。
常に「お断り申す」を繰り返し、ついに黙してこの世を去っていった。なお、清玉上人は、信長の父である『織田信秀』が京の『白拍手(しらびょうし)』に産ませた子供であり、信長とは腹違いの兄弟にあった。
信長弑逆と山崎の合戦は別もの
本能寺の変と山崎の合戦は、時間の推移では連弾している。しかし、その本質的な構造は明らかに異なっている。
明智光秀の辞世の句『逆らうか、従うかに二門はない。人として悟るべき広い道はその心の源に発するもの。私の生涯の夢は、覚めてみれば順も逆もない。一つに帰着するのである』は、本能寺の変を起こした光秀の胸中を表したものと理解する。
さらに、この辞世の句は、光秀が天下を奪うような意志がないことも示唆している。
山崎の合戦での敗因には、毛利や長宗我部、上杉などの大名を味方にするための政治的な工作である朝廷、足利義昭、本願寺などとの交渉が進んでいないことの影響が少なからずあった。そうしたことで、光秀の戦略性のなさや、知将としての能力を批判する向きが多い。しかし、『山崎の合戦』は、光秀にとって五畿内における一つの戦闘であり、変による五畿内の不安定な状況を収拾することが第一義の目的であった。結果は別にして、少なくとも政権の覇を争う戦いではなかった。『本能寺の変』と『山崎の合戦』は、時間的な空間の繋がりが短く、同質の問題にとられがちだが、あくまでも異質のもの。
そもそも光秀は、政権交代を目的として『本能寺の変』を起こした訳でもない。つまり、信長弑逆の当初から、新たな政権構想の具体的なプランはなかった。ましてや、光秀自身が覇者となって、政権の頂点に立つ意志は全くなかったと断言できる。光秀には天下取りの意志そのものがなかった。
しかし、その一方で、秀吉には天下を横取りする意志があった。従って、これら二つの出来事は、異次元の性質を持ったテーマであって、次期政権構想に関するテーブルと同じ俎上で、二つの出来事を混合して議論をすべきではない。
明智光秀には、足利幕府の再興や朝廷に与えていた信長の呪縛を解くために、かつての中世の仕組みを取り戻すような具体的な計画は存在していない。
さらに、守護大名であった我が祖である土岐氏の再興については、漠然としてはいるがその胸に秘めていたことは否定しない。しかし、それと政権を樹立することとは=でも≒でもない。
光秀は天下取りを望んでいない
以上の考え方に従えば「何故、光秀は政権樹立に失敗したのか」「光秀は政権を取る資質にない」「信長や秀吉のような天下取りの器にはない」などの論評や批判は筋が違うもの。
但し、光秀の行動は、将軍(足利義昭)、天皇(前久などの公家衆を含む)及び信長と敵対する有力大名らの意向や思惑に沿って、押し出されるようにしてその先鞭役を取ったことは確かなこと。しかし、それらとて確かな新政権構想があったわけではなく、あくまでも打倒信長のスローガンが共通のテーマとして存在していただけのこと。
また、足利義昭や近衛前久などから、信長討ちを唆(そそのか)されたことは間違いのない事実。それが本能寺の変のクーデターに繋がってもいた。実際に前久からは、謀反の暁には将軍職をちらつかされている。それでも光秀は、自分自身が将軍職や関白・太政大臣になる気は全くなかった。信長の討ちの謀反のための意思表示と計画や準備はあったが、政権に関する準備や計画は、そもそも持ち合わせていなかった。従って、あくまでも謀反の企てのみに尽きるのが『本能寺の変』である。
山崎の合戦は秀吉の天下横取りの戦い
その一方で山崎の合戦は、秀吉の天下横取りのための戦いである。
仕掛けたのは、勿論、羽柴秀吉。否応なく巻き込まれたのは明智光秀。
秀吉が純粋な気持ちで、つまり心から主君を偲んで仇討ちを目指した訳ではないことは明白である。従って『本能寺の変』と『山崎の合戦』は、異次元の問題と結論する。
サイコパス信長に対する義憤
山崎の合戦前に、盟友であり親友と信じてきた細川藤高に宛てた書状でも、光秀自身が天下様になる志(こころざし)がないことがよく分かる。
その趣旨は①藤高の重臣による援軍を要請するもの②味方になる場合の恩賞を与えるもの、になっているだけである(変後の6月9日に藤高に送った書)。
意訳されてはいるが「藤高・忠興父子が信長に弔意を表して元結を切ったことに腹を立てているが、思えば仕方のないことである。とはいえ、味方して重臣を派遣してもらいたい。恩賞として摂津を用意していたが、但馬、若狭もお望みてあれば、進上する。・・・」とある。
その続きには『政権』の言葉も出てくるが、これは意訳なので政権と言う現代語で表しているが、文章の繋ぎからは、混乱が落ち着いたらとの意味だと理解できる。
仮に政権そのものだとしても、それは足利将軍の政権、又は朝廷による権門体制下の政権の可能性があること。光秀は、信長や秀吉のように、決して自ら政権のトップに座るつもりは毛頭なかったと言い切れる。
従って『本能寺の変』は織田政権の奪取ではなく、結論的には、サイコパス織田信長に対する義憤だと言い切れる。人間としての正義感から湧き出てきた『義憤(悲憤)』だったのである。光秀ほどの知将がそのような私怨だけで、謀反を起こすことは信じられないのが一般的ではあるが。
光秀が受けたサイコパスの被害
それでは、光秀が受けた信長によるサイコパスの被害を再確認してみる。
それは次の5つがあった。
①荒木村重の謀反に対する残虐行為
②波多野兄弟に対する残虐行為
③竹生島参詣の成敗
④妻・煕子の病死
⑤恵林寺成敗
①は、荒木村重の裏切りに伴う残虐行為。有岡城にいる女房衆122人と村重一族と重臣の家族36人が処刑された。さらに、村重を匿った高野山の憎100人あまりも処刑されている。戦国時代における『処刑』としては、最大で最悪のケースとなった。
明智光秀の長女(倫子、幼名碧子)は村重の嫡男に嫁いでいたが、謀反発覚直後に離縁されて、光秀の元に返されてきた(その後、秀満と再婚、秀満は三宅称から明智称になる)。
ただ、光秀の娘が嫁ぐ時に一緒に荒木家に入った侍女は、そこで村重の家臣に見初められて結婚して荒木家に留まっていた。そのために処刑されてしまった。その侍女は、光秀の元・側室でもあった女性で、光秀は他人事では片付けられない二重の無念さがあった。
この荒木村重の不可解な裏切りに怒り狂った信長は、女房衆などを尼崎の七松に集めた。そして、磔、鉄砲で撃ち殺し、あるいは四軒の家に閉じ込めて火を放ち焼き殺した。
たまたま与一郎(細川忠興)は奉行として、この刺殺、銃殺、焚殺の刑に立ち会っていた。その時、刑場に引かれていた一人の女が与一郎に泣いて縋ってきた。女は与一郎のことも知っているガラシャの元・乳母でもあった。
細川家でも何度か顔を会わせており、与一郎もその顔を覚えていた。「お助け下され、与一郎様お頼みます!」と泣き叫んでいた。与一郎は気性が荒い豪の者と呼ばれていた武将だが「その時ばかりは、辛うございました」と、父の藤高に吐露している。
②では、光秀の義母で愛妾でもあった『お牧の方』が犠牲になった。光秀が攻略する丹波・八上城の波多野兄弟による裏切り事件である。
光秀の調略によって降伏してきた波多野秀治、秀尚、秀香の兄弟三人が信長方に味方するとして、安土城の信長を訪れたが、信長は兄弟三人を処刑にしてしまった。この結果、光秀が兄弟の命を保証するために、八上城に預けていた光秀の義母であり愛妾の『お牧の方』が磔に処されてしまった。これを知った光秀は、いつもの沈着冷静さを失って、猛然と反攻して八上城に向かい、あっという間に守備する波多野の家臣団を殲滅させている。かつて、光秀の養子先である明智家の当主・光綱が急死して、お牧の方がまだ30代の未亡人であった頃に二人は愛し合っていた。光秀は未婚の20代ではあったが、事実婚の千草とその子供たちがいた。それでも義母として愛妾として、お牧の方に深い愛情を注いでいた。
③は、光秀は妻の煕子の妹を信長の側室に供していた。出身地から『お妻木の方』と呼ばれ、織田家の公式のお使い役にも活躍していた女性。
だが、1581年(天正9年)の4月。信長は、安土城を出て御小姓衆とともに竹生島に参詣に出ていた。これは遠路のことで、城中の者達は、今夜は長浜あたりに宿泊するであろう、と皆が考えていた。だが、信長は馬を飛ばしてその日に帰城した。女房衆らは二の丸へと出かけた者、あるいは桑実寺へ薬師参りに行った者もいた。怒った信長は、桑実寺の長老と女房衆らを惨殺するのであった。実はこの中に、明智光秀の義妹、妻・煕子の実妹であるお妻木の方も含まれていた。
④は妻・煕子の病死。光秀の妻・煕子は、実妹の『お妻木の方』が前年の4月に信長によって成敗されて以来、そのショックによって心の病にかかっていた。現代の病名で言えば『重いノイローゼ』。このため、煕子は、毎日のように床に伏していることが続いていた。それを知った細川藤高や吉田兼見からは、お見舞いの文と品物が寄せられていた、と記録に残されている。
愛妻の病死も、サイコパス信長への怨念に繋がっていったことは否定できない。あまり知られていないが、坂本城で病に倒れて死亡していた妻『煕子(ひろこ)』に対する光秀の哀愁の『短歌』が残されている。
それは「おもいなれたる妻もへだつる」である。
⑤は、恵林寺が六角次郎(六角義賢の子息)を隠していたことが発覚し、恵林寺を成敗することになった。織田信忠の命により、成敗する奉行として織田元秀、長谷川与次などが奉行として任命された。奉行らは、僧衆を残さず山門の二階に集め火を放った。その中で、快川紹喜長老は少しも騒がず、座ったまま動かなかった。他の老若、稚児、若衆らは、飛び上がり跳ね、抱き合って泣き叫んでいた。地獄、畜生道、餓鬼道の苦しみに悲鳴をあげている様は、目も当てられなかった、と『信長公記』に信長家臣の太田牛一が記している。名の知れた名僧が多く、中でも快川紹喜長老は、宮中から忝くも『円常国師号』を賜っていた。そして、美濃出身の僧でもあり、若き光秀は、快川和尚から様々な薫陶を受けていた。恵林寺もろとも快川紹喜長老は藻屑と化したのである。
以上は、光秀個人に関わる信長のサイコパスだが、周知の通り信長は皆殺し(ジェノサイド)的なサイコパスも発揮している。
1574年(天正2年)には、長島の一揆軍との戦いで、降伏する一揆勢を容赦なく皆殺しにしている。また、その近隣にあった中江城や屋長島城に籠っていた2万人もの男女も焼き殺している。さらに、比叡山・延暦寺の焼き討ちと、そこでのなで斬りでは、死者数は、諸説あるが2000人以上と数えられている。荒木村重の謀反では、有岡城にいる女房衆122人と村重一族と重臣の家族36人が処刑された。それに伴って、村重を匿った高野山の憎100人あまりも処刑され、戦国時代における『処刑』としては、最大で最悪のケースとなっていた。
光秀に近づく反信長勢力
本能寺の変の前後において、光秀に近寄る反信長勢力が現れるとともに、光秀自身からも近づくような書状や密使を送っている。
例えば、信長に敗れて堺、紀州の由良を経て、鞆の浦に隠遁している足利義昭などである。義昭は自分が帰洛し、将軍職に復帰して幕府政権を再構築することを目指していた。毛利氏の援助の下ではあったが、鞆の浦では幕臣名簿が作成され、幕臣としての役人が64名ほど名簿に記されている。在京時には120人ほどが在籍していたので、その半数ほどの人材が確保されていたことには驚きがある。ただ、軍兵は皆無に等しく、支援者の毛利氏の軍兵に守備されていたという。この鞆の浦における仮御所のほど近くには、備後・安国寺があり、安国寺恵瓊が監視役と毛利氏との連絡係を務めていた。
なお、この幕臣名簿には、外様の奉行衆として、北畠具親などの名前が掲載されている。これは、近衛前久が作成していた信長打倒の連判状にあった旧守護大名らとほぼ同じ面々である。しかし、すでに信長打倒が実行できるような軍事力にはない。
この他、光秀に近づき書状の交換や密使派遣をしたのは、毛利氏、長宗我部氏、上杉氏、本願寺、雑賀衆などである。いずれも反信長勢力ではあるが、既に信長の攻勢によって危急存亡の瀬戸際にあった面々である。従って、自らの防衛のための合戦を行なう覚悟はあっても、新しい政権を樹立して覇権を唱える意志も計画もない。
つまり、自らの防衛のためだけに、光秀の謀反に協力するスタンスであった。そのことから、反信長勢力は決して一枚岩でない。一方、光秀もこれらの勢力に対して、自ら新しい政権を樹立するような意志表明をしていない。
仮に、政権樹立をするための戦力比較をするならば、自軍+光秀軍だとしても、対する信長の直臣軍+秀吉軍+勝家などの軍事的総数は大きい。ましてやこの時点では、徳川家康の去就は不明なのである。どちらかと言えば、信濃・甲斐を攻め滅ぼした信長の同盟者としての位置づけに変化はなかった。光秀も家康も変の直後では、お互いに同盟者になっているとは公言できない状況にあった。
一枚岩でない反信長勢力
加えて、これらの反信長勢力には、内部事情もあって決して一枚岩ではない。
毛利兄弟、恵瓊、義昭らは繋がりを示すものの、基本姿勢や戦略は各々異なり、ある意味では烏合の衆の集まりに近い。一方、公家筆頭の前久にしても、ライバルの一条内基が秀吉や三好氏寄りにあって、公家衆内や摂関家内も纏まりには欠けている。前久は謀反のかたわらを担いだとして秀吉に疑われ、変の直後には行方を眩まし、その後は、家康に保護されている有様(家康が松平から徳川に改名する際に、前久の協力を得ていたことがあった)。
信長打倒のスローガンだけ
僅かに、正親町天皇の仲介によって、本願寺の顕如と教如親子が反信長で和解する動きがあった。しかし、これらの勢力の動きは、信長亡き後も形成されている織田軍団の巨大な組織力を恐れ、変後に協力体制を確立するまでには至っていない。せいぜい密使や密書による短い遣り取りの程度で、信長打倒のスローガンだけ、あるいは政権打倒の意思確認に程度にすぎなかった。従って、反信長勢力は存在していたものの、横断的に団結するほどのものではなかった。今もなお存在する織田軍団の脅威から、我が身を保身するためのものにすぎないことは明らかである。
そうした現実を知っている光秀は、5機内の平定や正常化にあっても、50日や100日はかかる、と藤高宛の書状に書いている。他方一歩譲って、仮に光秀が天皇の命による新幕府の樹立を想定していたとしても、自分が将軍や関白になるなどの気持ちは毛頭ない。繰り返しになるが、信長の弑逆の計画はあっても、政治的な新政権構想の展望は確立していなかったといえる。
政権構想の筋道
そもそも、政権打倒のクーデターには、天皇や将軍による正当性のお墨付きという確約がなければ、新政権樹立への展望は開けないものである。
光秀は、そのようなことを知っている現実的な合理性を思考できる知将である。決して、絵にかいた餅だけで行動を起こせない。こうした反信長勢力の実情をよく知っている光秀は、それでも、先んじて信長弑逆の謀反を実行したのである。やはり、信長のサイコパスに対する誅殺が、本能寺の変における最大で最終の目的であったといえる。
であれば、光秀に政権構想がなかったから天下を取れなかったと、光秀の人間的スケールや、その知力や能力を蔑み否定するべきではない。光秀ほどの知将であれば、あくまでも政権交代が最終目標であれば、反信長勢力に対して事前に根回して意志疎通を図った上で、新政権構想の準備をしたはずである。
確かに、旧幕府(足利義昭)、天皇と公家衆の朝廷及び反信長の大名らの信長打倒の行動が蠢動し、活発化しつつあった時期であったことは事実。従って、それらを巧みに利用して、新政権構想を打ち立てる道筋もあっただろうが、人間・明智光秀は高齢にあって、そこまでの野心にはなかった。信長を誅する機会はそう簡単にはない現実の中で、それがたまたま信長自身の演出によって、最初で最後の、そして最大の弑逆の機会が生まれた。その絶好の機会を逃さず、躊躇せずに弑逆した謀反劇であった。
四国説
信長と同様に、戦時の光秀は徹底した合理主義を貫き、その点を信長に買われて出世街道を突き進んできた武将である。ところが1580年頃から、出世頭の座は秀吉に脅かされるようになり、四国問題ではますます窮地に追い込まれつつあった。このことから、光秀謀反の新説である『四国説』は、かなりの説得力があるのは確か。しかし、政策変更はあったが、四国統治は既定路線であり、光秀自身も長宗我部氏に対して信長に従うように説得し、長宗我部も了解していた(本心は別な所にあったとしても)。そもそも光秀は、信長のこうした政策上の方針に、逆らうようなことはこれまで一切していない。決して自己都合で、異議を申し立てることも一切してこなかった。
光秀の心の闇
一方、主君を弑逆するような行動に出ることは、理性を失って脳神経がコントロールできないような大きなショック性の出来事に遭遇したか、若しくは、それらが連続的に脳を刺激したことによって初めて爆発したもの。ここ数年来、光秀の身内や関係者が信長のサイコパスによって、複数の尊い命が犠牲になったことに対する怨念が一気に爆発したものと診断できる。
土岐氏の再興の夢も、そういった怨念の上に乗りかかっていたものにすぎないのではないか。光秀が知将であることは疑う余地もない。だからと言って、逆心することはないと断言することはできない。人間の心の闇は、他人には分からないのが世の常である。
サイコパスによる遺恨説
翻って、当小説の冒頭において『本能寺の変』における明智光秀の主君弑逆の真因については長らく論争が続き、近年に至っては『怨恨説』『野望説』『四国説』『黒幕説』『土岐氏再興説』が浮上し、どれもその可能性については完全否定をできない側面があると述べた。
古くから伝えられてはいるが、最も信憑性に欠けるとされる怨恨説についてさえも、完全否定は難しい面も確かにある。個人的には、それらの要因すべてのトータルの複合的な要因で、信長が弑逆されたと考えてきた。しかし、今は、上述のサイコパスによる遺恨説が強く台頭している。従来の怨恨説では、居並ぶ家来衆の面前で信長に欄干に叩き込まれ、さらに家康の饗応役の際にも人前で罵倒されてその任を解かれ、すぐに秀吉の援軍に向かうことを命じられている。その際には、二国の領国を召し上げられたことなどに対する恨みがあったとされる。従って、サイコパスの問題と従来の怨恨説とは全く質が異なるもの。
土岐氏再興はスローガン
ただ、いずれにしても、独裁者・信長に対する恐怖心と、それらに伴う将来不安を抱えていたのは光秀だけではなく、信長の息子を養子にしている秀吉を含め、信長家臣一同にも相通ずるもの。従って、多くの関係者に潜在的な動機はあるが、現実的に信長を暗殺できる最短の距離と実行可能な環境にあったのが光秀だった。勿論の事、土岐氏再興は光秀の悲願でもあり夢ではあったが、ここに至って考えれば、クーデターのスローガンやキャッチフーズにすぎなかったのではないかと、トーンダウンしている。
天下取りの野心があっても
信長を弑逆した光秀が秀吉のように天下取りに行き着かなかったのは、光秀自身がそもそも天下取りの野心がなかったと結論付けてきた。おそらくその結論には、一般的に異論が百出するので、もし光秀に野心があったなら、と仮定してみる。
二度と巡り会わないと判断したクーデターの好機に囚われ、秘密裏に事を進めすぎたため、味方の連結を強化・増加させるという政治的な行動を起こす時間の猶予が足りなかった。そのため、反信長連盟の軍団作りや変後の政治体制の絵姿を伝えることも、臨時の政治体制すら築くこともできなかった、と考えられる。尤も、光秀はクーデター以前より、公家、西方公方、長宗我部、毛利などとも、秘密裏に交信を重ねていたことが、最近になって歴史的な文献に認められるようになってきた。決して、信長誅殺前後の政治・軍事の同盟者作りの有用性を軽視していたわけではない、と言う証にもなっている。
藤高の機を見る処世術
但し、事の重要性や意図する核心の部分については、韓非子の教えに基づき情報漏れを防ぐため、秘密主義を貫いていた。クーデターの決行日についても、当日まで家臣にさえ秘匿してきた。しかし結果的には、自分の与力的な家臣であり、最も頼りにもしていた我が出世の恩人でもある細川藤高に裏切られていた。
韓非子は『二柄』で説く。
「人臣の情、必ずしもよくその君を愛するにあらざるなり、利を重んずるがための故なり」
それに対し秀吉は、光秀のクーデターを予知していた。それは子飼いの前野将衛門が歌学を通じて細川藤高と友情を結ぶほどの仲となっており、信濃・甲斐の東征後、安土城に凱旋後の信長、家康、光秀の行動については、藤高を通じて秀吉に逐一伝達されていた。
秀吉は変後に、信長の子息や光秀の与力までも味方にして、己の天下取りの野望を隠し、逆賊に仕立てた明智光秀を討ち果たした。
これら『本能寺の変』と『秀吉の天下取り』の最大のキーマンは、細川藤高で間違いがない。光秀が仮に天下取りの野望があっても、藤高の裏切りがある限り、結果は同じものであった。これは光秀の資質や能力のレベルの話しではない。
藤高は、将軍足利義昭とは腹違いの兄でありながら、光秀に続いて織田信長の家臣となり、畿内衆と将軍や幕臣の情報を注進するなどして、信長から領地を授かっている。
本能寺の変の前後では、光秀を裏切り羽柴秀吉に臣従する。
特に、変直後には、頭を剃髪して細川幽斎玄旨と号して隠居するとともに、家督を嫡男・細川忠興に譲っている。
これは、見事なまでの裏切り行為であり、機を見るに敏感な処世術でもある。
しかし、藤高だけを責めることはできない。戦国時代にあっては、信長、秀吉、家康、光秀など、ほとんど全ての武将達はこの裏切り行為を重ねて来ている。
従って、結論としては、仮に光秀が政権を担う野心があったとしても、この藤高の裏切りがある限り、天下を得ることはできなかったことになる。そこには、ルイス・フロイスが光秀を評した硬骨な野心家の光秀ではなく、藤高との友情を尊ぶ人間光秀の姿があった。
同僚にも嫉まれていた光秀
フロイスは「裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなかった。戦においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。築城に造形が深く、優れた建築手腕の持ち主であった。戦いには熟練の武士を使いこなしていた。人を欺くため72の方法を深く体得し、かつ学習したと吹聴していた。その才覚、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けていた。主君とその恩恵を利することをわきまえていた。自らが受けている寵愛を保持し、増大するために不思議な器用さを身に備えていた。絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛の情を得るためには、彼を喜ばせることを万事につけて調べているほどであり、信長の嗜好や希望に関しては、いささかもこれに逆らうことがないように心掛けた。信長は奇妙なばかりに親しく彼を用いた」としている。
光秀は、当初、家臣団の中での競争に打ち勝って出世するために、こうした処世術を駆使したのであろう。これから読み取れることは、もし光秀が政権樹立を目指したとしても、他の信長家臣は光秀を憎まずとも一味同心することはないと読む。同僚には好かれてはおらず、むしろ出世頭故に、憎まれていたと言ってもよい。それに比べて、秀吉は、先輩の柴田と丹羽の一字をもらって『羽柴』と名乗っているように、人間関係では好印象を与えることが得意な人たらしであった。
光秀の高齢説
さて、何回も繰り返して恐縮だが、明智光秀が信長を弑逆した動機は諸説あり、私はそれらのどれもが重なった複合的な動機だったと考えてきた。専門家による研究成果としての『怨恨説』『野望説』『四国説』『黒幕説』『土岐氏再興説』は、どれ一つとして否定できるものではない。もし、できることならば『サイコパス説』と『高齢説』も付け加えてもらいたい、と今は真剣に考えている。
何故ならば、当小説で60歳説にしたことを少し後悔している。執筆を重ねるうちに、フロイスの言う『67歳説』が最も正しい気がしてきている。その理由は、実に単純な発想で、戦国時代に光秀とともに生きてきた細川藤高(細川幽斎玄旨)や織田長益(織田有楽斎)が77歳まで生き、さらに従兄弟である明智秀満は南光坊・天海となって、108歳まで生きていたという事実を知ったからである。67歳であったとするならば、光秀は、その嫡男が13歳であった場合、後継ぎに関する将来不安や一族の末代までの繁栄に、懐疑的にならざるを得ないものになる。
『らしからぬ信長』と『らしい光秀』
『らしからぬ信長』に対して、一所懸命の武士の本分を支えにしていた『らしい光秀』が、ついに、ついて行くことができない限界点に達しての弑逆であった。
やはり、光秀は武士らしい古来の武士であり、新時代の構想に向かって邁進する信長には、最後まではついて行くことができなかった。信長の推進する天下統一事業ための、苛烈なほどに人道を軽視した仕置方法、強制執行及び古来の武士道の仕来り破りに対する批判勢力(旧足利幕府、朝廷、仏教門徒衆、他の守護大名など)の怒りも、1582年(天正10年)の段階では、ピークに達していた。
しかし、これらの批判勢力を一本化することができなかったと、明智光秀を責めるのは酷である。光秀は、信長討ちを確実に果たすことができるエアー・ポケットを発見し、実行したにすぎないのである。ただ、この絶好の好機は光秀ばかりではなく、秀吉にとっても絶好の機会でもあった。その結果、光秀の天下は(実際は天下ではないが)正味12日で終わったのである。確かに、反信長勢力を纏める逸材がいなかったことが、秀吉の天下を創出した所以でもある。つまり、足利義昭、近衛前久、顕如、毛利などの諸大名らには、個々抱えていた事情(信長以外のライバルや身内のトラブルなど)があって、リーダーシップを発揮できる逸材が登場しなかっただけのことかも知れない。その意味では、武田信玄や上杉謙信が、信長よりも早くに亡くなっていた影響は小さくはなかった。
信長好物の湯漬け飯
最新の研究で最も有力な動機として俄然クローズアップされている『四国説』は、今でも議論が続いている。ただ、主君と家臣の主従関係では、方針が突然変更され、家臣の考え方と異なっていても、主君に従うのが家臣であり、光秀も十分それを理解している筆頭の重臣。従って、私の結論は、最後の直接的な動機に繋がったものは、信長の『サイコパスに対する怨恨』だったと、再確認できてその結論に到達することができた。
そのサイコパスについては、病室的なものではなく、信長の基本行動の書である『韓非子』の基本骨格を成す『二瓶(にへい)』における『二つの柄(え)にある刑と徳』に学んだことによるものである。但し、一般的な人間の性格として織田信長は、猜疑心と執念深さでは他の人より相当強かったのは確かである。
他方、医学的には、信長の食生活も影響していたと指摘する向きもある。
信長は、出陣の前には必ず『湯漬け飯』を食していた。それには焼味噌が乗せられている。
焼味噌は普通の味噌よりも塩分が多いことで知られ、信長は塩辛い食べ物が好物だった。豆味噌は大豆100%で、発想力、閃き、集中力を鋭くするレスチンの含有量が多い。ただその一方で、塩分が多く血圧を高くしてしまう作用がある。従って、常に怒りやすく、イライラする傾向が強い。
悪の3条件
それでも、いささか徳(賞)よりも刑、即ち刑罰に重きを置きすぎた故に、最後の最後になって、双璧の部下の一人である光秀に謀反され、弑逆されることに至ったとものと考えている。韓非は、二瓶、つまり刑罰と賞について「君主が二つの柄を自分の手で握っていれば、臣下を『刑罰』で脅し、『賞(徳)』であやつり、思いのままにすることができる」と結んでいる。織田信長は、生涯この教えを一時も忘れることなく実践し続けてきた。
しかし最後になって、その韓非子の教えが破綻してしまった。やはり、行き過ぎがあったのだろう。
行き過ぎと言えば『悪の3条件』が想起される。信長ファンには申し訳ないが、信長の性格は①目的のためには手段を選ばない『マキャヴェスト』、②自分が大好きな『ナルシスト』そして③残忍なことを行う『サイコパス』だったするのは考えすぎであろうか。
悟った信長の政治手法
信長のサイコパスによって、次々と愛する人々を失っていった光秀の怨念が限界点に達した末の主君弑逆と結論した。それでも、それは百%の確率の完璧な解答ではない。
家臣筆頭の出世頭であった頃には、そういった病んだ心の苦しみはなかったかもしれない。
本能寺の変の直前に、顕著となったライバル秀吉の急伸、他の古参家臣の罷免と信長血族と若き直臣へと代替わり人事の現実を目の当たりにしたとき、我が身の高齢と幼い嫡男の血族構成を鑑みれば、将来に対する悲観はあっても楽観できないことは明白な事実。
従って、本能寺の変の前の頃には、光秀には信長の直近の政治手法が見えてきていたのだ。信長にこのまま死ぬまで忠誠をいくら尽くしていても、適切な政策が簡単に変更されてしまう。これまで信長に忠誠を誓い従ってきた徳川家康や長宗我部元親なども、躊躇なく切り捨てられてしまう。苦労して得られた領地さえも、一所懸命の武士道を無視した配置転換が行われることによって、意図も簡単に召し上げられてしまう現実が襲ってきていた。
これまでの専門家による本能寺の変に関する研究の『怨恨説』『野望説』『四国説』『黒幕説』『土岐氏再興説』は、どれも正しい。光秀はこれらの現実とその矛盾に気付くほどに、これまでの信長のサイコパスによって、愛する人々を失ってしまった怨念の炎が、主君の虐殺へと燃え広がっていったのである。
終わり
長い間、お読みいただきありがとうございました。この後は『あとがき(エピローグ)』にて明智光秀の子孫について触れてみたいと思います。
最後に、本能寺の変から440年が経過した今日。地球上では、主権を有する国家が他国の暴挙によって侵略され、多くの人間の命が奪われる惨状が続いています。今こそ命の尊さを訴え、三つの悪癖を有する魔物を退治すべき時でもあります。
<参考文献>
『織田信長公記』太田牛一著/新人物文庫
『本能寺の変431年目の真実』明智憲三郎著/文芸社文庫
『本能寺の変は変だ』明智憲三郎著/文芸社文庫
『織田信長四三三年目の真実』明智憲三郎著/文芸社文庫
『韓非子』西野広詳・市川宏訳/徳間書店
『家訓・遺訓100話』甘利一馬著/立風書房
『化粧ものがたり』高橋雅夫著/雄山閣出版
『春日局』福田千鶴著/ミネルヴァ書房
『戦国大名の兵粮事情』久保健一郎著/吉川弘文館
『戦国時代の足利将軍』山田康弘著/吉川弘文館
『本能寺の変』藤田達生著/講談社学術文庫
『信長と消えた家臣たち』谷口克広/中新書
『たべもの日本史』永山久夫/河出書房新社
『秀吉の陰謀』井上慶雪著/祥伝社。
*大変勉強になりました。厚く御礼申し上げます。
あとがき
本編では、明智光秀の生涯を中心に綴りさせていただいた。
次回作の『光秀の娘・春日の局(仮称)』では、本編の続きとして、光秀の妾腹の娘が坂本城落城後の逃亡生活を経て、春日の局に変幻していく姿を綴る予定。斎藤利三の娘、稲葉一鉄の孫娘となって、その後は稲葉正成と婚姻する。離縁後には、関ケ原の戦いの後に、家康のお手付きとなり(伏見城又は大阪城で)、後の徳川第三代将軍である家光を産んで春日局へとなっていく。光秀の娘ながらも、斎藤利三の娘として乳母となり、将軍家光の生母として陰に日向に生きていく人生模様を描く予定。
家康の子を孕んだ福は、家康の密命のもとに、現在の静岡県焼津市に当たる地で養生をしながら、家光を当地で出産している。生後しばらくは、当地で人目を忍んで匿われていたもの。福と赤子の家光を江戸城入りまでの間預かっていたのは、家康とは旧知の家来筋に当たる鷹匠の『良知家(らちけ)』と考えられている。
当家には、家光が使用していたとみられる腹掛けが残されており、また、家康自身が自ら手植えしたとされる松の木も現在まで保存されている。当然、良知家には代々一子相伝で厳格な口封じが敷かれ、この秘密が引き継がれてきた。現代の今となっても当家では、家康から預けられた人物の名前を公にしていない。
一方、最終的に、福が光秀の娘であると家康が確認できたのは1608年(慶長30年)のことで、駿府城における天海大僧正との初面談の際のことと理解している。家康は、天海大僧正との談後「天海大僧正は、人中の仏なり、恨むらくは、相識ることの遅かりつるを」と嘆き驚き、その後は、彼に絶大なる信任をよせていく。周知の通り、天海大僧正は家康の顧問的な存在となり、創成期の徳川幕府を支える重要な人物の一人になる。
光秀の子供たち
明智光秀の子孫の一人である歴史研究家の明智憲三郎氏は、その著作である『本能寺の変431年目の真実』で次のように記述している。
「紅葉山文庫の蔵書である『松のさかへ』の一部に「秀忠公御嫡男 竹千代君 御腹 春日局 三世将軍家光公也」と書いてある」。さらに、家光の名前について「祖父の家康+光秀=家光・・・おそらく家康は実現できなかった光秀・家康連合政権の夢を家光に担わせたかったのであろう・・・」。家光は庶子でありながら、家康の命により、秀忠の正室である『お江の方』の子として扱われていく。
翻って、光秀の子孫は、秀吉の喧伝によって光秀が悪役の逆臣とされてきたこともあって、その多くの子孫は、隠れ潜んで一子相伝として密かに生きてきた、と言われている。それらの子孫は枚挙にいとまがないほど多くの血族が全国に散在しているようだ。
光秀の嫡男は山崎の合戦で戦死したという説もあるが、その伝承物からは、近江の土岐一族に匿われていたと推測されている。この他、光秀の子孫は、京、上総の国、近江、小谷、伊賀、讃岐、唐津などの全国各地にその伝承が認められている。
なお、島原の乱で討死にした『三宅重利』が明智秀満の子と伝わっている。秀満の子とすれば、光秀の長女と再婚する前からいた愛妾の腹の子である可能性がある。
最後に『明智軍記』では、光秀の子は3男4女説だが『鈴木叢書(そうしょ)』では6男7女であるので、こちらの説を基礎にして次回作を検討することとしたい。
秀麗にて秘奥あり候 逸崎雅美 @also8420
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