第17話 禁断の果実

それからは、悪い夢を見ているようだった。


 片山はふらつく足取りで馬車に乗り込むと、水晶の館で降りた。

 明らかに泥酔している彼を、門番が不審な目で見る。


「旦那様、今はお通しできません」

「なんやと?」

「お酒をお召しになっているでしょう」門番が頑なに拒んだ。

「その方はお通しして大丈夫ですよ。琥珀のお客様です」ひと悶着起こりそうなところに、近くで掃除していた女中が割って入ってきた。


「すぐ琥珀をお呼びしますね」琥珀と片山の関係はすっかり周知の事実のようで、女中は訳知り顔で微笑んだ。いつもならありがたいことだったが、今日に限っては困る。


「いや、大丈夫や。その、ちょっと…驚かせたくて。まだ呼ばんといてくれへんか」

「そういうことでしたら」


 案内してくれた女中に別れを告げ、人目を避けて裏庭へ行く。辺りに誰も居ないことを何度も確認し、温室に足を踏み入れる。腐った花の臭いを嗅いで腹からせりあがってくるものを必死でこらえながら、床に空いた穴に指を入れ、そこにはめ込まれた金具を引き出して隠し扉を開ける。地下へと続く階段を降り、鍵の掛かった扉の前に立った。扉は4桁の番号_琥珀の父親である前当主の誕生日を入力すれば開くと聞いていた。片山を信頼しきって何もかも教えてくれた彼女を思い出し、胸の片隅がちくりと痛む。だがここで引き返してしまえば、紫乃たちの呪縛なしに彼女と生きることはできないのだ。


 これは全て2人のためだ。意を決して秘密の部屋へ入る。

 扉を開けると眩いばかりの財宝が彼を出迎え、そのあまりの輝きに一瞬、自分がしようとしていることを忘れてしまう。だが琥珀で作られた小箪笥が目に入った途端、これから犯す罪を思い出した。罪悪感で潰れそうな胸は呼吸の仕方を忘れそうで、片山は確かめるように細く息を吐いた。


 小箪笥の中には色とりどりの宝石が詰まっていた。巨大なエメラルドのイヤリングを手に取り、その周りを飾る小さなダイヤに爪を立てたが、びくともしなかった。箪笥を漁ってブローチを見つけ、ピンの部分をダイヤに差し込む。力を入れて何度かはじくように動かすと、ダイヤがぽろりと落ちた。震える手でつまみ上げ、内ポケットに入れる。国宝級の品を傷つけた。もう後戻りはできない。


 一度やってしまえばあとは落ちていくだけで、いつしか片山の内ポケットは小さな宝石でいっぱいになっていた。これを売れば、渡航費用は十分に捻出できるだろう。宝石を抜き取ったアクセサリーをできるだけ底に隠そうと、箪笥の底に手を差し入れたとき何か布のようなものに手が触れた。


 引き出してみると、それは薄汚れた絹の袋で、中には水晶のような透明な球が入っていた。他の財宝と比べて明らかに値打ちが劣りそうなその球を、片山はついでとばかりにポケットにねじ込んだ。きっと財宝を急ぎで持ち出したとき、価値の低いものも紛れ込んでしまったのだろう。小箪笥を閉めると、一仕事終えて気が抜けたのか突然膝が震えだし、その場にへたり込んでしまった。すると、背後から扉の開く音がした。


「片山様?」琥珀だった。片山の血の気が一気に引いていく。


「どうしてここに?」片山に会えて嬉しいのか、琥珀は照れたように笑った。こちらのことを微塵も疑っていない彼女の清らかな笑顔が、片山の後ろめたさを掻き立てる。


「琥珀ちゃんこそ、なんでこの部屋に」

「門番さんから、片山さんが来てるって聞いたんです。でも館のどこにもいないから、もしかしてここかなって」


 あの門番め。片山は心の中で舌打ちをした。背筋を冷たいものが落ちる。震える手を後ろに回して隠しながら、必死で言い訳を考える。


「近くにいた女中さんに、琥珀ちゃんを呼んでって言付けてんけどなあ。何も聞いてへん?おかしいなあ」

「私のこと待っててくれたんですね。ごめんなさい」琥珀が申し訳なさそうに駆け寄ってきた。彼女を抱きしめようとした片山は、盗んだ宝石で膨らんだ内ポケットを思い出して身を引いた。


「あかん、俺さっき酒飲んだから酒臭いわ。恥ずかしいからあんま近寄らんといて」

「そんなに飲んだんですか?何か嫌なことでも?」

「まぁ、紫乃とちょっとな。だから琥珀ちゃんの顔が無性に見たなって、つい来てもうた。でももうええ時間やし、そろそろ帰るわ」

「残念です。馬車が来るまで一緒に居ていいですか?」

「気ィ遣わんでええよ、そっちも仕事あるやろうし。顔見れただけで俺は満足やから、もう行くわ」


 少し悲しそうな顔の琥珀を残し、片山は部屋を後にした。これ以上彼女と言葉を交わせば、罪の意識で心が破れてしまいそうだった。琥珀はきっと、事情を知れば喜んで宝石を差し出してくれただろう。金が無いなんてかっこ悪いところを見せたくない、そんな見栄を張って盗みを選んだのは他ならぬ自分の選択だ。今犯した罪を贖うためにも絶対に大臣になり、残りの人生は彼女のために尽くそう。改めて自分に言い聞かせる。


 後悔している暇はない。もう盗みを犯してしまったのだから、金に換えるしかない。心を決めた片山は、帰宅してすぐ捨杢に電話をかけた。


「知りたいことは何でもどうぞ、捨杢探偵所ですう」

「片山やけど」

「お~天ちゃん。今日はまたどないしはったの」

「売っても足がつかへん質屋、教えて欲しいねんけど」捨杢とは長年の付き合いなこともあり、遠慮なしでいきなり本題を切り出した。


「なるほどぉ。天ちゃんにしては珍しい依頼やね」

「ちょっとあかん筋から宝石を手に入れてん。手元に置いとくのも嫌やし、はよ売り払たいねん」

「それならエエとこがありまっせ。ただ一見さんは会われへんから、俺と一緒に行ってもらうで。報酬は支払額の2割」

「今緊急で金が必要やねん。1割でどや?それでもきっとたまげる額やと思うで」

「1割、ねぇ…普段やったら受けんけど、まあ天ちゃんに頼まれちゃしゃあないな。1つ貸しやで」

「ほんま助かるわ。で、いつ紹介してくれる?」

「なんやえらいお急ぎやねえ。そんなら今から事務所まで来なはれ、すぐ案内したるから」

「そんなら今から行かせてもらうわ」片山は受話器を置いた。酔いはすっかり抜けていた。


 早々に質屋が見つかり、安堵で胸を撫でおろす。時間が経てば経つほど、内ポケットの宝石は罪の意識を吸って重くなっていく気がして、一刻も早く売り払ってしまいたかった。さっそく馬車に飛び乗って捨杢の事務所まで向かう。気持ちが落ち着かず、そわそわと動く足を手で押さえつけるが、それが貧乏ゆすりなのか震えなのか、自分でもわからなかった。


「あら、ほんまに来たわ」半ば駆け込むように事務所まで来た片山を見て、捨杢は目を見開いて笑った。

「さ、店に連れてってくれや」

「わかったわかった。これ一本吸うたら行くわ」捨杢はふざけて煙草に火を付けようとしたが、片山の押し殺したようなため息を聞いて手を止めた。

「冗談やって。ほな行こか」

「ほんまに信用できるとこなんか?」


 質屋へと向かう捨杢の後をついていきながら、片山は念押しで尋ねた。琥珀に宝石の欠けを気づかれるより、市場に出た宝石が氷冠王子にバレた方が何倍もまずいことになる。それだけは何としても避けたかった。


「大丈夫やって、安心せえ。にしても天ちゃんがこない狼狽えてんの見るんは初めてや。いったいどんなヤバい筋から手に入れたんだか」

「あとどれくらいで着く?」捨杢の言葉は無視し、片山が尋ねた。

「もう着いたで」


 彼が足を止めたのは、古びた家の前だった。「だがし屋」と書かれた看板がかかったその家はどこからどう見ても質屋には見えないし、仮に質屋であったとしても、渡航費用分の金などとても望めそうにない粗末さだった。片山は失望で眉をひそめ、半ばあきらめながら薄汚れた暖簾をくぐって店の中に入る。店には所狭しと駄菓子が売られており、店番だろうか、小さな座布団に座った老婆がぐっすりと眠り込んでいた。


「ホンマにここで合ってるん?」

「まあ見ててや。…おばちゃん、客が来たで!早よ起きてや!」捨杢は両手をぴしゃりと打ち付けた。

「大きい声ださなくても、起きてるよ」老婆がゆっくりと目を開けた。

「そんなら挨拶くらいしてくれたってエエやないの。今日は上客連れてきてんから」捨杢に肘でつつかれ、片山は急いで頭を下げた。

「どうも、お世話になります。早速ですが、これを売りたくて」片山は内ポケットから小さなかけらを一粒だけつまんで見せた。こんなところ、足がつかない、というよりは誰も気に留めない、と言った方が正しいだろう。駄菓子屋のついでにやっているような質屋で宝石を安く売り飛ばす気はなく、捨杢の手前一粒だけ売ってやり、早く次の店を探すつもりだった。老婆は宝石を受け取ってしげしげと眺めると、持っていた肩たたき棒で片山の内ポケットを突いた。


「アタシが何年この商売やってると思ってんだい。まだあるだろ、ここに」丸眼鏡の奥から、とても老人とは思えないほどの鋭い眼光が覗き、片山は迫力で気圧されてしまった。


「小さいが、こいつは立派なコーンフラワーブルーのサファイアだ。だいたいこれくらいかね」老婆は引き出しから札をがさりと取り出し、机に置いた。それは彼が予想していたより多い金額だったが、宝石に疎い片山にはこれが適正な価格なのか判別がつかず、全ての宝石を見せても良いかまだ迷っていた。


「なに迷ってるんだい。別に他の質屋に持ってってもいいけどね、こんなのどこでも引き取っちゃくれないよ」

「おばちゃん、こいつは俺のお得意さんやからあんまり脅さんといてくれや。それにこんなキレーな宝石、どこでも売れるやろ」捨杢が口をはさんだ。

「あんたがこれをどこから手に入れたかは知らないけどね、こいつは恐らく盗品だよ。おおかた大急ぎで盗んだんだろうね、元あった台座から無理やり穿り出されて底に傷が付いちまってる」


 老婆の言葉を聞き、片山は凍り付いた。ピンで無理やり取り出せば傷がつくのは当たり前の話だが、あの時は急ぎすぎてそこまで気が回らなかった。顔色が悪くなった片山を見て、老婆は言葉を続けた


「うちで売るなら、底の傷の処置もこっちでやっとくよ。その分の料金はいただくけどね。ま、売る売らないはあんたの自由だけどさ」

「…なんか入れもの、貸してくれませんやろか」観念した片山は、内ポケットから宝石を全て取り出し、差し出されたトレーに入れた。大量の宝石を見て、捨杢が息を呑む音が聞こえた。

「天ちゃん、この量は…」

「うるさい、あんたも詮索するんじゃないよ。どれどれ…これはたまげた」老婆は見惚れたようにため息をついた。

「どれも素晴らしい品だから、正確な額を出すのはちょっと時間がかかるね。でも、こんな品早く売り払っちまいたいだろう?そんならとりあえず、ざっと見積もった分だけ渡しとくよ」


 老婆は立ち上がって裏に下がり、汚い米袋を引きずって戻ってきた。その袋を持ち上げようとした片山は、予想外の重さによろけてしまった。中を覗き込むと、まぎれもない純金の延べ棒が5本も入っていた。


「捨杢、あんたの取り分は?」

「1割、やけど」捨杢は金の延べ棒から目が離せないようで、ほとんど上の空だった。

「そんなら、正しい見積もりを出した後の差分はあんたに持ってくよ」

「じゃあこの金は、全部俺のなんか」


 片山は、喜びで自分の声が上ずっているのがわかった。きっとこの店から王子にバレることはないだろうし、これだけの大金があれば渡航費用は十分賄える。何もかもが良い方向に進んでいるのを感じ、片山はようやくしっかり息が吸える心地がして胸をさすった。ふと手が堅いものに触れる。それは透明な球が入った絹の袋で、さっき出し忘れてしまったようだった。ついでにこれも、と球を老婆に手渡し、片山たちは質屋を後にした。


「天ちゃん、すごい額やないの!」捨杢はよほど興奮したようで、外に出るなり早口で話しかけてきた。

「自分がええ質屋教えてくれたおかげや。でもさすがに重いな。この辺に銀行あるやろか」

「そやな、持ち歩くんも物騒やしさっさと預けて帰ろうか」

「さすがにそこまで着いてきてもらうんは申し訳ないから、俺一人で行くわ」


 捨杢に無理やり別れを告げて、片山は銀行まで歩いた。受付で明細と金の延べ棒を差し出す。窓口の女はさすがに驚いた顔をしていたが、片山のことを知っていたようで、さすが漫談師さんは違いますね、などと感心しながら手続きをしてくれた。


 陽が沈むころには、やるべきことが全て完璧に終わっていた。氷冠王子に呼び出されてからまだ半日しか経っていないが、その間に片山は人生で一番大きな罪を犯し、同時に一番大きなチャンスを手にした。罪悪感はいつの間にか消えていて、彼の心を達成感が穏やかに包んでいた。

 その日は帰宅してすぐ床に入った。長い一日の終わりを安らかな眠りが包み、彼は目の前に開けた輝かしい世界を思いながら夢の世界へと入っていった。


 

 次の日、柔らかな朝日を浴びて目を覚ました片山は、顔に残る違和感から自分が微笑みながら眠っていたことに気づき、一人で肩を揺らした。もう少しで、目覚めたときに隣に琥珀がいる生活が手に入る。誰にも気兼ねせず、自分の好きに建てた家で暮らせる。


 軽い足取りで居間に向かうと、鶴子がお茶と共に新聞を差し出してきた。お茶をすすりながら新聞の一面に目を通した片山の手から力が抜け、湯呑が滑り落ちた。


 鶴子が大急ぎで駆け寄ってきたが、騒ぐ彼女の声も、熱いお茶が伝う痛みも、片山には届かなかった。彼は呆然と、びしょ濡れになった新聞を眺めていた。


『輝石家の秘宝、発見される』


 新聞は一面を大きく割いて、その驚くべきニュースを伝えていた。

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