第6話 行け、弓矢のごとく

片山は扉を開け、部屋に身を隠した。扉を閉めるのと同時に鋭いナイフが顔を掠め、頬にぱっと赤い線が入る。


 驚いて琥珀を見ると、どうやら彼女は相手の顔を確認せずにナイフを投げてしまったようで、片山のを見てドレッサーを引き出した姿勢のまま固まっていた。けばけばしい内装からして、ここは夫人の部屋のようだ。


「片山様、なぜ…!ああ、本当にごめんなさい」

「話はあとや。もうそこまで誰か来てる」


 琥珀は息を呑んだ。引き出しに顔を突っ込んで匂いを嗅ぐと、すぐに何かを引き抜いた。


「片山様、ベッドの下に」部屋の中央にある天蓋付きのベッドを顎で指す。


 片山が身を隠すには少々狭すぎるようだが、他に隠れられそうなところもなく、意を決して腹ばいになる。どうやら掃除があまり丁寧ではないようで、べッドの下は埃っぽくざらついていた。片山が身体を収め切ると同時に、琥珀もするりと滑り込んできた。弓のように丸めた片山の身体に添わせるようにして、その柔らかな身体を縮める。意図せず後ろから抱きすくめるような形になり、汗と混じった甘い匂いが片山の鼻をくすぐった。2人がベッドに隠れると同時に、部屋に夫妻が入ってきた。


「ほら見ぃ、何事もあらへんがな。あんたの心配のしすぎやわ。もうとっくの昔に死んだ奴らに怯えてアホちゃうか」三段夫人が吐き捨てた。

「杞憂ならそれでいいんだ。一応だけど、権利書はあるよね?」夫人とは違い、三段氏は冷静な口ぶりだった。

「当たり前やわ、ほら、ここに…あら?」

「どうした?」

「嘘、嘘やろ、何であらへんの?あんた勝手に動かした?」夫人の声がほとんど金切り声のようになっている。


「落ち着いて、落ち着いて深呼吸して」

「絶対ここにあったんに、消えてもうた!あれが世に出たらうちらはおしまいや、刑務所行きや。バチが当たったんや。輝石の呪いや!!」


 ほとんど過呼吸になっている夫人が喚き散らす。と、鈍い打撃音のあと、何かが崩れ落ちた。ベッドの下から目を凝らすと、どうやら三段氏が体勢を崩したようだった。


「大丈夫だよ、だから殴らないで」

「アホ!!全部あんたのせいや!うちは最初っから輝石家裏切るのは嫌やったんに」夫人は泣き叫びながら、何かを夫に投げつけている。


「話を聞いて。輝石の呪いなんてあるわけないよ。輝石家なんかに生きてる人間が呪えるはずないんだから。昨日までは確かにここにあったんだね?」

「当たり前や、うちは毎日確認してた。今日だって朝はあったんや」

「それなら、今パーティーに来ている誰かが盗んだんだろう。お前、これはチャンスだよ。僕たちが輝石の呪いの正体を暴けば金も稼げるし、華族たちからも一目置かれる」


 契約書に、輝石の呪い。嫌な方に転がっていく会話に、片山の心臓が速さを増す。浅いはずの頬の傷がじんじんと疼き、不安になって思わず琥珀の腕に触れると、彼女はさっきドレッサーから抜き出したものを固く握っていた。指先で探ると、それは紙のようだった。


 いま彼らが探している契約書とは、まさにこれのことではないか?口の中が乾くのが自分でもわかる。やはり彼女は金品目的の泥棒ではなく、輝石の呪いに関係しているのだろうか?


「招待客も使用人も、誰もこの家から出さないようにしないと。今日は無理やりにでも泊まらせて、全員を調べよう。もう帰った人はいる?」三段氏が言う。


「片山はんの漫談目当ての客が多かったから…終わったあと招待客もなんぼか帰ってもうた」

「彼らもまだ家には着いていないだろうね。急いで追いかけて荷物を確かめないと。あれが世に出たら僕らは終わりだから」


 慌ただしい足音と共にドアが閉まり、夫婦は出ていった。ベッドの下で、再び琥珀と二人きりになる。琥珀が顔をこちらに向け、固まりかけた顔の傷に触れた。


「まずいことになりましたね。とにかく今は逃げないと」


 色々な疑問が頭を渦巻いているが、何から切り出してよいかわからずに片山は黙ってうなずいた。固い身体をなんとか伸ばし、琥珀に続いてベッドから出ると、彼女はメイド服をたくし上げて太ももに隠したロープを取り出していた。


 琥珀はドレッサーの上にあった鳥のオブジェをロープの端に括り付けると、窓を開けて近くの木に投げ、素早く括り付けた。そして片山が声を上げるより早く窓から飛び降り、猫のようなしなやかさで隣の木を蹴ると、くるくると回転しながら地面に着地した。琥珀はロープの反対側に石を括り付けると、呆気に取られている片山のところまで投げてよこした。


「片山様も、早く!」琥珀が飛び跳ねて手招きする。


 片山は決して運動が苦手な方ではない。昔から大概の運動競技はこなせるし、今でも鍛えて筋肉を保っている。だがさっきの軽業師のような芸当は、初老に差し掛かった漫談師に求めるものではない。


「下で何とかしますから、とりあえず窓から飛び降りて!」

「そんなご無体な」


 ロープを握った手にじんわり汗をかいているのがわかる。もし手が滑ってロープが抜けたら?着地に失敗して骨折したら、皆になんと言い訳する?頭の中を最悪な想像がぐるぐると駆け巡る。だがこのまま躊躇っていたら、商人夫婦に気づかれるのも時間の問題だろう。


 片山は意を決し、窓枠に腰を掛けた。喉がつっかえ、足が固まる。


「片山様、大丈夫です」


 琥珀の声が真っすぐ耳に入ってきた。彼女はもう一本のロープをくるくると回し、真剣な顔で片山を待ち構えている。


 ええい、どうにでもなれ!


 片山は身体を宙に投げた。胃の下辺りがふわっと浮き、一瞬世界が止まったかのように思える。すがすがしい夜の風が身体をすり抜けていく…


 弾けるような痛みを腰に感じて、片山は我に返った。琥珀が投げたロープが彼の腰に巻き付き、木に激突する前に止めてくれたようだ。だが彼が思ったより重かったのか、琥珀の方が引きずられ、結局片山は木の枝に突っ込んでしまった。


「ごめんなさい、お怪我はありませんか?」

「いたた…おっさんにこないな芸当させるもんちゃうよ」


 笑いながら琥珀の頭を撫でると、彼女の張り詰めた表情が和らいだ。片山の身体に付いた葉っぱを落とす彼女の優しい手に、今の状況をしばし忘れそうになる。


「片山様、馬には乗れますか?」琥珀が唐突に切り出した。

「そりゃ少しは乗れるけど」

「それは良かった!しっかり掴まっててくださいね」


 まさか馬で逃げるのか、と聞く間もなく、琥珀が甲高い口笛を吹いた。すぐに馬のひづめの音が聞こえ、あっという間に立派な馬がやってきた。闇を切り裂いて現れた馬は、暗闇でもわかる程美しい栗毛を持っており、いったい今までどこに隠れていたのだと片山は目を疑う。琥珀に頭を撫でられ、馬は嬉しそうに鼻息を鳴らした。


「私のグレサム号です。とても良い馬なので、二人で乗ってもちゃんと走ってくれるんですよ。さ、後ろに乗ってください」琥珀はひらりと馬に飛び乗り、片山に手を差し出した。


 差し出された手に従って後ろに乗るなんて男のプライド的に色々と気になるところではあったが、この状況ではそうも言っていられない。片山は黙って琥珀の後ろに乗ると、その細い腰に手を回した。


「行きますよ!」


 言い終わるよりも早く、琥珀は外壁に向かって馬を走らせた。ぐんぐんと迫ってくる壁に、片山は思わず目をぎゅっとつぶる。


「身体を固くしないで、この子に身をあずけて!」


 いななきと共に、グレサム号は2mほどの壁を一気に飛び越えた。優雅に着地すると、雲の上を駆けているかのようなしなやかさでまっすぐ進み、館との距離がぐんぐん開いていく。


「グレサム号!いい子ね!」誇らしげな琥珀の声を聞き、グレサム号も高らかにいなないた。


 グレサム号は風を切って夜を駆け抜け、坂道を一気に進む。興奮と恐怖で指の先まで血が脈打っているのを感じながら、片山は琥珀に回した腕を緩めた。背後を確認すると、追手だろうか、たくさんの光が片山たちとは違う方向に進んでいくのが見えた。


「こっちに追っ手は来てないみたいや」片山が囁く。

「よかった。このまま裏道を進んで、街の離れまで行きます」


 琥珀は巧みにグレサム号を走らせ、人目を避けて裏道をぐいぐい進んでいく。この辺りの地図がすべて頭に入っているかのような見事な動きに片山は舌を巻いた。街中を避けて細い路地を進み、貧しい人が住む通りを突っ切る。馬に跨った二人組は、自動車と馬車が街を走るこの時代にはやはり珍しいようで、すれ違う人は皆目を丸くしてこちらを見つめていた。


「もうかなり離れたし、裏道を進んだから追手も見つけられないでしょう」周りに人の影が見えなくなったころ、琥珀はようやく手綱を緩めた。片山の胸に体重を預け、ほっと息をつく。


「窓から飛び降りたときの片山様の顔ったら」思い出し笑いで、琥珀がくすくすと笑う。胸の中で揺れる彼女の肩を感じ、片山の緊張もだんだんとほどけてきた。前後左右を見回しても、頭上で輝く月以外に明かりは見えない。少し躊躇ってから、片山は口を開いた。


「いつもこない危ないことしてるの」琥珀は答えなかった。


「実はこの前も、琥珀ちゃんが何か盗んでるの見てん」片山は続けた。

「今朝新聞に出てた呉服屋さんに関係する何かを盗んでたんやろ?」胸の中でじっとしていた琥珀が、身体を離して背筋を伸ばした。


「驚きました。これまで誰にも見つかったことないのに、どうして片山様には二回も見られてしまったんでしょう」

「俺が琥珀ちゃんのこと気にして、ずっと目で追ってたからや」


 事実を述べただけだが、なにやら口説くようなセリフになってしまって片山は咳払いをした。琥珀は何も答えない。ただグレサム号の鼻息だけが聞こえる。沈黙に耐えきれず、片山はつい、答えを聞きたくない問いを口走ってしまった。


「輝石の呪いに、琥珀ちゃんは関わってるん?」


 自分で口に出して、後悔した。彼女が呪いなんかと関係ありませんように。君はただ、お金が欲しいだけの平凡な女中であってくれ。俺が願うのはただ、呪いなんて関係ないところで、ただ普通に愛し合いたいだけなのに。


 そんな片山の願いも空しく、琥珀は小さくうなずいた。恐れていた答えに何と返事して良いかわからず、今度は片山が黙り込む。


「だから言ったじゃないですか、あなたに私は荷が重いって。大変なことに巻き込まれたって後悔してるでしょう」


 正直ね、という答えを心の中に押し込んで、片山は彼女の肩に顎を乗せた。


「何のために呪いの真似事なんてやっとるんや?目的は金?復讐?」琥珀は黙って答えない。


自分琥珀はいったい何者なんや?賢泉家の手先?それとも輝石家に恩がある人間とか?」


 琥珀は石のように黙ったままで俯いているが、手綱を握った手に力がこもっているのが後ろからでもわかる。


「なんやろ、降参!教えてや」片山はふざけたような声を作って、彼女の脇腹をつついた。

「輝石、琥珀こはく」夜の闇に消えてしまいそうな声だった。

「は?」片山は聞き返した。まさか、聞き間違いだろう。

「私の名前。輝石琥珀っていうんです。父親は輝石家当主でした。私は呂色国王家が一つ、輝石家の跡継ぎでした」


 輝石の姫。片山の顔から一気に血の気が引いた。彼女の腰に何気なく回していた手が震える。そんな馬鹿な、と思わず口から出かけたが、霞大臣の話では確か誰も顔を知らない姫1人が生き残っているとかで、琥珀の言葉が嘘とも言い切れないのだった。それに、女中には不釣り合いな教養―彼はそこに惹かれたのだが―も、彼女の言葉に信ぴょう性を与えていた。


 3神の1つ、輝石家。潰えてしまった神の末裔が、自分の腕の中にいる。神の血を引く、この国で最も尊い…尊かった血の流れる娘が。既に3神制は崩壊してしまっていたが、呂色国で生きる人間に刷り込まれた畏敬の念が片山の身体を縛り付けた。回した腕を解き、彼女の小さい背中を信じられない思いで見つめる。


「家は取り潰されたんで、今は庶民です。だから今まで通り接してくださいね」

「そない…いや、そんなこと、できるわけないやないですか。琥珀…様」喉がつかえながらも、片山は必死で言葉を絞り出した。今まで自分が彼女に利いた口を考えると、背筋が凍った。何せ、革命前は3神と庶民が目を合わせることすら許されていなかったのだ。


「様付けなんてやめてください。今こっちは女中、片山様は伯爵ですよ」琥珀は心外だという表情で振り返り、頬を膨らませた。


「いやホンマに、これまでの無礼な態度をなんとお詫びしたらええか。輝石家はボクら表現者にとっては神そのものなんやから。別に信心深いわけちゃうけど、やっぱ実際目の前にすると雲の上の人っていうか」

「もう、嫌ですわ。どうかこれまで通り接してください」


 片山は言葉を続けようとしたが、諦めて再び彼女の身体に手を回した。温かい彼女の身体にぴったりと自分の身体を添わせると、とくとくと心臓が動いているのがわかる。神の末裔にも自分と同じように血が通っていることを実感して、片山は遠慮がちに回していた手を締めた。


「それで、どこまで行くん…行くの?」

 思わず敬語になりかけたが、琥珀が反抗するようにもたれ掛かってきて言い直す。


「この先に旅館があります。そこで人が待ってるので、この契約書を渡します」

「それって結局なんなん?」

「麻薬ですよ、麻薬。あの夫妻は昔から麻薬で稼いでたんです」


「以前逮捕されそうになった時、釈放される代わりに”麻薬の元締めは輝石家だ”なんて嘘のうわさを流したんです。逞灼家の指示で…」


 琥珀の縮めた身体から抑えられない怒りが揺らめくのを片山は感じとった。夫妻はその復讐をされたわけか、と合点がいく。その怒りは一瞬で消え、もう元の彼女に戻っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る