第六章 生まれ変わる土曜日

 翌朝小鳥の鳴き声で目が覚めた。

 ピィちゃんが元気に私の部屋を飛び回っていた。

 床に羽毛が散らばっている。

「また掃除しなくちゃならないじゃない……」

 私はぼんやりした頭を振りながら手にセロテープを巻いてペタペタと羽毛を集めた。

 今日は髪を切る日だ。

 過去の自分との決別の日だ。

 こういう日こそ、イケメン悠翔君の姿で目覚めのキスなんてしてくれたらいいのに。

 なんでインコかな。

 羽毛を集めていたら、自分の抜け毛もたくさんあって、掃除して良かったなと思った。

 長い髪とも今日でお別れだけど、抜け毛の多さを眺めていたら、意外と感慨はなかった。

 ヘアサロンの予約は十時だ。

 ピィちゃんを丸めたタオルにのせて小さなリュックに隠して家を出た。

 曇り空で少し風も吹いている。

 すぐそばの小さな公園は日曜日なのに誰もいなかった。

 くちばしにキスしてインコを悠翔君の姿に変えた。

 私にはもう照れも迷いもなかった。

 慣れってこわい。

 こうやってカレシにも飽きてしまうんだろうな。

 ……なんて、カレシができる前から何を言ってるんだろう。

「髪切ってる間、どこかで時間つぶしててよ」

「なんだよ、カレシに待たせるのかよ」

「しかたないでしょ。家に置いてくるわけにいかないし」

「あのさ、そこは『カレシじゃないし』ってつっこむところだろ」

「そういう余裕はないの、ごめんね」

「ノッてこいよ。つまんねえの」

「それより、一人で大丈夫?」

「人間の姿だから大丈夫だろ。さすがに猫に襲われたりしないだろうし」

「じゃあ、待っててね」

「おう」

 悠翔君に背を向けて公園を出ようとした時に呼び止められた。

「あのさ」

「なに?」

「かわいくなってこいよ」

 はあ?

 そういうセリフ、よく言えるよね。

「あんたさ、真緒ちゃんの服に潜り込むのが好きだったんでしょ。エッチ」

「本物の鳥だったときのことだろ。小鳥はみんなそういうイタズラが好きなんだよ」

「信用できない」

「どうでもいいよ。かわいくなってこいよ」

「はいはい」

 今度こそ強く地面を踏みしめて公園を出た。

 自分を変える第一歩だ。

 本当はすごくうれしかった。

『かわいくなってこい』なんて言ってくれる人がいるってすごくうれしい。

 でもまた、一方で、髪を切ったら大失敗だったなんてことになったらどうしようと、ネガティブな気持ちもわいてきてしまった。

 だめだめ。

 私の悪い癖だ。

 きっとうまくいく。

 真緒ちゃんも、お母さんも、悠翔君もそう言ってくれているんだ。

 でもさすがに、ヘアサロンで今まで伸ばしてきた髪がバッサリと切り落とされるときはギロチンにかけられたマリー・アントワネットみたいな気分だった。

「バッサリいくときって、やる人も緊張しませんか?」

「そんなことないわよ」と店長さんが鏡の中で微笑んでくれる。

「お客さんにとっては一生に一度のことかもしれないけど、私らには慣れっこな仕事だからね」

 そうか、そういうものか。

 ただの慣れの問題なのか。

「私らなんか、修業時代から数えたら何千人とバッサリ切ってるわけでしょ。あ、何年とか数えちゃダメね。まあ、あなたのお母さんと同じ歳なんだけど」

「え、うちのお母さんと同じなんですか」

「そうよ」

 店長さんの方がかなり若く見える。

「全然違うと思ってました」

「え、お母さんの方が若く見えた?」

「逆ですよ」

「……って言っておかないとね。うちも客商売だから」

 店長さんがうふふと笑う。

 鏡の中の私はもうついさっきまでの自分とは別人のようだった。

 両サイドのボリュームを減らして毛先を軽くしていく。

 手際が良くて髪の動きが踊っているように流麗で、自分の髪の毛じゃないみたいで見ていて楽しい。

「髪の長かったお客さんでバッサリいったときに、失敗したなって言ってた人っていませんか?」

「まあ、それはいるけど、切っちゃったものは戻せないからね」

 案外、あっさりとした言い分だ。

「バッサリいったときだけじゃなくて、髪型が変わるとやっぱり、失敗したかなって不安になる人は多いわよ。べつに昔の自分がそんなに良かったなんて思わなくたっていいんじゃないかな。新しい自分の方が本物だと思って、生まれ変わった自分を好きになればいいのよ。そうすれば、歳を取っても、常に自分は新しくなれるでしょ」

 店長さんが鏡の中の私の顔をのぞき込む。

「まだ女子高生だからそんな話は関係ないでしょうけどね」

「参考になります」

 太くて重たい髪だと思っていたけど、毛先を遊ばせて少しボリュームを調整してもらったら、ふわふわした感じになった。

 真緒ちゃんみたいだと思った。

 ふんわりとゆるく巻いた毛先が肩に触れそうで触れなくてさらさらと揺れるのが心地よい。

 やっぱりプロの技は違う。

 中三のころから鬱陶しいって思ってたけど、なかなか切れなかった。

 せっかく伸ばしたのにもったいないっていう気持ちもあったし、髪の毛でカーテンみたいに自分の顔を隠せなくなるのも怖かった。

 でも切って良かった。

 こんなにさっぱりした気持ちになるのは久しぶりだ。

 髪を切ることを提案してくれた真緒ちゃんに感謝していた。

 真緒ちゃんに会えたからこそ、こんなふうになれたんだ。

 私は店長さんにお礼を言ってお店を出た。

 悠翔君のところに走っていった。

 この新しい髪型を見てもらいたかった。

 生まれ変わった私をほめてもらいたかった。

 でも、公園に戻った時に悠翔君はいなかった。

 人の気配がしない。

 べつに隠れているわけでもなさそうだった。

 どこに行ったんだろうと探してみたけどいない。

 と、空の方からピピュピィと弱々しい鳴き声が聞こえた。

 まさか。

 鳴き声の方を向くと、強い風に流されないように必死に羽ばたいているインコがいた。

 間違いない、悠翔君だ。

 なんでよ、どうしたのよ。

 私が手を振ると、必死にこちらに向かってくる。

「オチルノコワイ、サツキタスケテ」

 鳥のくせに落ちるのがこわいって、案外不便なのね。

「サツキコワイ、サツキタスケテ」

「飛んでないで下に降りてきなさいよ」

「オチル。ブツカル」

 私が手を広げると、悠翔君はふらふらになりながら私の胸に飛び込んできた。

 かたくてごめんよ。

 ブラのせいだからね。

「どうしたのよ、鳥になっちゃって」

 くちばしに口づけて人間の姿に変える。

 悠翔君は荒い息を整えながら説明してくれた。

「風で葉っぱが飛んできて、顔に当たったんだよ。びっくりしちまってさ。気づいたら鳥になってた」

「何かが急に当たったりしても姿が変わるんじゃ、危なくてしょうがないね」

「俺にはどうにもならねえよ」

 正直なところ、鳥になったことはどうでもよかった。

 それよりも、もっと違う話をしてほしかった。

「まったく、小鳥って、この程度の風でもやばいんだよな」

 そうじゃなくて。

「なんか昔もこんな感じだったっけか」

 思い出話じゃなくて、今の話をしてよ。

「風が強いとさ、枝に止まろうとしても、枝がブンブン揺れるから鞭みたいでこわいんだよ」

 ああ、もう。

 そんな話はどうでもいいから。

「私の髪、どう?」

 言わせないでよ、もう。

「うん、さっぱりしたな」

 悠翔君はあっさり言った。

「それだけ?」

「似合うぞ」

「そんだけ?」

「うーん……」

 グーでパンチするところだった。

「かわいいぞ」

 あぶない。

 あわてて手を引っ込める。

「えへへ」

 つい笑みがこぼれてしまう。

「ほんとに?」

「ああ、雰囲気変わったし、今の方が断然いいよ」

 やったあ。

 これなら真緒ちゃんも喜んでくれるだろう。

 ぎゅるるるっと悠翔君のお腹が鳴る。

「飛びすぎて腹減ったな」

「じゃあ、お昼ご飯どうする?」

 リュックの中には一応アワの餌も持ってきてある。

 でも、また小鳥に戻して餌をあげるなんて、鳩に餌をやるお年寄りみたいでなんだか違う気がする。

 それに、また風で飛ばされたら大変だ。

「サツキの好きな物でいいぞ」

「普通の食べ物でも平気なの?」

「大丈夫なんじゃないか」

「でもさ、また具合悪くなるんじゃないの? チョコレートで死にかけたじゃない」

「心配してくれるのか?」

「うん」

「そしたらまた介抱してくれよ」

 おまえ優しいからなんて、調子のいい言葉を付け加えてる。

 正直うれしいけど、面倒なのでスルーした。

「それじゃ困るでしょうよ」

 悠翔君が右肩を上げながら頭をかく。

「人間の姿の時は普通に食べられるはずなんだよ」

「そうなの?」

「あのときはさ、チョコ食った後に鳥になっちまっただろ」

 あ、そうか。そういうことだったのか。

「俺もまさかあんな事になるとは思わなかったからさ」

「じゃあ、せっかくだから駅前で何か食べようか」

 カット代のおつりがあるから二人分のお昼ご飯くらいならなんとかなる。

 お母さんにはスマホで自撮り写真とメッセージを送っておいた。

 すぐに『かわいくなったじゃない。いってらっしゃい』と返信が来た。

 中学時代によく友達と立ち寄っていた駅前のハンバーガーショップに入った。

 前に一組お客さんがいて、待っている間にメニューを選ぶ。

「おまえ、これだろ」

 悠翔君がタルタルチキンバーガーを指す。

「自分が頼めば?」

「共食いしろって?」

「生々しいからやめて」

 ごめん、と悠翔君がうなだれる。

 たまに素直になるとかわいい。

 ずっとこんなのだと魅力半減かななんて勝手な想像を膨らませてしまった。

 無愛想なところも実は好きだ。

「なんだよ、ニヤニヤして」

「べつに」

 くだらないことを考えていたら、決まらないうちに順番が来てしまった。

「いらっしゃいませ、こちらでお召し上がりですか」

「はい」

「ご注文どうぞ」

 と言われても二人ともまだ決まっていない。

「何にする?」

「俺はエビカツバーガーセットにするよ。飲み物はオレンジジュースで」

 意外にもあっさりと悠翔君が決めてしまって、なおさら焦る。

 ポテトはいらないから単品のフィッシュバーガーにコーラをつけようか、ちょっと足りないからチーズバーガーを追加したいけど、それだとかえって高くなるかなと計算していると、奥から前の人の品物を出してきた店員さんが私の名を呼んだ。

「あれ、もしかしてサツキ?」

「あ、リサちゃん、ここでバイトしてたんだ」

 中学の時の同級生だった。

 よく二人でここに来ていたのがなつかしい。

「髪型変わってたから気がつかなかったよ」

「うん、さっき切ってきたばかりなんだ」

「へえ、なんかもったいないね。あんなに長かったのに」

 あ、やっぱりそう思うのかな。

 奥の方からできあがったと声がかかる。

「あ、ごめんね、仕事中だから」

「うん、がんばってね」

 私は結局フィッシュバーガーとコーラを注文して悠翔君と席に着いた。

 私はふうっとため息をついた。

「髪型変だって言われちゃったね」

「もったいないって言ってただけだろ。変だとは言ってないさ」

「でも、良いとも言われてないよ」

「心配するなよ。今の方がいいから」

 と悠翔君が断言する。

「根拠は?」

「見てるとキスしたくなる」

 馬鹿。

 鳥になったらハンバーガー無駄になるじゃない。

 そういう問題じゃないか。

「おまたせしました」

 リサちゃんがテーブルまで運んできてくれた。

「ねえ、サツキ、カレシ紹介してよ」

「カレシじゃないし」

「えー、じゃあ、何よ」

「同級生だよ」

「ただの同級生とデートなんてしないでしょうよ」

「デートじゃないし」

 私がかたくなに否定したせいかリサちゃんは首をかしげながら奥にもどってしまった。

 ポテトをつまむ悠翔君は明らかに不機嫌な顔になっていた。

「俺、おまえのこと、好きだぞ」

「悠翔君が大切にしているのは真緒ちゃんでしょ」

「そりゃあ大事だけど、おまえの事が好きなのも本当だよ」

「二股ってこと?」

「ちげえよ。そんなんじゃねえよ」

「じゃあ、なによ」

「うるせえな、好きだって、言ってんだろ。それで全部だよ。そのまんまだよ」

 納得いかないよ。

 悠翔君に髪型をほめられたり、好意を示されればうれしいんだけど、あなたの心の中には真緒ちゃんがいるってことは分かってるんだからね。

 遠慮しているのに、なんでそんなこと言うのよ。

 からかっているだけってわけでもないんでしょうに。

 私はフィッシュバーガーにかぶりつきながら中学の時のことを思い出していた。

 中三の修学旅行の時だ。

 宿泊先で夜の時間に好きな人を言い合うことになった。

 私は学校にそんな人はいなかったから、正直にそう言った。

 でも、隠しているんでしょと決めつけられて、しかたなくクラスで一番人気のある男子にしておいた。

 やっぱりね、とか、だよねと、その場は収まったけど、ただのでまかせだったのに、その男子から呼び出されたことがすべての間違いの元だった。

 私は他の子がその男子のことを好きなのを知っていたから遠慮して断ったのに、イケメン男子をもてあそんだひどい女ということにされてしまったのだ。

『二次元キャラに夢中なもんで』なんて便利なごまかし方を知ったのはもうちょっと後のタイミングだった。

 でまかせを言った私も悪いんだろうけど、いないと正直に言った私の言葉を信じてくれなかった方にも責任はあるはずだった。

 でも、結局私は居心地の悪さと引き替えに、不相応なことをしてはいけないという教訓を押しつけられたのだった。

 それ以来、私と同じように陰口をたたかれたり、仲間はずれにされる人を見て、自分はまわりから決められた道を踏み外さないように綱渡りをすることに神経をすり減らしてきた。

 翼があれば逃げられるのに、そんなものはどこにもなかった。

 思えば、その頃から疲れていたんだ。

 もう、そういう面倒な人間関係はこりごりだった。

 せっかく真緒ちゃんと仲良くなれそうなのに、悠翔君との関係でこじれるのは嫌だ。

「ねえ、好きっていうのはどういう意味で?」

「意味なんてねえよ。好きになるのに意味なんてあるのか」

 ないか。

 でも私みたいな女の子を好きになるって、やっぱりよく分からない。

 好かれることに自信がないし、好きになることに自信がない。

 真緒ちゃんも「自信がないとかわいくなれない」って言ってたもんね。

「自分だって『カレシじゃないし』ってジョークにしてたじゃない」

「俺だって照れくさいんだよ」

 二人とも悪いんだ。

 私は自信がないし、悠翔君の心には真緒ちゃんがいる。

 でも、ケンカ両成敗にしたところで、もやもやした気持ちがスッキリするわけでもない。

 せっかくのデートなのに食事が楽しくない。

『せっかくのデート』なんて思ってる時点で私だって悠翔君が好きなんだろうけど、真緒ちゃんのことを思うと、やっぱり一歩が踏み出せない。

 いつもと同じだ。

 何に対しても私は一歩距離を置いてしまう。

 悠翔君がポテトを私の方に突き出してくる。

 一本もらって口にくわえる。

「おまえはかわいいし、おまえと一緒にいると落ち着くんだよ。それじゃだめなのかよ」

 真顔で言われるとけっこう恥ずかしいセリフだ。

「今はイライラしてるじゃん」

「おまえがそうさせてるんだろ!」

 私はもう一本ポテトをくわえて指を立てた。

「忍者?」

「違うよ。声が大きいって合図」

 それから私たちは黙ったまま、もさもさとハンバーガーを口に押し込んでドリンクで流してお腹を満たした。

 いくら相手がインコ男子でもこれじゃあ食事というよりも給餌だ。

 お店を出る時にリサちゃんが手だけ振ってくれた。

 仕事がいそがしそうだったから話はしなかった。

 気持ちは重たいけど、髪の毛は軽い。

 歩くとふわふわ揺れる。

 お店を出て少し歩いただけで、胸にたまっていた不満がすうっと消えていった。

 髪が軽いと気持ちの切り替えまで軽やかだ。

 本当に短くして良かった。

 真緒ちゃんに見せたいけど、明日は日曜日で、明後日まで会えない。

 はやく会いたいなとつぶやいたら、悠翔君がぶっきらぼうに言った。

「おまえさ、スマホで写真撮って送ればいいじゃん」

 私はスマホを取り出して前に突き出した。

「何するんだ?」

「写真撮るんでしょ」

「俺は関係ないだろ」

 シャッターボタンを押す瞬間に悠翔君が顔を避けた。

「なんで逃げるのよ」

「幽霊だから写らねえし」

「写らないなら逃げなくたっていいじゃない」

「写真は嫌いなんだよ」

「本当かどうか確かめさせてよ」

 それでもなお、逃げようとする。

 私はあきらめてスマホをしまった。

「自分の姿を見るのが嫌いなんだ。自分が思っている自分の姿と他人から見られている姿が一致しないと気持ちが悪いんだよ。ただでさえ鳥の姿と人間の姿で二つの自分がいるわけだろ」

 なんとなく言っていることは分かる。

 中学の時に感じていた私の気持ちと似ている。

 自分が持つ自分のイメージと、他人からあなたはこういう人だと決めつけられたイメージ。

 それが一致しないから居心地が悪いんだ。

「どっちが本物なんだろうね」

「どっちも俺だよ」

 うん、私もそれを否定するわけじゃない。

 ただ、ふつうじゃないから、どうやって受け止めていいのか分からないのも事実だ。

 それに、真緒ちゃんを大事にする悠翔君と私のことを好きだという悠翔君の二面性だって受け入れられるわけではない。

 どちらも悠翔君なんだけどな。

「写真なんて撮らなくても、今そのものを楽しめよ。記憶が消えてしまっても、また新しく作ればいいじゃないか」

 真緒ちゃんも同じようなことを言っていた。

 新しい思い出を作ることができるという保証があるなら、心配しなくてもいい。

 でもその保証が他人から与えられるものだから不安になるんだ。

 いつかその人がいなくなってしまうかもしれないからだ。

 だからみんな友達とか恋人に嫌われないように気をつかいながら生きているんだ。

 それならいっそ、一人の方が楽でいいのかもしれない。

「それにさ、俺と一緒の写真なんか送ったら、あいつになんて思われる?」

 それもそうか。

 でも、ちがうんだよ。

 一緒に写真が撮りたかっただけだよ。

 送るのは別の写真でも良かったんだよ。

 さっきお母さんに送った写真を使い回せば良いんだけど、それだとなんだかつまらない。

 でも、悠翔君はそんなこと分かってくれそうになかった。

 写真を撮って送ればいいって言ったのは自分のくせに。

 私から視線をそらすように悠翔君が空を見上げる。

「この後どうするんだ?」

 私にはちょっと考えがあった。

「ねえ、ペット屋さんで、小鳥の飼育セットを買っていかない?」

「なんで、インコでも飼うのか?」

 自分がインコのくせに。

「ずっと私の部屋に隠し通すわけにもいかないから、堂々と飼う方がいいかなと思って」

 鞄の中は窮屈だろうし、鳥の羽毛が飛び散るのも、いつかは親にばれるだろう。

 だったら、ちゃんと認めてもらった方がいい。

 でも、悠翔君はうつむきながら思いがけないことを言った。

「いつまでも一緒にいられるわけじゃないぞ」

「そうなの?」

 そもそもなんで私のところに来たのかも分からない。

 存在自体が不思議すぎてどうしたらいいのか分からない。

「いなくなっちゃうの?」

「俺にも分からないけどな。ただ、ふつうの存在じゃないから、いつどうなるのかなんて誰にも分からないだろ。幽霊なんて気まぐれに現れていつの間にか消えてるもんだろ」

「でも、当分はいるんでしょ。それとも、どこかに行くあてはあるの?」

「ないよ」

「じゃあ、一緒にいるしかないんじゃないの?」

 さっきから私が質問ばっかりしてるせいか、悠翔君はうんざりしたような顔をしていた。

 私はずっとそばにいても良いと思ってるのに、そんなこと、分かってくれないんだろうな。

 私が素直じゃないからなのかな。

 私のせいなのかな。

「で、どこに買いに行く?」

 確か駅前の古いスーパーにペット用品コーナーがあったはずだ。

 私がそう言うと、悠翔君が先に歩き出す。

 ちょっと意地悪なところがかわいい。

 私は追いついて顔を見上げた。

「なんだよ」

「べつに」

「『べつに』って、おまえ、それかわいいと思ってるだろ」

 顔が熱くなる。

「べつにそんなこと思ってないもん」

「また『べつに』って言った」

 悔しいから脇腹をつついてやった。

 でも、よけられて空振りだった。

 べつに、いいんだから。

 悠翔君と二人並んで歩いていると、中学の時の知り合いに会った。

 でも、髪型のせいで私だとは気づかないみたいで、通り過ぎてしまった。

 こちらから声をかけるべきかとも思ったけど、やめておいた。

 昔の知り合いと関わると、ネガティブな感情を呼び起こしてしまうのがこわかった。

 ハンバーガー屋さんでリサちゃんに髪の毛がもったいないと言われたことも気になった。

 リサちゃんに悪気はなかったんだろうけど、変わろうとする者を許さないあの中学時代の空気にもう一度支配されるのは嫌だった。

 高校に入ったらそういったことから自由になれるかと期待していたのに、地元ではやっぱり、『あんたは昔の自分を捨てようとしてるけど、それは許されないんだよ』と押しつけられてしまうのだ。

 駅前スーパーのペット用品コーナーは、品揃えが悪くて鳥籠は一種類しかなかった。

 円筒形で、餌入れと水入れがセットになっているけど、いかにもありあわせで安っぽい感じだ。

 豊ヶ丘のショッピングモールのペットショップとは規模が違うから仕方がなかった。

「学校帰りに豊ヶ丘で見てきた方がいいかな」

「べつに俺はこれでいいぞ」

 自分の住む場所なのに悠翔君は全然興味がなさそうだった。

「ねえ、私のところに来るまではどこでどうしていたの?」

「どこにもいないよ。幽霊だからな」

 あれ、どういうこと?

「中学の時から真緒ちゃんと一緒だったんじゃないの?」

 自己紹介の時に真緒ちゃんは中学の時から一緒だったと言っていたから、この世にもどってきてから二、三年はどこかにいたはずだ。

「俺がこの世に戻ってきたのはおまえの鞄に入ってたときだよ」

 それって、水曜日だよね。

「じゃあ、真緒ちゃんの話は?」

「さあ、俺は知らない」

 どういうことなんだろう。

「俺は自分がインコだったときの記憶と、この世に戻ってからの記憶しかないよ」

「真緒ちゃんの知っている悠翔君とあなたは別人なの?」

「俺は俺だよ」

 じゃあ、真緒ちゃんの話がおかしいのかな。

 なんだかよく分からない。

「何かがねじれてるね」

「おまえの顔?」

 つまらないジョーク。

 こんなときに言うのもセンスないし。

 私がスルーしてやったらちょっと赤くなって恥ずかしがってる。

 ちょっとくらい相手してあげようかな。

「ねえ、今のジョークさぁ……」

「やめろよ。悪かったよ」

 せっかくいじってあげようとしたのに。

 でも何がねじれてるんだろう。

 真緒ちゃん?

 悠翔君?

 ピィちゃん?

 全部?

「記憶が抜けてるのは鳥だから?」

「おまえ、鳥を馬鹿にしてるだろ」

「そういうわけじゃなくて、まじめに聞いてるのよ」

 悠翔君は渋い顔をして首を振った。

「分からないけど、まあ、確かに、中学時代の記憶はないな」

 実在の悠翔君にピィちゃんが取り憑いたってことなのかな。

「なんで人間なんだろう?」

 私のつぶやきを悠翔君が真剣なまなざしで受け止めていた。

「あなたが……、インコだったあなたが人間の姿で戻ってきた、それも、今っていうこのタイミングに意味があるのかな」

「おまえと真緒が仲良くなれたじゃないか」

 ああ、そうだ。

 確かにその通りだ。

「そうだね。どうもありがとう」

「なんだよ。素直だな」

 悠翔君は照れたようにちょっとだけ顔を背けると、鳥籠を持ちあげてふたの開き具合を確かめていた。

「これでいいよ。昔真緒のところにいた時の籠がたしかこんな形だったからさ」

 遠い目をする悠翔君から鳥籠を預かって私はお金を払いに行った。

 二人でお店を出て、少し風の吹く街を歩く。

「葉っぱが飛んできたら気をつけてね」

「気をつけようがないから、先に鳥籠に入ってようか」

 そのためには鳥の姿にならなければならない。

 そのためにはキスをしなければならない。

 こんな町中では無理だ。

 私がそうつぶやくと、悠翔君がそっとささやく。

「どこか人のいないところに隠れればいいじゃん」

「なんかすごくいやらしいよ」

「おまえが変な想像してるだけだろ」

「そういうところがずるいよね。そっちの方がエッチなくせに、私のせいにして」

「いやなのか?」

 いやではない。

 そんなふうにイケメンに迫られる小説を何冊も読んだ。

 あこがれのシチュエーションなのに、なんだか納得がいかない。

 でも、確かにこのまま家に連れて行くわけにもいかない。

 どこかで鳥に姿を変えなければならない。

 ただ、そんなに急ぐ必要もない。

 風は強いけど、春の午後だ。

「まだいいじゃん。もう少し散歩でもしようよ」

「裏道をこっそり?」

 私と何しようとしてるのよ。

「表通りをのんびりお散歩」

「デートって言えよ」

「カレシじゃないし」

「俺はお前がカノジョだと思ってるけど」

「だから、二股はやだって」

 議論が振り出しに戻ってしまって、また悠翔君が不機嫌になる。

 真緒ちゃんに気持ちを伝えたら消えてしまうから言うことはできない。

 ならば、この先も二股の関係はずっと続く。

 解決はしない。

 ずっとこのもやもやを抱えたまま真緒ちゃんとも悠翔君ともつきあっていかなければならないのか。

 何かいい解決方法はないものだろうか。

 悠翔君に対する私の気持ちは『好き』というよりは、秘密を共有した者同士の助け合いみたいな感じなんだろうか。

 真緒ちゃんを守ってあげたいという悠翔君の気持ちをまず第一に尊重したい。

 だって、その気持ちがなかったらそもそも悠翔君は今ここにはいないはずなんだから。

 でも、その一方で私だって悠翔君のそばにずっといたいという気持ちを抱いている。

 ただ、それを好きという気持ちにしてしまっていいのかが分からない。

 そうしてしまったら、真緒ちゃんがピィちゃんと離ればなれになってしまったのと同じようにいつか悲しくなるんじゃないか。

 そういう結末を迎えるときが来るんじゃないかと不安になる。

 ふつうのカレシができたときはそんな葛藤なんてないんだろうか。

 正直なところ、ふつうのカレシができたことがないから分からない。

 でも、ふつうの人間同士だって一度好きになっても、何かちょっとしたきっかけで嫌いになったり、隠されていた秘密を知ってしまったりすることもあるだろう。

 ならば、結局は悲しい結末を迎えることもあるだろうし、そんな不安におびえながら耐えなければならないのも、今の私と変わらないのかもしれない。

 なんか恋愛って面倒くさい。

 違うのかな?

 本当の恋って、楽しいのかな。

「ねえ、悠翔君はさ、真緒ちゃんが昔のことを覚えていてくれたらうれしい?」

「それが分からないんだよな」

「どうして?」

「覚えていてくれたら確かにうれしいんだけど、だけど、悲しい記憶だろ。だからそれをずっと抱えて生きてきたっていうのは、あいつを苦しめてきたってことだからな。それは俺もつらいよ。忘れてくれた方が幸せなんじゃないか?」

 だから言わずにいる。

 やっぱりそれが正しいんだろうか。

「きのう、真緒ちゃんが昔飼ってた時のことを思い出していたよね」

 あの時、悠翔君はインコの姿で知らないふりして餌をついばんでいた。

「でも、泣いて怒ってただろ。悲しい記憶ってことさ」

 うん、そうだね。

 私は心の中でうなずいた。

 悠翔君もしばらく黙っていた。

 でも、真緒ちゃんは昔使っていた小鳥用のおもちゃをずっと鞄につけている。

 それは、つらくても忘れたくない、それだけ大事な思い出ってことなんじゃないだろうか。

「ねえ、悠翔君」

「ん?」

「やっぱり、ちゃんと気持ちを伝えた方がいいんじゃないのかな。悲しい記憶のままにしておくんじゃなくて、事実を伝えて、本当の気持ちを伝えるの」

「だから、そうしたら俺が消えちまうじゃないかよ」

「本当にそうなの?」

 悠翔君がまた黙り込む。

「実際にどうなるか分からないんだったら、言ってみるのもアリなんじゃないの?」

「そんなギャンブルできるかよ」

「だって、そうしないと、悠翔君の気持ちは絶対に真緒ちゃんに伝わらないんだよ」

「だから、それでいいんだって」

「矛盾じゃん」

「なんだそれ?」

「だって、気持ちを伝えるために戻ってきたのに、気持ちを伝えないんだよ。じゃあ、戻ってきた意味がないじゃない」

「意味がないと存在しちゃいけないのかよ」

 ああ、まただ。

 どうしても、こうして悠翔君とケンカになってしまう。

 好きになる意味。

 今ここに存在する意味。

 そんな難しいこと私に分かるわけがない。

 やっぱり私と悠翔君は想いを通じ合わせることはできないんだ。

 どこまで行っても平行線をたどるしかないんだ。

「なあ、おまえだって毎日毎日人生の意味なんて考えてるわけじゃないだろ」

「それもしんどいね」

 何も考えずに楽に生きていくことも難しいし、いろいろ考えてばかりいるのも面倒くさい。

 うまく真ん中あたりで適当にやっていけたらいいのにな。

「なあ、聞いてくれよ」

 悠翔君がポンと手を叩いて私の顔を見ている。

「何?」

「真緒のことは大事だし、おまえといると落ち着くのも事実だ」

「それを二股って言うのよ」

「しょうがねえだろ。昔の俺はおまえのことを知らなかったんだから。今はおまえのことも好きになっちまったんだよ。これも本当の気持ちなんだ」

「だからって許されるわけでもないじゃない」

 浮気する男の典型的な言い訳だ。

 はい、小説でしか知らない世界ですけどね。

 駅前から続く欅並木を二人で歩く。

 淡い緑の葉が風に揺れている。

 桜の花はなくても、四月の風景が私は好きだ。

 悠翔君が突然私と手をつないだ。

「何するのよ」

「嫌なのか」

 鳥の体温が心地いい。

「おまえの手を握ってると落ち着くんだよ」

 落ち着くってなんだろう。

 恋ってドキドキするものなんじゃないのかな。

 お互いの気持ちを確かめあうまでと、その後で違うってことなんだろうか。

「落ち着くって何?」

「そのまんまだよ。おだやかで安心する」

 居心地の良い鳥籠みたいな女ってこと?

 でも、今こうして悠翔君の手から伝わるぬくもりは私にも安心を与えてくれている。

 それは紛れもない二人の間の証だ。

 お互いがそれを必要としているなら、それを拒む理由などないのかもしれない。

 私が手を握ったまま立ち止まると、悠翔君が驚いた顔で振り向く。

「どうした?」

 私は悠翔君の手を引いて後ろに歩き出した。

「何してんだよ?」

 手を引っ張られながら悠翔君が苦笑している。

 でも、嫌がっているようでもなく、私の遊びにつきあってくれている。

 二人並んで欅並木の歩道を後ろ向きに歩いた。

「これ、なんの意味があるんだ?」

「巻き戻してるの。私たちが出会う前まで」

「無理だろ」

「じゃあね……」

 私はくるりと向きを変えた。

「前に向かって後ろ向きに歩くの」

「じゃあ、ふつうに前を向いて歩けばいいじゃねえかよ」

 分かってないな、悠翔君……。

 私たちは前に進めない運命なんだよ。

 後ろ向きのまま朝いた公園に戻ってきた。

 やっぱり閑散としている。

 手を離すと悠翔君は私に背を向けて曇り空を見上げていた。

 入学式の日に掲示板を見上げていた時の後ろ姿を思い出す。

 ついこの間のことなのに、こんなふうになるなんて思ってもみなかった。

「ねえ、悠翔君」

「なんだよ」

 振り向いた悠翔君の手を引き寄せると私は口づけた。

 驚いたように羽ばたくと、私の手をするりと抜けだして悠翔君は鳥の姿になった。

 私が手を差し出すと素直にのっかってくる。

 そのまま買ってきた鳥籠の中に差し入れてふたを閉める。

 その間、悠翔君はずっとおとなしくしていた。

 ずっとこのままにしておけば悠翔君は私一人のものだ。

 鳥だけど。

 でも、こうしてインコの姿を見ていると、私は悠翔君を独り占めしたいわけじゃないんだと思う。

 私は真緒ちゃんに本当のことを知ってもらいたいんだ。

 真緒ちゃんの悲しい記憶を本当の物語に塗り替えてあげたいんだ。

 真実が持つ奇跡を信じたいんだ。

 真実には奇跡を起こす力があるはずだ。

 悲しみを吹き飛ばす奇跡を起こせるはずなんだ。

 私は鳥籠を抱きかかえながら家路についた。

 家に帰るとお母さんは私の髪の毛と鳥籠のどちらに驚いたらいいのか困っているようだった。

「髪も素敵だし、小鳥もかわいいわね」

「この子ね、学校のなの」

「学校で小鳥なんか飼ってるの?」

「うん、クラブ活動でね。休みの時に家で世話してくれって頼まれたの。いいでしょ?」

 私はでまかせの嘘を言った。

「いいんじゃない。小鳥くらいなら、そんなに大変じゃないでしょ」

 お母さんはあっさり認めてくれた。

「でも、あんた、今日も学校に行って来たの?」

 お母さんの疑問ももっともだ。

「あ、あのね、さっき連絡もらって、駅で受け取ってきたの。友達が急に今からおばあちゃんの家に行かなくちゃならなくなったんだって。月曜日に学校に持っていくことになってるの」

「あらそう、大変ね」

 いつから私はこんなにすらすらと嘘が言えるようになったんだろう。

 高校入学以来、ずっと親に嘘をついている。

 しかも罪悪感がない。

 実際、悪い事をしていないからだ。

 じゃあ、なんで嘘をつかなければならないんだろう。

 悪くないなら正直に言えばいいのに。

 言えばいいってものじゃないからか。

 お母さんに「悠翔君は幽霊で鳥だから悪い人じゃないんだよ」と説明しても理解してもらう方が難しいだろうし、無邪気な鳥だと思ってるから飼ってもいいと言ってくれたんだ。

 正直に明かしたらかえって心配させてしまうだろう。

 物事を円滑にするために必要な嘘もある。

 そういうことなんだと思う。

 悠翔君だって、真緒ちゃんに正体を明かさずにいるのは優しい嘘なんだろう。

 それを私が批判したり否定してはいけないんだ。

 結局、また振り出しにもどってしまう。

 なんか、考え事をしたら疲れてしまった。

 人の気持ちを考えたり、気を配るのは大変だ。

 私にはこういうことは向かない。

 自分の部屋にインコのピィちゃんを連れていって机の上に鳥籠を置いた。

 ふたを開けても悠翔君は出てこない。

 止まり木に止まったままじっとしている。

「出てきてもいいんだよ」

 返事もしない。

 ふたを開けたままにして餌と水を入れてあげた。

 それから宿題をやったり、ベッドに寝そべって文庫本を読んだりした。

 ときどき気まぐれにピピュイとなくけど、やっぱりピィちゃんは鳥籠の中でおとなしくしていた。

 案外、落ち着くのかな。

 居心地が良いのかもしれない。

 べつに無理に出てきて飛び回らなくてもいいんだろう。

 そうだよね。

 休日だからって、出かけないで家でごろごろしたい時もあるもんね。

 鳥籠を買ってあげたことで、いい居場所ができたんだ。

 私はスマホでピィちゃんの写真を撮ってみた。

 ちゃんと写っている。

 悠翔君の姿だと写らないんだろうか。

 手の中でスマホが震える。

 中学時代の友達から「髪切ったんだね」とメッセージが入っていた。

 どうして知ってるんだろうと思ったら、スマホが大変なことになっていた。

 私がイケメン男子と手をつないで歩いていたとか、肩を寄せ合って写真を撮っていたというタイムラインが流れていた。

 ご丁寧に遠くから最大望遠で撮った写真まで貼付されている。

 芸能記者もびっくりだ。

 一瞬、リサちゃんかと思ったけど、バイト中だったから、街での様子を知っているはずがない。

 疑ってゴメン。

 もう一人、すれ違った時に気がついていない様子だった子だろうか。

 欅並木の歩道でイチャついていたのを見たとか、髪切ってイメチェンして別人になったつもりではしゃいでるとか、カレシができて調子に乗ってるとか、写真を見た人が次々に書き込んでいく。

 裏の匿名アカウントではなく、表のグループ用アカウントで書き込んでいる人もいた。

 高校に入ってから全然会ってなかった人とはいえ、知っている人からの書き込みは見ていてキツイ。

 やっぱり、そんなふうに見られていたんだなと、ため息が出た。

 ああ、まただ。

 中学の時もこんな感じだった。

 クラスで一番人気のあった男子との行き違いで匿名の書き込みが爆発したのだ。

 私のことを知っている誰かがあること無いこと書き込んでいた。

 私はまだスマホを持っていなかったから自分で直接見ることはなかったけど、わざわざそれを見せてくれる子がいたのだ。

 ほとんどが根拠のない噂だったけど、いくつかは本当のことも混じっていた。

 それが嘘の情報と一体化して、私の空虚なイメージばかりが膨らんでいったのだ。

 何が書き込まれているのか分からない恐怖と、垂れ流されていく悪意に悩まされて、私は周囲の人にただニコニコと愛想笑いを向けることだけに専念していた。

 時が過ぎてタイムラインが流れ去っていくことだけを願って目と心を閉ざしていた。

 結果的に、そういった孤独な状況に追い込まれたことで、勉強の時間ができたのも事実だ。

 そのおかげで今の高校に受かったのだから、すべてが悪かったわけでもないかもしれない。

 ただ、それは今だから言える話であって、当時の私は消えてしまった方が楽だと思っていたことも、いまだに忘れられない嫌な記憶だ。

 私はベッドの上にスマホを投げ出して鳥籠の中のインコに話しかけた。

「いろんなことが面倒くさいよ」

 ピピュイと返事をしてくれるけど、人間の言葉ではない。

「ちょっと、悠翔君になる?」

 クグッと鼻をならすだけで、止まり木の上でターンしてしまった。

「何よ、話し相手になりたくないって言うの?」

 私はあきらめてまたベッドの上で横になって文庫本を眺めた。

 まったく内容は入ってこなかった。

 同じ箇所を何度も読んでしまう。

 読めば読むほど、文字が一文字ずつバラバラになって何が書いてあるのかが分からなくなってくる。

 本を逆に読んでいってみた。

『たきてね重を唇理矢理無とるけつし押に壁を私は彼』

 うん、つまらない。

 回文じゃあるまいし。

 下でお母さんが呼んでいる。

 夕飯だ。

 日曜日なのでお父さんがいた。

 私の髪を見てびっくりしていた。

「なんだ、聞いてないぞ」

「べつに相談しなくたっていいじゃん」

「まあそうだけど」

「だけど?」

「あ、うん、いいんじゃないか」

 何よその言い方。

 悠翔君じゃあるまいし。

 お母さんが苦笑している。

「もっと素直にほめてあげないと」

「ほめてるじゃないか」

「つたわらないわよねぇ」

 ま、お父さんの感想なんてどうでもいい。

 夕飯を食べてお風呂に入って、部屋に戻ると、スマホに新しいメッセージが届いていた。

 真緒ちゃんからだ。

『宿題やった?』

『やったよ』

『月曜日に見せて』

 えー、それでいいの?

 しょうがないな。

『いいよ』

 しばらくして、またスマホが震えた。

『明日会える?』

 明日は日曜日だ。

 学校じゃないけど。

 友達に誘われたのは久しぶりだ。

『うん、大丈夫』

『じゃあ、豊ヶ丘で遊ぼうよ。宿題も持ってきてよ』

 真緒ちゃんと休日に遊べるなんて夢のようだった。

 髪を切ったことはまだ内緒にしておこう。

 明日驚かすんだ。

「ねえ、悠翔君、明日はお留守番しててね」

 ピピィと鳴くけどしゃべらない。

 人間の言葉で「サツキオヤスミ」くらい言ってくれたっていいじゃない。

 おやすみと声をかけて電灯を消した。

 ベッドに入ってもなかなか寝つけなかった。

 豊ヶ丘高校に入って良かった。

 真緒ちゃんに出会えて本当に良かった。

 いろんな気持ちがわき上がってきて、期待が膨らんでいく。

 悠翔君よりも、まるでこっちの方がカレシとデートする時みたいだ。

 思わず暗闇の中でにやけてしまう。

 あ、そうだ。

 鳥籠のふたは閉めておこう。

 夜中にこっそりキスされないように。

 目覚めのキスには憧れるけど、あいつは卑怯なヘタレイケメンなんだ。

 夜中に姿が戻ったら何をされるか分かったもんじゃない。

 あぶない、あぶない。

 おやすみ、ピィちゃん。

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