第一章 天使のような悪魔 ③

 思考が。

 止まる。


『さぁさぁ。頑張りたまえよ。キミの寿命は明日からの試験次第だ。最期の瞬間まで、フェリスを楽しませてくれよ』


 僕は、考えることをやめた。きっと疲れている。

 スマホを放り投げ、布団を頭から被った。幻覚まで見てしまうなんて、この二ヶ月、ストレスに晒されすぎたのかもしれない。


『これ以上の現実逃避は、死に直結するかもしれないよ?』


 布団の外から、まだ声がする。

 睡眠はしっかり取ってるはずなんだけど。


『……仕方ないなぁ。一度、身体に教え込ませるしかなさそうだ』


 温度のない声が言ったと同時。パチン、と指が打ち鳴らされた。

 そして。


「あがっ!? あががががががががががが!!!」


 筋肉が。内臓が。電撃を浴びたように痙攣し、捻じ切れるような激痛をもたらした。

 たまらず布団から転がり出る。痛みにのたうち、視界が明滅する。


 だめだ、やばい、これは……死ぬ。


「たっ、たすけて! ごめんなさい! たすけて!」


 訳もわからず謝罪する。無意識にフェリスへ手を伸ばし、強く願った。


『ふふん。そんなに願うのなら助けてあげよう』


 フェリスが煙を撒くように手を振ると、身体中を燃やしていた疼痛が消え失せる。

 地獄の苦しみから解放された僕は、四肢を投げ出して仰向けに転がった。

 額に滲むのは、玉のような汗。そして荒い息。紛れもなく、本物の痛みだった。


『今のはサービスだ。三つ目の願いにはカウントしないでおくよ』


 滲む視界で、フェリスを捉える。彼女は大興奮したのか、床に四肢を投げ出して、羽虫を潰す子供みたいに笑っていた。

 と、ここで。


「ちょっと光輝? 何を騒いでいるのですか?」


 恵理子さんが、怪訝そうな顔で部屋に入ってきた。


『ほら、キミが騒ぐから、ご迷惑になっているじゃないか』


 一方のフェリスは、清々しいくらい素知らぬ顔だ。鬼かこいつ。

 僕は、ダイイングメッセージよろしく、力が入らない腕をなんとか持ち上げて、全ての元凶フェリスを指差す。


「……? なに? 虫でも出たのですか?」


 だけど。恵理子さんの反応は、ひどく見当違いなものだった。


「明日から試験なんですよ。もう観念して、気持ちを整えておきなさい」


 憐れむような声を残して、恵理子さんはパタンと扉を閉めた。

 呆然とする僕の横で、フェリスがくっくっくと笑っている。


『フェリスは、キミ以外の誰にも知覚できないのさ』


 ずっ……と、重い感覚が腹にのしかかる。

 このフェリスという少女は、VRでも、幻覚でもない。

 何がどうなってこうなったかはわからないが、しっかりと世界に存在していて。


 そして。


 意思疎通できる生命体でありながら、僕だけにしか見えていなかった。

 指先一つで、地獄の刑罰みたいな苦しみを自由自在に与えてきた。


 と、いうことは、つまり。

 願いを叶えないと死ぬ『呪い』のことも。決してうそじゃない、のか。


「ま、まじでか……」

『あはは。その顔だよ。その顔が見たくて、フェリスは生きているんだ』

「う、うるさい。ぜったい、お前なんかを喜ばせてやるもんか……」


 言いながら、体は冗談みたいに震えていた。

 痛みとは別の、もっと根源的な恐怖に全身が侵されている。


『身体は正直だね〜? どれだけ強がっても生理現象ってやつは嘘がつけないから憎いね〜』


 フェリスは、相変わらず楽しそうな笑み。恐ろしいことに、その笑顔には歪んだ感情が全く見られなかった。

 彼女は、この極悪非道な行いに、罪悪感も何も覚えていない。

 あるのは、きっと、どこまでも純粋な『楽しさ』だけ。

 これじゃ。まるで。


「悪魔め……」

『はっはっは。図らずも正解だよ』


 フェリスは、天使のように美しい翼を広げ、恍惚な笑みで続ける。


『フェリスの真名は「光を愛せざる者メフィストフェレス」。人類を地獄へ誘う役割を拝命している、人間たちの言う「悪魔」そのものだからね』


 彼女は誇るように言うと、僕に添い寝するような位置でくすくすと笑い始める。


「何で、僕なんかのところに……」

『悪く思わないでくれよ。命令だからね』

「だ、誰のだよ」

『ふふん、内緒だよ。誰でもいいじゃないか』


 至近距離で見たフェリスは、本当に綺麗だった。

 鈍く光る浅葱色の髪。エルフのような尖った耳。いじらしく細まった碧眼。雪原のような肌。どこを切り取っても、絵画のように美しい。それは、天使と呼ぶに相応しい姿形なのに。


『よろしく、オーナークン。キミは、どれだけ愉快なオモチャになってくれるだろうね?』


 その天使は、純然たる悪魔で。

 僕は、目の前で悪辣に微笑む悪魔に、命を握られている。

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