第7話 消えない咎
「道の先に明かりが見えますか?あそこです」
琥珀が小さな光を指さした。そこは旅人や修行者が旅の途中に立ち寄るであろう小さな宿で、古いが清潔そうな場所だった。琥珀はまずグレサム号を馬小屋に連れて行くと、慣れた手つきで餌を用意し、背中を撫でて労った。小屋に膝をついて飼い葉を用意する様子は村娘のようで、とてもこの国の姫だったとは思えない。
連れ立って建物の中に入る。年老いた女将らしき人が琥珀を見て頭を深く下げたが、隣にいる片山を見て手を止めた。
「すみません、お部屋は一部屋しかお取りしてなくて」
「それで大丈夫です」琥珀が答える。
女将はうなずき、あとでお布団をお持ちします、とだけ言って裏に下がった。態度からして、彼女も琥珀が輝石家だと知っているのだろう。元とはいえ、未婚のお姫様が男と一つ屋根の下で寝ると知られるのは色々とまずいんじゃないのか、俺だけ野宿した方がいいのか、とぐるぐる考えながらとりあえず彼女の後をついて部屋に向かっていると、向こうから背の高い男がやってきた。
男はこちらには関心がないようで、ぼんやりと床を見つめて歩いている。案の定琥珀と軽く肩がぶつかってしまい、すみませんと呟いて立ち去った。
ようやく着いた部屋は、狭いが清潔に整えられており、中央に小さな布団が敷かれていた。すぐに女将がもう一組の布団を持ってきて、元あった布団の隣にぴったりとくっつけて敷いた。女将は片山と目を合わせないようにしているらしく、布団を敷くとそそくさと出て行ってしまった。
「契約書はいつ渡すん?」座布団に腰かけ、ひと心地ついた片山が言った。
「もう渡しました。さっきすれ違った時、あの男の人に。ほら、外見てください」
目を細めて窓の外を見ると、さっきの男だろうか、まめ粒ほどの小さい姿が遠くの方に駆けて行くのが見えた。片山に気取られることなく受け渡しを済ませた巧みさに舌を巻く。この手際の良さから言って、きっとこれまでも彼と琥珀は協力して”呪い”をやってきたのだろう。複数人が関わっているとなると、輝石の呪いは琥珀個人の復讐ではなく、もっと大掛かりに行われていると考えていいだろう。捨杢が言っていたように、やはり輝石の呪いの後ろには権力者…華族の存在があるのだろうが、華族であればこそ輝石家の神聖さは身にしみて分かっているだろうに、こんな汚れ仕事を姫にさせるなんて…片山が考え込んでいると、琥珀は膝をついて彼の布団の準備をし始めた。
「あかんって、そないなこと琥珀ちゃんにさせられへん!」片山は慌てて止める。
「俺の前ではそないなことせんでええ」
「そう言われましても」片山はため息をつくと、不服そうな彼女に向き直った。
「聞きたいことが山ほどあるんや。盗みとか、呪いとか、さっきの男とか…琥珀ちゃんの後ろにおるんは誰や?もう俺もがっつり関わってもうてるんや、この際全部教えてもらうで」
「…せっかく夜の旅館に二人きりなのに、片山様ったら真面目な話ばっかりで嫌ですわ。私に惹かれてるっていうのは嘘だったんですか?」
琥珀は片山の手を取り、上目遣いで話を逸らした。その動きはまるで子供が大人の真似をしているようで、男に媚び慣れていないのが見え見えのぎこちなさに片山は思わず吹き出してしまう。琥珀も動きに無理がある自覚があったのか、耳まで真っ赤にして俯いてしまった。
「笑うなんてひどいです。こういうの、慣れてないんですもの」琥珀は顔を覆ってしまった。
「そうだ、お風呂…お風呂入らないとですよね。片山様、お先にどうぞ」居心地悪そうにもじもじ身体を動かすと、この雰囲気を変えるためか入浴を提案してきた。この宿は各部屋に風呂がついていて、入室と同時に女将が風呂を準備してくれていたのだった。
まさか姫より先に風呂に入るなんて、と片山は遠慮したが、琥珀が頑として譲らないため、苦笑しながら風呂場へと向かった。風呂は清潔で心地よく、その日の疲れが抜けていくようだった。窓から飛び降りてきたときにあちこち擦りむいてしまったようで、湯が肌に染みる。風呂を琥珀に代わった後は、ぼんやりと1人で月を眺めていた。
障子の隙間から差し込む月に照らされ、ゆったりと流れていく雲を目で追っていると、今日あったことがすべて夢のように思えてくる。だが彼の頬には、琥珀から投げられたナイフの傷がしっかり線になって残っていた。
3神と言えば、呂色国での富と権力の象徴である。その末裔がまさかあんな汚れ仕事をやっているなんて。神の血を引く高貴なお姫様が、錠前破りやナイフ投げを会得するまでにどんな苦労があったのだろうか。
せっかく二人きりなのに、私に何もしないんですか?
琥珀のぎこちないしなを思い出して、片山は吹き出した。汚れ仕事に手を染めてはいるが、身体を使った色事を仕込まれていないのは確かなようだ。そういえば、以前口づけした時のうぶな反応も大層愛らしかった。ここまで考えたところで、自分が誰の唇を奪ったのかということに思い至り、片山は頭を抱えた。すると背後で戸が開く音がして、琥珀の足音が近づいてきた。
「今日はごめんなさい、顔」
「ええよ。浅い傷やし」
琥珀は遠慮がちに片山の隣に腰を下ろした。緊張しているのか、琥珀は微妙な距離を保ったまま動こうとせず、気まずい沈黙が二人の間に流れる。昨日まではあれほど燃えていた片山の欲情に似た想いも、彼女が輝石の姫と知ってからはすっかり落ち着いてしまっていた。誰の目もなく好き放題できる空間に2人でいるのに、今となっては彼女に触れることすら恐れ多い気がして片山はため息をついた。
「ごめんなさい。厄介なことに巻き込んでしまって」琥珀が片山を見つめた。髪を下ろした彼女はいつもより幼く見える。
「もっと早く言うべきでした。口づけをされるよりも前に…でもあの時、片山様に好きだと言われてとても嬉しかったんです。家が無くなってからはずっと復讐ばかりしてて、誰かに愛されるなんて想像もしてなかったから」
だから、身を任せてしまいたかった。最後の言葉は冷たい夜の空気に消えてしまうほど小さかった。片山は無言で彼女を抱き寄せ、再び口づけをした。今度は情欲ではなく、慈愛に満ちた口づけだった。神の血を引く彼女の唇は、片山がこれまで口づけをしたどんな女より甘く震えていて、この美しい唇がどれだけの寂しさを耐えていたのかとを思うと、片山は切なさで身もだえするようだった。頬に琥珀の熱い涙が落ちるのを感じ、唇を離す。琥珀はしゃくりあげるように泣いていた。きっと彼女にしかわからないだろう涙の重さを少しでも軽くしてやりたくて、片山はそっと涙をぬぐった。
「そろそろ横になりましょう」落ち着きを取り戻した琥珀が提案し、2人はそれぞれ冷たい布団に横たわった。お互い手だけを布団から出して、そっと握る。本来であれば絹や宝石しか触らなかったであろうその指先は、水仕事で固くなり荒れていた。
「私の家が何を司どっていたか、知っていますか」
「芸術やろ。まさに俺らの神さまや」
琥珀がじっと片山を見つめる。夜の闇に浮かび上がるその美しさはまさしく、美の神の化身だった。
「他の2家…知と力に比べて、美はなんて儚いと思いませんか。儚くて、平等です」琥珀が絞り出すように話し始めた。
「生まれ持った外見の美。筆一本で作り出される美。そして片山様のように、言葉で紡がれる美。美は全ての人間に与えられているのに、一つの家が司るなんて無理な話だったんです。私たちは自分の身の丈を超えて美を追いすぎた」
「いったい何があったんや?」
「順番通り100年の治政を終えた後、新しい世界の美を探すためにおじい様の代に一族で洗朱に移り住んだんです。呂色国の外は想像もつかないような未知の美しいものだらけで、私たちはすっかり魅了されてしまいました。そうして自分の国をおろそかにして、気づいたころには逞灼家は増長しているし、賢泉家は革命を考えているしで、もう取り返しがつかないことになっていました」
片山は自分の記憶を辿った。確かに他の2家はいつも新聞のどこかを賑わせていたし、国家の行事があれば人前に立って国民と触れ合っていた。だが輝石家だけは名前を聞くだけで一度もその姿を実際に見たことはなく、王族というよりはむしろ、姿を見ることのできない神に近いように感じる存在だった。そういえば「輝石家は国内の芸術家を見捨てた」なんて言われていた覚えもある。
「自国をおろそかにしたのは自業自得です。輝石家はもはや王家ではないと言われるのもわかります。でもそれなら華族に落とすだけでよかったのに。私が許せないのは、芸術のこと以外何もわからないお父様に、あんなにやさしいお父様に、国賊の汚名を着せたこと」
「国賊やなんて、そんな」
片山は思わず言葉を失った。輝石家が廃された理由は公には明らかになっていなかったが、そんな理由にされていたとは。輝石家に恩があるはずの華族たちが誰も追放に異を唱えなかったのも納得だ。国賊扱いの家を大っぴらに庇えば、自分たちまで疑いの目を向けられることになる。
「そんな根拠のない言いがかりで一つの王家を廃すなんか、さすがに横暴がすぎるやろ」
「それが、完全な言いがかりでもないんです」
「…ほんまに?」
「逞灼帝の息子が即位する年に、これまでずっと海外にいたお父様と私、つまり輝石家当主と後継ぎが急に帰国したんです。これまで国の行事以外で帰国することなんてなかったから、お父様の人となりを知らない人から見れば怪しく思えたでしょう」
「でも謀反のつもりなんてなかったんやろ?なんでまたそんな時に帰ってきたんや」
「私の大学進学のためです」琥珀は淡々と話し続ける。
「お父様たちが外国に憧れたように、私にとっては呂色国が夢の国だったんです。洗朱は素晴らしいところですが、私とは肌や目の色が違う人ばかりで、いつもどこか落ち着かない感じがしていました。いつか本当の故郷で暮らしてみたくて、呂色国の大学に通いたいってお父様にねだったんです。今考えれば、王家が不安定になっている時期に帰国なんてすべきじゃありませんでした。でも当時は私もお父様も、あまりにも無垢すぎて、そこを付け込まれたんです」
琥珀は長いため息をついた。少し話過ぎたと呟いて、片山に背を向ける。彼女の言ったことが本当なら、きっと責任を感じているはずだ。障子の隙間から風が吹き込み、湯あみの熱が冷めてきた身体を撫でる。片山は起き上がって障子を閉め、琥珀の布団にそっと滑り込んだ。暖かい布団の中で、彼女が身体を固くしたのがわかった。胸元に抱き寄せながら、彼女のまぶたに口づけをする。さっき話しているときも泣いていたのだろう、薄いまぶたはかすかに塩味を帯びていた。
「屋敷を追い出されるときに、隠していた宝石をいくつか持ち出せたのが救いでした。それを一緒に帰国してきた執事に渡して、ほとぼりが冷めたころに屋敷を買い戻してもらいました。その執事が、水晶の館の主、守背です。でも屋敷を取り戻したころには、お父様は慣れない貧乏暮らしで肺を病んでしまっていて、それで…」腕の中の身体が小さく震える。
「洗朱に残してきたお母様たちに事情を伝えたら、すぐさま迎えに来たでしょうが…そんなことをしたら皆捕まって、逞灼王の思うつぼです。だから廃家を伝えて、呂色国には絶対来ないようにと便りを出しました。向こうには財産が山ほどあるから、今も暮らしの心配はないでしょう」
疲れ果てたように顔をしかめると、琥珀は黙ってしまった。彼女の張り詰めた呼吸が安らかな寝息になるまで、片山はずっと優しく背中をさすっていた。
琥珀から契約書を受け取った男が向かった先は、中央区の郊外にある寂れた洋館だった。地元の人間でさえなかなか通りかからないそこを、琥珀たちは拠点にしている。男が鍵を開けて中に入ると、既に先客が待っていた。
応接間で待っていたのは、絹のように艶めく金髪を腰まで伸ばした彫刻のように美しい男だった。彼の名は賢泉
「琥珀が男といた?」動揺のあまり声が震え、思わず声が裏返る。
「はい。受け渡し場所の旅籠に男と二人でやってきました」
呂色国の誰もが、彼のことを素晴らしい王子だと褒め称えている。評判通り彼は聡明で勇敢だったが、その内面は暗く歪に捻じ曲がっていた。ぞっとするほど美しくて狡猾な、蛇のような男だった。彼は革命以前よりずっと、その陰湿な心をもって琥珀に執着しているのだ。彼女が平民に落ち、1人孤独に苦しみながら復讐をしている姿を眺めると、王子として背負わされた重荷にあえぐ心の奥が満たされるような気がした。そう、琥珀はずっと孤独だった。わき目も振らず復讐に燃えていて、恋人はおろか、友人すらいなかった。それが男と一緒に泊まっているだと?
「貴方はそれをみすみす見逃した、と。そういうことですか?」氷冠は端正な顔を歪ませながら、近くにあった棒で男を打ち据えた。男は頬から血を流しながらも、顔色一つ変えず黙りこくったままだった。
「さすが命令に従うことしか能がない、犬以下の奴隷ですね!普通の人間だったら、廃家とは言え王家の姫が男と同衾しようとしていれば止めるでしょう」怒りで肩を震わせながら、氷冠は血の付いた棒を放り投げた。
「まあ、貴方なんぞに期待する私が悪いんでしょうね。それで、相手はどんな奴でしたか?」
「恐らくですが、有名な漫談師の片山かと」
氷冠はその名を聞き、思わず自分の耳を疑った。彼には以前会ったことがある。母上が彼を大層気に入っていて、城の晩さん会でネタを披露させたのだ。評判なだけあってなかなかに面白い男で、まあ女受けも良いようだったが、確か奴は琥珀とかなり年が離れていたはずだ。
氷冠は部屋の隅にある鏡を覗き込んだ。身体の隅々に弾けるような若さが満ち満ちていて、我ながら見惚れる美しさだ。王子という身分を明かさずとも、自分が誘えばどんな女でも言いなりになる…琥珀以外は。
家が潰され路頭に迷っている時、愛人になれと命令したことがある。彼女は心底こちらを軽蔑した表情を浮かべ、今は復讐以外考えられないから、とはっきり断ったのだ。それがなぜ、そんなジジイといる?頭にかっと血が上り、鏡に拳を突き立てる。ばらばらに割れた鏡が地面に落ち、嫌な音を立てた。
「今すぐ琥珀をここに呼べ」氷冠は拳から流れ落ちる血にも構わず、怒鳴りつけるように男に命じた。
琥珀、お前は俺にひれ伏すか、そうでなければ一生孤独でいるべきだ。盗人に堕ちたお前の身体は、もはや俺の所有物だ。初老のジジイに好き勝手させているようなら、今すぐお前を殺してやる。
氷冠の歯ぎしりが空虚な部屋に響いた。
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