第14話 もしもあなたに出会わなかったら
「ごめんなさい、こんな遅くまで連れまわしちゃって」
貧民窟からの帰り道、昇り始めた朝日に目を細めながら琥珀が呟いた。子どもたちはいつまでも片山を帰してくれず、朝まで質問攻めにし続けたのだ。本当は今すぐ布団で横になりたいほど疲れていたが、片山は笑顔を作った。
「ええよ、楽しかったし」
それは本心からの言葉だった。徹夜で話し続けた身体は疲弊していたが、心には活力がみなぎっていた。子どもたちの素直な誉め言葉は、上流階級たちが使うおべっかの何十倍も嬉しかった。
「ここの悪い噂聞いてたから、正直結構怖かってん。でもほんまに皆ええ子たちやった」
「家が潰されて行く当てがなくなった私たちを助けてくれたのも、ここの人たちなんです」琥珀が微笑んだ。
「逞灼家の手が回っているから、華族たちはどこも泊めてくれなくて。お金もないし、町中をさまよって辿り着いたのがここでした。どう見ても訳ありの私たちを黙って受け入れて、食料を分け与えてくれました。この恩はずっと忘れません。でも、今日はびっくりしました」
「びっくり?何でや」
「私がここにいた時感じたのは、とにかく強烈な飢えでした。いつもお腹がすいていて、本当に苦しかった。だから恩返しとして、できるだけ食料を持ってきてたんです。お腹が満たされればみんな幸せだと思って。でも、そうじゃなかった」琥珀は言葉を切り、片山の手を握った。
「皆、漫談とか歌とか…芸を欲してたんですね。片山さんを見る皆の目、今まで見た事ないくらい楽しそうで。輝石家が潰れて、何の腹の足しにもならない芸術を憎んだこともありました。でもやっぱり、人間には芸術が必要なんですね」琥珀の言葉を聞いて、片山は心に幸せが満ちるのを感じた。
「琥珀ちゃんに歌教えてもらって、皆楽しそうやったな。あの歌、輝石家の歌なん?」
「はい。もうこの国で歌えるのは私だけになってたから、今日皆に教えられて嬉しかった。私の家があった証拠、みたいな感じがして」
琥珀は恥ずかしそうに笑った。その笑みがあまりにも愛らしく、片山はもっと彼女と過ごしたいと強く思った。
「この後さ、うち、来うへん?」
「でも、前の奥様と一緒に暮らしてらっしゃるんですよね?」
「構へんよ、別に好きで一緒おるわけちゃうし」琥珀に家の事情を知られていたことに動揺し、思わず言わなくても良いことを口走ってしまった。案の定彼女は怪訝な顔をして片山を見つめた。
「俺の伯爵位、もとは向こうのやねん。離婚した後も位を使い続けるには、向こうの親族含めて養い続けなあかんくて。広い家に女一人で住まわせるのも危ないから、まだ一緒に暮らしてんねん」
改めて口に出してみると、我ながらなんと情けないことだろう。自分を尊敬してくれている彼女にこんな面は見せたくなかったが、疲れのせいだろうか、全て打ち明けてしまいたくなった。
「そんな…なぜ」琥珀は眉をしかめ、話を必死で理解しようとしていた。きっと生まれついての王族には、そこまでして伯爵位にこだわる理由など理解できないのだろう。
「向こうとの縁を切るには、俺個人が伯爵位にふさわしいって国に認められなアカンけど、そんなん大臣になる以外手ぇ無いやろ。せやからもう諦めててん。こんな状態で家庭を持つんは難しいから、本気の恋愛もせぇへんって決めてた。でも、琥珀ちゃんに出会えた」片山は琥珀に目をやり、言葉を続けた。
「一目で好きになってん。この子やったら俺のことわかってくれるって。そんでホンマに十数年ぶりに勇気出してみたら、なんと王族との繋がりもできて。このまま上手くいけば、文部大臣になれるかも知れへん。だからホンマに、琥珀ちゃんと出会ってから良いことずくめやねん、俺」片山は微笑んだ。
「奥様、起きてください」
鶴子に揺り起こされ、紫乃は目を覚ました。
一緒に布団に入った時は浴衣姿だった鶴子が、もう木綿の着物に着替えている。いつもはあの人が帰ったとて私を起こしたりしないのに、今日は何事だろうか。怪訝そうな顔をした紫乃に、鶴子がそっと耳打ちした。
「片山様が女性を連れて帰ってきました。私くらいの、ちょっとみすぼらしい身なりの子。2人ともなんだか汚れていたので、お風呂に入ってもらってるところです」紫乃が驚きで目を見開いた。
「こうしちゃいられないわ、すぐにおめかししなきゃ。鶴、一番いい着物を用意して」
あの人が家に女を連れてきた。それは離婚して十数年初めてのことで、紫乃はひどく興奮すると同時に安堵を感じた。きっとその子とは本気の関係なのだろう。これでやっと彼も幸せになれる。自分でも矛盾していると分かっていたが、紫乃はずっと片山の幸せを願っていた。自分が彼の人生を踏みにじっているのは十分自覚していたが、彼に寄生しなければ親族が路頭に迷うことも知っていて、どうしようもできなかった。だが今日やっと、彼に幸せが近づいてきた。これで罪悪感からも解放される。
鶴子に髪を結い上げさせながら、紫乃は考えを巡らせた。相手はみすぼらしい身なりの若い女らしい。私の親族が寄生している以上、まともな家の娘は彼と婚姻などしないだろうから、恐らくどこかの女中か商売女だろう。こちらに渡す金が減らないよう、女をうまく言いくるめられればいいが。こんなめでたいときにもがめつく金勘定をしている自分に気づき、紫乃は思わずため息をついた。金のことばかり言う親族のことをあれだけ嫌っているのに、いつの間にか自分もそうなっていた。この浅ましい姿のどこが、誇り高い伯爵家なのだろう。ただの金の亡者ではないか。
準備を終えた紫乃は、鶴子に案内されて応接間へ向かった。障子の向こうから、片山と女の楽しそうな声が聞こえてくる。彼の声はこれまで聞いたことが無いほど柔らかく、それを聞いた紫乃の胸に嫉妬に似た感情が浮かんだ。彼どころか男自体に恋愛感情など抱いたことはないのにと、その気持ちを振り払って障子を開けた。
部屋に入ってきた紫乃を見て、女がはっと顔を上げた。抜けるように色の白い女だった。女は紫乃を真っすぐ見つめると、初めまして、と微笑んだ。年のころは鶴子と同じ、二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。女は整った顔をしていたが、決して絶世の美女というわけではなく、襟のあたりが擦り切れた着物を着ていて確かにみすぼらしかった。だが紫乃はなぜか得体のしれない気おくれを感じてしまい、ぎこちなく微笑んだ。自分は年を取った今でも美女と名高いし、着ている着物も最上級のもので、こんな小娘に気圧されるはずが無い。頭ではそう理解しながらも、女を前にして動悸を打つ心臓を止めることができなかった。
「朝からお邪魔してしまい、申し訳ございません。私、琥珀と申します」女が頭を下げた。
「いいえ、こちらこそ挨拶が遅れて悪かったわね。片山の元妻の紫乃です。彼に気持ちは微塵もないから安心して頂戴ね。どうぞ二人で仲良くなさって」あけすけな紫乃の言葉に、琥珀は顔をさっと赤らめた。その様子は若いというよりもむしろ幼く、先ほど感じた圧迫感は気のせいだったと、紫乃の気持ちもだんだんと落ち着いてくる。
「琥珀さん、ね。素敵なお名前。お仕事は何をしてらっしゃるの?」
「水晶の館で女中をしております」
「女中さん。大変なお仕事ね」紫乃は琥珀の荒れた手を見やった。
「お茶です」鶴子が上等なティーカップを持って部屋に入って来た。琥珀はちらと目をやると、軽く微笑んですっと一口飲んだ。
「おいしいですわ。ありがとう」
その瞬間、紫乃は違和感の正体に気付き、はっと息が詰まった。
伯爵夫人を前にしても全く気後れしていないその態度、洗練されたテーブルマナー、なにより鶴子への態度。妙に偉ぶるでも、畏まるでもなく、ただ当たり前のように受け取る。これまで色々な階級の女を見てきた紫乃には、それが庶民にはどれだけ難しいことかわかっていた。目の前にいる琥珀のそれは、明らかに人に傅かれることに慣れた上流階級のふるまいであって、決して女中の態度ではなかった。恐らく元は大層な家の令嬢だったはずだ。没落した令嬢。その姿が自分と重なり、紫乃は気分が悪くなった。
琥珀が片山を見つめる瞳を見れば、彼を愛しているのが嘘ではないと分かる。だが彼女が元の身分だったら、果たして片山のことを愛しただろうか?自分より一回り以上年上で、未だに元妻の家に大金を支援している、3代前は平民の男を。
紫乃は憎悪を込めて片山を見つめた。彼のことを哀れに思っていたが、この男は結局、没落した令嬢を手籠めにするのが趣味なのだ。私は運悪く女色だったが、この琥珀という女はまんまと丸め込まれ、貴い血が流れる身体をこの俗物にいいように弄ばれるのだ。
片山に吐き気を催すほどの嫌悪を感じながらも、自分が琥珀のようにならなかったのは彼に出会って養われていたおかげであることは否定できず、紫乃は冷静を失ってしまった。
「悪いけど、帰って頂戴」突然の変わりように、琥珀は心配そうに紫乃を見た。
「何か失礼をしてしまったのなら、謝ります」
「そうじゃない。ただ気分が悪いの」ここまで言いかけて、紫乃は袖で口元を抑えた。琥珀の華族めいた真っ白い首筋と、水仕事で荒れた手の不釣り合いさに胸が悪くなり、思わずえずいてしまう。
紫乃の具合が悪いのは誰が見ても明らかだった。鶴子が介抱している間、片山は琥珀のために馬車を呼び、玄関先まで送っていった。せっかく恋人の家に来たのに、妻でもなんでもない自分のために追い返される琥珀が哀れで、紫乃はますます気分が悪くなる。
「大丈夫?なんか悪いものでも食べたんか」見送りを終えた片山が、心配そうな顔をしてやってきた。
「あの子を見てたら、気分が悪くなりました」
「何でや?ええ子やったやろ」
「あの子、元は華族でしょう」
片山は答えなかった。だがその表情から、紫乃の言葉が間違っていないことがわかった。
「あなた、よほど没落した令嬢が好きなのね。私を買って伯爵位を手に入れて、お次はあの子に華族の血を引く子を産ませるつもりかしら。ここまで行くと一種の病気ね。あなたを哀れに思った私がバカだったわ」
片山は黙ったままでこちらを見据えてくる。その顔は能面のようだった。その奥にどれだけの歪んだ虚栄心が隠れているのかと思うと、おぞましかった。
「あの子も気持ち悪いわ!女中暮らしが嫌だからって、こんな年の離れた男に媚びを売って愛人になろうだなんて…同じ女として軽蔑する」
爵位が売り買いされる時代、本来は崇められるべき地位に生まれた自分や琥珀のような女が、こんな卑しい血の男に金で買われていいようにされるのが、どうしようもなく悔しくて涙が溢れる。
「琥珀はそういうのちゃう」ずっと口をつぐんでいた片山が、ぽつりと漏らした。
「確かに俺は金で伯爵位を買ったけど、それは紫乃さんが提案したことやろ。俺らはどっちも汚い人間や。でもあの子は生まれを鼻に掛けたりせぇへんし、純粋に俺のことを好いてくれてる。俺もあの子のそういうとこが好きや。生まれがどうとか、下種な気持ちは一切ない」
片山はそういうと、障子をぴしゃりと占めて出ていった。
自分の部屋に戻った片山は、怒りのあまりまともに呼吸が出来ず、布団に倒れ込んだ。何とか怒鳴るのは我慢したが、もう耐えられなかった。紫乃の言う通りに建てた、彼女の家紋だらけのこの家を、灰になるまで燃やしてしまいたかった。あれはなんて憎らしい女だろう。親戚ごと俺に集る蠅のような華族様のくせに、どの口で琥珀を馬鹿にするのか。
布団から起き上がり、部屋の中をうろうろと歩き回る。水を飲んで深呼吸すると、いくらか気持ちがマシになってきた。紫乃の言葉は己を棚上げした愚かなものだったが、あんな女の言葉にここまでめちゃくちゃに心をかき乱されたのは、琥珀を侮辱されたからだけではないことも気づいていた。もちろん彼女を好きになったのは、自分のネタを理解してくれる賢さのためだ。だが彼女が王族だと知り、ますます気持ちが高ぶったのも嘘ではない。昔から華族の女を抱くとき、庶民を抱くのとは違う背徳感のような高揚を感じるのは、自分でも自覚していた。それが王族ともなれば…。千年ずっと保たれ続けた、最も貴い血に、平民上がりの自分が触れ、子を成し、家系図で王族と交わるのだ。そう考えただけで背筋がぞくぞくする。紫乃の言葉は図星をついていて、だからこそここまで腹が立ってしまったのだ。
とにかく今はこの家に居たくない。片山は家に漂う白檀の香りに胸が悪くなり、外に出かけることにした。服を着替えて家を出ようとすると、ちょうど呼び鈴を鳴らそうとしている男と鉢合わせた。
とにかく今はこの家に居たくない。琥珀はもう仕事かもしれないが、とにかく紫乃の非礼を謝らなければ。片山は家に漂う白檀の香りを振り払うように頭を振ると、水晶の館へと向かった。
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