第3話 遠くの国に

守背もるせ様」


 会場に戻った琥珀は、隅のソファに座り込んでいる小柄な老人に声を掛けた。これが水晶の館の主人なのだろうか。旧輝石邸を買い上げた男というからやり手を想像していたが、目の前にいるのはパーティーより縁側でお茶をすするのが似合いそうな好々爺だった。


「片山様が図書室を閲覧なさりたいそうで。ご案内してきます」

「はじめまして、漫談師の片山と申します。本日は素晴らしい会場を提供してくださりありがとうございました。さっき琥珀さんからこの館の図書室について聞きまして、ぜひ閲覧させていただきたいと思いまして」

「こちらこそ、楽しい漫談をありがとうございます。水晶の館を管理しております、守背です。彼女が図書室の話を?」


 守背と呼ばれた老人は少し驚いた顔で琥珀を見やり、頷いた彼女を見て安心したように笑った。


「本を買い揃えたのは前の所有者なので、私はあまり詳しくありませんが。ぜひご自由にご覧下さい」

「どうもありがとうございます」


 この穏やかそうな老人が、崩れた輝石の像を庭に放置しておくような男だとは到底思えなかったが、片山は違和感を振り払って頭を下げた。霞大臣にも別れの挨拶を済ませ、琥珀と共に図書室に向かう。図書室は一階の端にあり、会場である広間からはだいぶ離れているようだった。冷たい廊下を無言で進む琥珀に付いていきながら、片山は彼女をどう口説こうか考えていた。


 ようやくたどり着いた図書室は、輝石家の紋章が刻印されたマホガニーの重厚な扉に隔てられ、他を拒絶するようにひっそりとそこに在った。扉を開けると古い本の匂いがふわっと漂い、片山の鼻をくすぐる。図書室は会場の半分ほどの広さで、面積は十分にあるようだったが、大量の本を収納するために本棚が壁面にも並べられているせいかかなりの圧迫感があり、実際よりも狭く感じた。芸術の神だった輝石家の集めた本が、ここに。片山の心は期待でときめいた。大きく息を吸い、古い本の甘く黴臭い匂いを胸いっぱいに吸い込む。その様子を隣で見ていた琥珀がくすりと笑った。


「古い本の匂いって素敵ですよね」


 蔵書に気を取られて思わず彼女のことを忘れてしまったのが気恥ずかしく、片山は照れを隠すように咳払いをしてごまかした。気を取り直して本棚に向かうと、棚には人文学、工学、医学など幅広いジャンルの本が世界中から集められており、彼が読めない言語の本も多量に置いていることがわかった。


「すごい、ほんまにいろんな本があるなあ。この部屋はよく使われてるん?」

「残念ですが、ここを使うのは私くらいしかいません。もったいないですよね」


 片山は埃一つ無く清潔に整えられた室内と、きっちり分類された本を見てため息をついた。


「そんならここの掃除とか管理も琥珀ちゃんがやってはるの?部屋も綺麗やし、本の並びも丁寧でわかりやすいし、えらいもんやねえ」

「ありがとうございます。この部屋を褒めていただけるのが一番嬉しいです。端にある本棚は、私がお給料で買った本を追加していってるんですよ」


 自慢の図書室を褒められたのがよほど嬉しかったのか、無表情だった琥珀の表情がふっと和らぎ、年相応の無邪気さが顔をのぞかせた。自慢げな彼女が可愛らしく、片山の頬も緩んだ。


「なにか読みたいジャンルはありますか?」

「そやねえ…なんや最近、推理小説が流行ってるらしいやん。でも流行ってるもんそのまま使ても芸あらへんから、うんと遠い国の推理小説とか参考にしたいねん」

「それでしたら芸術の都、洗朱あらいしゅ国が舞台のこの推理小説はどうでしょう。でも作者は海松茶みるちゃの人らしくって、一度も現地に行ったことがないらしいんです。全て想像で書かれているからこそ、美しさが細部まで描写されていて素敵なんですよ。そうだ、なんでも海松茶は土から黄金が出るらしくって…」


 生き生きと本の説明をする琥珀の横顔に、片山は目を奪われた。適当に口に出したアイデアに的確に応え、内容をわかりやすく説明してくれる彼女の知識の深さに感服し、いつしか彼女の美しさよりも話の内容に真剣に耳を傾けていた。琥珀は息せき切って話しながら、花の間を飛び回るミツバチのようにふらふらと本棚の間を行き来した。適当に歩いているようにみえるが、本を1冊ずつ引き出しながら歩いており、あっという間に10冊近くの本が片山に手渡された。


「すごい、どれもおもろそうやん。琥珀ちゃんまさか、ここにある本全部読んどるの?」琥珀の説明がひと段落つくのを待って、片山が感心したようにため息を漏らした。

「すみません、つい興奮してしまって。もちろん全部ではありませんよ。読めない言葉の本もたくさんありますし」まくしたてるように説明した自分がいまさら恥ずかしくなってきたのか、琥珀は肩をすくめ、照れたように笑った。


「ボクよく国立図書館行って本探すねんけど、そこの司書さんみたいにすごかったわ。こんだけ本があれば、いいネタ書けそうや」

「そんな、あの図書館の方々には遠く及びません。私はこの部屋にある本のことしかわからないですし。でも、お役に立てて何よりです」


 琥珀は顔を赤らめながら片山を見上げた。2人の視線がぶつかり、一瞬妙な間ができる。琥珀はすぐに目を逸らし、ばたばたと忙しそうに本を整理し始めたが、その目に浮かんだ淡い好意を片山は見逃さなかった。それは嬉しくもあり、意外でもあった。もちろん、最終的にはいつかそういう関係になれたらと思ってはいたが、気難しそうな彼女が自分に惚れるのが思いのほか早く、彼にとって嬉しい誤算だった。


 自分にとって琥珀は、久々に出会えた理解者だ。それはもしかしたら、彼女にとってもそうなのかもしれない。腕に抱えた本のずっしりとした重さを感じながら、目の前にいる彼女に喉が詰まるような愛しさを覚えた。その肩に触れようと手を伸ばしたが、一瞬ためらった後、話題を切り替えた。


「良質な蔵書に、有能な女中さんもおるのに。なんでもっと使われへんのやろう、もったいない」


 本を机に置いて椅子に腰を下ろし、彼女にも座るよう促す。


「それはやっぱり、本の前の持ち主が輝石家だからじゃないでしょうか」琥珀は遠慮がちに片山の隣に座り、身体が触れてしまわないようにぎこちなく距離を取った。


「輝石の呪い、って聞いたことありますか?それを怖がっている人もいれば、単純に現政権に忖度している人もいます。輝石家なんて無かったことにして、この国の王家は最初から賢泉家だけだったかのように振る舞う人たち…」


 説明する彼女の声はとても冷たく、まるで小説のあらすじを話しているかのように淡々としていた。


「ここの本を読むだけで目を付けられるなんてこと実際はありえないので、安心してくださいね」琥珀は諦めたような顔で笑った。


「さみしいね」 片山がぽつりと呟いた。


 学術的な価値も相当ある本だろうに、今この本たちに触れるのは琥珀しかいない。片山はなぜか、誰にも真意を気づかれないまま消費されていくだけの自分の知識と目の前の本が重なって見え、思わず気持ちを漏らしてしまった。2人とも黙ってしまい、片山が手持ち無沙汰に本を捲る音だけがさらさらと部屋に響く。


「本をそんな風に言ってくれる人、初めてです」長い沈黙を破り、琥珀が呟いた。絞り出すような声だった。


 俯いている彼女がどんな顔をしているのかを知りたくて、片山は椅子を動かした。今日会ったばかりだが、彼女とならお互いの孤独を埋められるはずだという確信があった。距離を詰めると琥珀は少したじろいだが、揺れる瞳で片山をしっかりと見据えた。


「琥珀ちゃん、年はいくつ」

「今年で23になります」

「ボク…いや俺とは結構歳離れとるなあ。こんなおっさんが申し訳ないけど、俺、琥珀ちゃんにすっごい惹かれとるわ」


 突然の言葉に、琥珀が固まった。言葉の意味を理解したのか、雪のように白い肌が耳まで赤く染まっていく。一か八かの唐突な口説きだったが、どうやら悪い感触ではなさそうだ。結局は何事も直球で行くこと。それは片山がこれまで学んできた恋愛のルールだった。


 彼女くらいの年の女中には、2つの選択肢がある。1つはこのまま女中を続け、同じような下働きの男と結婚して一生働き続けること。もう1つは金持ちの男に見初められて愛人として暮らし、生活の面倒を見てもらうこと。これまで女に不自由したことはない片山は愛人を金で囲うような真似をしたことも、する必要もなかったが、彼は今生まれて初めて、代償を払ってでも傍に置きたい女性に出会ったのだ。彼の寂しい心が、理解者としても女としても琥珀のことを痛切に求めていた。


 琥珀はしばし熱に染まった瞳で片山を見つめていたが、何かを言いかけて途中で辞め、俯いてしまった。次に顔を上げたとき、彼女の瞳には深い諦めのような色が浮かんでいた。


「止めておいたほうがいいです。あなたに私は荷が重い」


 予想外の言葉に、片山は耳を疑った。


「荷が?そら俺は他のお大臣様方みたいには金余ってへんけど、琥珀ちゃんのやりたいことは叶えてあげられるはずや。本に出てきた洗朱や海松茶にも連れてったる」

「そういうことではないんです。今のあなたは、自分の芸を孤独に磨き続けることに疲れているんですね」


 琥珀が片山の頬にそっと手を当てた。炊事で荒れた指先で、整髪料で撫でつけた彼の髪を撫でつける。


「芸に邁進するその姿はとても美しくて、尊敬します。でも私と関わってしまったら…」


 片山は言い終わるのを待たず、彼女の赤い唇をふさいだ。琥珀は抵抗しなかった。彼女の唇は柔らかく、体温は透明で、自分の唇の燃えるような熱さを彼女ごしに知った。小さく唇を離して息を吸い、また唇を重ねる。うっとりするような時間が経った後、片山はようやく顔を引いて琥珀を見つめると、彼女は虚ろにも熱に浮かされているようにも見える昏い目をしていた。


「これ以上は、本当に後戻りできなくなります」琥珀が身をよじり、肩に置かれた手から逃れようと身をよじった。

「嫌やったら言って」


「嫌、では無いです。でも…」

「琥珀ちゃんのいう通り、俺は疲れてんねん。ずっと一人で戦ってきて、今日やっと、俺のことを分かってくれる人に会えたんや。この気持ち、わかってくれる?」

「本当に、何があっても見捨てないでくださいますか?」

「見捨てへんよ。琥珀ちゃんが何と戦っとるかは知らへんけど、俺にできることやったら何でもやる。俺のことわかってくれた大切な人やから」


 もう一度口づけし、彼女の小さな顎まで唇を滑らせる。琥珀は片山の手を握ると、それ以上いけません、と頭を振った。その表情があまりにも真剣で、片山は思わず吹き出してしまった。思ったより早く親密にはなれたが、やはり最後の一線はお堅いようだ。


 ここまで思い詰めるとは、いったい彼女は何を悩んでいるのだろう。それが何であれ、彼女が恐れているもの全てから守ってやりたいと強く思った。片山の心はすっかり自信を取り戻し、彼女をきつく抱きしめた。


「この先どうなったとしても、運が悪かったなんてどうか思わないでください。あなたは私の図書室を理解してくれた素敵な人。こんな世界で芸術を追い続けている、本当に素晴らしい人」

「運が悪いどころか、俺は世界一幸運な男や。今日はネタを理解してくれる人にも会えたし、その子が今腕の中におるんやから」


琥珀はあいまいに笑った。

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