第九章 もう片方の翼
目を開けると窓から差す光が室内に満ちていた。
白い壁の小さな部屋だ。
ベッドのまわりは半分だけカーテンが下がっている。
あたし一人の静謐な空間だ。
あたしがいるのは病室なのだろうか。
ベッド脇に点滴の支柱が立っていて、吊された袋から伸びたチューブがあたしの腕につながっている。
起き上がろうと思ったけど、体中が痛い。
掛け布団から手を出して額にかかった前髪をかき分けるのもひと苦労だ。
筋肉痛だろうか。
コロコロと戸車の転がる音がして、白い服を着た女の人が入ってきた。
看護師さんだ。
「あら、目が覚めたのね。どう、具合は?」
「体中が痛いです」
「そうよね。でも、意識が戻っただけでもよかったわ。今、先生呼んできますからね。外来診察中だから、少し時間かかるだろうけど、そのまま休んでいていいからね」
なぜあたしがここにいるのか、記憶がぼやけている。
最後に見た風景は何だったろうか。
光?
空?
看護師さんが戻ってきた。
体温と血圧を測る。
「あたしはどうしたんですか?」
あたしの質問をはぐらかすように微笑むだけで、答えてはくれなかった。
「今、先生が来るから、それまで休んでいてね」
もう一度にっこりと微笑むと看護師さんは部屋を出ていった。
あたしはいったいなぜここにいるんだろう。
痛みはあるけれども、不快な気分ではなかった。
体を動かすたびに布団カバーがすれる音以外、なんにも聞こえない。
外界から隔絶された清浄で静謐な空間。
とても居心地が良い。
あたしはもう一度体を動かしてみた。
痛みを感じるけれども、手も脚も動くし、体を起こそうと思えばできそうだった。
少し頭の奥に刺すような痛みが走って無理するのは止めた。
また引き戸が開く音が聞こえて、女の人と、さっきの看護師さんが入ってきた。
女の人はお医者さんだった。
「意識が戻ったみたいね。気分はどう?」
「体中が痛いんですけど、それ以外はなんともないです」
「そう、それは良かった。体の痛みはそのうち引いていくとは思うから、もう少し我慢してね」
お医者さんはあたしに聴診器を当てながら、看護師さんに何か指示を出した。
看護師さんが部屋を出ていって二人だけになると、お医者さんがあたしに顔を近づけてきた。
「何があったか覚えている?」
「わかりません」
「名前は言える?」
「赤城真緒です」
「学校とかは?」
「豊ヶ丘中学です」
ちょっと頭がズキッとして目を閉じてこらえた。
「大丈夫よ。まだ無理する必要はないからね」
痛みが引いて目を開けると、お医者さんがあたしの手を握って甲をさすってくれた。
「あたしはどうしたんですか」
「学校の屋上から落ちたの。覚えてない?」
あたしはゆっくりと首を振った。
「見ていた人がね、あなたは後ろ向きに落ちたんだって。何か覚えてない?」
「いいえ」
お医者さんは手を離して布団をかけ直してくれた。
「怪我は奇跡的に軽いから心配しなくて平気だからね。骨折もしてないのよ。ゆっくり休んでいていいからね」
お医者さんも部屋を出ていった。
何も覚えていない。
屋上から落ちた。
後ろ向きに……。
何も思い出せない。
声が聞こえた……?
声?
ちがう。
鳴き声?
小鳥?
もやもやとした音で、聞き取れないけど、誰かの声だ。
ズキリとまた頭に痛みが刺さる。
あまりの痛みに、本当は頭が半分に割れているんじゃないかと心配になる。
ぎゅっと目をつむって我慢しているうちに少し楽になった。
誰かがあたしに語りかけているような気がする。
この部屋には誰もいないのに。
声にならない声に耳を傾ける。
なんであたし達の方が追い出されなければならないんだろう。
この世界から自由になるために羽ばたくにしても、なんであたしたちの方が逃げなければならないんだろう。
それが翼なら、いらない。
それはあたしの声だった。
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