第16話 誘惑

片山が秘密の部屋に入った、その次の日のこと。

 氷冠は表御殿の椅子にもたれ、急ぎで呼び寄せた片山の到着を待っていた。館に潜ませた密偵の話では、2人は昨日裏庭で突然姿を消したらしい。その話を聞いてすぐ、琥珀が彼に秘密を教えたのだとピンと来た。


 あの時差し押さえた輝石家の財宝はどれも大層美しい造りだったが、実のところそのほとんどが金を積めば買える量産品で、王族にふさわしい由緒ある代物はどれ一つとして残されていなかった。恐らく、貴重なものは差し押さえの直前にどこかに隠したのだろう。土壇場で隠した財宝などすぐに見つかると高をくくっていたが、人を使って屋敷中探しても見つけらなかった。

 それならばと市場を張らせたが、琥珀は想像以上に用心深く財産を隠し持っており、在処は未だ謎のままだった。


 だが今、隠し場所の手掛かりが見えてきた。裏庭で突然消えたということは、おそらくどこかに地下へと続く通路があるはずだ。片山をうまく操れば、財宝にたどり着けるだろう。

 氷冠はほくそ笑んだ。彼は財宝そのものが欲しいわけではなく、大事に隠し続けた父親の形見を奪った時の彼女の顔が見たい、その一心だった。


 それにしても、隠し部屋をこんなに簡単に人に教えるとは、琥珀はなんて馬鹿な女だろう。片山にすっかり参ってしまって、冷静な判断力を失っているようだ。


 琥珀の隙は財宝の手がかりを見つける好機であったが、1人の男としては何とも複雑だった。恋に落ち、その人に自分を全て知って欲しい、そんな感情が琥珀にあって、それが自分以外に向けられているなんて。


「片山様をお連れしました」使いの男がドアを叩き、氷冠の逡巡を打ち切った。


ドアを開けて入ってきた片山は、年のせいか徹夜の疲れがまだ抜けきっていないようで、心なしか目元のしわがいつもより深かった。緊張した面持ちの彼に、目の前に座るよう促す。


「毎度毎度、急にお呼び立てしてすみません。どうしても片山さんにお伝えしたいことがありまして」

「ボクに、ですか」

「今の文部大臣をご存じですか?」

「ええ。あの演舞家の」

「それなら話が早い。呂色国の文部大臣として、彼の才能は申し分ありません。ですが…如何せん人格が伴っておりませんで」怪訝そうな片山を見て、話を続ける。


「大臣になった今でも、踊りの武者修行に行くと言って聞かないのです。政務を放り出されても困るので、今は官僚たちが必死になだめていますが」氷冠は大げさにため息をつき、声を潜めて切り出した。


「これは内密の話ですが、彼は望み通りお役御免にして、その後任を決めようという話になっています。次期大臣として数人ほどの候補が挙がっているのですが、王子である私としては、類まれなる才を持ちつつ民衆と華族、両方の気持ちがわかる人…例えばあなたのような人にこの国の文部を任せたいと思うのです」


 その言葉を聞いた瞬間、片山の顔に押さえきれない興奮が浮かんだ。あまりのことにうまく舌が回らないのか、どもりながら言葉を絞り出す。


「それは…それは身に余る光栄です。ぜひ…」

「でも一つ、条件がありまして」氷冠は片山の言葉をぴしゃりと止めた。想像通りの反応をする片山の滑稽さに笑みが抑えられない。ダメだ、我慢しろ。肝心なのはここからだ。


「大臣になるには海外での実績が必要なんですが、片山さんはまだ国内でしか活躍していませんよね?」


 気の毒そうな表情を浮かべた氷冠だったが、それは真っ赤な嘘だった。王子直々の推薦があれば、そこら辺の酒場で歌っている酔客でも大臣になれるだろう。少し考えればわかることだが、興奮でのぼせ上った片山は信じたようで、先ほどまで喜びに満ちていた顔が一瞬で曇った。


「大丈夫、安心してください。私が海外の王族に話を回して、海外で漫談を披露する機会を作って差し上げます。ですが…癒着だなんだと騒がれるのもことなので、渡航費用はご自身で出してもらいます。よろしいですか?」

「勿論です!ああ王子、何とお礼を申し上げたらよいか。本当に感謝しております」

「そう言ってもらえて私も嬉しいです。実はもう船や宿の目星も付けていて、あとは日取りを決めるだけなんです。費用は…そうですね、だいたいこのくらいで」引き出しから明細を取り出し、片山に渡す。元妻を親族ごと養っている男には到底出せない額が、そこには並んでいる。

「他の候補もいるので、なるべくお急ぎになった方が良いかと」金額を見て凍り付いた片山を見て、氷冠は天使のような笑みを浮かべた。




 片山は深く礼をし、奥御殿を後にした。膝が震え、うまく歩くことができない。壁に手をついて呼吸を整える。夢にまで見た大臣の座が、もうそこまで来ている。それに、海外の王族の前で漫談とは!文化の違う彼らをどういう風に笑わせようか、考えただけでわくわくする。氷冠の提案に、片山は心から感謝した。


 最初は琥珀絡みで人格を疑ったこともあったが、やはり王子として有能なのは間違いないようだ。彼の言う通り、平民と華族の間にいる自分であれば、この国の教育や文化を底上げすることができる。そして自分の隣には、芸術を司どっていた神の末裔である琥珀を座らせる。これ以上ない組み合わせではないか。


 天にまで昇る心地だった片山の心は、懐に入った明細の存在を思い出すとたちまち沈んだ。あの恐ろしい金額をしらふで確認する気になれず、まだ明るいうちからバーに入り、ウイスキーを頼む。琥珀色の酒を一気に流し込むと胸がかっと熱くなり、その勢いのまま明細を開いた。見間違いであることを心から願っていたが、やはりそこには途方もない額が記されていた。


 片山は、毎月莫大な額を稼ぐ呂色国一の売れっ子漫談師だ。渡航費用は確かに高額だったが、彼ほどの収入があれば決して出せない額ではなく、王子もそれを分かって渡してきたのだろう。だが不幸なことに、その莫大な収入はほとんど右から左へ紫乃の実家へと流れ、片山の手元にはわずかしか残らないのだった。彼女の実家が片山に与えた伯爵位は、いうなれば底の開いた金の柄杓で、稼ぐそばから金がすり抜けていく。せめて毎月少しでも貯金できていれば。今更後悔してもどうにもならず、寄生虫のような彼らのことも、盲目的に金を払い続けていた卑屈な自分のことも何もかもが忌まわしく思え、片山は頭を抱えた。追加でウイスキーを頼み、注がれた傍から飲み干す。


 実家に頼ろうにも、さすがにこの額はいきなり出せまい。借金をするにしても、あれほどの額を借りるための担保さえなかった。人生で二度とない最高のチャンスを、金のせいで、金なんかのせいで、みすみす手放すのか。紫乃たちの搾取から逃れて自分の人生を取り戻す唯一のチャンスなのに、他ならぬ彼らのせいで邪魔されるとは。

 情けなさと虚しさで息がしづらく、酔いも相まって怒りで身体が熱く震える。考えれば考えるほど思考は袋小路に落ち込み、絶望でグラスを持つ手が震えてくるが、正気の頭で向き合うことも恐ろしくもっと酒を求めてグラスをバーテンへ向けた。


「お客さん、大丈夫ですか」差し出された震えるグラスを見て、バーテンは心配そうに片山の顔を覗き込んだ。

「構へん。もう一杯」

「差し出がましいですが、ここらで止めておいた方がよいかと」

「大丈夫って言っとるやろが。それとも何や?金が足りんとでも思っとるんか?はした金ならなんぼでもある」片山は財布から札を抜き差し、カウンターに叩きつけた。だが困惑したバーテンの顔を見てすぐ我に返り、頭を抱えて項垂れた。

「…怒鳴って悪かった。すまんけど、今はほっといてくれへんか」


 酒で霞がかった頭で、自分の持っている資産を数え上げる。馬車、少しの貴金属、ほとんど乗っていない自動車。どれも大した額にはならない。家を売ればまとまった金は手に入るだろうが、紫乃たちが許すはずがない。彼女が持っている宝石を売れば、宿代位にはなるだろうが……宝石。


 片山の脳に、あるおぞましい考えが浮かんだ。


 すぐに自分の頭を叩き、悪魔が吹き込んだとしか思えない考えを必死で追い出そうとする。だが彼の頭に浮かんだあの光景_琥珀が教えてくれた小部屋にある、目もくらむほどの財宝はしつこく彼の頭に居座って、いつまでも出て行ってくれなかった。それどころか、駄目だと思えば思うほど、誰にも知られていない宝石たちは蠱惑的な輝きを増して彼を誘う。


 あそこにある宝石をいくつか売れば、渡航費用などすぐ賄えるだろう。だがあれは、琥珀の父親の形見だ。自分を信頼して秘密を教えてくれた彼女の気持ちを裏切るような真似は絶対にできない。それに、売れば足がついてしまうと琥珀も言っていたではないか。


 でも、もしそれが琥珀の杞憂だったら?王子がもう探すのを諦めていたら?

 

 欲望は良心を簡単に捻り潰し、彼の頭は許されない企みで急速に染まっていく。

 

 正装した舞踏会の夜に貧民窟へ連れて行くなど、琥珀がある部分において鷹揚なことは既に知っていた。例えば大きなダイヤのネックレスの周りを飾る、首周りにあしらわれた小粒のサファイア…そういうものを財宝から一粒ずつ拝借しても、きっと彼女は気づかないだろう。

 それに、もしまだ王子が財宝を探していたとしても、そんな小さなかけらから辿ることなどできないはずだ。

 

 琥珀はきっと気づかない。宝石もあんな地下ではなく、然るべきところで輝ける。俺は金を手にして、海外に行ける。


 念願かなって大臣になれたら、その時に買い戻して元通りにすればいいだけだ。誰も傷つかないし、誰も損しない。紫乃を切らねば琥珀を迎えられないのだから、これはむしろ琥珀のためにやることだ。決して裏切りなどではない。


 片山はバーテンから出された水を一気飲みした。頭は妙に冷え切って、残酷なほど冷静だ。

 これが唯一2人が幸せになる道なのだ、そう己に言い聞かせ、片山は水晶の館へと向かった。


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