鴛鴦.下 言尽くしてよ長くと思はば
そこで吉祥天は、あらゆる手段を講じて、愛人の淫情をそそらせようと試みた。
上体を起こしては毘沙門天の背筋に乳房を這わせ、いかにも強靭な肩首には福々しい両腕を巻きつける。そうして色目を駆使しながら、
さようにも熟練の誘惑であれば、たいていのオスはくびったけになるのだ。
あいにく、
「心配しなさんな。
あまり気分が乗らないのか、毘沙門天はさように即答した。
吉祥天は、たちまち
———そういうことじゃないわ。
さればと次いで、「じゃあ、
吉祥天とて素直に
ところがこれにも夫は無関心で、「あとで」としか言わない。
吉祥天は、ついにふてくされた。
———わたしのことなんて、二の次なのね。
吉祥天の唇が、ややとがる。
するとその時、垂れ幕の外から、かような夜分に誰ぞやの声がかかった。
「姫さま。
未子善膩師の機嫌が盛大に斜めになっているもので、手を焼いてなすすべがないのを報告しに来たのだ。
この穹廬の裏には、集落最小の幕屋がある。そこが、善膩師専用の寝処である。母子往来しやすいように、毘沙門天が近距離に配置したのだ。
そのおかげかそのせいか、幼い善膩師はかえって母の胸をよく求めるようになった。ただでさえ小器用な甘えん坊が、
「ばあや。そちらでなんとかしてちょうだい」
「でも、お母さまがいいと泣きなさって……」
元気爛漫すぎる太子には、姥もほとほと参っていると見える。母の子守唄でなければ、侍女があやす程度では泣きやまないであろう。
吉祥天は、一つ大きな溜息をついた。しかたがないので、夫にまとわりつくのを諦める。けだるげに立ち上がり、
合間、依然として
そんな妻の眼差しにすら勘付きもせずのうのうと自堕落に笑っているのだから、毘沙門天は本当に鈍感な幸福者である。
吉祥天は、はなはだしく込み上げる孤独感をおさえつつも、愛惜も断てぬうちから敷栲を離れ去った。
うしろ髪を引かれる念でおれば、夫がポイと脱ぎ捨てた衣類の雑然たる散乱ようまで憎たらしく思えてくる。いつもならきれいにたたんで差し上げるところを、今回ばかりは心底許せなかった。
———ほったらかしてやる。もう知らないんだから。
夫の汗臭い
かたや一人おいてけぼりの毘沙門天は、外出しゆく妻を特段見送るわけでもなく、なおも無心になって戟と向き合い続けていた。
しばし黙々として、研ぎ研ぎ刃音を響かせる。
ほどなくして、彼は唐突にふと、研磨作業の手を止めた。タコだらけの右手の甲を、同じく岩のような左手の指でやけにりきみながら強くさする。それを繰り返すことまたしばらく、再び戟の三叉を布巾で拭き始めるが、今度はあまり長くは続かなかった。
もう一度、両手をこすり合わせてさすり、果てには
「ふぅ……」
かすかながら、手指が震えて止まらないのである。武者震いであろうか、あるいは明日の遠征に珍しく緊張しているのだろう。
心臓の早鐘を
とうに就寝せねばならぬ刻を過ぎているというのに、この不調が鎮まらねば安眠も望めぬ。されば、だんだんとひとりぼっちなのが心細く感じられ、ぬくもりある人肌が恋しくなってきた。誰ぞや自分の頭を撫でてくれる者はおらぬだろうかと考えるに、はたと吉祥天の微笑が思い浮かぶ。
だが妻は今、ここにはいない。子守りのために、いっときは帰ってこないだろう。
———寂しいな。
毘沙門天は急に、
遠征間近の今夜だからこそなおさら、
———みんなと一緒に寝ようかな。
挙げ句には、なにもかも晴れ晴れしなくなって、おもむろに桐箱と三叉戟を片付けてしまう。加えて、このまま一人、ここにて眠ろうにも妙な
そうして、急ぎ小走りになって、母子の待つ裏の小幕屋へ向かうのであった。
雲無き満天は、星空である。満月が、少々欠けている。
了.
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