エピローグ

昨日から続いている雨は止む気配がなく、見事に咲いたくちなしの花が雨粒を受けて揺れていた。


 雨のせいか今日はいつにも増して客足が悪く、店には1人の常連しかいなかった。


 ルビーは背伸びをして立ち上がると、コーヒー一杯で何時間も粘っている男におかわりを注いでやった。画家志望だという彼はいつもスケッチブックを片手にやってくる。だが、開かれたページは先ほどから全く変わっておらず、今日も捗っていないようだった。


 カウンターの内側に座り、自分にもコーヒーを注ぐ。再び暇を持て余したルビーは、頬杖をついて窓の外をぼうっと眺めていた。


 付けっぱなしのラジオの向こうで、誰かがニュースを読み上げている。戦争、難民、恐慌…遠い国で起きている出来事が、ルビーの耳を右から左に流れていく。コーヒーでは抗えない眠気が襲ってきて、まぶたが下がりかけた時だった。


 涼やかなベルの音ともに、1人の男が店に入ってきた。


「いらっしゃいませ!」


 ルビーは跳ねるように立ち上がると、とびきりの笑顔を作った。

 その男は、ここらでは見かけない顔だった。歳の頃は70過ぎだろうか、まばらになった白髪を後ろで撫で付けている。ひどく疲れた顔をしているが、服も鞄も最上級の品のようで、上流階級特有の洗練された雰囲気を纏っていた。


 老人というよりは老紳士、という言葉が似合うその男は、ゆったりとした動きでカウンター席に座った。


「ご注文は?」

「クロワッサン、お願いします」


 男の海松茶語はぎこちなかった。聞き覚えのある訛りに、ルビーは顔を綻ばせた。


「お客さん、呂色国の人?」

「どうして分かったんです?」老紳士は驚いて目を丸くした。


「訛りが父と似てて。あ、父は呂色国出身なんです」

「本当ですか。それは奇遇ですね」


 ルビーはさりげなく手を伸ばし、ラジオのチャンネルを音楽番組へと変えた。さっきのラジオでもやっていたが、最近はよく呂色国の話題を耳にする。なんでも内政が荒れ、他の国と戦争を始める一歩手前だとか。父が生まれた国が戦争を、とルビーも最初は驚いたが、今はもうニュースを聞き流せるほどには興味が失せていた。だが呂色国から来たこの男に、祖国の暗いニュースをわざわざ聞かせたくはなかった。


 彼の疲れ果てた顔とぎこちない海松茶語からして、最近呂色国からやってきたばかりなのだろう。

 袖口から覗く見事な金時計を見て、戦争が起こる前に避難してきた貴族様ってところね、とルビーは推測した。


「この町は呂色国から来た人が多いんですよ。何せ町長が呂色人だから」ルビーは流ちょうな呂色語に切り替えて微笑んだ。


「町長さんが…」ほんの一瞬だけ彼の顔が曇ったように見えたが、すぐに元の好々爺らしい笑顔に戻った。


「その、町長さんってのはどんな方なんでしょうか」

「とにかくすごい女性です。昔、この地域に黄金が埋まってたことはご存知ですよね?」さっきのは見間違いだろうと思い、ルビーは言葉を続ける。


「ああ。なんでも大きい金脈があったとか」

「そうです。出てくるのは欠片ばかりでしたが、それでも世界中から人が殺到していました。爪の先くらいの黄金を争って人々が血眼になっている中、ある日突然やってきた二十歳そこそこの小娘が、まるで不思議な力でもあるかのように、あっという間に巨大な金塊を掘り当てたんです!」


 黄金に愛された女性の話。ルビーは小さいころからこの話が大好きだった。お姫様が出てくる童話を読むよりも、ダイナーで大人たちが話す町長の武勇伝を聞く方が楽しかった。

 成長して自分も武勇伝を広める立場になったが、今でも客にこの話をするたびに初めて聞いたときのわくわくした気持ちが蘇る。いつもはこの位で止めておくが、この老紳士は食い入るように話を聞いてくれるので、ここぞとばかりに続きを披露した。


「町長はその後も次々と黄金を見つけて行って…地べたを這いつくばって欠片を探していた人々は、もうすっかり彼女に心酔してしまって。黄金の神だのなんだの、未だに崇拝している人もいるんですよ。そして掘り当てた金を元手に事業をいくつも開いて、それも全部成功させて。彼女のおかげで、金が出なくなった後もこの町は栄え続けてるんです」ルビーは自分のことのように自慢げに胸を張った。


「…その人のこと、尊敬してるんや」

「もちろんです!私の名前、ルビーって言うんですけど、町長に付けていただいたんです。素敵でしょう?」

宝石の名前を持ってるんやね」男が目を細めた。

「あら、他の人のこともご存じで?町長は皆に宝石の名前を付けるから、この町には名前だけ華やかな人が多いんですよね」ルビーはからからと笑った。


「町長さんは、町で生まれた子ぉ皆に名前つけとるんですか?」

「いいえ、うちは父が町長の昔なじみだったから…。町長はこの町で財を築いた後、呂色国から古い知り合いを呼び寄せて仕事や家を工面してくれたんです。祖国ではそれはひどい暮らしをしてたけど、ここに来てからはずっと幸せなことばかりだってうちの父が言ってました。この店がある通りは、父とその仲間がかつて住んでいた場所の名前を取って、スイチョウストリートっていうんですよ」

「酔蝶通り、か」老紳士はその名前に聞き覚えがある様で、懐かしそうにうなずいた。


「ところでお客さん、この町には何の御用でいらっしゃったんですか?」自分が話過ぎてしまったことに気づき、ルビーは話題を変えた。


「芸術を見に、やね」

「やっぱり!うちは別名“芸術の町”ですもんね。なんでそう呼ばれるようになったかご存じですか?これもやっぱり町長が、事業で得た利益で芸術家たちを支援したからなんです。だからこの町には芸術家の卵たちが海松茶中…いえ、世界中から集まってくるんですよ。あそこで絵を描いてる彼も、未来の大画家かも」


 常連客がこちらに顔を向け、肩をすくめた。


「まったく、絵に集中しなさいっての…。うちに来るのって、ああいうお客さんばっかりなんですよ。皆何かを目指してて、自分の表現したいことのためにもがいてる。そろそろ作品の一つも見せて欲しいんですけどね」

「若い表現者は皆そんなもんですよ。ボクも若いころはそうでした」

「あら、お客さんも芸術を?」

「ええ。といっても、漫才ですが」

「本当ですか?うちの父もコメディアンなんです。俺の喋りは呂色国いちのコメディアンからのお墨付きなんだ、っていつも言ってるんです。絶対嘘だと思うけど」

「…そうですか」


 老紳士の唇が歪んだ。笑っているような、泣いているような、名状しがたい不思議な表情だった。


「さぞかしおもろい漫才されるんやろうなあ」節くれだった指を重ね、さすり合わせながら呟いた。


「もう漫才なんか何年もしてへんし、聞いてもあらへん。死ぬ前に一回聞きたいもんや」絞り出された彼の声はかすれ、震えていた。こんな遠くまで逃げてくるくらいだから、きっと国で辛い経験をしたのだろう。どう言葉を返せばいいかわからず、ルビーは口をつぐんだ。


「すまない。年を取ると暗くなってもうて、嫌やなあ」

「呂色国が大変な状況だって、ニュースで聞きました。何でも、戦争が近いとか。芸術どころではないんでしょうね」

「戦争が原因やありません。そのずっと前から…今から10年くらい前からやろうか、国王が呂色国から芸術を切り捨てたんです。かつて色んな芸術家が芸を競った劇場は、武器を作る工場へと建て替えられました。画家も音楽家も漫才師も、己の表現のためではなく、国家を讃えるためにしか才を使えなくなりました。きっとその時から、ボクの国は戦争に向かって行ってたんやと思います」

「芸術を切り捨てるなんて!国王はいったいなぜそんなことを?」


「彼は…いえ、ボクらは許されない罪を犯して、神に見捨てられたんです」


「神に見捨てられて、自暴自棄になってもうて…そうして呂色国は次第に衰えて行って、次に選ばれたここは__」男は言葉を切った。後悔が滲んだ深いため息をついて、残りのコーヒーを飲み干した。


「少し話し過ぎましたね。そろそろお暇させてもらいますわ。クロワッサン、美味しかったです」

「もっといてくださってもいいのに。呂色国のお話、もっと聞きたいです」

「こんな爺さんの話にそういってもらえて嬉しいです。でも、もう行きます」


 老紳士は頭を下げ、背を向けた。

 高級なスーツに包まれたその背中は、年齢というよりは、重すぎる悲しみで曲がっているようだった。


「そうだ、町長さんのお家はどちらかな?」男が足を止め、くるりと振り返った。

「お会いされるんですか?それなら電話してアポを取った方が」ルビーは観光客向けのマップに丸を付け、男に手渡した。

「いやいや、遠くから見たいだけです。ボクに会う資格なんてあらへんから」


 そうして男は出て行った。冷たい雨の中を一人、黒い傘を差して歩いていった。

 くちなしの花は相も変わらず、雨に打たれて揺れていた。

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黄金の海を目指して 益巣ハリ @ekinosu__hari

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