七歩先のビッグベン(2)
「ああ、ノア夫婦が家に来てな、トビーの散歩の邪魔になるから片付けろって、それができないなら毎朝トビーが散歩に出掛ける時間帯にトビーが躓かないように見てろって怒られたんだ。いやあ、久しぶりで、固まっちまったね」
「ノアが?」
「昔からノアにはよく怒られたもんだよ。エドと二人でよく説教くらってたなあ」
懐かしむようにそう言うと、オリバーが一人笑い出した。
エド? 父さんのこと? どういうこと?
「えっ? どういうこと? オリバーは父さんを昔から知っているの? それに久しぶりって……」
一瞬笑い声が止まったかと思うと、オリバーはさらに豪快な笑い声を立てた。
「何言ってる。トビー、知っているも何も、俺とエドは幼馴染だぜ? 聞いてなかったのか?」
オリバーは本当に楽しそうに笑っていた。
父と彼が幼馴染だなんて知らなかった。でもよく考えてみれば納得のいく話だ。
オリバーの家は、父が生まれ育ったというこの家のすぐ斜め向かいにあったし、しかも顔を合わすたびにする長話の様子は、幼馴染だということなら、まったく自然な会話でもある。
今思い起こしてみるとすべてがすんなりときた。
「ねぇオリバー、父は子どものころはどんな感じだった?」
こんな話、滅多に聞けないと思った僕は、オリバーに聞いてみた。
「そりゃあもう、人の言うことなんて、まるで聞かないやんちゃ坊主だったぞ!」
オリバーはまだ笑っている。相当な笑い上戸みたいだ。
「よく二人で夜中まで遊び回ってたんだがな、あるとき森で遊んでいて、俺たちは遊び疲れて眠くなってきたんだ。俺は暗くなる前に帰ろうと言ったんだが、エドはまるで俺の話を聞かなくてね。俺は休んでいる間に寝ちまったエドを置いて、暗くなる前に帰ったんだ」
そんな話は聞いたことがない。だって父が『やんちゃだった』ことさえ知らなかったし、小さなころからいい子だったんだろうって、勝手に思っていたから。
オリバーに置いていかれたのにも気づかずに眠ってしまった父は、真夜中の森で目を覚ました。昼と夜とでまったく違う周囲の景色に驚いた父は、慌てて森を出ようとするが迷子になってしまった。
帰ってこない父を心配した父の両親――僕の祖父母が、オリバーの家に息子を探しにきて初めて、迷子になっていることが発覚したそうだ。
町中総出で森に入って捜索をして、父を見つけてくれたのは、当時まだ目が見えていた、若かりし日のノアだった。
全身葉っぱだの小枝だのに包まれて、でかい蓑虫みたいになってガタガタと奮えながら縮こまっていた父を見つけたノアは、いきなりゲンコツをお見舞いした。『人の意見も聞かずに勝手しおって! おまえに何かあったら、いったいどれだけの人間が悲しむと思ってるんだ』って。
町に戻ったノアは次の日、オリバーと父を二人立たせて一時間も説教したらしい。
「トビー、このニネベの町はな、町そのものが大きなひとつの家で、ここに住む俺たちはみんな家族なんだ。おまえの目が見えなくなってしまったのは本当に残念だが、俺たちにできることがあるなら遠慮なく言うんだぞ」
オリバーの声はどこか悲しげだった。
父や母がたまに装う悲しさと同じだ。
「うん、わかったよ……」
僕は素直にそう答えていた。
ノアは僕に確かこう言った。『大きな顔して誰かのお荷物になることも必要なんじゃないかな』と。あのとき僕は、目の見えないハンディキャップドな種類の人間は、誰かの支えを甘んじて受けるべきだって言う、ただそれだけの甘ったれた意味で言われてるとしか思っていなかった。
僕は、確かにこのニネベの町が好きになりつつあったけど、まだ町という家族の一員になったとまでは思えなかったし、なりたいとも思ってなかった。それでもこの町で育ったオリバーがノアの精神を引き継いでいることを僕はしっかりと感じることができたし、オリバーやノアたちが僕を新しい家族として受け入れようとしていることも伝わってきた。
オリバーの両手が僕の肩に触れる。配管工なんてしているんだからもっとゴツゴツとしているかと思ったが、彼の手は想像より柔らかくて、そして小さかった。
「気をつけてな」と笑いながら僕を見送るオリバーに、背中を押されハミィと歩き出す。
僕はこの町の好意が嬉しくもあり、鬱陶しくもある気分だった。父と母っていう小さな家族だけでも手一杯なのに、いきなり大きな課題を出された気分だ。
でも、こうしてすれ違う町の人たちが、それぞれにここで生活をしていて、この時間帯のその場所にいることに、それぞれ理由があるんだって思うと、目では見えなくても、この町や人の表情が少しだけ見えるような気がした。
きっとメアリーや、ノア夫婦にもそこにいる理由がある。僕は、この町に対して抱いていた距離が少しだけ近づいたのを感じていた。
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