第2話 美は地に堕ちて
酔いが回ってきた頭を冷やすため、片山は外に向かった。
近くにいた女中にランタンを借り、彼と話そうと寄ってくる人々をかき分けて会場を後にする。廊下は澄み切った冬の空気で満ちていて、片山は久々の清い空気を深く吸い込んだ。マダムによると、この館自体が女中たちの事務所らしい。敷地内をうろついていればさっきの女中に会えそうだが、人の館を探索するような真似は紳士に似つかわしくないだろう。片山は偶然を祈りながら、夜風に当たるために庭へ向かった。
華やかな会場とは別世界のような、どことなく寂しさを感じさせる薄暗い廊下を歩いていると、台形と逆さまにした二等辺三角形を組み合わせた宝石のような図形がドアや柱に彫刻されているのが目に付いた。宝石…輝石家の紋章か。彫刻を指でなぞりながら、片山は小学校で習った呂色国の建国神話を思い出していた。
呂色国を作った神は、自分の娘たち…「力」「知」「美」の3人をこの国に住まわせたという。「力」は逞灼家を興し、彼らは建国以来この国の軍事を取り仕切ってきた。同じように、「知」の賢泉家は政治を、「美」の輝石家は芸術を。この国の繁栄に従って身分の差も生まれたが、やはりこの3神の血を引く王族たちは別格の存在で、華族や庶民などというくくりを超えた遥か雲の上で崇拝される存在だった。
片山はあまり勉強熱心な方ではなかったが、飽きるほど聞かされていたこの神話は今でもはっきりと思い出せた。駆け出しの漫談師の頃、芸術をつかさどる輝石家にあずかろうと彼らの霊廟に祈りに行ったことを懐かしく思いだす。思い出に浸りながら館の長い階段を下り、少し歩くと外に続いているらしきドアが見つかった。正面玄関ではないようだが、鍵が掛かっておらず、ここから外に出られるようだった。
一歩外に踏み出すと、屋内では心地よかった冷たい空気が肌を冷たく刺した。頬の熱が冷えていくのを感じながら、柔らかい土を踏みしめる。ここはどうやら運転手用の出入り口だったようで、すぐ近くに車や馬車が停められた広い駐車場があった。パーティーには運転手たちも招かれていたため駐車場は無人で、繋がれた馬たちの静かな鼻息だけが聞こえている。
駐車場の脇を抜けた先には、夜の暗がりでもわかるほど見事な庭があった。咲き誇る花に姿を見ていると、片山はささくれた心がだんだん落ち着いてくるのを感じた。せっかく外に出た事だし一服でもしようかとポケットを探っている時、庭の隅に置かれているがれきのような塊に気が付いた。
美しい空間の中で明らかに異質なそれに興味を惹かれ、打ち捨てられたような石くれに近づいてランタンを翳す。ぼんやりした光に目を凝らしてみると、どうやらそれは石像のようだった。崩れて地面に落ちている腕部分には、輝石家の紋章と同じ形の宝石が抱えられている。
これは「
片山は思わず息を呑んだ。かつて神と崇拝された一族の石像が砕かれ、朽ちるがままに捨て置かれている。幼いころから神の末裔だと聞かされていた一族のあまりにも哀れな末路に、言いようのない悲しみがせりあがってきた。彼は高いスーツが汚れるのもいとわず、芝生に腰を下ろした。煙草に火をつけ、深く吸う。
そういえば駆け出しのころに腕を磨いた漫談場も、確か輝石家の支援で運営されていた。この国で芸事に関わる人間は皆、何らかの形で輝石家とかかわりを持っていて、恩もあるはずだ。だが自分も含め、大概の芸術家は俗世の争いに無関心なものだ。先の革命の際、軍人や政治家がそれぞれの家のために奮闘している間、自分たちは輝石家のために何もしなかった。この国の芸術を支えていた神はもう、いなくなってしまった。自分勝手で恩知らずな芸術家たちに、神が背中を向けたのだろう。これからこの国はどうなっていくのだろう?芸術家の育成に金を使わず、上流階級がユーモアやウィットを全く理解できない国に、漫談師の居場所はあるのだろうか。自分は笑わせているのか、笑われているのか。俺は漫談師じゃなく、道化なのか?
暗い方に転がり落ちそうになる頭を振って、片山は立ち上がった。そろそろ戻らないと、いらぬ心配をされてしまう。服に付いた土を払い落としていると、駐車場の方角から誰かが館に向かうのが見えた。その姿を見て、片山の心臓は音を立てて跳ねた。暗くて確信は持てないが、後ろで結い上げた黒髪に真っ白い肌。あれはもしや、先の女中ではないか。
誰かに頼まれごとでもしたのだろうか、彼女は何かを小脇に抱え、小走りで出入り口に向かっていた。少しでいいから、彼女と話がしたい。片山は思わず彼女の後を追いかけた。
女中は意外に歩くのが早く、彼が出入り口にたどり着いたころには既に廊下をかなり進んでいた。さすがに大声で呼び止めるのは憚られ、片山も負けじと追いかける。彼女は一度も足を止めずに進んでいき、招待客の荷物を保管しているクロークの前で足を止めた。やあ、と口を開きかけたが、辺りの様子を用心深く見まわす彼女の様子を見て、喉まで出かけた言葉をひっこめる。なぜか今声を掛けてはいけないような気がして、片山は廊下の角に身を隠した。彼女が抱えているものに目を凝らすと、大きな弓のマークが印刷された封筒のようだった。女中はポケットから鍵を取り出し、クロークの中にするりと入りこんだ。
誰かから用事を頼まれたのだろう。きっとそうに違いない。片山は今見たことを正当化する言い訳を頭の中でこね回した。だがいくらこの館自体が女中たちの事務所であるとはいえ、一介の女中が貴重品のあるクロークに1人で入ることは警備上考えられないことだった。それに、あの人目を警戒しているような不審な態度。盗みを働いている以外、考えようがなかった。
ただ話したかっただけなのに、思いもよらぬ場面を見てしまった片山は頭を抱えた。やっと理解者が現れたと思ったのに、盗人だったとは。膨れ上がった幻滅が一気に弾けてしまったせいか、もたれかかった壁がやけに冷たく感じる。館の主に報告すべきだろうか?もし報告すれば彼女はクビになり、最悪警察に突き出されるだろう。そうなってしまえば、もう2度と会えない。
今日の招待客たちは皆、うなる程の金を遊ばせている連中だ。暇を持て余し、人が必死に考えたネタをただ教養のアピールとして消費する奴ら。ぱんぱんに膨れた財布からわずかばかりの金をくすねたところで、誰も気づきやしない。懸命に働く女中が、金目の物を前にして魔が差しただけだろう。俺さえ黙っていれば、それでいいんだ。片山は良心を無理やり押さえつけ、ネタを理解してくれる相手と話したいという漫談師の欲に従うことにした。
数分も経たないうちに、手ぶらの彼女がクロークから出てきた。物を盗りに行ったはずなのに手ぶらとは、と片山は不思議に思いながらも、話しかける絶好のタイミングを逃しまいと、今通りかかったばかりという様子を装って彼女に近づいた。
「もし、お嬢さん」
いきなり声を掛けられた女中は、肩をびくりと震わせて目を大きく見開いた。2人の視線がぶつかり合う。警戒の色がはっきりと浮かんだ漆黒の瞳が疑い深く動き、片山の意図を見定めるように光った。女中は一瞬後ずさりしたが、すぐに仮面のように無表情になった。
「何か御用でしょうか」
「お手洗いどこかわかる?ここ広いから迷ってもうた」
盗みを見られたのではないと分かって安心したのか、こわばっていた彼女の表情が多少和らいだ。
「ご案内させていただきます。こちらへ」
「助かるわぁ」
案内された先でしたくもない用を済ませ、片山は手洗い場の鏡で自分を確認した。近くで見る彼女は思ったより若く、まだ20代前半のようだった。絶世の美女というほどではないが、日に焼けたことのないような白い肌と切れ長の黒い瞳が何とも魅力的な女だった。鏡に向かって口角を上げ、優しそうな笑みを作る。多少の年の差はあるが、関係ない。年下であろうが年上だろうが、華族だろうが盗人だろうが、自分の魅力があまねく女に通用することを片山は熟知していた。
手洗いを出ると、女中は少し離れたところに立ち、ぼんやりと彼を待っていた。両手で持ったランタンの明かりに照らされたその顔からは、何を考えているのか全く読み取れない。
「どうもお待たせしました。やっぱ洋館は広ぉてかなわんなぁ。そや、さっきの漫談どうやった?」
「大変面白かったです。皆様もとても喜んでらっしゃいました」女中は片山と目を合わせないよう恭しく顔を下げ、感情のこもっていない平坦な声で答えた。
「そら良かった。でもステージの上から見て思てんけど、ホンマにネタで笑ってくれてたのは自分だけな気ィすんねやけど」
「私だけ、ですか」
彼女がさっと顔を上げた。能面のように無表情なままだが、その瞳だけは力をもってきらめいており、片山は思わず引き込まれそうになる。
「せや。あのネタ実は、オチが別にあってん。金塊に見える“ふるご”、ってとこで聞き手がああこれは|フールズゴールドやな、ってことに気づいてくれる前提で作ってんねやけど、今のとこそれわかってくれたんお嬢さんしかおらへん」
「教養ある皆様が気づかないことを、こんな女中が理解できるわけありませんわ。申し訳ありませんが、勘違いかと」
女中は申し訳なさそうに頭を下げ、会場まで案内しようと歩き始めた。このつれない反応で、片山は確信を深めた。普通女中というものは_特に盗みを働くような欲の強い女は_自分のような裕福な年上の男から声を掛けられたら喜ぶものだ。適当に話を合わせて媚びれば、辛い女中生活から抜け出せるかもしれないのだから。それなのにきっぱりと距離を取ろうとする彼女のこの態度は、彼の興味を掻き立てた。
「ボクの漫談師としての勘が、お嬢さんはネタ理解してくれてるって言うとるんやけど。な、ほんまのオチ聞きたない?」 片山の前を早足で進んでいた女中が足を止め、こちらを振り返った。
「理解できたって言ってくれたら、お嬢さんだけに聞かせるんやけどなぁ。呂色国一番の漫談師がまだ誰にも聞かせたことないほんまのオチを」
おどけた声音を作り、鏡の前で作った笑みを浮かべる。女中はしばし迷った後、かぼそい声で呟いた。
「元々、石が好きで。それでたまたま黄鉄鋼だとわかっただけです」
大当たり。
片山は一瞬胸が詰まったような感覚に襲われ、息を吸うのがやっとのように感じられた。俯いている目の前の女を抱きしめて飽きるまでお礼を言いたいような、その手を引いて駆け出したいような、そんな不思議な気持ちが溢れてきた。
「せや!やっぱわかってくれとったんやな」 片山はやっとの思いで言葉を絞り出した。
「じゃあ約束通り、オチを聞いてもらおかな。まず男は、“ふるご”って聞いた時点で金じゃないと気づいてん。それを金と偽って売り飛ばすために、二束三文で黄鉄鋼を買い上げる。でも子供が持ってたのは、キレーな真四角の黄鉄鋼やって、それやと金やないってばれてまうから、金に見えるように砕いて宝石店に持ってくねん。そしたらおっちゃんは言う。あんたこれは金ちゃう、ふるごや。しかも形が悪いなあ、真四角やったら珍しいからそれなりの値がついたんやけど。以上!」
「…ふふっ」
無表情だった女中が、オチを聞いて吹き出した。そして少し顔を赤らめて口を押える。片山はそれだけで、傷ついていた漫談師としてのプライドが癒えていくのを感じた。
「しかしようわかったな。石が好きいうても、黄鉄鋼はアクセサリーとかに使われてるわけちゃうから普段目ぇにすることもあらへんやろ。図鑑とかにはよく載ってるけども」
「私も図鑑で読んだんです」
「自分字ぃも読めるん、すごいな」
片山は素直に感心した。女性の社会進出が進んでいると言われて久しいが、職業婦人などはまだほんの一握りで、保守的な家はまだまだ女性に簡単な読み書き以上の教育を受けさせない場合も多い。そんな状況下で、いち女中が本を読みこなすというのは非常に珍しいことだった。
「女中でも字くらいは読めます。水晶の館にいる女中ではそこまで珍しいことではありません」
片山の発言に悪意は全くなかったが、どうやら彼女は気分を害してしまったようだった。はっきりとした眉毛を釣り上げた後、また会場へ向かって歩き始めた。かわいい女中さん、えらい大層なプライドを持ってはりますこと。片山は内心苦笑しながらその後を追った。
「かんにんしたって、ほんまに馬鹿にしてるとかちゃうねん。ほら、あそこにおる奥様方だって全員そない難しい本読めるわけちゃうやろ?ボクようやっとネタ理解してくれる人に会えて嬉しいんよ、もうちょっと話させてぇや。お姉さん、お名前なんて言うの」
足を止めない女中の袖を軽く掴み、下から顔を覗き込む。こうすれば女は大概言うことを聞いてくれる。彼女にもこれが効いたかは不明だが、女中は先ほどと変わらない黒い瞳でこちらを見つめ返してため息交じりに答えた。
「琥珀です」
琥珀。片桐の頭の中に、蜂蜜色をした美しい石が思い浮かんだ。琥珀は宝石だったか、化石だったか。何にせよ彼が今まで出会った女の中に、石の名をもつ女などいなかった。
「琥珀ちゃん、か。珍しい名前やね。いつも本とかたくさん読むの」
「はい。この屋敷には図書室がありますので」
「仕事の合間に読むなんてエライなあ。な、ボクのネタほかにも見たことある?」
「いいえ。本日初めて拝見しました」 琥珀はそっけなく頭を振った。
「そら残念。でも琥珀ちゃんなら、ボクのネタようわかってくれると思うねん。今度呂色ホールで漫談するねんけど、見にきてくれへん?一等いい席に招待するさかい」
片山は目を細めて笑った。口説き半分、本心半分から出た言葉だった。
舞台の上は孤独だ。一緒に組む相手がいる漫才師と違い、漫談師は一人きりで大勢の視線と戦う。観客に自分の言いたいことが伝わっているかわからないまま話し続けるのは、夜の海を1人で泳ぐときのように孤独だ。そんな時客席に琥珀がいてくれたら、闇に浮かぶ灯台のように心の頼りになることだろう。
「申し訳ございません。あいにく暇がありませんので」
琥珀は無表情に断ったが、その声には少しだけ落胆が滲んでいた。もう少し押せば行けるかもしれない、と片山は言葉を続ける。
「そか、残念やなあ。何曜日が休みなん?」
「決まった休みがあるわけではありませんので」
片山が次の言葉を言いあぐねていると、琥珀は小さく頭を下げた。
「そろそろパーティーに戻った方がよいのではありませんか。皆片山様とお話ししたいでしょうし」
「 そやなぁ…でもホンマに、ネタわかってくれた人に会うのは久しぶりなんや。せやからもっと琥珀ちゃんと話したいねん。さっきこの館に図書室あるって言うてたよな?あれって部外者も入ってええの?」
「はい、水晶の館は皆様に開かれておりますので」
「琥珀ちゃんが普段読んでる本、もっと知りたいわ。館の主人に、この後見せてもらえるように頼んでもらってええ?そしたら自分も仕事としてボクの案内してや」
琥珀は少し躊躇う様子を見せたが、少し考えこんだ後控えめにうなずいた。
何でも口に出してみるものだ。ここの図書室ということはつまり、あの輝石家が揃えた書物を読めるということだ。きっと漫談のネタにもなるだろうし、一石二鳥やな。片山は満面の笑みを浮かべた。
「決まり!それなら会場戻ろうか。ボクも大臣とかに挨拶してこなアカンしな」
善は急げとばかりに、片山は会場まで向かう足を速めた。
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