第3話

 長いものに巻かれるように、川の流れるままに…。気が付けば、就職して2週間が経っていた。その日の朝礼で、初めて社長である堂本健志どうもとたけしと夫人の恵子けいこが同席した。なぜか夫人の美しい顔には見覚えがある。どこでだっけ?

 朝礼が終わり、店長の武田織江が私を社長に紹介した。

「やあ、君が宮本さんか。話は聞いてるよ。出勤初日から売り上げ10万超えたってね。期待してるよ。」

「ありがとうございます、頑張ります。」

 そんなに売り上げていたとは初耳だ。社長夫妻がいなくなった後、武田織江が

「宮本さん、今週中で仕事の後に予定が空いてる日はありますか?歓迎会をしましょう。」と、耳打ちをした。

「ありがとうございます。特に予定はないのでいつでも大丈夫です。」

「そう、よかった。じゃあ、日程と場所が決まったら伝えますね。」


 間もなくいつも通りに仕事を始まった。私は洋服を畳みながら、かすかな記憶がよみがえってきた。あの、社長夫人だ。姓が変わっていて気が付かなかったけれど、私が小学生のころに通っていたピアノ教室の先生ではないか。

「鬼婆…。」

 うっかり口に出してしまってから、周囲を見回す。よかった、誰もいなかった。

 私は子供のころピアノが好きだった。途中までは。大好きだった優しい先生が、結婚のために教室を辞められて、代わりに紹介されたのが当時の旧姓、青柳恵子あおやぎけいこだ。彼女のレッスンは厳しく、よく叱咤しったされた。ピアノを弾いている手も叩かれた。顔は美人なのに性格は癇癪かんしゃく持ちで、私は心の中で鬼婆と呼んでいた。偶然とは言え、まさかこんなところで会うとは。恵子が私に気が付いたかどうかはわからない。どうか、気が付いていませんように…。


 歓迎会は三日後に行われた。社長は参加せず、ご厚志をいただく形になった。場所は、しゃぶしゃぶとすき焼きの食べ放題と飲み放題付きだ。いくらでも気にせず食べることができる。女子だからそんなに食べないだろう…なんてことはなかった。大皿が空になるのもジョッキやグラスが空くのも早かった。酔いが回ってくると『メヌエ』を任されている飯島久美いいじまくみは、突然、お得意の一発芸とやらでAV女優の真似をし始めた。

 おいおい…少し離れたどこかの会社の男性陣がチラチラとこちらをみているぞ。と思ったが、どうやら飯島久美はそれをわかっていて気を引いたらしい。その後の女子トークもえげつなく…飯島久美は婚約者がいるのに隣のショップのイケメン男子と付き合いだしただと自慢しだし、店長の武田織江はそれを聞いて頬を押さえて真っ赤になってるし…。それ以上は私も耳を傾けず、飲み食いに専念していた。

「あの、宮本さん。年齢聞いてもいいですか?」

 そう話しかけてきたのは住吉奈々すみよしななだった。住吉奈々は『ローズ』、『モッカ』、『メヌエ』の3店舗をヘルプとしてぐるぐる回ってる子だ。

「私は26歳です。住吉さんは?」

「私?私はいくつに見えます?」

 う~ん、そうきたか。人に聞いておいて自分は言わない、世間慣れしてないところや見た目で(といっても相当あてにはならないが)。

「21歳くらいですか?」

「惜しい!23歳です。」

 その辺りからしばらく住吉奈々とおしゃべりしていたのだが、急に声をひそめ

「宮本さんは、あそこに座っている佐々木さんと話したことあります?」

 視線の先に佐々木唯ささきゆいが座っていた。

「いいえ、佐々木さんは『メヌエ』だからお話したことがないんですよ。」

 住吉奈々は安心したように、

「私、佐々木さんって、社長と怪しいんじゃないかなって思うんですよ。」

 いきなり何を言い出すかと思えば…。

「現場でも見たんですか?」

 見てもいないのに憶測おくそくで物を言われては、佐々木唯も困るだろう。

「社長の車の助手席に乗っていた女の子がいて、佐々木さんに似ていて。」

「似てる子かも知れませんね。」

 そう言って、私は「お手洗いに行く。」と告げ、席を外した。廊下に出ると、佐々木唯がケータイで話し中だった。私は頭だけ下げて、手洗い場へと向かった。

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