連理.上 逢ふことの絶えてしなくはなかなかに

 インドラが須弥山を制覇せし約五百年間、デーヴァ神族にとっては全盛期のヴェーダ時代にあたる。

 一方、範疇のランカー島住まいであった夜叉・羅刹一族は、インドラの触手を免れるために総出で一時離脱し、天竺北部希臘ギリシア領土のクシュ山へ隠れていた。

 希臘神族に神威シャクティを蓄える日々の五世紀、異神和合にしてヘレニズムの花が咲く。


 ところで、鬼一族の新たな居住区は、クシュ山周縁のふもと地帯であった。当一帯、北部インダス川と南部ナルマダ川の国境を越えなければ、自由な移動も許されていた。

 鬼一族は、得意の穹廬ゲル集落を築き、季節ごとの移駐を繰り返しながら遊牧生活を維持していくのだった。


 さて夜叉王毘沙門天は、クシュ山頂ガンダーラ城に住み込みつつ数々の武功を挙げ、時の王たるファッローの依存心をほしいままにする。

 むしろ、毘沙門天のふるう活躍あってこそ希臘神族の庇護を賜われたのであり、鬼一族の長きに渡る安泰を保つことができたというものだ。


 しかしその代償とも言うべきか、空位期間の一族集落の閑散たるや殺伐してはなはだしい。


 毘沙門天の不在時、夜叉王代理は弟君のラーヴァナであった。そして、およそ十二鬼の夜叉大臣を閣僚として政務を執っていたのだった。

 さらに、同じく留守番役の吉祥天を尼御前あまごぜんとして別格崇拝の対象に据える。これは、やかましい男衆の色目を封印せんとした、毘沙門天の妻への独占欲が高じた結果であった。


 それはともかく、ファッロー王に仕える毘沙門天はこうして自国のまつりごとを放置せざるをえぬまま、一族集落には滅多に帰ってくることがなかった。帰陣せども、十年に一度ほどである。

 どうりで吉祥天の毎日は、まことに殺風景で肌寒いわけであった。


 とはいえ毘沙門天も、毎度の再会の瞬間をよほど楽しみにしているようだ。帰城した日はいつも、血痕付きの甲冑を脱ぎ捨てる暇さえも惜しんで、まっさきに吉祥天に会おうとするのである。

 不在中の行政報告も、山積する執務処理も、各閣僚へのあいさつ回りも、恒例の新嘗祭にいなめさいさえほったらかして脇目もふらず、まずは妻のもとへ一目散だ。


 しかも、片手には必ず一輪の花を、とこぞから摘んできて握っているのが常であった。吉祥天への贈り物である。

 そのわりには口数が極端に少なく、花は与えど「大事はなかったか」の一言しか尋ねない。どうやら、妻の元気な顔を見るだけでも安心するので、には化さぬらしい。


 吉祥天にしてみれば、十年に一度のまれなる機会でありながら、鯔背いなせな告白の一つも無いのが少々残念に感ぜられるところであった。

 それでも、毎回の花一輪は不器用な夫の最大限の愛情表現だと思ひて、人知れずうれしがってはすべて押し花にして大切に保管しているのだった。




 いつの日か、吉祥天は、あいも変わらずの毘沙門天に、わざと「どうしていつもお花を?」と問うたことがある。お互い会話があまりにも訥々とつとつとしていて、こころ寂しかったのだ。

 また、毘沙門天のその開かずの口に、花一輪が妻の笑顔見たさたることをしかと言わせてみたかったのである。


 そうして淡い期待を抱いていた吉祥天だったが、果たして毘沙門天の返事はむなしくまたもや一言のみだった。


「花では足りぬか?」


 あな憎たらしい男よと、当時の吉祥天は唖然としたものである。こやつの口は、花でできているのだろうか。

 花選びに悩んでいる夫の姿を思い浮かべると愛しくはあるが、それにしてもすげない。そのくせ本人はあたかも勝ち誇ったかのようなしたり顔を見せるので、なおさらあざといのである。


 吉祥天は、詰めても無意味な追及を諦めた。

 諦めて、早くも宵の口には再出陣しく夫の広背を、未練のあまりに涙腺のゆるみつつある眼差しで静かに見送るのであった。


 余分なときめきは欲しがるまい、毘沙門天とは飾り気無き益荒男ますらおなのだ。これは、彼自身の満足のためである。

 初めて花を用意した時、蔭間かげまを補給するよりも喜んだ嫁の笑顔満開を、毘沙門天はいつまでも覚えているのであろう。そして、決して忘れられないのである。


 吉祥天の標本集に、また一つ宝物が増えた。

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