毗沙門戦記・外伝—もろもろ小噺—

虎の威を借る正覚坊

あの時、その時、前日譚

鴛鴦.上 恋ひ恋ひて逢へる時だに愛しき

 天竺出立を、翌日に控えた満月の夜。

 その日も毘沙門天は、朝も早くから角打ちに出かけて、夜叉一族の屋敷ゲル集落には不在であった。各天域護法神に、コビを売りに行っていたのである。


 婆羅門界バラモンかいから湧き出た異端衆ながら、諸仏から受ける贔屓的な庇護がやや手厚いゆえに、かえって種々信者の不信や嫉妬をこうむりやすい立場にある不利な形勢を、あらかじめ打破しておくつもりだったのだ。はたまた、夜叉王発ちしあとの、将無き丸腰な屋敷ゲル集落が迫害のまととなっても困る。

 なおかつ愛しい妻子も残していくというのに、周囲の安全性が確認できねば、毘沙門天の気が休まらなかった。唾を吐かれようと石を投げられようと、連日連夜しつこく仏界を飛び回り、神々との信頼関係を築き上げんと奮闘する毘沙門天であった。


 出陣前夜にもかかわらず、今宵は一段と帰陣が遅い。

 最近はずいぶんと、寝床をともにする妻の愛撫をすっかり放置してしまっている。しかれども賢夫人な妻は、不服文句を垂れず、いつも静かにほほえんで歓送歓迎してくれた。

 そうであるものだから、それを居心地よく思う毘沙門天はつい太平楽になって、そんな妻の気立てをぞんぶんに当てにしては、まるで無用の長物のように口数少なくただ武具研磨の虜囚をなっていたのである。


 今日も今日とて、あいも変わらずだった。

 日没間際に穹廬きゅうろへ顔を覗かせるなり今度は長男最勝さいしょうとアムリタ酒を飲み合うと言って、集落端に立つ狭小な天幕へ出向いたきりの夫は、深夜を過ぎても戻ってこない。


 ほったらかしにされることの我慢もいよいよ限界寸前の吉祥天は、陣幕付きの小ぶりな穹廬にて、夫がほどよく酔っぱらって帰って来るのをしぶとく待った。今晩こそは逃すまいと本腰を入れて、飽くまでもまぐわうつもりですでに全裸である。

 羽毛の寝床に横たわり、薄手の布団にくるまって、なめらかに瑞々しい素肌を温める。もはや毘沙門天を襲い喰う闘志さえみなぎって、淡く湯気すら立ち上っていた。


 それから半刻が経った頃、ようやく毘沙門天が垂れ幕をはぐって帰宅した。

 毘沙門天は幕内に入るなり、すぐさま暑苦しげな毛皮の被布を脱ぎ捨てて、甚平デール一枚の格好となる。


 一方で吉祥天は、長枕を抱き込みながらうつ伏せに寝そべり直すと、「おかえりなさい」と声をかけつつ、頬の赤らみし酔漢を見上げて恋々とした秋波を執念深く送るのだった。

 かく美妻を一瞥した夫が如何に感じたかは不明だが、ともかく対する毘沙門天は半目で一笑もせず、「うん」とだけ淡白な応答を返した。さようにしては、さも意欲ありげにいっそう脱衣して、踏込袴ウムドゥに腰帯をゆるく巻くのみの上裸姿となる。


 そうとあらば、吉祥天は大いに胸を膨らませた。

 末端へ身を寄せて敷栲しきたえに大男一人分の余地を空け、心用意も万全に毘沙門天の添い寝を期待する。

 明日からは長くて一劫いっこうを要する妹背めおと別離の空白期間、夫の丹精あふれし手筋を堪能できる最後の夜に、どんなにわずかな未練も残したくはなかった。


 ところがこの癡鈍な野郎、結局吉祥天には一手も触れずして淡々と寝床を通り過ぎ、天蓋を支える中柱に立てかけて置かれていた三叉戟さんさげきに当然のごとく惹かれて行った。

 戟を手に握ると、ついでに本棚に経典を並べて収納していた桐箱きりばこをも取り出しかかえて、敷栲のそばまで持ってくる。そばと言わず、吉祥天がわざわざ慇懃いんぎんのために広袤こうぼう確保した枕元の布団の上に、妻には背を向けて落石のようにあぐらを組むのである。


 桐箱の蓋を開ければ、中には武具全般の手入れ用品が無雑作に押し詰められている。

 そのうち布巾ふきんやら砥石といしやら、打粉うちこに油瓶などの一式を手近に敷き広げて、血痕でさびれた艶拭つやぶきにやおら精を出し始めるのだった。


 果たせるかな定例の結末で、吉祥天は「またか」と思って落胆する。

 せっかくいた夫婦水入らずの時間とて、夫は自身の趣味ばかりに費やすのだ。とはいえこれも、彼の希少な娯楽たる日課ゆえに、なさけをかけて容赦すれば、わがままな欲求不満の辛抱もたやすい。


 しかしながら、旅立ち前の小夜に一つや二つくらい、歯の浮くような台詞があっても良いではないか。

 愛嬌に欠ける毘沙門天が、つくづく恨めしい——。

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