第10話 小さな善意、大きな悪意

「片山天雄、職業は漫談師。爵位は伯爵だが、父の代までは田舎で旅籠屋をやっていた庶民。元妻は逞灼家の遠縁」

 

 片山を招いた日の晩、氷冠は彼について集めさせた資料を読み返し、その使い道を考えていた。琥珀が彼と一晩過ごしたと聞いたときは殺してやろうかと思ったが、片山が脅威ではないと気づいてからは自分でも意外なほど彼に好感を抱いていた。

 

 確かに奴は平民上がりだが、氷冠からすれば伯爵家だろうが何だろうが等しく目下なことに変わりはない。むしろあれくらい出自が悪い方が、王族を追放されたという琥珀のコンプレックスが刺激されずに安心できるのだろう。彼女の淡い初恋をどう壊してやろうと考えるだけで気分が良くなる。翠雨を唆して片山に手を出すよう仕向けるのはどうだろうか?あいつは嫁入り前だが純潔も何もあったもんじゃないし、片山さえその気なら簡単に事が運ぶだろう。初恋をめちゃくちゃにされた琥珀の顔が目に浮かび、氷冠は思わず声を出して笑った。久しぶりに愉快な気持ちになった彼はとっておきのウイスキーを開け、その香りを楽しみながら考えを巡らせた。グラスを傾けて舐めるように含んでいると、次第に眠気が襲ってきた。うとうととまどろんでいるうちに、現と夢の境目があいまいになってくる。

 

 


「…氷冠、おい氷冠、聞いてるのか?」

 

 ここはどこだ?目の前にいるのは…父上。そうだ、確か俺は…

 

山尾やまお侯爵に失礼を働いたらしいな。最近のお前は少々やりすぎだ」

 

 なんで俺は父上に怒られているのだろうか?山尾侯爵、失礼なこと…記憶を辿っていくうちに、靄のかかったような頭がだんだんはっきりしてきて、色々と思い出してきた。


 酔いが回っていつの間にか眠ってしまった氷冠は、数年前、自分が高等学校に通っていた頃の夢を見ていた。その頃はまだ逞灼家の治世で、氷冠は王位継承権のない17歳、今よりずっと気ままな身分だった。彼は呂色国で一番の学校に通い、学業も身分も文句無しの一番だったが、身分に胡坐をかいて成長を知らない周りにほとほと嫌気がさしていた。刺激を求めるあまり、氷冠はいつしか身分を隠して色街に出入りするようになり、この頃には彼の“友人”と言えば娼婦ややくざ者など社会の日陰者ばかりになっていた。恵まれない出自のフリをしながら彼らと過ごすのは刺激的で、彼らのように強く生きたいとも、こんな身分で生まれなくてよかったとも思ったが、結局はいつも彼らを見下し、自分の生まれの高貴さに酔いしれるのであった。件の山尾侯爵というのは、彼の“友人”の一人である娼婦に対し、酔って度を越した乱暴を働いた男の名だった。


「友人が侮辱されたので、それ相応の罰を与えただけです」

「その友達っていうのは、月美つきみ町の娼婦だろう」

「お父様ったらひどいなあ、娼婦はどんな扱いされても良いとおっしゃるのですか?まさかそんな差別主義者だとは」 氷冠が半笑いで口答えすると、彼の父はため息をついて頭を振った。

「侯爵が何をしたかは私も聞いている。人々の模範になるべき立場の華族として許されない行動だから、然るべき場所で裁かれるべきだ。だがお前は…」


「彼の…その、最中の写真を盗撮してばらまくというのは、いくら何でも度を越している」

 

 父親の言葉に笑いをこらえきれなくなった氷冠は、思いっきり吹き出してしまった。鼻の下を伸ばして娼館に向かう間抜けな姿や、箪笥の中から撮影されているとも知らずに無様に腰を振る姿といったら!何より笑えたのは、家や学校の周りに張り出された父親の醜態を見て恥辱で泣く令嬢の顔だった。

 

「笑うな」いつも温和な父には珍しい、静かだが怒りを秘めた声だった。今から言うことは決して他言してはならない、と前置きしたうえで言葉を続ける。

 

「俺たちは3神として、この国と民を守っていかねばならない。だが逞灼家は権力に溺れてしまったし、輝石家は国を忘れて海外で遊び惚けている。呂色国を守れるのは、我ら賢泉家だけなのだ。だから私もお前も、常に正しくあらねばならない」

 

 いつになく真剣な父親の様子に、さすがの氷冠も緊張してきた。普段軽口で他の2家を貶すことはあるが、今日の言葉はいつもとは違っていた。温厚な父親が、他人に聞かれれば現王への謀反とも取られかねない発言を不用意にするはずも無く、近いうちに何かを企てているのは明らかだった。

 

「お前は賢い。だからこそ周りが愚かに見えることもあるだろう。だがその傲慢さでは国を導くことはできない。お前は世界を知る必要がある」言葉を切り、氷冠を真正面から見据える。


「来月から1年間、洗朱の寄宿学校に行ってこい。各国の王族の子息が集まる学校だから、お前とて特別扱いはされん。そこで人の上に立つ者の振る舞いを学んで来い。輝石家の娘も通っている学校だから、この機会に仲を深めておけ。そうして若い世代で、この呂色国を変えていってくれ」

 

 

 次に目を開くと、氷冠は巨大な石造りの門の前に立っていた。一度入ったら二度と出られないのではないか、と思ってしまうほど圧迫感がある門の奥に、陰気臭い巨大な建物が聳え立っている。肌を突き刺す冷気と、太陽が見えないほど分厚い雲は明らかに呂色国のそれとは違い、お前の居場所はここにはないと拒絶するようだった。

 

 何もかも人より優れて生まれてきたのに、なぜ人の上に立つ振る舞いなんぞを学ばなければならないのか。心に湧いて出てきた弱気を隠すように心の中で毒づく。何が他の国の王族だ。呂色国ほどの国がどこにある?劣った国から学ぶことなんてない。逆にこちらが教えてやるのだ。

 

 その空元気のような傲慢さは、学校に一歩足を踏み入れた途端にガラガラと崩れさった。呂色人とは格段に違う体格の学生、飛び交う異言語、嗅ぎなれない濃いハーブの香り。何より彼を圧倒したのは、学校の内装だった。大理石や色付きの玻璃をふんだんに使った豪奢な設えは呂色国ではなかなか目にしない様式のもので、装飾の圧やそこから感じる国の豊かさに思わず圧倒されてしまった。


『貴方が氷冠王子ね!洗朱国へようこそ!』入り口近くで固まっていると、深い青色のワンピースを着た年かさの女が近づいてきた


『長旅はどうだった?洗朱は初めて?疲れてないかしら?』女は張り付いたような笑みを浮かべたまま、息もつかせぬ勢いで氷冠を質問攻めし始めた。もちろん彼は洗朱語を勉強しているし、意思疎通に全く問題はない。だが女のあまりの勢いに気おされ、なんと返すべきかしばし固まってしまった。女はしまった、というような表情を浮かべ、またすぐわざとらしい笑顔に戻って口を開いた。


『こんにちは、はじめまして!あらいしゅごは、はなせますか?』



 入学の手続きが終わるころには氷冠はすっかり疲れ果てていた。これから先の一年が不安で仕方ない。誰も彼の評判を知らない異国では無理もないことだが、これまで神童と称えられてきた彼にとって、幼児のように扱われるなど初めての侮辱だった。呂色国内ではあんなに言葉を使いこなせていたのに、なぜ今は上手く喋れないのだろうか。もう2度とあんな風に馬鹿にされまいと完璧な発音を意識すればするほど、思うように言葉が出せなくなるのだ。

 

 ぐったりと重い体を引きずりながら、中庭をとぼとぼと歩く。朝から何も食べていない空っぽの胃がキリキリと痛む。先ほど学食に行ってみたものの既に営業は終わっており、やたら威圧的な掃除婦に追い返されてしまった。今まで感じたことのない苦い気持ちが心に湧き上がる。父上が学ばせたかったのはこの挫折なのかもしれないが、こんな惨めさから何かが得られるとはとても思えない。不要な苦労を強いられている現状に怒りが湧いてきて、目に入るもの全てが憎いような気持になる。


 洗朱の夜は呂色国と比べて早く、いつの間にか陽が沈んで冷たい夜がやってきた。建物の陰鬱さはますます増し、さっきまで見ていた中庭の植物たちが急に不気味に思えてきて、彼は明りを求めて渡り廊下まで駆けていった。そこにあった松明は今にも吹き消されそうなほど心もとなかったが、それでも無いよりはマシだった。かじかむ手のひらがじんわり温まってくると、心も幾分か平静を取り戻してきた。


 そういえば、困ったときは輝石家の娘に頼れと父上が言っていたな。氷冠はすっかり忘れていた助言を今更思い出した。が、その場から動く気にはなれなかった。輝石家の娘…たしか琥珀とかいったか、彼女と最後に会ったのはもう4年も前、逞灼王弟の婚礼だった。その時は直接言葉を交わさずにただ同じ空間にいただけだったが、馬鹿の翠雨と同い年とは思えないほど幼い感じのする子供だったのを覚えている。今はもう大分成長しているだろうが、国の政治を放置するような家の娘だ、きっと頼る価値もないわがまま女になっているだろう。…まあ、いくら家がしっかりしていようが馬鹿が育つこともあるが。女というもの自体が、すべからく愚かなのかもしれない。氷冠は妹の姿を思い浮かべ、頭を振った。

 

 雨が地面を叩く音がする。いつの間にか降り出した雨はそこらじゅうに冷気を振りまき、骨身を凍らせる。彼が飢えと寒さを味わうのはこれが初めてだった。馬に乗って雪を駆ける時の寒さや、読書に集中しすぎて昼を抜いてしまった時の空腹感には覚えがあるが、それとは全く違う。辺りに人の気配はなく、ただ蝙蝠が羽ばたく音だけが聞こえている。飢えと寒さだけではなく、孤独も彼にとって馴染みがないものだった。彼が快適に過ごすためにいつも執事や侍女が影のように付いていたし、街に出ればたくさんの友人がいた。本当の孤独を感じたことなんて……幼い頃、癇癪を起こす度に母から桐のタンスに閉じ込められていた、そんな遠い昔の記憶が突然甦ってきて、彼の不安はさらに増した。

 

 とにかく今は、寮で身体を休めたい。何度も繰り返し広げてくしゃくしゃになった地図を見る。だが地図というよりは絵に近い、なんの説明もないこの紙切れではとてもたどり着けそうになかった。どれだけ虚勢を張っていても彼はまだ16歳の少年で、どうしても堪えきれず、凍えた頬を溶かすように涙が流れた。その時だった。

 

「賢泉家の人ですよね?」

 

 聞き慣れた言葉が彼の耳に届いた。呂色国の言葉だ。

 

 顔を上げると、1人の少女が立っていた。雨の中を散々走ったようで、靴下までがぬかるんだ土で汚れている。寒さのあまり頰は林檎のように真っ赤に染まっており、蝋のように白い肌に映えるその紅さを見た途端、氷冠は射抜かれたかのように動けなくなった。

 

「説明が終わったら私を呼んで、ってお願いしてたのに、先生が忘れちゃってたみたいで。ここまでお一人で来るのは大変だったでしょう」


 氷冠が怪訝な顔で自分を見つめていることに気づいた少女は、にっこりと笑って手を差し出した。

 

「ごめんなさい、一気に喋っちゃって。私、輝石家の琥珀です。これからよろしくお願いします」

 

 人間はふとしたきっかけで、そのために人生を投げ出していいと思うほどの憎しみを抱く時がある。寒い中氷冠を探して走り回った琥珀の優しさを前にすると、拗ねて泣いていた自分のちっぽけさを突きつけられるようで、頭がくらくらするような怒りが沸いてきた。こんな気持ちを味わうくらいなら、いっそのこと探しに来て欲しくなかったと、彼女のことが死ぬほど憎らしくなった。琥珀の女神のような微笑み、大人になりかけている伸びやかな身体、何もかもが目について癪に障る。

 氷冠がもう少し大人であれば、それが一目惚れだと分かっただろう。だが彼はあまりにも若く、傲慢すぎた。彼女への感謝やときめきは、それと自覚する前に憎しみと執着へと姿を変えてしまった。

 

 異国で無様に泣いている俺を見たならば、彼女も惨めな姿を見せるべきだ。今の俺よりもっと悲惨な立場にして、その時に手を差し伸べてやろう。そうすればきっと俺たちは…

 

 

 

 大きな物音で、氷冠ははっと目を覚ました。グラスを落としてしまったらしく、服が濡れていた。

 

 夢の中で見た琥珀の笑顔が、まだ脳裏にこびりついている。輝くような気高い笑顔。生まれながらに祝福された娘。あの時感じた劣等感と強烈な憧憬が、氷冠の心にありありと蘇った。あの日からずっと、氷冠は彼女を引きずり下ろす日を待ちわびていた。2度とあんな風に笑えないように、自分より下に落ちて欲しかった。輝石家廃家の話が出た時はまたとないチャンスだと思い、神に感謝したものだ。だが身分をはぎ取っても、飢えと孤独に苦しんでも、彼女はずっと誇り高いままだった。

 氷冠の提案通り側室になったならば、彼は琥珀を娼婦と見下しつつも、だからこそ心から大切にしただろう。だが彼女は己を売らず、婢女に身を落としてまでも自力で復讐をする道を選んだ。その様はまるで淀んだ沼に咲いた蓮のようで、汚泥にまみれながらもますます輝きを増すばかりだった。

 

 琥珀の心は澄んでいて、金だの身分だの、俗世の汚いものでは堕落させることができなかった。だが、愛情ならどうだろう?今の彼女にとって唯一の癒しだろう、片山への初恋が無残に散ったら…片山が彼女を裏切ったら。心が折れたその時はきっと、俺の足元に身を投げ出すことだろう。


 氷冠は新たな計画に向けて動き始めた。

 

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