哪吒伝.中

 崑崙山ふもと、森林の一部平野にて———。


 敖廣は、一万の兵馬を差し向けた。

 総大将は、甥の敖徳である。


 一万兵のうちおよそ五千は槍団の歩兵なりて、隊列の前方を右翼と左翼で固めている。残る五千は騎馬団なりて、隊列の後方に控え、来たる追撃にそなえていた。

 また、騎馬団も右陣と左陣に分かれるが、中央部には敖徳含む本陣があり、全軍より一歩後退して戦場を一望する伏竜となっているのだった。



 さて明け方、約五千のアナンタ軍が、森林の最奥からその全貌を現す。

 

 アナンタ軍の騎乗するは馬でなくして、すべて黄金の大虎である。しかも、うち二千をわざと歩兵にすり替え、騎手無しの裸馬ならぬ裸虎を用意していた。それは、アナンタが一策講じているがゆえである。

 そうして前列に歩兵、中部にアナンタ含む虎隊、後方には牙爪剥き出しの飢えた虎が身をひそめているのだった。


 まもなくして、敖徳軍側から開戦合図のドラが鳴り響いた。

 さっそく、敖徳軍の歩兵槍団右翼が前進を始める。


 するとその間、アナンタ軍後列では虎千頭が忍び足で行動を開始していた。その千頭は、森林のしげみに身を隠しつつ、敖徳軍歩兵左翼の位置に潜伏する。

 同じく残るる千頭も、敖徳軍騎馬隊右陣付近の木陰に息を沈めて虎視眈々と機会をうかがっていた。


 合間、進撃する槍団右翼を前に、アナンタも全歩兵を出陣させる。

 そしていよいよ、敖徳軍右翼とアナンタ軍歩兵が干戈を交える頃のことだった。


 まず、敖徳歩兵左翼間近のしげみに潜伏していた千頭の大虎が、敵対に突進したのだ。

 前兆なき唐突の奇襲に驚いた左翼は、一気に四散する。さもありなん、兵人ならまだしも、まさかかく猛獣が襲いかかってくるとは思うまい。屈強な兵士が槍でもって応戦するも、鉄まで噛み砕く大虎の牙にはまったくかなわなかった。歩兵左翼はらたちまち千の虎に喰われ、壊滅するのだった。

 しかも、その動揺は騎馬隊左陣にまで波紋した。大虎を恐れたのは人のみならず、捕食関係にあたる馬のほうがもっぱら怯えたのだ。中には、騎手を振り落として逃げ走る馬とて少なくはなかった。

 千の虎はついでに、かくしてすでに乱れつつある左陣をも侵食する。されば左陣は、大虎の光る爪になすすべもなく、みるみるうちに溶けていったのである。

 敖徳軍全体の左半分は、もはや全滅の危機に瀕していた。


 そこで敖徳は、右陣と本陣までもが被害こうむるのを避けるべく、あまる全軍をより右方へ移動させる。

しかして、これがまた誤算であった。

 今度は、右陣付近の木陰に息をひそめていたもう千頭の大虎たちが、ここぞとばかりに右陣を攻め入ったのである。

 これには右陣もたまらず、不意を突かれたからにはあえなく大虎の餌食となった。だが、さすがは右陣、本陣大将を守るべく必死に粘って、千の虎を追い払わんとした。人が獣相手に、なかなかの拮抗勝負を見せる。

 かくして、アナンタ軍の歩兵二千と敖徳軍槍団右翼に次ぎ、左陣左翼と右陣で二千の虎と押し合いへし合いの激戦が繰り広げられる中、しだいに平野は血の海と化すのだった。


 

 ところでアナンタは、こうした敖徳全軍の混乱を見逃してはいなかった。

 ここでついに、アナンタ本部の虎隊が前進を開始する。目指すは敖徳本陣、一直線に疾走した。

 道中では走り抜けながら、本陣に集中して弓矢を乱射する。これで本陣もまた、ある程度の兵力を削ぎ落とされた。


 一方敖徳は、厚き楯をかかげて、派手な弓撃を耐え忍ぶ。

 ややして、飛来する矢数が減少したかのように感じた。


「少しはんだか……」


 そう思って、楯を下ろした途端、敖徳の首があっけなく飛んだ。

 弓撃がゆるむのを機に敖徳がしぼめた頭を上げる一瞬を狙って、アナンタが強烈な一矢を放ったのだ。


 弧を描いて宙を舞った敖徳の首、大地に落ちたり。


 決着が着くまでに、半日とかからなかった。敖徳軍に至っては、槍団右翼を出撃させた以外、虎隊に圧倒されるがままに総攻撃は不発に終わっている。

 勝敗は、アナンタ軍の圧勝であった。


「敖徳の首、我らがアナンタさまが討ち取ったぁ!」


 兵士全員の歓声が、空にとどろく。勝利の雄叫びである。大虎もそれを喜ぶように、野太く吠える。


 しかし、アナンタだけは笑ってはいなかった。

 彼の戦いは、まだ終了していない。これからが、本番の戰である。


「敖廣……!」


 薄雲の巻きつく崑崙山の上、そのいただきに首里のごとき巨大な城廓がそびえ立っている。まさしく、陳塘関である。

 アナンタは、山頂を見据えた。


「———行ってくる」


 ふと、となりにたって勝利の愉悦にひたっていた甚六じんろくという男兵にそう告げる。

 甚六は、アナンタがことさら贔屓してやまない侍従であった。


 急なアナンタの宣言に、甚六は素っ頓狂な声を上げる。


「へっ!?行ってくるって、どこに?」

「もちろん、敖廣のところへ」


 それを聞いた甚六は、今一度声をひそめて詳細を問い詰めた。


「まさか、お一人で?」

「ああ」

「そんな無茶な……!」

「一人で行く、ほかは要らない。これは、オレと敖廣との戦いなんだ、誰にも邪魔されたくはない……!」


 言い終わるが早いか、アナンタは、亡き敖徳の持っていた大管槍を奪い取って握り締め、陳塘関へ向かって颯爽と走り始めた。


「あ、アナンタさま!お待ちを!」


 遠方で甚六の呼び止める声が聞こえるが、アナンタは無視した。

 アナンタは、李靖の神威シェンウェイを背負って、この仇を討つため、敖廣との一騎打ちに挑むつもりなのだ。

 アナンタのその決意を察した甚六は、ささやかながら「ご武運を」と敬礼した。



 さて、一人崑崙山を登りつめて陳塘関を攻めるアナンタ、敖廣と相対する瞬間こそ精神は高揚するものである。迫り来る警護の敵兵を次々と薙ぎ倒し、このいきおいたるや疾風のごとくであった。

 その時を目前にして、アナンタはいよいよ敖廣のおはします玉間へとたどりつく。重厚なる観音扉を開け放ち、玉座にふてぶてしく座している敖廣に向かって叫んだ。


「敖廣!李靖の仇、勝負せよ!」


 すると敖廣は、「待っておったぞ」とばかりに不敵の微笑を浮かべた。


「いいだろう。受けてたとうぞ」


 かくしてアナンタと敖廣、これより熾烈な一騎打ちが開幕するのであった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る