第13話 歌いましょう

片山は裏口の前に馬車を呼び、厨房に向かった琥珀を待っていた。この後は百貨店でも劇場でも、彼女が望むところならどこへでも連れて行ってあげたかったのに。何よりも復讐を優先する彼女が、重荷無く人生を楽しめるようになるのはいったいいつになるのだろうか。


 マスクで顔が隠れているとはいえ裏口で所在なく佇んでいるのは気恥ずかしく、人々の目を避けて木陰で髪型を直していると、大きな箱を2つほど抱えた琥珀がよろめきながらやってきた。

 

「なんやのそれ」

「今日の残飯です」

「残飯!?」 片山は思わず聞き返してしまった。

「ここのメイドのふりをして、こっそり持ってきました。今日は馬車に乗せてもらえるから、いつもより多く持って帰れます」

「いつもって…もしかして毎回持って帰ってるんか?」困惑しながらも箱を受け取ろうとしたが、タキシードに油じみがついたら悪いから、と拒否された。

「パーティーで出されるご飯って、いつも手つかずで勿体ないじゃないですか」

「そらまあ、そうやけどさ」

 片山は周りの目を気にして、思わず自分のマスクを抑える。この俺が残飯を漁っているなんて周りに思われたらたまらない。


「お腹すいてんのやったら、今から呂色ホテルのコースでも食べいこか?こんなんでも一応顔通ってるから、予約なしで用意してもらえるやろうし」

「いえ、ご飯は結構です。もっと楽しいところに行きましょう」琥珀は満面の笑みを浮かべて馬車に乗り込んだ。

 

酔蝶すいちょう通りまでお願いします」

「だんな、その目的地で本当にいいんですかい?」行き先を聞いた運転手が、困惑した顔で片山に聞き返してきた。そこは中央区で最も治安の悪いどや街で、片山自身も地名を聞いて耳を疑ったところだった

 

「ええ、大丈夫です」琥珀が朗らかに答える。

「ほんまに大丈夫かいな。相当危ないとこやで」

「行ってみたらわかりますよ」琥珀は意味深な笑みを片山に投げかけた。

 

「だんな方には悪いけど、」運転手がエンジンをかけながら言う。

「ワシらもあそこには近寄りたくないんでね。近くに止めますんで、そこから歩いて行ってください」

 

 運転手の言葉は無理もなかった。そこは街を追われた犯罪者や娼婦が最後に行きつく墓場で、良識のある人間なら近寄ることすらしない場所だった。万一誰かにそこにいるのを見られたら…外国が長かった彼女は、あの土地に染み付いた評判を知らないのだろうか?止めるべきか悩んだが、彼女の楽しそうな顔を見ているとどうしても言い出せなかった。

 

 車は通りを進み、色町である月美町に差し掛かった。煌めくネオンと美しい女たち、豪奢な建物。白粉と香水の混ざった濃厚な香りが閉め切った車内に流れ込んでくる。夜の闇を受けて輝く町を通り過ぎると一気に辺りが暗くなり、寂れた建物が目立つようになった。先ほどとは打って変わって、車内にはむっとするような饐えた香りが漂いだす。

 

「ここで降りてくだせぇ」運転手が川の近くで車を止めた。さっさと車を降りてしまった琥珀を目で追いながら財布を取り出していると、運転手が耳打ちしてきた。

 

「あんた、立派な家があるだんな様でしょう。悪いことはいわねぇ、こんなとこに連れてくる女とは手を切った方がいい。きっと向こうに住むやつらと同類の卑しい血に違いねぇ」


 片山はあいまいに笑い、運転手に多めに心づけを渡して車を降りた。血の貴賤なんてものが本当にあるとするなら、俺たち平民が彼女にどうこう言うのはなんとも滑稽だ。

 

「お待たせ。どこまで歩くん?」

「この橋を渡ってすぐですよ」

 

 遠慮する彼女から無理やり奪った箱は、見た目よりもずしりと重かった。さび付いた橋は今にも崩れそうで、踏み込むたびに足が沈み込む嫌な感触がする。買ったばかりの上等なタキシードの裾を茶色の錆が汚していくのを見て、何も今日ここに連れてこなくても、とため息をつこうと息を吸い込んでみたものの、あたりに漂う臭気に思わずえずいてしまった。


 橋を渡った先には、廃材やゴミが高く積み上げられたゴミ捨て場のような風景が広がっていた。視界の隅で何かがちらつき、まさか野犬かと思い目を凝らすと、くたびれ切った幼い子供だった。この陰鬱な空気を吸うだけで病気になってしまいそうな気がして、片山は口をつぐむ。平民上がりとはいえ、金銭的には非常に恵まれた環境で育ってきた片山は不潔な場所に馴染みがなく、目の前の光景はあまりにも耐え難かった。彼女はいったいなぜ平気な顔でこの中を進めるのだろうか。


 ゴミに紛れたたくさんの瞳が、息をひそめてこちらの様子をうかがっている。美しいタキシードに身に包んだ片山はこの貧民窟で明らかに浮いていて、周りの目は彼の高価そうな服や靴に釘付けになっていた。金持ち丸出しの格好で犯罪者の掃きだめに行くなんて、襲ってくださいと言っているようなものだ。いつ囲まれて袋叩きにされてもおかしくないのに、なぜ車の中で彼女を止めなかったのだろうか。もう遅すぎる後悔をしながらゴミ溜めを歩いていると、焚き火が燃えている小さな場所に出た。古新聞の上にぼろ布を敷いただけの粗末な場所だったが、他と比べるとここですら清潔に思えて、片山はようやくまともに息が付ける心地がした。

 

「箱をください。最初はちょっとびっくりするかもだけど…」琥珀は箱を地面に置くと、何のためらいもなくぼろ布の上に腰を下ろした。そして近くにあった鈴のようなものを手に取り、思い切り鳴らした。

 

 次の瞬間、物陰から垢だらけの子供たちがわっと飛び出してきて箱に群がった。

 

「わあ、すげー!!」

「肉がある!これ俺のだからな!」

 

 子どもたちは押し合いながら、我先にと箱をのぞき込む。そのあまりの勢いに気圧されて、片山は思わず後退りした。すると物陰から老女が這い出てきて、厳しい声で子ども達を一喝した。

 

「お前たち!まず先にすることがあるでしょう」

 

 子どもたちはその声を聞き、雷に打たれたように身体を跳ねさせた。そして恥ずかしそうにお互いを見合った後、ピシリと背筋を伸ばして頭を下げた。

 

「琥珀姉ちゃん、おじさん、ありがとう」

「どういたしまして。みんなで分けようね」琥珀が笑うと、老女が足を引き摺りつつにじり寄ってきた。

 

「いつもありがとうね。今日は新しいお客さんも来てくれたみたいで、こんな汚いとこに申し訳ないねぇ」

「こちらは片山さんです。最近できた、あの…私のお友達です」

「お友達が出来たんやねぇ、わしも嬉しいわぁ。片山さん、この子は本当に良い子ですからね、良くしてやってください」

 

 片山と握手しようと手を差し出した老婆は、彼の上等な服に目をやって自分の汚れた手を引っ込めた。もしや貧民窟への嫌悪感が顔に出ていたのだろうかと反省した片山は、意を決してぼろ布の上に腰を下ろした。タキシードの値段がつい頭をよぎったが、そんなことを微塵も感じさせない笑顔で老婆の手を包んだ。

 

「バァ、もう分けていい?」1人の子どもが待ちかねたように声を上げた。

「えぇよ。小さい子からだよ」

 

 年長なのだろうか、背の高い子たちが箱の周りに座って名前を順番に呼び始めた。小さい子から呼ばれ、汚いずだ袋に食品を詰めてもらっている。袋はすぐに揚げた鶏肉や鮮やかな野菜でいっぱいになり、子どもたちははち切れんばかりの笑顔で袋を抱えていた。

 

「お前の家、母ちゃんが病気だろ。多めに持ってけ」

「うるせぇ、いらねぇよ」

「遠慮すんなって」


 この地には亡者のような悪しき者ばかりが住むと聞いていたが、今彼の目の前でお互いを思い遣っている子ども達の姿は噂とは全くかけ離れていた。あばら骨が浮くほど痩せていて、どうみても飢えているのに、誰一人列を乱すことなくきちんと並んで待っていた。食べ物をもらった瞬間に口に詰め込んでしまう子もいたが、家族に分けるためだろうか、多くの子どもが食べ物には口を付けずに持って帰ろうとしていた。食べ物を配り終わって箱が空になると、子どもたちは焚き火を囲んで座り、片山を珍しそうに眺めはじめた。


「おじちゃんの服、ピカピカしてる」

「やめろ、汚れるだろ」サテンのシャツに手を伸ばそうとした手を、兄らしき子どもがピシャリと叩いた。

「ええよ、触ってみぃ」片山は袖口から生地を出してあげた。きっとこの辺りの臭いが染み付いてしまってもう2度と着れないだろうから、今更汚れても構わない。そんな気持ちで取った行動だったが、琥珀の瞳が尊敬できらめいたのが見え、得した気分になる。


「あ、俺こいつ知ってる!げーのー人だろ」鼻水を垂らした坊主が片山を指差した。

「前に広場で見たぞ。金持ちたちがみんなこいつの話聞いて笑ってた。他に踊りとか楽器もあったけど、こいつが話してる時が1番楽しそうだった。すげえ奴だぜ!」

「げーのー人ってなに?」小さい子が聞いた。

「芸能人。芸の才能がある特別な人たちのことだよ。そんな偉い方が来てくださってありがたいねぇ。旦那様に輝石の祝福がありますように」


 老婆は頭を下げた。輝石の祝福。その挨拶を聞いたのは久しぶりだった。昔は芸事に携わる人間へ掛けるお決まりのフレーズだったが、革命後は一切使われなくなっていた。


「キセキ?なにそれなにそれ!」案の定、子どもたちがはしゃぎ始める。

「昔の王様!芸ばっか見てたせいで死んじゃったの」琥珀が言った。明るい声音を装ってはいたが、笑顔から悲しみが滲んでいた。

「王様なんてどうでもいいよ。それよりさ、どうやったらあんなにうまく喋れるんだ?俺にも教えてくれよ。お前みたいに話せたら、きっと飯代も簡単に稼げるのになぁ」坊主が話を遮る。

「漫談は結構地味やで。人目引くなら音楽とかの方がええんちゃうか」


 中央区で目にする物乞いたちの多くは、歌や踊りを披露して小銭を稼いでいる。1人でひたすら話し続ける漫談よりはそちらの方が目立つだろうと何気なく口に出したのだが、周りの子どもたちの顔がサッと曇った。


「ここには楽器もないし、歌を教えてくれる人もいないよ。それに…」さっき片山のシャツを触ろうとした子どもが、体育座りにした足をさすって俯いた。


「この貧民窟に医者なんぞおらんでね。熱が出てもまともに食事も取れず、ただ横になって耐えるだけじゃ。運良く命が助かっても、元通りに身体が動いてくれるとは限りませんのじゃ」

 

 老婆がしわがれた声で教えてくれた事実は、温室育ちの片山にはあまりに衝撃だった。同じ呂色国に住んでいながら、適切に治療を受けられない子どもたちがこんなにいるとは。彼らの貧しさは片山の想像を遥かに超えていて、自分の不用意な発言が恥ずかしく、続ける言葉が浮かばなかった。


「片山さんはね、お話を作るにはいっぱい勉強しなきゃいけないから、音楽の方が簡単だよって言いたかったの。みんないつも字のお勉強の時、嫌がって逃げるでしょう?」

「だってお姉ちゃん厳しいんだもん!」

「勉強はヤダ!」

「なら音楽の方がいい!」子どもたちが口々に騒ぎ、笑顔が戻った。重くなりかけた空気が琥珀のおかげで変わり、片山は内心感謝した。


「でしょう?じゃあ今日はお歌教えてあげる。お歌はね、楽器がなくても、身体がうまく動かなくても、いつでもできる楽しいことなんだよ」


 琥珀は立ち上がり、大きく息を吸った。そして鈴を鳴らすような声で歌い始めた。



祝福されし 呂色の民よ

石塊いしくれなれど 美しく在れ

輝き満ちて この地に栄えよ

我ら等しく 美の婢女はしため 



 短い歌だった。だが彼女の透き通るような歌声は、その場にいた全員の胸に染みわたった。まだ歌詞が理解できない子どもたちにもその歌は届いたようで、どの子も琥珀をキラキラとした瞳で見上げていた。美に、輝き、石…歌詞からして、きっと輝石家に伝わる歌なのだろう。この場で唯一彼女の正体を知っている片山の胸は、感動と哀れさとでぐちゃぐちゃにかき乱されてしまい、自分でも気づかないうちに涙がこぼれていた。


「素敵な歌でしょう?今から歌詞を地面に書くから、みんなで読む勉強しましょうね」

「結局字は読むのかよ!」坊主が鋭いツッコミを入れた。

「ええツッコミやな坊主。自分喋りの才能あんで」涙を誤魔化しながら、片山は笑った。


 琥珀は近くにあった枝を拾い、地面にひらがなで歌詞を書き始めた。最初は文句を言っていた子どもたちも、彼女の歌によほど感動したのか、興味深そうにその手元を覗き込み、歌詞を復唱していた。


 その日は空が明るくなるまで、貧民窟に喜びの歌が響いていた。




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