第9話 泥中の蓮
持っている中で一番上等な服を着て、片山は城へと向かった。紫乃は昨日から部屋にこもり、元夫が王家から招待されたことを報告する手紙を親戚あてに何十枚も書いていた。
片山を招待してくれた氷冠王子は、眉目秀麗で優れた男だと世間でも評判だ。だが妹君については、賢泉
馬車は片山を乗せて進み、呂色城に到着した。呂色の漆喰で塗り固められた城壁が、太陽の光に照らされて艶々と照り輝いている。聳え立つ五重の天守を馬車から仰ぎ見ていると、首が痛くなってしまった。周りに巡らされた堀には枯葉一つ落ちておらず、隅々まで手入れが行き届いている。
堅牢な石造りの橋を渡り、城内に入る。門が閉まると、街の喧騒が嘘のようにふっと音が消えた。静けさにあふれる城内は異世界のようで、片山は今更ながら緊張してきた。胸元をさすり、ふっと息をつく。相手の目的が何であれ、王家に招待されたこのチャンスを掴むのだ。紳士淑女の皆様、今宵も御機嫌よう…これまで何度も繰り返した前口上を繰り返しそらんじて心を落ち着かせる。御者が馬車を止めるとすぐに、執事が扉を叩いた。
「やぁ片山様、本日はようこそいらっしゃいました。私は賢泉家の執事しとる者です。御殿まですこしご足労願えますやろか」
「こちらこそ身に余るお誘いをいただきまして」馬車を降り、執事について歩く。
「いやしかし立派な天守ですねえ。前来たときは夜やったけど、太陽の日ぃ浴びてんの見たらまた格別に綺麗やわあ」
「そうでしょう」執事は自慢げに笑った。
「御殿は王家交代の100年ごとに立て替えるんですが、あの天守だけは国の象徴やってずーっと変わってへんのです」
執事はよく話す男で、彼の自慢を聞いていると片山の緊張もほぐれてきた。見事な庭園を通り過ぎて少し歩くと、今日彼が招待されている御殿に到着した。
賢泉王の御殿は、その名の通り巨大な泉に浮かんでいた。革命を経て城内の余計なもの…3神の銅像や歴代王の名を冠した庭など…を全て打ち怖し、人工的に泉を作ったのだ。泉はたとえ頑強な男であっても泳いで渡るのは難しいほど大きく、巨大な御殿がすっぽり収まっていた。
頑丈な鋼鉄で作られた橋を渡って御殿に入ると、まず最初に迎賓の間がある。障子と障壁画は金箔張りで、初めて訪れたものはその豪華さに足がすくむほどだった。以前片山が漫談を披露したのはこの迎賓の間だ。これより後ろは執政のための場で、選ばれた高官たちしか入ることが許されていない。
「奥御殿までご案内しますぅ」 執事が奥へと進んでいく。
外から見ると一つのように見えた御殿だが、実際は中で分かれており、表と奥は
「初めて渡る方は皆そうなるんですわ。でもこれは特殊な玻璃でできとりますから、上で飛び跳ねたとしてもヒビ一つ入らしまへんよ」
「いやあ、情けないとこ見せてもうてお恥ずかしい。大丈夫やってわかっとるんですが、玻璃でできた橋なんか見たことないさかい」
「そら賢泉王が特注で作らせはった橋ですからなあ、同じもんは世界に2つとありません」執事は胸を張った。こんなけったいなもん作る人はそら他にはおらんわなと思いつつ、片山は意を決して一歩足を踏み入れた。恐る恐る足を付けると、しっかりとした硬さを足の裏に感じる。一度勇気を出してしまえばあとは平気なものだったが、やはり奥御殿の建物に入る直前で足が止まった。
平民上がり、成り上がり、成金…これまで浴びせられた数々の侮辱が頭をよぎる。身分が低いと下に見て、彼に感謝すら示さない元妻の親族たちの顔も。彼らの中でかつて一人でも、奥御殿に足を踏み入れた者はいただろうか?そんな栄誉に預かることができたのは、彼らが侮った自分なのだ。片山は跳ね上がる心臓を抑えながら、奥御殿に足を踏み入れた。
絢爛豪華な表御殿と違い、そこは木材の深い茶色を基調とした重厚な作りだった。だが注意してよく見ると廊下は組木ではなく、一本の巨木を縦に切って加工しているようだった。人が横に4人ほど並べる幅の巨木であれば、神聖な老樹として大切にされていたはずだ。それを切り倒して贅沢にも廊下に使うなど、いったい幾らの金と労力がかかったのか気が遠くなるような話だ。一見地味に見える奥御殿のそこかしこに、同じように途方もない贅が尽くされているのだろう。そんな場所に今自分が立っている誇らしさを嚙みしめながら、片山は奥へと進んだ。表御殿は襖や畳を使った純呂色国風の建築であったが、奥は外国の設えも取り入れているようで、ドアや襖が混在していた。片山が案内されたのは、家紋が彫られたドアのある迎賓室だった。
「こちらへどうぞ。すぐに皆様いらっしゃいますさかい」執事はドアを開けて片山を中に入れると、主人を呼びに下がっていった。私的な迎賓室だからだろうか、表の迎賓の間と比べると半分ほどの広さしかなく、椅子や机など最低限の家具しか置かれていなかった。華美ではないが品よくまとめられた設えに感心しながら、椅子に腰かける。壁に掛けられた賢泉家の面々の肖像画を眺めていると、バタバタとした足音と共にドアが開いた。
「まあ、本物だわ!」フリルたっぷりの派手なドレスを着た女が、彼の顔を見るなり黄色い声を上げた。おそらく彼女が賢泉家の姫、賢泉翠雨なのだろう。天下一の美男と名高い兄に似ず、美人というには少し大きすぎる鼻をした彼女は、きゃらきゃらと笑いながら部屋に入ってきた。
「片山さんは大学でも人気ですけど、私からしたらちょっと…ごめんなさい、年上過ぎかなって思ってましたの。でも実物はやっぱり素敵!」
「お褒めの言葉ありがとうございます。この度はお招きの光栄に浴し…」
「ね、なんかネタやってくださいな」
翠雨は片山に駆け寄り、彼の腕にしがみついた。強すぎる
「翠雨様、そんなふうにお手を触れられたら恐れ多くてボク震えてしまいますわ、堪忍してください」
「あら、遠慮なんかしちゃやだわ」
これでは高貴な姫というより、場末の酌婦ではないか。片山は琥珀とのあまりの違いに苦笑した。世間では進歩的な新しい女だなんだと持て囃されているらしいが、現実はこれだ。王族付きの記者はさぞかし苦労していることだろう。なおも寄りかかろうとする翠雨に苦笑しながら、琥珀と同じ王族なのに何という違いだろうかと思っていると、部屋に女中たちが入ってきた。
「軽食をお持ちいたしました」聞き覚えのある声だった。
はっと顔をあげると、それは片山がちょうど想っていたまさに琥珀その人であった。なぜ水晶の館の女中である彼女がここにいるのか理解できずに戸惑っていると、翠雨の行動はさらに度を越し、片山の首に抱きついて囁いた。
「今日のお昼は、うちのシェフが腕によりをかけて作りましたの。きっと気にいってくださるはずですわ」
直接手を下したのは逞灼家とはいえ、漁夫の利を得た賢泉家もまた琥珀の仇といっていいだろう。そんな家の姫と親密にしているところを見られてしまうとは、彼女があまりにも哀れで耐え難かった。片山は不敬を恐れながらも少し強引に体を捻り、翠雨の腕から抜け出して席についた。心配になって琥珀に目を向けたが、彼女はこちらには構わずいつもの無表情で淡々と給仕をしていた。つれないわあ、などと言いながら翠雨も席に着く。
翠雨は琥珀が淹れた紅茶に当たり前のように口を付け、片山に微笑みかけた。いくら琥珀の海外生活が長かったとはいえ、同じ王族である翠雨が彼女の顔を知らないなんてことはありえないのに、全く知らないようにふるまうのはなぜだろう。翠雨の近くで控えている侍女たちだって、皆王族と縁が深い令嬢たちばかりだろうから、琥珀を知っているのではないだろうか。これだけ王族にかかわりがある人間がそろっていて、誰一人琥珀に気づかないわけがない。
疑問に思った片山が侍女たちに目をやると、彼女たちは一生懸命働く琥珀を見て意味ありげに目配せを交わしていた。その口元には明らかに笑みが浮かんでおり、その意図を片山が計りかねているところに、今日の主役である氷冠王子がやってきた。
「本日はご足労頂きありがとうございます」氷冠は軽く頭を下げて微笑んだ。噂に違わぬ美男子ぶりにたじろぎつつ、片山も感謝の意を伝える。彼もやはり琥珀には構わずに席に着く。
「この前披露していただいた漫談を、母が大層気に入ってまして。あんまり何度も褒めるから、翠雨が自分も会いたいとわがままを言って聞かなくて」
「嬉しいです。漫談師冥利に尽きますわ」
「機会があればまたお呼びするので、ぜひ漫談を披露してくださいね。あぁ、今日はただお話ししたくてお呼びしただけなので緊張しないで大丈夫ですよ」
「えぇ、私は漫談聞きたい!ね、いいでしょ?」翠雨が甘えた声を出した。
「もちろんです。皆様のためなら何時間だって話続けられますわ」
「うれしい!片山さんってほんまにいい人ですわね。何よりかっこいいし…」
「いやあ、ボクなんかもうしょぼくれたおっさんですわ」
兄の前でも構わず媚びてくる翠雨に、片山は冷や汗をかいた。畏れ多くも自分が王族に色目を使っているなど勘違いされたらたまったものではない。氷冠はそんな妹には構わず、前菜のゼリー寄せを口に運んでいる。
「ね、片山さんってどんな人が好みなんですの?」
「好みも何も、ボクの恋人は漫談だけですわ」
「確か、以前ご結婚されていた方と今も同居されているんですよね。元奥さまは逞灼家の遠縁とか」氷冠が口を開いた。自分の家庭のことまで把握されているとは思わず、驚いた片山はあいまいに頷いた。
「王族の遠縁ねぇ。じゃあ身分の高い女性が好みなのね!それなら女中なんかは最初っから対象外ですわね」翠雨が急に声を張り上げた。
「身分に拘っているわけでは」
「ねえ、例えば女中のくせに片山さんに憧れてる身の程知らずがいたらどうします?滑稽でしょう?」
「相手の身分に関係なく、ボクを良く思ってくださる方は等しくありがたい存在ですわ」
片山の答えを聞いた翠雨は、つまらなさそうにフォークで料理をつついた。口に運ぶでもなくただ前菜をいじくりまわしているうち、肘でグラスを倒し、床に食前酒を零してしまった。彼女の近くに控えていた女中がすぐさま拭こうと屈んだが、翠雨はそれを手で制し、琥珀を顎で指した。
「そこの人、早く拭いて」
わざわざ指名された琥珀は、黙ったまま布巾を持って膝をつく。他の女中がスープを給仕している横で、彼女は床を拭き始めた。その時、スープを持った女中の手を翠雨が急に押した。驚いた女中はバランスを崩し、持っていた皿が琥珀の頭へと真っ逆さまに落ちていく。キャロットスープを頭から被り、琥珀の美しい顔はたちまち鮮やかなオレンジに染まった。
「ちょっと、ちゃんと運ばなきゃダメじゃないの」翠雨は汚れた琥珀に目をやると、口元を抑えて楽しそうに笑った。部屋の中の誰も、スープをこぼした女中でさえも琥珀を手助けすることなく、それどころか忍び笑いまで聞こえてくる。
目の前の出来事に硬直していた片山は、この部屋にいる人間の悪意が琥珀に向けられていることにようやく気付いて我が目を疑った。自分がここに呼ばれたのは、彼女が侮辱されるさまを見せつけるためなのだ。だが、いったい何のために?
「こら翠雨、気を付けなさい。女中さんが汚れてしまったじゃないか」
「ごめんなさい、兄さま。でも女中はこれもお仕事のうちだから、しょうがないわね」
「…大丈夫ですか」嘲笑を含んだやり取りを交わす兄妹の横で、片山は何とか一言だけ絞り出した。美貌も知性も品格も何一つ琥珀にかなわない翠雨は、きっと以前から彼女に嫉妬していたのだろう。だからと言って、こんな風に辱める必要はないではないか。本当は今すぐ彼女の顔を拭いて抱きしめてやりたかったが、そんなことをすれば翠雨の不興を買うのは確実だった。せっかく手に入れた王族との繋がりをみすみす手放すなんてことが片山にできるはずも無く、一声かけるのがやっとな自分を堪らなく恥ずかしく思いながら唇を噛んだ。だがその一言でさえ翠雨の気分を害すには十分だったらしく、忌々しげに舌打ちをして琥珀を睨みつけた。
「まったく、いつまで床を拭いてるの。服からスープが垂れて見苦しいわ、早く下がって頂戴」
「申し訳ありません」
琥珀は床を綺麗に拭き上げると、汚れた服のまま立ち上がった。その姿があまりにも哀れで胸が詰まる。通り過ぎる時彼女の視線がこちらに向けられたことに気づいたが、片山は彼女の顔を見ることができなかった。
「お客様の前なのに、鈍臭くて困っちゃうわ」翠雨が聞こえよがしに大声で呟いた。彼女が愚かなのは十分わかったが、この様子を楽しそうに眺めている氷冠もまた、世間の素晴らしい評判とは少し異なる人物なようだった。片山も笑顔を作ったが、うまく笑えているか自信がなかった。だが何より彼が一番情けなかったのは、自分が安堵していることだった。
手紙を受け取って真っ先に頭をよぎったのは、氷冠が琥珀に好意を抱いている可能性だ。何もなかったとはいえ、自分たちが同じ部屋で一夜を過ごしたのは使いの男が報告しているだろうし、もし好意があったならどんなお咎めがあるか想像もできなかった。だが妹に辱められる彼女を笑って眺めるその様子からは愛情のようなものが一切感じられなかった。今日罰されるのは片山ではなく、琥珀だったのだ。やはり王族は王族しか見ておらず、自分はただの道具として呼ばれただけのようだ。きっと彼らからすれば、琥珀が平民上がりの自分と懇ろになっていることが愉快で仕方ないだろう。これからも彼女は兄妹の娯楽のために辱められるだろうし、そのたびに自分は呼ばれ、世間に王族との繋がりをアピールすることができる。氷冠の嫉妬も気にせず彼女と愛し合えるし、琥珀には申し訳ないがこの状況は片山にとって悪い話ではなかった。
「しかしこの部屋は上品で素敵ですねえ。皆様の肖像画もほんまに素晴らしいですわ」部屋に漂う空気を変えようと、片山は口を開いた。
「あと宝石が1個揃ったら完璧なんですけど」翠雨が誰に聞かせるでもなく呟いた。
「宝石?」
「賢泉王の肖像画があるでしょう。額縁に宝石が埋め込まれてるのが見えますか?」氷冠が指す方に目を凝らすと、確かに額縁に2つ、葡萄の粒ほどの宝石がはめ込まれているのが見えた。
「逞灼家の炎を象徴していたルビーと、賢泉家の水を象徴するサファイアです。どちらも国宝なんですよ。ですが、輝石家の分は廃家で混乱している間に消えてしまって、見つかっていないんです。末裔がどこかに隠してるんでしょう」
氷冠の言葉が琥珀のことを指しているのは明らかだった。そういえばあの晩、逃げ出すときにいくつか宝石を持って出たと言っていたっけ。もちろん氷冠のために輝石の宝石を探す気などさらさら無かったが、琥珀が輝石の財産をどこに隠しているかは気になった。
片山がメインの料理を食べ終わるころ、着替えた琥珀が戻ってきた。そのあとは特に大きなトラブルが起こることもなく、表面上は穏やかに食事を終えることができた。
「今日は奥御殿までお招きいただいて、ほんまに幸甚の極みです。皆さま方と同じテーブルを囲んで食事する栄誉に預からせていただいて、なんとお礼を言ったらええか」
「こちらこそ楽しかったです。漫談師の方はやっぱり話がお上手ですね。ぜひまた昼食をご一緒したいです」
片山は深くお辞儀をして退席した。部屋の隅で控えていた琥珀は最後まで目線を下げたままだった。当初片山が思っていた形ではないにせよ、王族相手にうまくやれたことにとりあえずは安堵しつつ、奥御殿を後にする。彼の胸は緊張から解放された安堵と充実感、そして琥珀への哀れみでいっぱいになっていた。あとで彼女に会って慰めてやらないと。そんなことを思いつつ、帰りの馬車に乗り込んだ。
「片山さん、本当ハンサムだった~!あの渋さが素敵。さぞかしおもてになるだろうし、床なんか拭いてる女中に靡くことなんか万に一つもないでしょうねえ!」
片山が帰ってしまった後、大声でまくしたてる翠雨の話を聞き流しながら、氷冠は笑いを堪えるのがやっとだった。琥珀が片山に憧れている、と事前に軽く吹き込んだだけで、まさかここまでうまくいくとは。妹が以前から琥珀に嫉妬しているのは知っていたが、侍女たちまで巻き込んだ予想以上の嫌がらせに、氷冠は非常に満足だった。卑しく愚かな妹だが、こういう時は使えるのだった。
何より、片山は予想以上に面白い男だった。色恋沙汰とは無縁だった琥珀が初めて愛した男はどんなものかと思ったが、外見も自分の方が上だし、何よりもその平民らしい卑屈な態度が気に入った。琥珀がスープをかけられた時に一瞬だけ険しい顔になったが、翠雨の顔色を見てすぐに平然を装ったその切り替えの早さには驚かされた。自分の身分を弁え、王族の機嫌を損ねないようにうまく立ち回ることができるようだし、手元においておけば何かに使えそうな男だった。
だが、去り際に琥珀が彼を見た目…彼をいたわるような優しい目が氷冠の心に焼き付いて離れなかった。もし自分があんな目で見つめられたなら、相手が誰だろうと彼女のために戦ってあげるのに。
自分でも意外な考えが勝手に心に浮かんできて、氷冠は慌てて頭を振った。自分は決して琥珀を愛しているわけではない。彼女を支配して服従させたいだけだ。絶対にそこは、混同してはいけないのだ。
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