第8話 絡みつく蛇

「王子、失礼いたします」


 ドアの向こうから琥珀の声がした。彼女が男といた、という報告を受け居ても立っても居られなくなった氷冠は、すぐに琥珀を呼びつけたのだ。使いの男はとんぼ返りさせられても無表情なままだったが、片山の腕に抱かれて眠っていたところを叩き起こされた琥珀は不機嫌だった。片山の眠りを邪魔しないよう急いで出てきた彼女の乱れた髪を見て、氷冠は内心気も狂わんばかりだった。


「なんだか眠そうですね。さぞかし楽しまれたようで」

「それは王子に関係ありますか?ご指示通り契約書を盗んで麻薬事業を潰しました。それで十分では?」琥珀が眉を吊り上げた。その挑戦的な様子に、氷冠の血管は切れそうになる。使いの男に合図をして出ていかせ、琥珀と二人きりになると、彼女の頬にそっと手を添えた。


「復讐だけが取り柄の琥珀さんに、恋愛にうつつを抜かす暇があったとは。あの男とはいつからそういう関係なんでしょうか?もしかして、もう貞操も捧げてしまったのでしょうか」氷冠の嫌味は途中から悲痛な懇願のようになっていた。聞いていて非常に見苦しいものだったが、本人はそれに気づかない。


「触らないでください。そんなくだらない要件で呼び出したなら、帰ります」

「立場を弁えなさい。もうあなたは王族ではない、ただの庶民です。王子にそんな口をきいて良いとでも?背負うべき家もない、ただの女中風情が」家がない、と言われた琥珀の唇がきゅっと歪んだ。この赤い唇でいったい片山に何をしてやったのだろうと考えると、氷冠はどれだけ琥珀を詰っても足りない気がしてきた。


「私の妾になるのは嫌で、あんな平民上がりは良いなんて。そんな愚かな女だとは思いませんでしたよ」


 頬に添えた手を肩へ、そして胸へと滑り下ろす。地味な黒いワンピースの下に隠れた柔らかな肉体を想像し、氷冠は息を呑んだ。


「側室として今まで通りの贅沢暮らしをするよりも自分の手で復讐したい、なんて貴方の意見を尊重して、自由にさせてあげているのに。傷物になった女は側室にふさわしくありませんね。どうしましょう、呂色国で一番劣悪な娼館に働き口を用意してあげましょうか」


 琥珀は顔に浮かぶ嫌悪を隠そうともせず、氷冠から少しでも離れようと後ずさった。氷冠は思わず彼女の白い首に手を伸ばし、締めあげるように片手で掴んで引き寄せる。その首はもろいガラス細工のようで、少し力を強めればぽきりと折れそうだった。


「下品な想像はどうぞご自由に。でも私がいないと困るのはそちらでは?」掴まれた首をさすりながら、琥珀が吐き捨てる。氷冠が握った部分が紅を差したように赤みを持った。


「復讐を手伝ってるのは私への同情からじゃなくて、賢泉家のためでしょう。恩のある王家を土壇場で裏切るような人間は今の呂色国に必要ない、だから私に消させてるんでしょう?そちらは王子様ですから、私を娼婦にするのは自由ですわ。でもこの件に関して、私以上の働きをする人間は見つからないと思いますけど」


 自信満々な琥珀に言い返せず、氷冠は唇を噛んだ。確かに”輝石の呪い”において、琥珀以上にうまくやれる人間はいないだろう。個人的な恨みがあるのはもちろんだが、彼女には他の誰にも無い、輝石家の者だけが持つ不思議な能力があった。美しいものだけを追い求め続ける一族として代を重ねるうち、彼らは価値があるものを文字通り嗅ぎ分けることができるようになったのだ。琥珀の鼻は、価値があるもの―それは宝石や美術品に限らず、横領の証拠など、貴重なもの全て―嗅ぎつける。相手がいくら巧妙に隠そうとも、臭いを辿っていけば証拠を見つけることができるのだ。


 娼館に入れるという脅しに少しでも怯んでくれたら、氷冠だって少しは優しい気持ちになっただろう。だが全く揺らがずこちらを見据えてくる彼女の、自分には憎悪しか向けないその瞳が、片山の前ではどう輝くのだろうかと思うと怒りと劣情がないまぜになって冷静を失ってしまうのだった。


「片山様に危害を加えられたくないから言いますが、あの方は私の純潔を汚すようなことはなさりません。今回一緒に旅籠に行ったのも、私の失敗で彼に盗みを見られてしまって説明が必要だったからです。今ここで侍医を呼んで私の処女を確認してもらってもかまいませんよ」


 そんな話題を口から出すのも嫌だ、とでも言うように、琥珀は早口で説明した。彼女の瞳は軽蔑を帯びていたが、氷冠は彼女の言葉に自分でも情けないほど安堵してしまい、口元が緩むのを抑えられなかった。だが王子に口答えをしてまで片山を庇うのは、彼に特別な感情があることの何よりの証拠で、嫉妬の苦しみは氷冠の胸にまとわりついたままだった。


「彼をずいぶん庇うのですね。そんなに平民上がりが気に入ったのですか?」

「身分や地位は関係ありません。ただあなたが嫌いで、片山様のことは好き、それだけ」琥珀が吐き捨てた。

「おぉ怖い。いつの間にそんな嫌われてしまったのでしょう?私は何もしていないのに」

「白々しい。あなたが輝石家取り潰しに関わっていること、私が知らないとでも?」


 琥珀の顔は憎しみで染まり、今にも氷冠に掴みかかりそうだった。あんなに清く美しかったお姫様がこんな表情をするようになったこと、その原因は自分にもあることに、氷冠は歪んだ満足を覚えた。彼女が言う通り、氷冠は輝石家取り潰しの一端を担っていた。当初は輝石家の廃家に反対していた父を執拗に説き伏せ、最終的に追放に賛成させたのは氷冠であった。賢泉家の革命のためというのが表向きの理由だが、誰にも知られていない本当の理由が別にあった。


 呂色国ではそれぞれの血を保つために王家同士の恋愛は固く禁止されていたため、氷冠が琥珀と結ばれるには彼女の王位を奪うほかなかったのだ。もちろん、かつて王家同士で愛し合って駆け落ちした例も無くはない。だが氷冠は王族の地位を捨てるなんてまっぴらだったし、何より琥珀と対等に愛し合う気などなかった。妻として対等に娶るのではなく、爵位すら奪って徹底的に貶めて自分のものにしたかった。輝石家が外国と通じて呂色国に謀反を企てているなんて根も葉もない中傷も、聡明で名高い王族の氷冠が言えば皆信じる。ただ口だけだった逞灼帝の妄言に力を与え、実行させた黒幕はまさに氷冠その人なのだった。


「あなたのお父さんは愚かだけど、悪い人ではないわ。だから輝石家に対する仕打ちは全てあなたが裏で操ったのでしょう?でも、未だにわからないの。一体何の恨みがあって、私の家にこんなことをしたの?王位を盤石にしたいなら、ただの華族に下げるだけで十分だったじゃない。平民に落として…お父様を貧乏の中で死なせるなんて」


 自分の家を裏切った小物たちに復讐をしながらも、結局それは一番の黒幕である氷冠の利益になっている。だが復讐するためには、彼の力は不可欠だ。屈折した怒りが揺れる彼女の瞳を見て、氷冠は口角を上げた。今この瞬間、彼女の頭は自分のことでいっぱいになっている。きっとこれから数日は、このやり取りを反芻して腹を立てるだろう。それが憎しみであれ何であれ、彼女の心に汚いシミを付けることができて氷冠は満足だった。

 

「他にお話が無ければ、もう失礼いたします。次の標的については、また連絡しますので」 もう一秒たりとも氷冠と同じ空気を吸いたくない、とばかりの態度で言い放つと、琥珀は踵を返して出ていった。

 

 

 琥珀が苦痛の時を過ごしている時、片山は夢の中にいた。豪華なドレスを着た琥珀が、白い手を彼に差し出している。跪いてその手に口づけをしたところではっと目が覚めた。布団の中には自分だけで、彼女が寝ていた場所に触れるとひんやりと冷たかった。いつ抜け出したのだろうかと思いながら体を起こすと、ちゃぶ台の上に置かれた書置きが目に入った。


 ”所用のためお先に失礼します。またすぐに会いたいです”


 可愛らしい言葉に思わず頬が緩む。手紙を折りたたんで大事に懐に入れると、片山も帰り支度を始めた。女将に馬車を呼んでもらい、家へと向かう。琥珀は彼が思ったよりも遠くに馬を飛ばしていたようで、見知った景色までずいぶんとかかった。今日は珍しく一日何も予定がないため、片山は家から少し離れた場所で馬車を止め、散歩して帰ることにした。


 冬の澄んだ空気が肌を撫で、頭がすっきりと冴える感覚が心地よい。家の近くの川にさしかかると、川のほとりには等間隔に若いカップルが腰かけていて、その日一日の元気を充電するかのように身を寄せ合っていた。遠い昔自分にもあんな頃があったと微笑みながら、あの頃隣にいた女性たち、もう名前も思い出せない彼女たちは今どうしているだろうかと考える。自分には甘い過去が数えきれないほどあるが、きっと琥珀はまだ一つもないのだろう。彼女は若いし、何よりその身分のせいで、遊びの恋愛などしたことがないはずだ。復讐に生きる中、俺だけを頼りにして燃える思い詰めた瞳。昨晩見た彼女の瞳を思い出し、あの瞳が映すのは自分だけであってほしいと願った。物騒なことに関わっていて不安な部分もあるが、引き返すにはもう、彼女に惹かれすぎていた。


 軽い疲労を感じながら家に帰ると、中がにわかに騒がしかった。いつも出迎えてくれる鶴子は奥から出てこないし、普段物静かな紫乃が興奮してまくしたてる声まで聞こえてくる。


「鶴子、見て!私もう、嬉しくって死にそうよ!」

「お嬢さんがた、ずいぶん楽しそうやないの」片山が部屋に入ると、鶴子が満面の笑みを浮かべて振り返り、手に持った呂色の封筒を振った。


「ついさっきあなた宛てにお手紙が来ましたの。見てください、蝋封に賢泉家の紋があるんです!ああ、私の夫だった人に王族からお手紙が届くなんて!実家の広間に飾ってもいいですか?」

「王族からやって?」


 琥珀とのことがあってから、昨日の今日だ。ざわつく心を隠して平静を装いながら封筒を受け取る。片山が王族から手紙をもらうのはこれが初めてだった。以前王妃に呼ばれて漫談を披露した際の依頼は、王家からの手紙であることを示す呂色の封筒に入ってはいたが、側近からの事務的な手紙で、今回のように蝋封や紋などはない簡素なものだった。平民上がりで王家に全く縁のなかった片山には、王家からの手紙がどれほどの栄誉かいまいち計りかねたが、逞灼家遠縁である紫乃のはしゃぎようを見るとどうやら一大事のようだった。


 “片山天雄殿


 先の晩餐会では愉快な漫談をありがとうございました。あの時不在だった私の妹が、あなたに会いたいとかねてより騒いでおりますので、明日の昼食をご一緒しませんか。良いお返事をお待ちしています。


 賢泉氷冠“


 氷冠とは、たしか聡明と名高い賢泉帝の第一王子だ。晩餐会はもう数月も前のことなのに、今更そんな手紙が来るなんて妙だ。片山は怪訝に思い、そして彼の中で全てが繋がった。元王家の琥珀に汚れ仕事をさせられるのは、王家の人間しかいない。琥珀の後ろにいるのは、この氷冠なのだ。今朝琥珀は布団を抜け出して、彼のもとに報告に行ったのだろう。そして俺に正体を知られたことを伝えたに違いない。それにしても、こんなに早く手紙をよこすことがあるだろうか?賢泉家と琥珀が未だに繋がっているなら、なぜ輝石家の地位を復活させてやらないのだろうか。2人の関係がどうであれ、俺にはわからないことが多すぎる。推し量れない氷冠の意図に、片山の背を冷たいものが伝う。


 だがこれは片山にとってチャンスでもあった。いくら国一番の漫才師と言えど、王家と個人的に付き合うなど普通ならありえない話だ。今回食事に誘われたことは必ずどこかに漏れ、彼は王族のお気に入りという栄誉を背負ってますます尊敬を集めるようになる。


 氷冠王子の狙いが何であれ、これはチャンスや。鬼が出るか蛇が出るか、試してみようやないか。


 善は急げとばかりに、片山は返事の筆を取った。

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