第4話 孤独

火照った身体に興奮を燻らせながら会場に戻ると、あれだけいた客はもうほとんど帰ってしまっていて、会場にはワインの瓶を離さない数人の酔っ払いたちが残っているだけだった。


 琥珀も自分の仕事に戻ってしまったし、もう今日は家に帰ろう。片山は自分の運転手に声を掛け、馬車に乗り込んだ。彼の家は、中央区から少し離れた郊外にある。町から離れると次第に道が悪くなってゆき、ビロード張りの座席に座っていても大きな揺れを感じる。彼の収入なら中央区の一等地に住むこともできたが、元妻たっての希望で郊外に家を構えたのだった。最初はやや不便に感じたが、忙しい日々の中、ただ馬車に揺られる時間というのも結構良いもので、彼はこの時間に考え事をするのが好きだった。


 星のない空にくっきりと浮かぶ月を眺めながら、今日は琥珀のことを考えた。憂いを帯びた伏し目がちな顔、楽しそうに本を紹介する顔、口づけを交わした後の顔。自分の理解者に出会え、そして親密になれた幸運を噛みしめていると、自然と頬が緩む。理解してくれる人が一人でもいるというだけで、ネタを考えるハリが出るというものだ。時間はあっという間に立ち、すぐ先に片山の家が見えてきた。彼の家は華族がこぞって建てるような外国式の館と違い、古き良き呂色国の伝統に則った昔風の家だった。家に到着して玄関で靴を脱いでいると、背後から声を掛けられた。


「おかえりなさいませ、片山様」声の主は片山家の女中、鶴子つるこだった。


「遅くまでお疲れさん。悪いね」


 鶴子がコートとカバンを受け取って頭を下げ、居間へと向かう。彼女はいやに背が高い女で、片山が見上げるほどだった。


「お風呂を沸かすまでの間に、お茶をお持ちしますね」

「茶は眠れんようなるから、白湯を頼むわ」


「お疲れ様でした」鶴子が茶の間の障子を開けると、片山の元妻、紫乃しのが脇息にゆったりともたれ掛かり、マダムよりもさらに訛りのない東の言葉で優雅に微笑んだ。彼女は片山よりも歳上だが、上流階級の女性らしい艶やかな肌は全く年齢を感じさせない。さすがに頭には白いものが目立ち始めているが、黒髪に交じるそれは彼女の気品をますます引き立てている。片山と紫乃はもうずっと以前に離婚していたが、まだ同居は解消していなかった。


「まだ寝てへんかったん」

「ええ。今日は月が綺麗ですから、鶴子とお月見をしていたの」

「そらええな。今日は水晶の館でネタをやってん。そこで本借りさせてもらってな」

「何の本ですか?」

「外国の推理小説。次のネタ、推理ものにしようと思てんねん」

「お白湯をお持ちしました」 鶴子に頭を下げ、白湯を啜る。

「今日の夕餉はなんやったん?」

「母が実家から鯛を送ってくれたので、それを。東で取れる鯛は脂が乗っていて美味しいんですの。西のものも悪くはないけれど、久しぶりに食べられて嬉しかったわ。貴方の分も取っていますから、朝餉にどうぞ」

「そら楽しみや、紫乃さんありがとうね。ご実家の方にもよろしく伝えとってください」

「うちの実家はお礼よりも、私が顔を見せた方が喜ぶと思いますわ」

「ほんならまた帰ったらええわ、たんとお土産もっていき」今度の里帰りはいったい幾ら使うことやら。片山は内心ため息をついた。

「お母様が褒めてらしたわ。平民上がりなのによく努力してるって」

「そら手厳しいことで」


 棘のある物言いだが、彼女に悪気があるわけではない。紫乃はただ、こういう女なのだ。

 彼女の実家は、家系図を辿れば逞灼家に繋がるほど由緒正しい公爵家だ。対して片山の家は、父の代に金で男爵位を買った平民上がりだった。自分の血に過剰なまでの誇りを持っている紫乃の親族は、結婚当初から片山を見下していたが、彼らの虚栄心を満たす生活は今も全て、片山の稼ぐ金で成り立っていた。


「平民上がりの男爵が伯爵さまになれたのは紫乃さんと結婚したおかげやからね、ほんまに向こうのおうちには感謝してますわ。そや、伯父さんとこのお孫さん、そろそろ学校行く年やろ。ナンボか包んでもっていってや」紫乃は満足そうにうなずいた。

「片山様、お風呂の準備ができました」再び鶴子がやってきた。

「ぬるいお湯が好きやから、もうちょいここでゆっくりしてこうかな。そや、なんか今日おもろいことあった?」

「面白いこと、ですか。えっと…庭にとげがいました」 急に話しかけられた鶴子は驚き、一瞬固まった。

「とげ?」

かげ」紫乃が微笑んで、発音を訂正する。

かげ、です」 鶴子は照れながら言い直した。


 鶴子は生まれも育ちも片山と同じで、同じ方言を喋るくせに、紫乃に気に入られたい一心で必死に中央区の言葉を覚えている。紫乃もそんな彼女をいじましく思い、こうやってその都度発音を矯正してやっている。


「庭で夕焼けを見ていたらかげが出てきたんですの。大きくて怖かったから、鶴子ちゃんが追い払ってくれて助かりました」


 紫乃が手を伸ばして鶴子の腕を撫でさすると、彼女は耳まで赤く染まって俯いた。2人の間に流れる空気は、女主人と女中のそれとは明らかに違っていた。片山はいたたまれなくなり、いそいそと部屋を出て風呂に向かう。案の定湯はまだ熱すぎて、指先でかき回して冷ます。


 没落寸前だったとはいえ、名家のお嬢様が平民上がりの男爵と結婚、まして向こうから縁談を持ってくるなどそうそうある話ではない。最初は片山も半信半疑だったが、結婚してからその理由に気づいた。紫乃は男を愛せない女だったのだ。片山はゆっくりとつま先を湯に差し入れ、湯船に体を沈めた。頭上にある小さな窓を通して、湯気が月を目がけて上っていく。今日は一つも欠けのない完璧な満月だった。


  もう後戻りはできない。私を助けてくださいますね?…


 琥珀の自嘲的な台詞がふっと浮かんできて、片山の胸を締め付ける。彼女はいったい何と戦っているのだろう。今も古い本で窒息しそうなあの部屋に1人でいるのだろうか。彼女は何を求めて、なぜ盗みなんかをしているのだろうか。


 風呂から上がった片山は素肌に浴衣をまとい、暗い廊下を歩く。ビロードが敷き詰められた外国風の館と違い、素足で歩く板張りの床は直に冷たさが伝わる。紫乃の好きな白檀の香が畳や柱に染みつき、重苦しく家全体を覆って息苦しい。柱に手をつくと、指先が凹凸に触れた。紫乃の実家の家紋である紫陽花はそこら中に彫られていて、白檀と同じくらいびっしりとこの家を覆っていた。


 自分よりも紫乃の方が目が肥えているだろうと思い、家の場所も外観も、全て彼女に言われるがまま従った。実際それは間違っておらず、呂色国の伝統的な技術を使って建てられたこの重厚な家屋は、我が国の伝統を重んじる紳士として彼の名声を上げるのに一役買ってくれた。そこら中に相手方の家紋である紫陽花の彫刻や絵画をあしらわれた時は思わず閉口したが、この家の評判に比べたら安いものだった。この家が建った日、彼女の親戚は立派な家に彫られた紫陽花の紋を見て感涙にむせびながら喜んだ。皆口々に紫乃を親孝行者だと褒めたたえたが、片山に礼を言うものは誰一人として居なかったが、家の格が違う以上、そんな侮辱にも黙って耐えるしかなかった。


 居間にはもう誰もいなかった。小さい明かりがついた紫乃の部屋の前を通り過ぎると、女二人が囁き合う声が聞こえた。楽し気に睦み合う二人を邪魔しないよう、足音を殺して自分の部屋に向かう。

 

 呂色国で爵位の違う華族同士が結婚した場合、位は高い方に合わせることになっている。離婚した後も位はそのまま保持されるが、相手方から異議を申し立てられれば元に下げられる。紫乃の真実を知ってすぐ離婚を切り出したが、向こうの実家は爵位を盾にして未だに支援を要求してきているのだ。屈辱に耐えて手に入れた伯爵位を手放すのも惜しく、片山は未だに紫乃を屋敷に住まわせ、親族の面倒も見ながら、豪奢な館の中で一人、孤独に息を潜めていた。


 片山と紫乃の間には子供が無いままだった。新婚の頃に数回だけ体を重ねたことはあるが、彼女が自分を愛していないと知って以来、一切触れていない。紫乃が自分を単なる財布として利用していたことは最早どうでもよかった。それよりも、高貴な身分でありながら金のためにいやいや自分に抱かれていたことが哀れだった。最後に紫乃を抱いた、思い出せないくらい昔のことを思い出す。目はしっかりと閉じられ、四肢はされるがままに脱力していた。


 片山は目を閉じ、琥珀のことを思い出した。今日の彼女はどうだっただろう?彼女も立場が上の自分からの誘いを断れず、いやいや口づけをしたのだろうか?自分は無理強いしたのだろうか?片山の頭のなかで、今この瞬間も触れあっているであろう紫乃と鶴子、そして琥珀の輝くような瞳や、服の下に隠されたまだ見ぬ白い肌がぐるぐると渦巻き、その日は一睡もできなかった。

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